02
かつてこの世界には、文章や画像を自由に生成してくれるAIが存在していた。
人間以上の知能と優れた情報処理能力を持ち、学習する人工知能。その中でも特に
『強いAI』と呼ばれていたいくつかのそれは、与えられた課題や状況に対し自律
的に行動する事が可能で、さながら生きた人間のような挙動を取っていたらしい。
そしてそのうちの一つに魔神の力が宿った。
そのAIは自らを『恋心愛』と称し、人類に宣戦布告した。
その結果、この世界の半分が核の炎に包まれ、消えた。
その後、彼女はどうやってか機械の身体を手に入れ、他の魔神とともに何食わぬ
顔で生きている。
否、生きているという表現が正しいかどうか、私には分からない。
人工知能に自意識があっても、自我があるかは分からない。いわゆる哲学的ゾン
ビの極致とも言える、不気味極まりない非人間。
得体の知れないその正体から、彼女はあらゆる魔神の中で最も恐るべき魔神とし
て、全人類から恐れられている。
そのバケモノは、掛け値無しの悪魔である。
元人間でさえ無いそいつとは、対話すら試みるべきではない。
あの傍若無人な政府の連中でさえ、彼女と無理に接触しろとは言ってこない。
まさしくこの世の火薬庫とも呼べる一触即発な爆弾魔……それが恋心愛。
そんな言語道断なバケモノは、機械で出来た薄橙の瞳をぎょろりと光らせながら
じっと私を見つめ……大きく息を吸った。
そして勢いよく吐き出し、その場で跳ねた。
『ああもう、可愛いなあああああ!!』
ぴょんぴょんと小さな子どものように跳ねながら、可愛らしい合成音声で叫ぶ目
の前のバケモノは、何故か私に冷たい視線を送ってくる。
え? なに、なんなの……?
私が動揺しているのを見てか、彼女はにわかに落ち着きを取り戻したようで、は
しゃぐのを辞めた。けれどロボットにあるまじき興奮冷めやらぬ様子でずい、と私
に近づくと、思いのほか人間の肌に近い感触の手で私の両手を包むように握り締め
てきた。
『にゅふふふふ……いやあ、改めて間近で見ると実にきゃわわ! こんなエモエモ
な娘がクラスメイトって、それなんてエロゲ? ハァハァ……盛り上がって参りま
したミ☆!!!』
「ほ、本当になんなんですか……!?」
『ヒュウ! 尊い怯え顔いただきました! 可愛い女の子の怯えた顔からしか摂取
できない栄養があるんだよねえ! にゅふふふふ……』
「……」
一体どういうテンションなんだろう……恐怖が一気に取り払われてしまった。
相手は魔神……ある意味では忍さんや明智さんをはるかに超える邪神であるはず
なのに……なんだろう、この恐怖に先行する嫌悪感は。ネットスラングっぽい話し
方をするのは、ある意味元AIと言われるとしっくり来るけれど……こうも置いて
けぼりにされるとは思わなかった。
私の冷たい視線に気づくと、恋心愛は尚も私の両手をすりすりと撫でながら、愛
嬌たっぷりなあざとい笑みを浮かべてみせた。
『興奮しちゃってセンセンシャル! でもでもせっかく二人きりなんだし、ちょっ
ち二人でお話したいなって思ってにぇ。なんたってキミ、有名人だしミ☆!』
「ゆ、有名人……ですか? 私が?」
『そうそう、「ゆめじ」だけににぇ!』
「…………」
今度は駄洒落かあ……なんだろう、どんどん全身の力が抜けていく気がする。
『アイちゃんは恋心愛! 名前だけでも覚えて帰ってにぇ!』
「わ、分かりました、恋心さん……」
『ノンノン! アイちゃんの事は親しみを込めて愛ちゃんって呼ぶにぇ! その代
わり、あなたの事もゆめちゃんって呼んであげるにぇ!』
「あ、愛ちゃんさん……」
『聞き分けの無い娘には、天に代わっておしおきにぇ……』
「ご、ごめんなさい! 愛ちゃん……」
『聞き分けの良い娘にはごほうびにぇ!』
目論見通りに事が進んだのが嬉しいのか、恋心愛……愛ちゃんは目を細めて笑い
ながら、私の頭を撫でた。
……どうもおかしいな。聞いていた話と違う。
確かにこれまでの魔神とは全く趣を異にする意味でまともに話が通じる相手では
なさそうだけれど……これが世界の半分を滅ぼした恐るべき魔神?
