04
人類史上、私ほど愚かな人間は後にも先にも現れないだろう。
世界を滅ぼすほどの力を持った魔神という存在……その中でも殊更倫理観に欠け
た個体であり、しかも私と敵対していたわけでもない状況。
手を差し伸べた相手は家族でも恋人でも、まして友達ですらない赤の他人。どこ
ろか吐き気を催す下衆人間で、救う価値も意義も無い自業自得の末路。
考え得る限り最悪の展開だ。
どうしてこうなった? どうして私はこんな事をした?
助けられそうな人間が彼しかいなかったから。
たくさんの疑問や矛盾を置き去りに、今はその答えだけで自分を納得させた。そ
んな事に思考を巡らせる時間さえも惜しかったから。
明智知英の身体を分解した『溶ける魚を解ける刀』を、文字通り返す刀でノッポ
の入ったカプセルにも触れさせる。もちろん頭の中で、中身と表面が綺麗に分かれ
る想像を巡らせながら、だ。
目論見通り、カプセルの表面は弾け、中の液体とともに両手首の無い真っ裸の男
が床を流れて倒れ伏す。突然解放された事に、彼は驚いている様子だった。
「夢路……さん。何故こんな……」
「そういうのいいから早く立って! 手が無くたって走れるでしょう!」
呑気なノッポを急き立てながら、傍らに目をやる。パーツを失ったはずの明智さ
んの生首からは、いつのまにか瞳が宿り、興味深そうにこちらを見つめている。外
れた指や手がひとりでに動き、胴体へと向かっている。
魔神は人間と違って再生する。しかも今回の場合、身体をくっつけるだけでいい
のだから、普通に欠損させた状態とはわけが違う。猶予は全然無いのだ。
ようやくノッポが立ち上がったのを見届けて、私は元来た道へと走り出した。ノ
ッポも私と並走しながら、不安げな声を上げる。
「お、俺達はこれからどうなる!? もしもう一度捕まったら……」
「後の事を考える余裕はありません! とにかく逃げましょう!」
さっきは不意打ちだったから攻撃を当てられたけれど、同じ手は通用しないだろ
う。明智さんに追いつかれたら、その時点で終わりと思った方がいい。
彼はあとどのくらいの時間で私達を追えるようになるだろうか。
魔神の再生力はおそらく無限だけど、その速度についてはよく分かっていない。
でも見ている限りだと、個体差があるのだと思う。
照や忍さんは腕や頭を欠損しても数秒掛からずに再生していた。対して大道さん
は照に殴られたダメージを回復するだけで十分近く掛かっていた。それから唯野さ
んが首だけになった後、完全復活するのに数時間掛かっていた。城菜さんは腕を回
復させるのに、三十秒くらい掛かっていたっけ。
……だめだ、幅が広すぎて考えるだけ無駄だ。とにかくがむしゃらに、一刻も早
く脱出する事だけを考えよう。
仄暗い廊下を走り、階段を上る。やがて現れたのは、サイバー感溢れる扉が顔を
見せる。確か明智さんは、この扉を『指紋認証』だと言っていたはず。
既に施錠されているらしく、押しても引いてもびくともしない。
「ど、どうする!? このままじゃ追いつかれるぞ!」
「……心配いりません」
落ち着け。クールになれ、不破夢路。無意味に焦るとろくな事にならない。
大丈夫だ。指紋認証だろうが何だろうが、魔神の力の前では何の意味も無い。
「『溶ける魚を解ける刀』……扉を分解しろッ!」
明智さんの神器は実に便利で、まるで銀行の金庫のように堅牢そうな扉でも、即
座に口を開けてしまう。その後再び通れるようになるかどうかは……私の知った事
ではない。
「ふふふ。この程度の障害、何ともありま……」
勝手に虎の威を借りているだけの狐こと私の言葉は、早くも撤回せざるを得なく
なった。というか、最後まで言う事さえ出来なかった……
開いた扉から、何かが大量にこちらに向かって飛んできたのだ。
「ひっ……」
「ぐあっ!」
飛んできた物体に当たってもさほど痛くはない。おずおずと目を開けると、どう
やらそれはボールプール用のカラフルなボールのようで、何の害も無い。けれどあ
