06
一人になって、心細さが湧いてきた。
横道はずっと狭く、バケモノは入って来られない。そういう意味では安全だけれ
ど、あれより小さいバケモノがいないとも限らない。もしもそいつが襲ってきた時
には、私は身を護る術を持たない。
「……大丈夫」
多分だけど、そんな事にはならないはず。だっていきなりバケモノに襲われて死
ぬなんて、高潔さと全然関係が無い。そんな事で死ぬなんて、大道さんだって不本
意なはずだ。
そのはず……なんだけど。
でも、不安は拭えない。一人ぼっちになるだけで、私はこんなにも弱いのか。
やがて狭苦しい通路が終わり、部屋が見えてきた。
さっきのが寝室だとすると、今度は居間のような内装だ。中央には高級そうな大
きな黒檀の机と、それを取り囲むマホガニーの椅子。壁際には振り子時計と、百イ
ンチほどもありそうな大きなテレビまである。
これらの部屋って一体どういうつもりで作ってあるんだろう。誰かの部屋がモデ
ルだったりするのかな。まさか大道さんが普段遣いしているってわけじゃないよね
……だったらこんな横道だらけの構造になるわけないし。単に試練のためのステー
ジって考えるだけでいいのかな。
部屋の壁には私がやってきた細い道とは別に二つ、広々とした通路が想像できる
大きな扉があった。おそらくさっきのバケモノなら、通れてしまうサイズだ。
「……」
あのバケモノ、さっきは私達がやったきた道から現れた。そこまでは一本道で、
隠れるような場所なんて無かったにも拘わらず。
つまり、無から現れたという事になる。
ここは細い道を通らなければ来られないはずの場所だけど……条件次第であのバ
ケモノが湧いてくる可能性があるという事だ。
油断は全く出来ない。
そう思った矢先、扉が一枚開かれた。
「ぎゃあああっ!?」
思わず叫んでしまったけれど……なんて事はない。現れたのはキツイだった。彼
は私の姿を見て安心したような顔をして、それから私の醜態に呆れていた。
「おいおい、驚きすぎだろう! 安心しろよ、あの変な奴はいないぜ」
「さいですか……」
彼の肩越しには、予想通り広い通路が広がっていた。
「あれ?あなた、一人ですか? もう一人の方は……?」
「ああ。はぐれちまったよ」
キツイの話だと、あの後彼らは寝室前の廊下の横道に入り、ここと同じような部
屋に辿り着いたところ、またあのバケモノに襲われたらしい。その時はさっき私が
やったのと同じように、クライが細い道に入って笛を吹き、やり過ごしたという事
だ。おかげで彼らはまた分断され、今クライがどこにいるのか分からないという。
「……鍵を持っているのは、変わらずあなたですか?」
「おう」
「じゃあ、私達が早く出口を見つけないといけませんね。鍵を持っていない人が出
口に辿り着いても、待ちぼうけを食うだけですし」
私の提案に、今度は賛成を貰えた。これ以上部屋を捜索する必要も無いだろうと
いう事で、私達はもう一枚の扉を開けた。
また同じような廊下だ。でも今度は、逸れるための横道が見当たらない。もしも
この先でバケモノに遭遇してしまったら、逃れる術は無いという事だ。
「なあに、どうしようもない事を考えても意味はない。気楽に行こうぜ」
自身を奮い立たせる目的もあるのだろうけれど、キツイは軽く言ってのけた。こ
の元死刑囚、肝が据わってるなあ。一体何をやらかして今に至るのだろう。いや、
こんな事考えるべきじゃないか。
廊下が終わり、お馴染みの扉が現れた。そしてその先にあった部屋も、さっきと
ほとんど同じだ。
もうこちらが探索をしない事が分かっているのか、家具は無かった。四角いだけ
の空間に、扉が一枚あるだけだ。
扉の上には、大袈裟にネオンで装飾された看板がある。
『この先出口への扉あり! あと一息!』
露骨である。
「……どう思う?」
「……どうもこうも」
私達は顔を見合わせ、一瞬だけ扉の方へ向かうのを躊躇した。
それがまずかったのだろう。視界の端……私達がやってきた方向から、蠢くもの
が見えてしまった。
さっきと同じバケモノが、青い瞳をキツイに向けていた。
「うおっ!?」
それに気づいたキツイが仰け反ったのを契機に、バケモノが突進を始めた。
どうしてこのタイミングでこんな事に……なんて考えている時間は無い。
私は無我夢中で笛を吹いた。バケモノの注意がこちらに向く。私の逃げ場は……
どこにも無い!