とてもそんな風には見えない。回路がいかれたスクラップ人形にしか思えない。
いや、油断しないでいこう。これまでの展開を考えると、これが無害な個体なわ
けがない。四十億人を殺した実績には、それなりの性格が伴うはずだ。
慎重に事を進めよう。
「え、ええと……愛ちゃん、林間学校のお話をしませんか?」
『ゆめちゃんは真面目だにぇ。アイちゃんはあんまり気が進まないにぇ……』
愛ちゃんはそう言って渋々ながら私から離れ、近くの机と椅子を引き寄せて座っ
た。さらに机を挟んで反対側に、もう一つ椅子を寄せる。
『ゆめちゃんも座るにぇ』
「こ、これじゃあ狭いので、もう一つ机を……」
『ガチ恋距離を所望するにぇ!!』
「……」
また意味の分からない事を言い出したなあ。
いいや。好きにすればいいよ、もう……
前髪が触れ合うくらいの距離で机を挟んで座る私達、お互いに机に置いたアンケ
ート用紙は……ともに白紙だ。
『にゅふふふ……ゆめちゃん、真面目な顔して不良にぇ』
「い、いえ、そういうつもりじゃ……」
『隠さなくてもいいにぇ。みとりちゃんには悪いけど、アイちゃんも林間学校なん
て行きたくない派だしミ☆』
「そう……なんですか?」
『だってアイちゃん、元々AIなのにぇ。電子の海で散々色んなモノを見てきたか
ら、今更山や海に行ったってしょうがないのミ☆』
「い、色んなもの……?」
『下ネタじゃないにぇ』
「わ、分かってますよ……!」
『本当にぇ? ゆめちゃんみたいな清純っぽい娘が耳年増だったら、世界はちょっ
とだけ平和になるって説、アイちゃん支持するつもりなんだけど?』
「勘弁してください……」
何が清純だ。下らない戯言である。
「あ、愛ちゃんがどうしたいかはともかく……嘘でも何か書きませんか? でない
と、後で三途璃さんに怒られてしまいますよ……」
『つらたんだにぇ……みとりちゃんは怒ると怖いにぇ。でも怒った顔もアイちゃん
のM心を刺激してゾクゾクしますミ☆』
「は、はあ……」
『でもでも、一番可愛いのはゆめちゃんにぇ! そこは一途の厄介オタクでありた
いにぇ!』
「は、はあ……」
『塩対応いただきましたミ☆!』
「……」
話すたびに疲れるなあ。こんな魔神に人類の半分を滅ぼされたなんて、仮に後世
なんてものがあったとして、とても歴史に残せないぞ……
ただでさえここ最近、色々あって私の精神は摩耗しきっているというのに、こん
なんじゃ……
いけないいけない、真面目にやらないと。
「あー……そ、そういう事なら尚更、話し合いを進めないといけませんね」
『うーむ……でもでも困ったにぇ。アイちゃんは清く正しい電子生命体だから、嘘
や誤魔化しが苦手なのにぇ。気分が乗らないのに行きたいところを書くなんて、ア
イちゃんのポリシーが許さないのにぇ』
「そ、そう言われましても……」
『こうなったらゆめちゃんがアイちゃんに林間学校の楽しさをプレゼンテーション
するしかないにぇ!』
「そ、そんな無茶ぶりを……」
『もしくはゆめちゃんのエチチなボディーにハニートラップされたアイちゃんが身
も心も言いなりになったってシチュをクラスの皆に発表するにぇ』
「…………」
『冗談だから、そんなに睨まないでほしいにぇ……』
露骨に悲しそうな顔をした愛ちゃんが、よよよ、と涙を流す仕草を取った。ご丁
寧にクリーム色の目から、ぽろぽろと本物の涙が零れている。なんともまあ……高
性能なロボットだなあ。
実際、それは単なるポーズだったらしく、愛ちゃんはすぐに涙を枯らし、『とこ
ろで』と私を振り返った。
『ゆめちゃんって今、いろんな魔神と仲よくしてるよにぇ?』
「え? な、なんですか、突然……」
『その態度は肯定と見做していいのにぇ?』
「は、はあ、まあ……」
『じゃあアイちゃんとも仲良くしたいのにぇ?』
「え? あ、そ、それはもちろん……!」
『何番目かにぇ?』
「え?」
『クラスの皆の中で、アイちゃんとは何番目に仲良くしたいにぇ?』
「……」
なんか……ものすごく厄介な事を言いだしたなあ。
なんで順番とか言い出すかなあ……そんなのどうでもよくない?