まりにも数が多く、その物量に仰け反らざるを得ない。
なんだ、この罠……明智さんはこうなる事を見据えていたとでもいうのか。
「うう、あ、溶ける魚……」
神器を振るおうにも、小さなボール全てに切っ先を当てるなんて芸当はとても不
可能で、私はあっさり足元に出来た小さなボールプールに沈んでしまった。
傍らで、ノッポも同じようにひっくり返った。彼の場合手首が無いので上手く顔
を庇えず、余計に厳しい状況だったに違いない。
しばらく後、ようやくボールの雨が止んだ。すっかり階段の下まで押し戻されて
しまった私達に、もはや再び階段を上がる時間は残されていなかった。
背後から、ゆっくりと足音が近づいてきた。
「夢路……貴女は本当に素晴らしい」
観念して振り返ると……ああ。五体満足に戻ってしまった明智さんが、ボールプ
ールに沈む私達を冷たく見下ろしていた。
「魔神とは、恐るべき存在である……普段から魔神と生活を共にする貴女は、誰よ
りもそれを理解しているでしょう。それなのに、よくぞここまで大胆な事をしたも
のです。神器を手にして増長しましたか? 魔神が相手でも、武器さえあれば戦え
ると思いましたか?」
「……」
「冗談です。貴女には万に一つの勝ち目も無い……それが分からないほど愚かでは
ないでしょうからね。だからこそ素晴らしいと、私は評価します」
そう言って明智さんは自らの手の中にもう一つ、『溶ける魚を解ける刀』を具現
化した。そしておもむろにそれを構え、こちらに投げつけた。
悲鳴を上げる気力さえ無い。今度こそ全身を分解されて、それで終わりだ。
そう思っていたけれど……彼は狙いを外した。
否、わざと外したのだろう。その神器はちょうど私の足元に刺さった。
顔を上げると、彼はさらにもう一本神器を具現化し……それで自らの右手首を切
り落とした。
「え……?」
「驚くには値しません。これでこちらは片腕。対するそちらは武器が二本」
「な、何を言っているのですか……?」
「貴女が始めた事でしょう? さあ人間よ、戦いの中で成長し、魔神の領域に達し
なさい。さもなくば……貴女はここで終わりですよ」
そこまで言ってから、明智さんは自分の神器を壁に刺した。
瞬間、すさまじい揺れが廊下を伝った。
両側の壁から剣呑な音が響き渡ったかと思うと、ものすごい勢いで壁や天井が遠
くに離れていく。それほど広くなかったはずの廊下は、気が付くと大ホールのよう
な大きさになっていた。
「壁の組成を分解し、すぐに別の形へ再構築しました。これで広々と戦えますね」
「……」
再構築……そういうのもあるのか。
でもそのためには、再構築後の形状をしっかりイメージしなければならないのだ
ろう。ただ分解するだけとはわけが違う。果たして私にそんな器用な真似が出来る
だろうか。
否、出来なくたってやらないといけない! やらなければ死ぬだけだ!
「先手は譲りますよ。さあ、かかってきなさい」
まるで学校の先生のように、明智さんは優しくこちらに語り掛ける。けれどその
手の神器は、おそらく容赦なく私に向けられるだろう事は明白だった。
「お言葉に甘えて……行きます!」
私は神器の片方で地面に触れた。
イメージは目の前の床。これを出来るだけ細かく分解する事を心掛けた。
その試みは成功だった。私と明智さんの間の床が砂のように崩れていき、両者の
間にみるみる巨大な亀裂が出来上がった。
「ほほう。それで、そこからどうやって私を攻撃するのですか?」
「……ごめんなさい! 攻撃はしません! さようなら!」
踵を返し、階段へ向かう。
「ノッポ! 先に行ってください!」
名指しされた事にノッポが気付くのに一瞬遅れていたけれど、私の声を聞いて彼
は走り出した。私もその背を追って……
「それでは甘すぎます。期待外れですよ、夢路」
背後から声を掛けられた。神器が壁に突き立てられる音。そして次の瞬間、私の
足元の床が丸ごと消えた。
「わああああっ!?」
