04
魔神がこの世界に出現したのは、ゴールデンウィーク明けだと言われている。
それからおよそ一ヶ月後……私が魔神達の住む街に連れて来られたのが、六月中
頃……正確には六月十日か。
今はそれからさらにおよそ三週間が経過している。土日休みも三回目だ。
一回目は三途璃さんとのデートに費やしたけれど、二回目は城菜さんのおかげで
平穏に過ごす事が出来た。今回は照との約束があるものの、特別気が重いものでは
ない。気楽に構えていればいい。
それなのに……ものすごく怠い。
目を覚ましてすぐに、自分が驚くほど面倒臭がっている事に気が付いた。
今日はもう、一日中ベッドの中で眠りこけていたい……そんな思いで頭がいっぱ
いだ。予定があるんだから、そんなわけにはいかないのは分かっているのに……身
体がまるで動かない。
体調不良を疑ったけれど、頭痛や寒気といった症状は無さそうだ。ベッドの上で
なら手足も動くので、首から下の神経が全て切れたというわけでもない。ただ単純
に、全く起きられないだけ。怠けているだけと言えば人聞きが悪いけれど……ここ
まで自分の意志に身体が抗ってくるのは初めてだ。
一体全体、私の身に何が起こったのだろう。
もしかして、これが精神病ってやつなのかな。うつ病になると全ての事が面倒に
なるって聞いた事があるし、日々のストレスを鑑みると納得の発症だ。
精神病って他にどんな症状があるんだっけ。なんか色々分類があるって聞いた事
があるけど、よく知らないから分からない。スマホに手を伸ばして調べる気も起き
ない。面倒くさくなるって厄介だなあ……
調べられないから何となくイメージだけで言うと、死にたくなるんだっけ。
いやいや、冗談じゃない! 魔神の街で死にたがっていたら、生命がいくつあっ
ても足りないから! 忍さん辺りは嬉々として殺しに来るだろうし、ジュジュさん
は人体実験の材料にしてきそう。というか何も言わなくても、何かの騒動に巻き込
まれて勝手に死ぬ可能性の方が高いか。この世の中、愛も希望もありはしない。
そうなると、私は死にたがっていないらしい。じゃあ精神病じゃないのかな。で
も死にたがらない精神病だってあるだろうしなあ……
延々とそんな事を考えながら天井を見つめ続ける。時計を見るのも億劫だけど、
窓から差し込む陽の光がどんどん眩しくなってきて、呆けている間にも刻一刻と時
間が過ぎている事が分かる。
そしてついに、必然的な出来事が起こった。
枕元のスマホがけたたましく鳴り響いた。アラームではなく、着信音だ。
発信者は……照だ! 明るくなったスマホの画面には、事前に決めていた集合時
間をとっくに過ぎた時刻が表示されていた。
え、私遅刻したの……? 魔神との約束に、面倒だからって……?
突然、全身に悪寒が走る。居心地の良いはずだった寝床が氷点下に包まれて、脳
に霜が張り付く。骨の髄まで染みついた怠惰の感情が消え去って、代わりにやって
きたのは特大の恐怖。
万死に値する自らの蛮行に、目の前が歪む。嘘でしょ……私、なんて事を……
震える手で画面をタップして、何とかかんとか通話を開始した。もはや面倒臭い
なんて気持ちは、霞のように消えていた。
『むーちゃん、なんで待ち合わせ場所に来ないの?』
「ご、ごめんなさい! 本当にごめんなさい! どうか許して下さいッ!!」
『え……いや、そこまで謝らなくてもいいんだけど』
「ゆ、許してくれるの……? あ、ありがとう、ありがとう!」
『なんか調子狂うなあ……とにかく待ってるから、早く来てね』
「すぐ行く!」
恐怖はすぐに褪せて、代わりにどっと汗が噴き出してきた。もうすぐ七月とはい
え、室内はさほど暑くないというのに、自分の肌が火傷しそうなほどに熱い。身を
焼くほどの焦燥感が、ありとあらゆる電気信号で急かしてくる。
いやいやいや、待って待って待って。いや、早くしないといけないから待つわけ
ないんだけど、でも待って!
さっきからおかしくない? なんで私、こんなに焦ってるの?
確かに約束を破ったのは最低だけど、照はそんなに怒ってなかった。だから一言
詫びて、その後落ち着いて待ち合わせの場所まで行けばいい。合流した後で怒って
いたら、機嫌を取ればいい。何も難しい事は無いし、特に困る事も無い。
なのに私、なんでこんなに焦ってるの?