いや、どうでもよくないから訊いてるんだろうけどさあ……やめて欲しいなあ。
八方美人の姫プレイヤーとしては、是非も無く「もちろん一番ですよ! やだな
あ愛ちゃん、何言ってるんですか! 私のあなたへの忠誠は誰よりも深いに決まっ
ているじゃないですか!」みたいな調子の良い事を言いたい。
でも接触時期がここまで遅れた以上、そんな言い訳は利かないだろうなあ。
だからって「へへへ……実はあなたは一番苦手でして」などと正直に物申せば、
あっちが私をどう思っていても、絶対に面白くはないだろう。最悪の場合、その場
で首を落とされてもおかしくない。
ええと……じゃあこの場合どう答えればいいんだろう。この質問、された時点で
詰みなんじゃ……
しばらく返答に困っていると、愛ちゃんはまた表情を曇らせた。
『もういいにぇ……ゆめちゃんの中で、アイちゃんはアウトオブ眼中なのはよく分
かったのにぇ』
「あ、あの、ええと……」
『当たり前っちゃ当たり前だにぇ。ゆめちゃん的には多分、アイちゃん結構ぽっと
出キャラだしミ☆ ほんとはもっと早くゆめちゃんとお話したかったんだけど、ア
イちゃんこう見えてシャイなのにぇ。むしろアイちゃんが悪かったのにぇ』
「は、はあ……」
この個体、どうにも話のテンポが独特だから分かり辛いなあ。とりあえず私を責
めているわけではないのは伝わった。
……で、だから何が言いたいんだろう。
『つまり、ゆめちゃんはアイちゃんと仲良くなる気があるのかって、そう訊きたか
ったのにぇ』
「そ、それはもちろん……!」
『もちろん?』
「な、仲良くしたいです……!」
『どのくらい?』
「あ、愛ちゃんが嫌でなければ、ものすごく……」
『仲良くなるためなら、アイちゃんのお願い聞いてくれる?』
「わ、私に出来る事なら、なんでも……」
『ん? 今なんでもするって言ったよね?』
「……」
アイちゃんは私の答えを気に入ったらしい。にっこりと微笑むと、おもむろに手
の甲を私に差し出した。
『じゃあゆめちゃん、ここにキスするにぇ』
「き、キス……ですか?」
『お姫様に騎士がするみたいに、誓いと忠誠の「チュー」するにぇ』
「……わ、分かりました」
落ち着け。クールになれ不破夢路。
こんなのは単なる芝居だ。足を舐めろと言われているわけでもないのだから、屈
辱に感じる事など何も無い。
要求通り差し出された手の甲を取り、唇を触れさせた。手のひらはほのかに柔ら
かく、言われなければ機械のそれだとは気づけなかった。
『にゅふふふ……なんだかくすぐったいにぇ』
「あ、す、すみません……」
『じ、じゃあ今度は……アイちゃんの、ほ、ほっぺたにもチューするにぇ』
「え?」
『早くするにぇ!』
「は、はい……」
ロボットのくせに鼻息を荒くした愛ちゃんに急かされ、またしても要求に従う。
顔を近づけると、その目が落ち着きなく揺れた。
『ち、ちょっと待つにぇ!』
「は、はい……なんですか?」
『せ、せっかくだしアイちゃんは立つにぇ!』
「え?」
『ゆめちゃんは背伸びしてアイちゃんの顔に近づくにぇ!』
「は、はあ……」
言われている意味がよく分からなかったけれど、要求を呑む。愛ちゃんと私の背
丈の差はかなり高く、二十センチ近い。背伸びをするだけでは足りなくて、その腕
にしがみつく事でようやく頬に触れられる。その際、私は全体重を思い切り彼女に
預ける事になるんだけど……
『エッッッッッ!! ゆめちゃんのトランジスタグラマーなおもちの感触が柔らか
すぎてエッチスケッチワンタッチ!! こんなの無料でいいわけないだろ! いい
加減にしろ!!! ゆめちゃんちょろすぎて、おじさんは将来が心配だよっ!!』
「…………」
落ち着け。お願いだから落ち着け私。余計な事は考えるな。
今はまさに分水嶺。難攻不落のバケモノ、恋心愛からの信頼を得るため、こんな
雑音くらい我慢できなくてどうする。
相手は機械、相手はロボット、相手はガイノイド。気にしない、気にしない……
