01
この世界には今、かつてない過渡期が訪れている。
およそ二ヶ月半前……五月七日。この世界に十一体の魔神が出現した。
同日、恋心愛の攻撃により世界中の核兵器が暴発し、人類の半数……すなわち四
十億人が死亡した……通称『薄橙の悲劇』。
その一ヶ月後……六月三日。黄泉丘三途璃の独善的な選別によりパンデミックが
発生し、二十億以上の人類が死亡した……通称『灰桜の裁き』。
魔神による億単位の被害事件はこの二つに限られる。
さらにその間、大神照による世界連合二千万人の兵士の消滅もあり、それらを合
わせて『三大悲劇』だなんて呼ばれている。もっとも照の事件に関してだけは、人
類側から仕掛けているので、それを悲劇と宣うのはあまりに被害者意識が強すぎる
のではないかと、個人的にはそう思っている。もちろんそんな事、表立って口にす
るわけも無いけれど。
それはさておき、翻って大きな事件はそのくらいしか起きていないのだ。
つまり六月三日から、今現在……七月十七日に至るまでの間──多少のいざこざ
で数万人から数百万人程度の死者が発生する事件こそ起きているものの──世界人
口に記録的な影響を及ぼすほどの大虐殺は起きていないという事だ。
そしてその理由は、誰の目から見ても明らかだ。
すなわち、魔神の街と学校の建設。
魔神達を一箇所に留め、私という生贄をストッパーとして活動させる事により、
一ヶ月半もの間、世界はある程度の平穏を保っている。
たとえその実態が綱渡りだったとしても、残り二十億足らずの人類は、未だ健在
なのは確かだ。魔神の学校は、人類にとってそれだけ頼もしい防波堤なのだ。
それが今日から、夏休みという名の長期休暇のために無くなった。
これは人類にとって、由々しき事態に他ならない。
「……それでは、頼りの綱は林間学校とやらですか」
私の報告を聞き終えた政府のエージェント……黒服が神妙そうな顔つきで首を振
っていた。
「林間学校の日程や詳細について、我々政府は何も聞かされていません。我々……
というか教師役の人間は、同行出来るのでしょうか」
「さあ、私にも何とも言えません」
発起人である三途璃さんからは「詳細が決まったら連絡する」とだけ言われてい
る。いつくらいに決まるのか、どのくらいの期間を想定しているのか……打ち合わ
せの一つもせずにジェンガに興じ、発言権を城菜さんに委ねた私には大体の予想す
らも立てられない。三途璃さんに直接訊けば分かるかもしれないけれど、藪蛇だろ
うなあ……
「……それより、政府からの今後の指示はありますか?」
「……」
私の問いに、黒服は黙って首を振った。どうやら話す事は何も無いらしい。
明智知英との一件以来、政府からの指示や報告がほとんど無い。私の独断による
行動で不利益を被ったから、怒っているのだろうか。
「……いい加減にしてくれませんかね。いつまで意地を張っているんですか? も
う過ぎた事じゃないですか。そんな事より、協力して目先の問題に取り組んだ方が
いくらか建設的だと思うんですけど」
「すみません。しかし、私にはどうしようもない事です」
「……そうでしたね」
政府は一枚岩ではない。少なくとも私の目の前にいるこの男に関しては、私に協
力的な方だ。
ただし残念ながら、政府……というか魔神対策室における彼の地位はそれほど高
いものではない。所詮は現場人……いつ死ぬかも定かではない鉄砲玉なのだ。
彼より地位の高い人物に、心当たりがないとは言わないけれど……
「あの……父は私について、何か言ってますか?」
「室長ですか。いえ、特に……」
「……そうですか。ていうか父、室長なんですか。いつのまに?」
「二週間ほど前ですね。ほら、覚えてます? 本部が襲撃されたじゃないですか。
その騒ぎで上の連中がごっそり殉職したもので、繰り上り式に……」
「ああ、そんな事もありましたっけ」
二週間前……モモさんと幽霊城の探検に行った時か。思えばあの辺りから、私の
政府に対する不信感が高まったんだっけ。
しかし……父の昇進話なんて、全然知らなかった。私を照に引き渡し、この街で
暮らすよう命じた張本人のくせに、娘には何一つ連絡を寄越さない薄情な親だ。こ