さっきだって、照から電話が来たからって怯えすぎだ。
もっと言えば、魔神との約束をすっぽかすなんてあり得ない。まして照が相手な
ら、一度やらかしているのだから尚更だ。
落ち着いて……いや、落ち着けないけど、考えよう。
朝起きて、どうして私はあんなに怠惰だった? どうして心に身体がついてこな
い? まるで、心だけ誰かの支配下に置かれているかのような……
「あ……あああああああああッッッ!!!!!」
頭の中で合点がいって、私は大袈裟に驚いた! 過剰なほどに、大袈裟にッ!!
間違いない! 私、感情をコントロールされている!! 何故かは分からないけ
ど、やたらとオーバーに表現するようになっているッ!!
単なる精神病では説明がつかないけれど……この症状、私は知っている……!
『神域に至る聖杯』……城菜さんの仕業に違いないッ……!
どうしてこんな真似をしたのか分からないけれど……止めないとッ!
驚愕しながら急いで身支度を整えるという不可思議な動作をしつつ、私は家の外
へと出向き……今度は唖然とした。
私の家の前を、人間が通りかかったからだ。
見たところ、普通の成人男性だ。やたらと肩を怒らせて、まるで普通の街を歩く
かのようにして、魔神の街を歩いている。
この街を歩く生きた人間は非常に珍しい。この街が危険地帯だというのは誰もが
知っている事なので、どんな命知らずだって足を踏み入れたりはしない。自殺志願
者でさえ、死ぬより恐ろしい目に遭う可能性を考えて近づかない。結局見かける可
能性があるのは、政府の人間のみだ。
目の前の男性は私服で、どう見ても政府の人間じゃない。よく見ると尋常じゃな
いくらい血走った目で、手には金属バットを握り締めている。
その男性は私の前まで来ると、ゆっくりとこちらを向いた。
「お前か……」
「え?」
「魔神は……人類の敵は、お前かああああああッ!」
「ひっ……きゃああああああああッ!?」
こちらを向いた男性が、恐ろしい形相で金属バットを振りかぶり、大股で距離を
詰めてきた。恐怖のあまり思わず声を上げたけれど……多分感情がコントロールさ
れていなくても同じ挙動になっただろう。それくらい恐ろしい光景だった。
「ま、ま、待って下さい! 私は魔神じゃないし、あなたは一体……?」
「俺の妻と娘を返せええええええッ!!」
こちらの声はまるで届いていない。話しぶりからして、魔神に家族を殺されたか
ら仇討ちに来たのだろうか。なんという命知らず。どう考えても無謀過ぎる。
しかしそんな理屈、どうやら彼には通用しないらしい。構えたバットは私の脳天
をロックオンし、今まさに振り下ろされようとしている。
「お、お願いです……! 話を聞いて下さい!」
「うるさいッ!!」
バットが振り下ろされた。
骨が折れる鈍い音。
勢い余ったバットが近くの壁にぶつかって反射する鋭い音。
叫び声。
目の前に現れた城菜さんが、バットを持った男性の腕を捻じ曲げていた。
「悪いけど野蛮人はお呼びじゃないんだ。消えてくれるかな」
城菜さんは痛みに悶える男性の首根っこを掴み、どこかへ放り投げた。視界から
消えた彼がどこに行ったのか、果たして彼は無事なのか……それはもう私には分か
らない。分かるのは、目の前の魔神が元凶だろうという事くらいだ。
「城菜さん……私以外にも『神域に至る聖杯』を使ったんですか……?」
今の男性は多分、怒りを増幅させられていた。あの見境の無さと魔神に対する蛮
勇は、そうでないと説明がつかない。私と同じように、感情のコントロールが出来
なくなっていたのだろう。
私の問いに、城菜さんはあっさり「そうだよ」と頷いた。
「昨日、照と一緒にいて感情を表に出したきみがいつもより魅力的に見えたから、
もしかすると他の人間にも同じ事が言えるかもって思ってね。試しに人間の感情を
極端にしてみたんだ。そうしたら案の定、面白い結果になったね。さっきの男もき
みの前でなければ、もっとじっくり観察してもよかったかもしれない。まあ、人間
は彼だけじゃない……他を当たってみようかな」
「他って……まだ何人もいるんですか?」
「うん。特に対象は決めていないからね」
城菜さんの言葉の意味を噛み砕く暇もなく、遠くから誰かの叫び声が聞こえてき
た。聞き覚えの無い声で、声の主は魔神でも政府の人間でもなさそうだ。さらに耳
を澄ますと、街中が剣呑な喧騒で溢れかえっている。半ばゴーストタウンであるは
ずの、この街で。
きっとさっきの男性と同じだ。皆、感情を滅茶苦茶にコントロールされて、その
矛先が傍若無人な魔神へと向かっているんだ。
魔神相手に感情をぶつけるなんて、信じられない愚行だ。世界中の軍隊が協力し
ても敵わなかった相手に人間が単身で突撃するなんて、死ににいくようなものだ。
そんな事も分からないくらい、強い感情を抱いている……否、抱かされているのだ
ろうか。
一刻も早く対処しないと! スマホを取り出し、政府の人間に電話を掛ける。
……出ない。諜報員として常に魔神と関わる可能性がある私のホットラインは、
二十四時間いつだって政府の誰かに繋がるはずなのに……!