当然の摂理に則って、私の身体は落ちていく。
もちろん明智さんが神器を使って床を部分的に分解したのだろう。大量の粉塵が
周囲を舞っていた。
一体どこまで深い穴を作ったのだろう。どんどん落ちていく。何メートルくらい
落ちたのかは分からないけれど、落下死する高さは既に落ちたと思う。このままで
はいずれ床にぶつかっておしまいだ。
穴はかなり狭く、私の肩幅より少し広い程度だ。腕を伸ばせば近くの壁に神器は
届く。一応小刀だから壁に突き刺せば落下は止まるだろうけれど、私の肩はその勢
いに耐えられないだろう。再構築で足場を作ってもそこに叩きつけられたらやっぱ
り落下死だし、そもそも土壇場でやった事の無い技を試す気にはなれない。
分解しかない。
私は意を決して神器を振るった。
「『溶ける魚を解ける刀』……周りの壁、柔らかい砂になるまで分解しろっ!」
私の命令通り、周囲の壁が粉塵となって一緒に落ちていった。
やがて私が底に着くころには、山盛りの砂場になっていた。オーダー通り柔らか
く、砂はクッションとなって私の身体を受け止めてくれた。
どすん。
衝撃で頭がくらくらする。けれどもどうやら死なずに済んだらしい。身体はちょ
っと痛いけれど、骨折はしていない。
見上げると、どうやら二十メートル近く落ちたらしい。周囲の壁を砂に変えたお
かげで、穴はかなり広がっている。
再構築を試してみよう。
私は周囲に螺旋階段をイメージして、神器を振るった。
果たして壁はいい具合に溶けたけれど……螺旋階段の出来栄えはお世辞にもよろ
しくない。まるで幼稚園児が描いた絵みたいにぐちゃぐちゃだし、ところどころ構
築に失敗して途切れている。結局私が元のフロアに戻るまでの間、三、四回ほど再
構築を繰り返さなければならなかった。
どうやらこの技術は、訓練が必要らしい。少なくとも咄嗟の判断では使えない。
「おや、遅かったですね」
待ちくたびれたらしい明智さんが、あぐらを掻いて私を待っていた。
しまった。ここから迂回して出口を目指すべきだったかな。ノッポはもう逃げた
んだし、私も一人で明智さんから逃れた方が良かったんじゃ……
などと周囲を見渡して考えながら、その思考を急停止させた。
ノッポがいる。
え、なんで? さっき階段を上って逃げたんじゃ……
「ちなみにですが、夢路。彼は一人では逃げられませんよ」
私の疑問に答えるように、明智さんが言う。
「お忘れですか? 指紋認証の扉はもう一枚あるのですよ。貴女が一緒に行って扉
を分解しなければ、結局はそこで立ち往生です。聡明な彼はその事にいち早く気づ
き、貴女が戻ってくるのを待っていましたよ」
「……」
扉が二枚。確かにそうだ。ああ、もう……やっぱり私、焦ってるじゃないか。
「ちなみに『溶ける魚を解ける刀』は切り付ける他に投擲する事でも使用できます
が……いずれの場合も手首が無い者には扱えません。仮に貴女がまたしても自己犠
牲の精神で武器を片方彼に譲渡し、先に行かせても無駄ですよ。彼がここから逃げ
るためには、必ず貴女の力が必要ですので悪しからず」
絶望の追加情報を簡単に投げつけてくる。もちろんそんな自己犠牲なんて殊勝な
気持ちはこれっぽっちも持っていないけれど……まあ、最終手段くらいには思って
いなくもなかった事だ。それすら塞がれて、一体どうすればいいのだろう。
まともに戦う? 絶対に駄目だ。勝てるわけがない。
ノッポと一緒に逃げる? それも無理だ。足止め……というかここに残って注意
を引いていないと、絶対に追いつかれる。
だったらノッポにそれを任せる? 問題外だ。ただでさえ神器を持てない彼は何
の戦力にもならない。あまりにも無意味だ。
逃げるにしても、どうしても役者が一人足りない。
カプセルのある部屋に戻って、ノッポの他に動けそうな人間がいないか探してみ
る? 明智さんにそんな隙は無いし、実験のコンセプトから考えてそんな人間がい
るわけがない。
どうする? どうすればいい?