上手く隙を衝けないかと考えたけれど、奇策の一つも思いつかないうちに進退窮
まって、壁に追い込まれてしまった。そして骨のような手が、私の顔に掴みかかっ
た。
「んぐっ!?」
口を押さえられ、叫び声一つ出せなくなった。口を押さえられたまま、腕が一本
身体に絡みつき、身動きさえもままならなくなる。さらに残ったたくさんの腕が、
ゆっくりと私の胴に向かってくる……
「……ッ!!」
声を出せないまま、私はキツイに視線を送った。この状況、なんとか出来ないだ
ろうか。どうにかして、生き残る術は無いのか。
けれど残念ながら、そんな都合の良い話があるわけもない。キツイは首を振り、
憐れな視線を私に投げた後、出口に向かって駆けだした。
「俺までやられたら、扉を開ける術が無くなる! すまん!」
言い訳にしか聞こえない謝罪を込めて、キツイが出口への扉を開けた。
扉の前にもう一体、バケモノがいた。
今私を押さえているのと、やはり同じ見た目だ。敢えて違いを挙げるなら、目の
色が赤い事だけだろう。正面で相対したキツイが、そいつから逃れる事は出来なか
った。
「ぎゃああああああああああああああああッ!!」
赤い目のバケモノは一目散にキツイに飛び掛かり、その身体を喰らい始めた。
いつからなのか、ネオンで装飾された看板の文字が変わっていた。
『あなたは間違いました。不合格です』
ヤマイの時と同じだった。キツイにその文字が見えているかどうか、私には分か
らない。たとえ見えていたとしても、そんな事もうどうでもいいと思っただろう。
キツイの悲鳴は早々に聞こえなくなった。後にはただ、ぐちゃぐちゃとバケモノ
が肉を喰らう音だけが聞こえた。その間、私はただ口と身体を押さえられていただ
けで、青い目のバケモノはそれ以上の攻撃を仕掛けて来なかった。
「……」
やがて惨劇が終わり、二体のバケモノが煙と化して消えていった。残ったのは、
食い散らかされたキツイの肉片と、彼が後生大事に握り締めていた出口への鍵。
私はそれを拾い、看板が付いた方の扉の先へと歩を進めた。
※
廊下を進んだ向こう側には、例によってまた扉がある。単なるステージでしかな
いとはいえ、いくらなんでもワンパターンな作り過ぎやしないだろうか。
ただし、展開までワンパターンというわけではなかった。扉には鍵穴が付いてお
り、その眼前には、クライがいた。
「あれ……? あなた、どうやってここに来たんですか?」
「……ああ、お嬢さん。無事でしたか」
クライは私を見やると、身体中から噴き出していた陰気な雰囲気を一瞬だけ和ら
げた。
「あなたと別れた後、またあのバケモノと遭遇しましてね。もう一人の男とはぐれ
て一人で通路を通っていると、ここに出たというわけです」
そう言ってクライはすぐ傍の壁を指した。彼の言葉通り、扉のすぐ近くに細い通
り道があり、ずっと向こうまで続いているようだった。
キツイの証言と一致しているし、彼は本当の事を言っているのだろう。この意地
悪な試練の事だから、偽物くらい疑わないとね。
「ところでお嬢さん。ここは施錠されているようです。もう一人の男が鍵を持って
いるので、彼が来るまで待ちましょう」
「……その必要はありません」
私は首を振り、鍵を取り出した。僅かに目を見開いたクライに、これまでの経緯
を話す。話を聞いたクライは、難しそうに唸っていた。
「ううむ……バケモノは二種類いる、というわけですか。で、青い目の方に捕まっ
たあなたは捕まるだけで済み、赤い目の方に捕まった件の男は殺された、と」
「……赤い目の方は、彼が出口に向かおうとした途端現れました」
「正しくは、『あなたを見捨てようとした瞬間』でしょうね。看板の文字が変わっ
たのでしょう? 彼があなたを見捨てたから、高潔じゃないと見做された……と考
えるべきですね」
「でも……あの場じゃ他に選択肢がありませんでしたよ」
「そんな事はない。彼には取り得た手段があったはずです」
言いながら、クライは私から鍵を受け取り、自信満々に扉を開いて見せた。
今度こそ、出口だと確信できる光景があった。
扉の向こうには、入口で見た玄関ホールと同じくらいの大きな部屋がある。けれ
ど入口と違って向こう側の壁が無く、部屋の向こうには草木が生え、日の光が差し
ている。間違いなく誰が見てもあそこは出口であると、確信できる光景だった。
ただ一つ障害があるとすれば……その手前。忌まわしいバケモノの姿がある事く
らいか。しかも目が赤い。キツイを食った個体と同じく、こちらに攻撃を仕掛けて
くるのは明白だった。
「あれが最後の難関ですね……他愛ない!」
クライが私から離れ、笛を吹いた。「こっちだ!」
必然、バケモノがクライの方を向いた。飛び掛かるその背を、私は止める事が出
来ない。クライには何か奥の手が……いや、そんなものあるはずがない!