皆、何らかの感情を爆発させ、業務を遂行出来なくなっている……そうとしか考
えられない。
さっき城菜さんは言っていた。「対象を決めていない」と。つまりそれは、この
世界に生きている全人類に能力を使ったという事か……? そんな広い範囲で能力
を行使する事なんて、果たして可能なのだろうか……?
なんて恐ろしい。『神域に至る聖杯』……こんなにえげつない能力だなんて。
スケールの大きすぎる現状に恐怖が追いつかない。代わりに胸中に溢れてくるの
は、無謀過ぎる怒り。この混乱に対する多大なストレスを、私は目の前の魔神にぶ
つけようとしていた。
「何やってるんですか、城菜さんッ! やっていい事と悪い事があるでしょッ!」
「ん?」
城菜さんは私の怒りに動じるどころか、興味深そうに見下ろすばかりだ。
「ああ、夢路ちゃんも人間だから、聖杯の効果があるんだったね。きみはいつも控
えめだから、怒っているのは新鮮だ」
「なに冷静に分析してるんですかッ! 私、怒ってるんですよ!?」
「分かる分かる。怒っていてもきみは可愛いよ」
「可愛いかどうかは聞いてませんし、私はあなたを咎めてます! 今すぐ能力の使
用をやめてください!」
「まあまあ、いいじゃない。それよりほら、聖杯できみの感情の色を見てみよう。
自分の感情を客観視出来るなんて、滅多に無い機会だよ」
「どうでもいいですッ!!」
私の慟哭を完全に無視し、城菜さんは自分の手に『聖杯』を具現化した。透明な
杯の中はすぐに、溶岩のように煮えたぎる赤黒い液体で満たされた。
「前に木霊木さんに使った時よりずっと黒が多いね。やっぱり能力でコントロール
しただけあって、夢路ちゃんは今相当怒ってるわけだ」
「ええその通りです!! 早く戻して下さいよ!!」
「落ち着きなって。あ、落ち着くのは無理か。とにかく駄目だよ、このために能力
を使ったんだから。とりあえずきみの表情はもっと観察したいな」
「この……」
もう自分がどういう気持ちで怒っているのか全く分からない。でも感情に逆らう
事が出来ず、私は城菜さんの胸倉を掴み、『聖杯』を持つ腕に手を伸ばした。
今すぐ殺されても不思議ではない蛮行だ。しかし城菜さんはこちらをばかにした
ような笑みとともに、腕を上げて私の手から『聖杯』を逃がす。
「あはは、びっくりした。これを取り上げて、感情を元に戻そうって魂胆? 怒っ
てるのにきちんと考えてるんだね」
「む……そう思うならその『聖杯』、下さい!」
「だーめ。もうちょっと楽しませてよ」
城菜さんは意地悪な笑みを浮かべ、わざと自分の手の中で『聖杯』をくゆらせ弄
ぶ。まるで私に「取ってみろ」と言わんばかりに。
それに応えて私も必死に手を伸ばすけれど……長身の城菜さんが腕を伸ばすと、
ちびの私では全く届かない。必死に腕を揺するも、魔神の腕力に敵うはずもなく、
まるで惑星に腕押ししているみたいだ。くそっ、くそっ!
私が必死になればなるほど、城菜さんの視線が強まる。私の醜態を芸術的な視点
で分析しているんだろうけれど……そういうのいいから! 私から見れば、単に意
地悪されてるだけだし! ほとんど忍さんと一緒だよ!