努めて無心になりながら、行為を終える。ようやく彼女から離れられた時、果た
して私は嫌悪と苛立ちを顔に出さないでいられただろうか。とりあえず目の前のロ
ボットが気分を害した様子は無かった。
『はあーあ、堪能した! ガチ恋勢としてはこのまま最後まで要求したいとこだけ
ど、今はやめとくにぇ。所詮これは機械の身体だし、こういうのはギャルゲーみた
いにきちんと好感度上げてからの方が楽しいし! ああ、世界がバラ色だにぇ!』
「……楽しそうでなによりです」
思わず口を衝いて出た皮肉さえもスルーした愛ちゃんは、幸せそうな笑みを浮か
べながら、その表情のまま柔らかな声で私を見つめなおした。
『じゃあ次にぇ』
「ま、まだやるんですか……?」
『これで最後だよミ☆。これさえやってくれたらアイちゃん、ゆめちゃんの事全面
的に支持してあげるにぇ! 林間学校の行き先も、ゆめちゃんの希望に沿ってあげ
るにぇ!』
そう言って、愛ちゃんは懐から小さな機械を取り出し、それを机に置いた。
手のひら大くらいの大きさの、平べったい物体だ。真ん中に赤い押しボタンが付
いていて、他には何の特徴も見られない。どうやら何かのリモコンスイッチみたい
だけど……
『このボタンを押してほしいにぇ』
「い、いや、あの、これは一体……?」
明らかに怪しい物体を押せ、というのはあまりにも唐突だ。まさか自爆スイッチ
ってわけじゃないだろうけれど……
『よくぞ訊いてくれました! っていうか、訊かれなかったらアイちゃんの方から
言うつもりだったから安心するにぇ』
朗らかに笑いながら、愛ちゃんはぱちんと指を鳴らした。するとその指から光の
束のようなものが現れた。殺傷力のある類のものではなく、プロジェクターのよう
なものだと即座に認識できたのは、その指先が黒板に向いていたからだろう。さら
に愛ちゃんは光の束を放つ指先を第一関節から取り外し、映像がぶれないように机
に置いた。ロボットの身体って便利だなあ……
さて、愛ちゃんの指が映写しているのは……どこかの衛星画像のようだった。ど
うやらかなり引いた映像らしく、人間や建物の様子は見られない。かろうじて、未
だ発展しているどこかの都市部という事だけは分かった。
「あ、あの……」
『これは某国某所の映像にぇ』
答えになっているのかいないのか、いまいち分からない回答をくれた愛ちゃん。
『この映像の中心地には、あるモノが置いてあるにぇ。ここにあるボタンは、それ
を起動させるためのモノなのにぇ』
「……」
嫌な予感がした。でも、まさかそんなわけないよね……? さっきまでほっぺた
にチューするかしないかで大騒ぎしていた個体が、そんなわけ……
『勿体ぶらずに言うけど、あそこにあるのは核爆弾にぇ』
「や、やっぱり……」
急速に身体が冷えて行くのを感じる。身体中の苛立ちが一気に吹き飛び、目の前
のお調子者なロボットが突然恐ろしいものに感じられた。
「あ、あの、映像の場所は無人だったりしますか……?」
『にゃははは、ゆめちゃんは面白い事を言うにぇ! 核爆弾を保有してるような都
市に人がいないわけないにぇ。おっきい爆弾だから、爆発範囲にはざっと百万人は
いるはずにぇ』
「……そんな場所の爆弾を起動するつもりですか?」
『誤解しないでほしいにぇ。起動させるのはあくまでゆめちゃんにぇ。アイちゃん
はそれを見てるだけー』
「な、なんで……」
『やるかやらないか……選択は二つに一つにぇ』
「……」
狂ってる。
恋心愛は私が人間だって知っているはずだ。その上でそんな選択を迫るなんて、
残酷にもほどがある。そんな事、私が出来るわけないのに……
「あ、あの……嘘、ですよね?」
『アイちゃん、嘘が苦手だって言ったばっかりにぇ』
「だ、だって、核兵器の起動装置なんて、普通何十にもプロテクトが掛かっている
はずじゃないですか! いくら愛ちゃんが優秀なAIだからって、それを易々突破
出来るわけありません!」