れまでの報告で、私が何度も危険な目に遭っているのを耳にしているくせに、心配
したという話も聞かない。
あんな親、頼れるわけがない。
「まあまあ……不破室長にも何か考えがあるのですよ、きっと」
「どうでもいいです。彼が私を信頼していないというのなら、立場上私やあなたに
はどうしようもない事ですし」
「はあ……」
「それより昨日、世界のどこかで核兵器の爆発は起きましたか?」
「昨日ですか? いえ、そのような報告は聞いていませんが」
「……だったらいいです」
結局のところ、恋心愛が世界のどこの核兵器を作動させたかは定かではない。こ
うして『なかったこと』になっている以上、当面は問題無いとは思うけれど……で
も今後、似たような事がないとは言えないわけで。
恋心愛が世界中の機械に自由に入り込み、いつでも制御権を奪える状況にあるの
は変わりがないのだ。出来る限り、危険は事前に取り除くべきだ。
というかこんなご時世なのだから、核兵器なんて保有すべきではないのだ。
「あの手の兵器は、かつて恋心愛に利用されているじゃないですか。さっさと手放
すべきですよ。どうしてまだ保有してる国があるんですか?」
「それは……さあ、どうでしょう」
「……?」
黒服は妙に歯切れ悪そうに、私から目を逸らした。
……何か思惑があるのだろうか。
「……まあいいです。残り二十億足らずの人類を守るため、私達に出来る事をやり
ましょう」
「……二十億?」
「え、なんですかそのリアクションは。何もおかしくないでしょう」
「あ……ああ、そうでしたね」
……まただ。今度は明らかに様子がおかしい。間違いなく、一度は私の言葉を否
定しようとして、やめた。
この男……何か知っている。
知っていて、私に隠している。
「私に知らされていない情報があるんですね? それは何です?」
「い、いや、そんな事は……」
「違うなら、まっすぐ私の目を見て否定してください」
そう言って、私は黒服の襟を掴み上げ、睨みつけた。身長差のため格好がつかな
いけれど、威圧感は十分に伝わったようで、彼はいくらかの躊躇の末に「わかりま
した」と観念した。
「あのですね、夢路さん。私は別に悪意があって隠し事をしたわけじゃ……」
「はいはいはい、分かりますよ。政府の命令でしょう?」
「いえ、あの……」
「いいから言ってください! 私の知らない情報……どうせ魔神の行動についてで
しょう? 誰かが大規模な何かを起こしたんでしょう?」
利用されると分かり切っている核兵器を、人類が未だ保有している理由。
そしてさっき言い淀んだ二十億という数値。
そこから導き出される答えはただ一つ。すなわち、魔神の暗躍で核兵器を手放せ
ず、いくつか使用されてしまった結果、二十億がいくらか目減りしたという事。
本命は起動スイッチを持つ愛ちゃん。対抗は行動が読めない忍さんや思い付きで
行動する大道さん辺りだろうか。
「人類が減れば、それだけ私のモチベーションが下がると思って秘密にしていたん
ですか? それとも単に意地悪ですか? 何にせよ、あなたは私に秘密を話す義理
があるはずでしょう?」
「それは……」
黒服は反論しなかった。この義理堅い男は、未だに私が忍さんの魔の手から救っ
た事を覚えているのだろう。扱いやすくて何よりだ。
「……分かりましたよ。全て話します」
一呼吸のち、義理堅い黒服は口を開いた。
「以前、大道正義が世界中の囚人を断罪した事は覚えていますか?」
「……もちろんです。私がデスゲームに参加してまで、その非道をやめさせたので
すから」
「その節はご苦労様でした。確かにあなたのおかげで、それ以降あの個体が囚人を
襲う事は無くなりました。しかしそれ以前の活動によって失われた、数百万の囚人
の生命は戻ってこないわけでして」
「そこまで責任は取れませんよ」
「分かっています。失われた生命についてはもういいのです。しかしその活動によ
って、各国の仲が随分険悪なものになりましてね」
「……どうしてですか? どの国も被害を受けたとして、結局は魔神の仕業って事
に話が落ち着くでしょう」
「色々事情があるのですよ。国際的なテロリストの身柄拘束やら、それに伴う国同
士の交渉やら、そういうものが全てご破算になったわけですからね」