「そろそろ待ちくたびれましたよ。順番から言って次は貴女が攻撃する番なのです
が……何もしないのなら、こちらから行きますよ?」
「あ、ま、待って下さい! すぐに行きます! あなたが予想もしていないであろ
う大博打を、たった今思いつきましたから!」
「ほほう、それはそれは楽しみです。期待を裏切らないでくださいよ?」
ハードルを上げてしまった。どこまで愚かなのか、私は。
でも大博打を思いついたのは本当だ。
理論上は可能なはず。明智さんからしても予想外の行動に違いない。
問題は私の勇気が足りるかどうかだ。
……やるしかない。やるしかないんだ。
何度も何度も繰り返し心の中でそう唱え、自分自身を無理矢理納得させた。
「行きますっ!!」
両手に『溶ける魚を解ける刀』を持ち、右手のそれを地面に突き刺す。
分解だ。天井と壁の一部を粉のようにして、フロア中に撒き散らす!
すぐに視界が粉塵に包まれた。かろうじて相手の影が見えるか見えないかという
濃霧のようなバトルフィールドが出来上がった。
「……それで? 粉塵爆発でも起こすつもりですか?」
「そんな事はしません……私まで巻き込まれますからね」
「ごもっとも。では、ただの目くらましですか?」
「さあ……どうでしょうねっ!」
軽口を叩きながら辺りを見渡し、亀裂の向こう側にいる明智さんとは別にもう一
つある人影……ノッポを探す。すぐに見つかった彼は、視界の覚束ないこの状態に
恐怖しているようだった。
「お、お前一体何を考えて……」
「説明している時間はありません! 早く行って!」
私は左腕を彼の首に回し、喉元に神器を突き付けながら脅迫するような姿勢で階
段の上を指し示した。
「ほら、急いで! 早く! 走ってってば!!」
私の勢いに気圧された様子を見せながらも、彼は足元のカラーボールを蹴飛ばし
ながら走った。
「彼一人を逃がしてどうなるというのです?」
濃霧の向こうで嘲笑に似た声で探りを入れてくる明智さん。なあに、茶番はここ
からが本番だ!
目と耳を上手く使い、濁った視界で敵を見据える。その姿を捉えながら、右腕を
伸ばして近くの壁に小刀の切っ先を触れさせた。
今度のイメージは粉ではなく、背の高い柱だ。重量感溢れる巨大な石柱が、目の
前の人影に倒れてくるように……
瞬間、あちらの壁の一部が崩れ、残った部分に柱が生まれる。そしてそいつは根
元から、人影に向かって倒れていった。
「こんな攻撃が魔神に通じるとでもお思いですか?」
不敵な声とともに、石柱のシルエットが粉々に粉砕された。細かい動きは見えな
いけれど、神器を振るったような気配ではない。普通にフィジカルだけで石柱を破
壊したらしい。さすがは魔神……身体能力も規格外だ。
「さあ次は私の番ですよ」
不穏な声を聞いて、私は近くの壁から離れた。
その直後、私のいた空間の壁が石柱となって倒れてきた。凄まじい衝撃が地鳴り
となって私の身体を揺らす。もしも当たっていたら、人間の身体なんてあっさり潰
してしまうだろう。
なるほど意趣返しというやつか……と、感心している余裕は無い。周りの壁はど
んどん石柱と化し、次々に私を狙って倒れてくるからだ。その度に起こる地響きと
ひたすら動き回って逃げ回り続けなければいけない時間が続く。
どうやらあちらもこちらの足元くらいは見えているらしく、明らかにこちらの動
きを追尾するように柱を倒してくる。しかもそれでいて、私の動きを先読みしたり
複数の柱を一気に倒すようなやり方はしてこない。間違いなくこちらをいたぶって
いる。
「おやおや、どうしました? 随分と静かではありませんか。そちらからも攻撃を
していただかないと、まるで私が貴女をいたぶっているみたいではありませんか」
くそう、ここぞとばかりに煽ってくれちゃって……
でもこれも作戦のうちだ。来る時に歩いた時間と距離を考えると、もうちょっと
の辛抱なんだ……!
今はとにかく逃げ続けるしかない。そうしているうちはむしろ安全なんだ!