たまらず私も笛を吹いた。するとバケモノが動きを止め、こちらを向いた。
「走りなさい!」
バケモノから解放されたクライがそう叫び、前進した。その言葉に倣って私も彼
を追う。けれど八本脚の巨体から逃げられるわけもなく、私はあっさり捕まってし
まった。
その口が開かれる。
瞬間、笛の音。
私より少し前にいるクライが、笛を吹いたのだ。
私は解放され、バケモノが笛の音の方向を向く。私はその間にと、クライを追い
越して前へと進んだ。
やりながら、はっきりと理解した。これこそがこのゲームにおける、最も正しい
動きである、と。
バケモノは──青い目だろうが赤い目だろうが無関係に──笛の音を聞くと、そ
れまでやっていた事を放り出して笛を吹いた者を襲う。いくらバケモノの動きが速
くても、追いかけて捕まえて襲うのは一瞬では済まない。そのタイムラグを利用し
て、少しずつ前進する。
そうすれば誰も見捨てず、皆でゴールに辿り着ける。
私を見捨てたキツイでは考え付かなかった。
夢中で笛を吹いて後の事を考えなかった私でも考え付かなかった。
クライはすごい。私は心の中だけで、素直に彼を讃えた。
こうして私達は順番に笛を吹いてはバケモノに道を阻まれ、その度に解放され、
それを繰り返しながら、少しずつ出口へと向かった。
バケモノの動きに不規則なものは見当たらない。もはや不確定要素はどこにも無
い。順当に予定調和なクリアが待っていた。
終わったら、大道さんはなんて言うだろうか。途中経過はどうあれ。囚人である
クライは生き残ったのだから、彼も囚人の高潔さを認めざるをえまい。これに懲り
て、囚人を全て殺すなんて極端な事をやめてもらいたいものだ。それどころか、彼
は何人かストックしていると言っていたし、それを解放して貰えたら、私は人助け
をした事になる。それほど嬉しい事は無い。
なんて、私は考えていた。またしても気が緩んでいる。
でも今回ばかりは許して欲しい。だって出口はもう目と鼻の先だった。もう一回
私が笛を吹けば、クライは笛を吹く必要さえ無い。いくらバケモノが私をターゲッ
トにしても、もう遅い。私もクライもそのままゴールまで逃げおおせられる距離ま
で来ていた。私があと二、三歩。クライもあと十数歩程度。そこまで来て、気を緩
めて何が悪い。
でも、そんな私を嘲笑うようにして、突如アクシデントが起こった。
ほんの一瞬瞬きをした隙に、私の背後の床がごっそりと消えたのだ。
「……え?」
私達は声を漏らした。
床が消えた。それは文字通り、床だった部分が底の見えない奈落に変わったとい
う事だ。おおよそ七、八メートル程度だろうか……とても飛び越えられる距離では
ない。なのにクライはまだ、奈落の手前に居た。
「ば、ばかな……!」
クライが足を止めた。自分の行く手を阻む奈落に足を取られる済んでのところで
思いとどまったのだ。
でも、彼のすぐ近くには、骨だけの腕が迫っていた。
私は笛を吹いた。けれどバケモノは奈落の向こうにいる私に目もくれなかった。
私は何度も何度も笛を吹いた。けれどバケモノは止まらない。がつがつとクライ
の頭を食いちぎり、満足そうに消えていった。
あまりの事に、クライが最期にどんな声を上げたかも覚えていない。私は待望の
出口を後ろに、へたり込んだ。
「どうして……」
やがて視界が歪む。そこら中の景色が霞んでいく。やがて私の存在さえも消えて
いくようだった。
消えかけた私の心は、納得のいかない無念さと失意に溢れていた。
今のは一体何だったの……?
どうして突然床が消えた? それさえ無ければ、今頃は……
誰に向けるべきかも分からない恨み節さえも、やがては空気に溶けていった。