「……」
「もちろん、それだけではありません。大道正義以外にも世界を股にかけて破壊活
動を行う個体はいるものです。西洋的な儀式を好む木霊木珠樹は、外国の人間や施
設を強襲する機会が多いですし、空々忍は旅行好きです。彼女らの蛮行も積み重な
って、不満が積もり積もったようですね」
「……不満って、さっきから何を言ってるんですか?」
どうも話が噛み合っていないような気がして、そう訊ねた。
私は黒服に、隠している事を話せと言った。
それが核兵器や億単位の人間の存在に関係している以上、魔神に関する話なのは
明らかだ。
なのに彼は、国同士の仲の険悪さについての話している。
「魔神についての話は、いつ出てくるんですか?」
「……」
黒服は一瞬言葉を詰まらせ、言った。
「出てきません。この話は、徹頭徹尾人間の問題ですので」
「え?」
「もう端的に言いますよ。魔神の影響で国同士の仲が悪くなり、現在世界中で戦争
が勃発しています。恋心愛のせいで使用するハードルの下がった核兵器が各国の頭
上を飛び交い、今のところの死者は合計でおよそ五億人ほど。残った人類は二十億
より、十億に近いでしょうね」
「……え?」
「あー……ご安心を。この日本には戦禍が及んでいません。今のところ、我々の生
活に影響はありませんので」
「……そんなの、聞いてない」
「すみません。あなたがショックを受けると思って……」
「そんな言い訳、聞きたくないです……」
私はそう言って首を振り、手だけで黒服に退出を促した。
罪悪感でもあったのか、彼は私に逆らわず、黙って出ていった。
残された私は、頭を抱えずにはいられなかった。
世界中で戦争が起きてるって……?
全然知らなかった。まさに青天の霹靂。浦島太郎の気分だ。
しかも核兵器による攻防だなんて、恐ろしい話だ。確かに戦闘のための兵士は照
が軒並み消してしまったから、もはや白兵戦という選択が無かったのかもしれない
けれど……どうしてそうなった?
魔神という脅威が存在する以上、どうして人間同士で争っている? そんな事し
ている場合じゃないだろう!
人類は、種を存続させる気があるのか?
必死こいて頑張っているのは私だけで、本当はもう皆とっくに諦めているのか?
もしもそうなら、私のこれまでの活動は一体何だったの……?
顔色を窺い、媚びへつらい、尊厳を投げ捨ててまで姫プレイに徹した。
気を遣い、精神を擦り減らし、恐怖し、屈辱を覚え、それでも堪えたのは、全て
人類のためだった。人類がほんの少しでも長く存続するため、ほんの少しでも多く
生き残るため、死力を尽くした日々だった。
それは全て、何の意味も無かったの……?
勝手に自滅する人類を、私は今後どんな思いで守ればいいのだろう。
もう何も信じられない。
もう誰も信じられない。
信頼していた黒服でさえ、この事実をずっとひた隠しにしていた。たとえ彼が善
意でそうしてくれていたのだとしても、それはこのショックに対する慰めにはなら
ない。
人類はもう守る意味が無い。
それなのに、目の前に広がる現実は日を追うごとに過酷になっていく。
失った左眼が、幻肢痛を訴えている。
スマホの光が、未だ私を敵視している恋心愛の幻想を映し出す。
先の見えないスケジュールが、私の首を絞めつける。
孤独に満ちた部屋が、私の背中を押さえ続ける。
「……疲れた」
そう独りごちて、私は冷蔵庫から水を取り出した。
頭が痛い。薬箱から大量の頭痛薬と睡眠薬を取り出した。
口の中一杯に錠剤を掻きこみ、水で無理矢理喉を通す。
それを何度も何度も、大きな薬瓶が空っぽになるまで繰り返す。
やがて身体が重くなり始めた頃、私はベッドに横たわった。
何もかも嫌になった。
全部忘れて眠ってしまおう。
もしも私に明日があれば、目を覚ました時に頑張ろう。
明日が無いなら、永遠に夢の中を漂おう。
魔神達が私を永遠に放っておいてくれるかどうかは定かではない。
でもそんな事、考えるのも面倒臭い。
私は今、眠りたいんだ。
永遠に、楽になりたいんだ。
そのためだったら、もう何が起きたって知るもんか。
スマホが枕元で何か喚いている。それも知るもんか。
人類なんて、滅んでしまえばいい。