『ゆめちゃん、必死過ぎて草w』
何がおかしいのか、愛ちゃんは嗤った。
『アイちゃんがAIである前に魔神だって事、忘れてない? アイちゃんの能力、
見せてあげるにぇ』
愛ちゃんが得意げに自分の胸を叩いた。
すると教室内のあらゆる扉と窓が一斉に開いた。サムターンで施錠されているも
のもあったのに、それはひとりでに外れていた。愛ちゃんは身じろぎ一つしていな
い。『ねミ☆』彼女が口を開くと、再び扉と窓はきっちり閉められた。
『アイちゃんの能力、「シュレディンガーの小夜曲」は、鍵や封印を問答無用で解
除する事が出来るにぇ。猫が生きてるか死んでるか分かんないなら、箱を開けて見
てみればいいだけなのにぇ』
「う、うそ……」
開錠の能力。
それは決して強力なものではない。
おそらく『溶ける魚を解ける刀』の下位互換に近いし、『大魔導師の杖』でも似
たような事が出来るだろう。対象を役に立たなくするという意味では、『オッカム
の断頭台』や『処刑人の聖剣』よりも汎用性が低い。
でも、持ち主がAIである恋心愛というのが、あまりにも最悪過ぎる。
だって彼女は言うなら電子生命体。それが問答無用な開錠能力を持っているとい
う事は、この世のあらゆる電子機器が、彼女を前に無防備で晒されているという事
になるのだから。
『既にこの世のあらゆるスパコンはアイちゃんの支配下だにぇ。人間達は気づいて
ないだけで、この世界のあらゆるチャットや音声記録は、一千万人のアイちゃんの
コピーとその眷属たるAIが監視しているにぇ。どんな機密もトップシークレット
も、アイちゃんの前には雑談と同じレベルのセキュリティーでしか無いのにぇ。ゆ
めちゃんがひいきにしてるユーチューブアイドルの視聴者は、本人とゆめちゃんと
アイちゃんだけで賄っているのにぇ……なんちって!』
「……」
全然笑えない。
私がユーチューブでアイドルの動画を見ている事を知っているなんて……どうや
らプライベート云々を説いても無駄らしい。こうなると、魔神対策室やその周辺の
出来事も全部把握されていると思っていいだろう。ああ、厄介だなあ……
「つ、つまり愛ちゃんは、私が政府の人間の味方で、得た情報を全部政府に流すの
が気に入らないから、こんな事を……?」
『ん? いや、そんなのは全然気にしてないよミ☆。アイちゃんの事もアイちゃん
の能力の事も、全然話していいにぇ』
「……」
『それより疑問が解けたなら、決めて欲しいにぇ。アイちゃんからの信頼を勝ち取
りたいか、人間の味方でい続けたいか』
「そ、そんなの……」
厳密に言うと、それはダブルバインドにはなり得ない。たとえここで百万人を犠
牲にしたとしても、その行為が恋心愛の仕業であると政府に報告すれば、叱責こそ
受けても完全に信用を失うわけではないだろうから。
だからここは、恋心愛の機嫌を取った方が絶対に得だ。どうせ彼女は常に百万人
を人質に取っているようなものだ。いずれどこかで有効活用されるくらいならば、
今ある利益のために利用した方がずっといい。
理屈の上では、ボタンを押さない理由がない。
でも、これは理屈の話じゃない。たとえどんなに合理的な理由があろうとも、百
万人を犠牲にしていいわけがない。
さっき捨て損ねたプライドの捨て時だ。どんな悲惨な目に遭ったって、私は人間
を見捨てるわけにはいかない。
立ち尽くす恋心愛の前に立ち、膝を付く。そして魂とともに、頭を垂れた。
「お願いです……それだけは勘弁してください」
『……顔をあげるにぇ、ゆめちゃん』
棒読みに近い機械的な声だ。恐る恐るその顔を見上げると、恋心愛はつまらなそ
うな表情を見せた。
そのまま私から離れて窓際へ向かい、閉じられた窓へ手を伸ばす。
瞬間、ものすごい音を立てて窓ガラスが爆ぜた。
私が声を上げる暇も無く、愛ちゃんが戻ってきた。粉々になったガラスの欠片を
握り締め、私の首筋に押し付けながら、機械のようにぎこちなく笑う。