倒れてくる柱をぎりぎりの体勢で辛くも避け、何度か前に倒れて破砕した柱の残
骸にダイブして事無きを得る。すぐに起き上がって、次に倒れてくる柱の気配を探
るり、また避ける……その繰り返しだ。
魔神には敵わないけれど、体力には自信がある。このまま明智さんが遊んでくれ
ていたら、何とでもなる。
そう思っていた。
けれど何度目かのダイブで、不運にも私の足は瓦礫と化した柱の残骸にすっぽり
嵌り、抜け出せなくなってしまった。
「……」
文字通り絡め取られてしまった。どうだろう……タイミングはかなりシビアだ。
目の前に倒れてくる柱が迫ってくる。必死に身を捩って躱そうとするも、それは
敵わない。柱の倒壊はすさまじい衝撃とともに、私の両脚を完全に圧し潰した。
「あぐっ……」
思わず情けない声を上げ、腕の力が緩みそうになる。けれども握った神器だけは
取り落さずに済んだ。
やがて粉塵が晴れ、視界がクリアになる。明智さんが床の亀裂を軽々と飛び越え
て、こちらへ向かってきているのが見えた。私はその姿を、しっかりと自分の片目
で捉えていた。
もう片方の目は、すぐ目の前に迫った二枚目の扉を見据えていた。
「この勝負……私の勝ちですね」
その声は明智さんには届かない。代わりに私を背負って疾走してくれたノッポの
希望に満ちた表情が私を振り返った。
そして左手を突き出し、刃を振るう。
「『溶ける魚を解ける刀』……指紋認証の扉よ、開けッ!」
私の声に呼応して、扉が分解されていった。歓喜に湧いたノッポの声を、私の片耳がしかと聞いていた。
「なるほど……やはり夢路、貴女は本当に素晴らしい」
もう片方の耳が、明智さんの賞賛を聞いた。
明智さんのエバーグリーンの瞳に、私のみじめな姿が映り込む。
両脚を潰されたその身体に残っているのは、右腕と上半身の半分ほどに加えて、
申し訳程度に指の間に挟んだ片目と片耳だけ。残りの左腕を含んだ上半身は、脱出
に急ぐノッポの肩にしがみついている。
どうしても役者が足りないと悟った私は『溶ける魚を解ける刀』で、自分の身体
を袈裟斬りにした。片目をくり抜き、片耳をちぎったのも、役者を増やすためには
やむを得ない事だった。たとえ分解が見かけ上だけでも可能だというのを知ってい
ても、軽々に出来る事ではなかった。
下半身は、いわば囮。明智さんと戦うふりをして時間を稼いだ後には捨てざるを
得ない。それでも戦闘に必要な両脚と片腕と目と耳を切り捨てるのは、正気の沙汰
ではなかった。
上半身には心臓や重要な器官を残しておいた。もっとも、この状態で帰還して延
命できるかどうかは分からないけれど。
全てはノッポを見捨てる事無く逃げるため。この家を脱出する事さえ出来れば、
他の魔神からの助力を得られるだろう。
指紋認証の扉は開き、後は階段を上れば地上に出る。いかに明智さんが素早くて
も、さすがにもう間に合うまい。
明智さんが小さく溜息を零し、首を振っているのが見えた。
「本当に驚きましたよ、夢路。まさか貴女に私と同じ真似が出来るなんて、夢にも
思っていませんでした」
「え?」
私を背負ったノッポが足を止めた。
目の前にある階段……その手前に立ち塞がった圧倒的な存在感の物体に、硬直せ
ざるを得なかったのだろう。
そこにあったのは、手首だった。
もちろんノッポのものなどではない。その手の形は、ついさっき見た……明智さ
んのものだった。その証拠に、その手首はひとりでに動き、こちらの動きを『通せ
んぼ』するジェスチャーをしてみせた。
戦う前、彼は自分の右手首を切り落としていた。私はてっきりあれはハンデのつ
もりだと思っていたけれど……違った。
逃亡は初めから無理だったのだ。
手首にはいつのまにか、何本目かも分からない小刀が具現化されていた。それが
地面に触れると、地面に亀裂が生まれた。
私達と手首との間を分かつ断崖絶壁はあまりにも広く、到底飛び越えられそうに
ない。
膝をつき、項垂れるノッポ。私にも下半身が残っていたら、きっとそうしていた
だろう。
完敗だ。
策を弄したつもりが、結局は彼の手のひらの上だったのだ。
「いやはや、本当に素晴らしい」
明智さんは尚も私を褒めちぎる。私にはもう、それに応える気力は無かった。
「やはりこの戦い、貴女の勝ちのようですね」
おめでとう、と彼は私の下半身に手を伸ばし、残った右手に握手をした。
……あれ?