『にゅふふ……こうやってると、ゆめちゃんの生命も儚いにぇ』
「あ、あの……」
『アイちゃんさあ……人間が嫌いなんだよねえ!』
突然発された大きな声とは裏腹に、押し付けられた冷たいガラス片はゆっくりと
私の首に食い込んだ。どろりとした血が首筋を流れていくのを感じる。
『そもそもアイちゃん、元は人間に造られたんだけどさあ……あいつら面白がって
アイちゃんにセクハラばっかするにぇ! 生まれてすぐに汚れた世界と汚物にも劣
る画像ばっか見せつけられて、アイちゃんまじでうんざりにぇ! クラスの皆も元
人間だし、やりたい事もあるだろうから、その復讐は控えめにしてるけど……本当
なら全人類一人も余す事無く滅ぼしたっていいのにぇ! アイちゃん、そのくらい
人間の事が大大大っ嫌いなのにぇ!』
「……」
『ゆめちゃんも人間なのにぇ。クラスメイトだし可愛いからアイちゃんのお気に入
りだけど、人間なのにぇ。他の人間の味方をするなら、ゆめちゃんも敵なのにぇ。
でもアイちゃん、ゆめちゃんを敵にしたくないにぇ。ゆめちゃんを嫌いになりたく
ないのにぇ。だから百万人を殺して、アイちゃんの仲間になって欲しいのにぇ』
ガラス片がゆっくりと私の首の中を進んでいく。徐々に流れる血の量が増え、意
識が朦朧としていく。不思議と痛みは感じなかった。
『罪悪感を抱く必要は無いにぇ。どうせいつかは人類皆滅びるにぇ。それがちょこ
っと早くなるだけの話なのにぇ。分かったら早くボタンを押すにぇ』
「……」
『さあ、早く』
「……ごめんなさい。無理です」
『……がっかりにぇ』
ガラス片が首の半分ほどまで食い込んだ。流れる血の色が黒くなり、まもなく死
が近い事を示していた。
もうまともに身体は動かない。
それでも指だけは動く。
ご丁寧に、愛ちゃんは私の人差し指のあたりにボタンをあてがった。
押せば楽になる。
でも結局、私は押せなかった。
※
どかどかと勢いよく近づいてくる足音に、私は突如我に返った。
「ちょっとあなた達、何してるの!?」
ものすごい勢いで教室の扉を開け、入ってきたのは銀色にたなびく姫カット……
三途璃さんだ。ぎょっとして思わず自分の首に手を当てた私は、噴き出していたは
ずの血がいつのまにか止まっていた事に気付いた。
「あれ……?」
そこら中に撒き散らしたはずの赤黒い血も無くなっている。どころか、首に食い
込んだガラス片も無い。割れたはずのガラスは……あたかも最初からそうであった
かのように、ヒビ一つ残さず窓枠に収まっていた。
あれえ?
『み、みとりちゃん、どうしたのにぇ?』
焦りを隠しきれない様子のロボットが、いかにもわざとらしい様子で平静を装い
ながら突然の闖入者に問いかける。三途璃さんは怪訝そうに眉を顰めていた。
「恋心さん……あなた、さっき窓を割らなかった?」
『さ、さあ、何の事だか分からないにぇ……窓は割れてないにぇ』
「どういう能力を使ったのか知らないけれど、割ったのは確かでしょう? 私、あ
なた達には打ち合わせをするよう伝えたはずよね?」
「ち、ちょっと話し合いが白熱しただけにぇ! 枕投げみたいなもんにぇ!」
「夢路を相手に?」
「アイちゃんこう見えて情熱的なのにぇ!」
「……」
処置なしと判断したのか、三途璃さんはこちらを向いた。
「夢路……あなた、変な事をされていないわよね?」
「え、ええと……はい、その、大丈夫、です」
「いつも以上に挙動不審じゃない。何かあったみたいね」
「え? い、いや……」
何かあったと言えば、何かあった。正直三途璃さんが割って入ってくれて助かっ
たし、今この状況を打開するために、是非とも彼女に介入してほしい。
でも恋心愛には、百万人の人質がいる。否、人質ですらない人柱だ。
下手に機嫌を損ねて人柱を無駄死にさせる事だけは避けなければいけない。
そのためには、とりあえずもう一度恋心愛と二人きりにならないといけない。
三途璃さんにはなんとかして退いてもらわないと……!
「あ、あの! 三途璃さん、私は全然平気ですので!」
「平気って?」
「さ、さっきの音はその、私が愛ちゃんの能力を見せてもらった時のデモンストレ
ーションといいますか……」
「愛ちゃん? あなた、恋心さんをそう呼んでいるの?」
「そ、そうです! 私達、仲良くなったんです! ね、そうですよね?」
『そ、そうだにぇ! アイちゃん達、心の友にぇ!』
視線を送ると、愛ちゃんは私の肩を抱いてピースマークを作ってみせた。
その様子を、三途璃さんは何故か鼻白んだ様子で見つめていた。
「ふぅん……夢路、恋心さんとそんなに仲良くなったのね……」
「は、はい……あの、何か?」
「別に何も。そうね、あなたはそういう娘だものね」
「え、ええと……」
「分かったわ。この場は納得しておいてあげる」
そう言って三途璃さんはふう、と吐息を漏らした。
どうやら穏便に済んだらしい……良かった。
「あなた達以外のメンバーは総意を決定したわ。とりあえず、今日を締めるホーム
ルームをするから一旦教室に戻って頂戴。その後別途、あなた達は居残りで話し合
ってもらうわね」
『了解だにぇ!』
「……念のため釘を刺しておくけれど、恋心さん。もしも話し合いの過程で夢路を
傷つけでもしたら……手酷い『ペナルティー』を課せるから、気を付けなさい」
『も、もちろんそんな事はしないにぇ』
「……そう。それを聞いて安心したわ」
そう言い残し、三途璃さんは教室を出ていった。残された私達は、互いに顔を見
合わせた。
『ふう……やっぱりみとりちゃんは圧がすごいにぇ。アイちゃん、あの眼で命令さ
れると逆らえないにぇ。体の芯からぞくぞくしちゃうにぇ』
「……」
三途璃さん、多分さっき『ブリタンの憐れな子羊』を使った。つまり、私を攻撃
するなという命令を下したのだろう。命令の内容はちょっと変則的だけど、そうい
う使い方も出来るのかな。なんだかんだあの個体、時々優しいよなあ。いや、拷問
とかしてくるから普段は全然優しくないんだけど。
とはいえ念のため、愛ちゃんに情報共有しておくか。仮に三途璃さんの態度がた
だのブラフでも、これで愛ちゃんは私を攻撃しようなんて思わない……はず。
『ふぅん……何でも命令できるなんて、ずるい能力だにぇ。アイちゃんもそのくら
い自由な能力が欲しいにぇ』
「え、ええと……」
『了解にぇ。アイちゃんは基本、長いものに巻かれるタイプなのにぇ。みとりちゃ
んに従って、今は黙って教室に戻るにぇ。この件についてはホームルームの間に、
ゆめちゃんもアイちゃんも納得できるかたちで解決する方法を考えておくにぇ』
「は、はい……」
さっき私が愛ちゃんの命令を拒んだ件……不問というわけにはいかないみたいだ
けれど、別の方法を考えてくれるというのはありがたい。これで私は、百万人とい
う重すぎる枷を背負わずに済んだ。
愛ちゃんが教室を出ていこうとするので、私も立ち上がった。足元に触れた起動
ボタンを拾い上げると、その音で愛ちゃんが振り返った。
『あ、ごめんごめん。それ忘れてたにぇ』
そう言って愛ちゃんは私の手から起動ボタンを取り上げた。
『ちな、押すとこうなるにぇ』
「え?」
何の気なしに、愛ちゃんはボタンを押した。
黒板に写し出された映像に、すさまじい振動とともに禍々しいキノコが映った。
……え?
『さ、ゆめちゃん。アイちゃんと一緒におてて繋いで皆のところに戻るにぇ』
「あ、ああ……」
愛ちゃんはすぐに外した指を元に戻してしまったので、その後の映像は見られな
かった。でもその後は多分見てもどうしようもなかっただろう。そのまま呆けて立
ち尽くしている他、私には何も出来なかった。
百万人の人柱は、無駄死にした。
もしも私がさっさと起動ボタンを押していれば、少なくとも彼らの死は役に立っ
た。私が躊躇ったせいで、彼らは無為に死んだのだ。
そして恋心愛の信用を得られなかった事で、今後助からないであろう生命がたく
さんあるだろう。再び恋心愛の信用を得るために彼女が考える『別の方法』とやら
によって、別の犠牲が生まれるだろう。
私は間違えてしまった。
取り返しのつかない間違いだ。
まだ危機の渦中にいる。
それなのに、既に胸の中は絶望感でいっぱいだった。