「いい加減に……」
それでも頑張って『聖杯』に手を伸ばした、何度目かの挑戦。
まさにその瞬間、城菜さんの肩越しに黄金のたてがみがたなびいた。
「むーちゃん、あんまり遅いから迎えに来たよ! ってあれ? 城菜ちゃん?」
「え?」
突然登場した照の姿に、私達は一瞬だけ呆気に取られた。
予想外に照との距離が近かったのもまずかった。多分『つらなりの鎖』ですぐ近
くまで来ていたんだろうけれど……まさか城菜さんのすぐ背後に現れるなんて、い
くらなんでも不意打ちすぎた。
それも相まって、城菜さんが一瞬動きを強張らせた。そこへ私の手が当たり……
「あ」
『聖杯』を持った城菜さんの手がバランスを崩し、杯が大きく下向きに傾いた。
中に満たされていた溶岩のような液体は、重力に従って落ちていく。落下先は……
ばしゃ。
短い擬音とともに、照の金髪が赤黒く染まった。
きっと今日のために下ろしたであろう清潔な白いワンピースに飛沫がかかり、醜
いまだら模様が描かれる。天真爛漫な笑みを湛えていた表情は一瞬で消え去り、真
顔のまま私達を凝視していた。
「……」
「て、照……」
空になった『聖杯』を消し、城菜さんが申し訳なさそうに彼女を見つめる。さす
がに罪悪感を覚えているのか、普段よりも頼りない声と表情だ。
対する照は小さく息を吐きだした。何か言おうとしているのだろうか。
「あの、ごめ」
城菜さんが謝罪の言葉を言いかけ、消えた。
あまりの速度に、一瞬反応が追いつかなかった。
城菜さんの言葉を遮るように照が繰り出したのは、大きく開いた手のひら。すさ
まじい膂力によって横っ面を叩かれた城菜さんは音よりも早く吹き飛ばされ、周囲
の建物を破壊しながらはるか遠くへ行ってしまった。
すぐ近くに立っていた私には何故か衝撃が来ない。そういう風な力の使い方をし
たとでもいうのだろうか。もちろん周囲にはすさまじい量の粉塵が舞い、アスファ
ルトやコンクリートが容赦無く破砕している。土煙の中、照は城菜さんの方向へと
視線を向けていた。
ただの平手打ちが、何という威力。
いや、それよりも照が暴力を振るうなんて思わなかった。いくら衣服を汚された
からとはいえ、謝ろうとしている同胞を問答無用で攻撃するなんて……
「ち、ちょっと照、落ち着いて……」
「うるさい」
私の言葉も遮られた。照から発されたとは思えないほど低い声。ちらりと向いた
その視線もまた、温厚な照のものとは思えないほど攻撃的だった。
「わたしは今怒ってるの。むーちゃん、邪魔しないで」
「で、でも照、城菜さんはわざとやったわけじゃないんだし……」
「うるさいッ!」
突然発露した照の怒りに、私の言葉は再度掻き消された。その勢いのまま、照は
また城菜さんの方へと向き直る。
「わたしは今……怒ってるんだよッ!」
そう言って照は土煙を振り払うように跳んだ。あまりの速度に彼女の姿はすぐに
見えなくなり……数秒後、街中にすさまじい衝撃が響いた。
まるで地震だ。立っていられないほどの揺れが身体に突き刺さる。多分照が城菜
さんを追撃したのだろう。尚も衝撃が二度三度と起こり、その度に遠くから土煙が
上がる。その方向と距離は既に魔神の街を越え、人類の居住区へと侵入していた。
照が暴走している! しかもかつてない規模で!
一体なんで!?
頭の中を混乱が駆け巡る。けれど思考はさっきまでより明瞭で、感情がコントロ
ール出来ているらしい。私の感情を反映させた『聖杯』の中身が捨てられたからだ
ろうか。だとすると、さっきまで私が抱えていた怒りの感情はどこへ?
もしかして、照が今やたらと怒っているのはそのせい? あの『聖杯』にそんな
効果があったなんて……多分城菜さん自身さえ気づいていない。魔神の能力……な
んて厄介なのだろう。
頭を抱えている間にも、破壊の波が広がっている。既に『オッカムの断頭台』を
使用したらしく、空に向かって一閃の白が周囲の空間を大きく切り取っている。放
物線上に伸びた白の先は見えず、はるか宇宙まで伸びているようにさえ感じる。も
しもあれで太陽を切り取られでもしたら、地球は終わりだ。照の能力も城菜さん以
上に厄介で面倒だ。このまま放置していたら、確実に世界は滅ぶだろう。
どうしよう、どうしよう、どうしよう!
何とかして照に近づいてみる? あんな怒り心頭な照に? 絶対無理だ! きっ
と殺される!
でも何とかしないと! 他の魔神に協力を仰ごうか……?
多分無駄だ。魔神の街を破壊するのはともかく、世界を滅ぼす事を咎めるような
魔神はいない。唯一いるのは、それこそ城菜さんくらいだろうけれど、彼女は今こ
こにいないし……
「いるよ」
「わあっ!?」
突然目の前に飛んできた城菜さんがそのままの勢いで私の腰を掴み「え?」さな
がら樽を抱えるように走り出した。
「ちょっ、ちょっと城菜さん? 一体何を……」
「巻き込んで悪いね、夢路ちゃん。ちょっときみの協力を仰ぎたい」
「照はどうしたんですか?」
「何とか撒いたよ……」
そう言った城菜さんの腕に、突如として現れた鎖が巻き付いた。照の『つらなり
の鎖』だ! ワープさせられてしまう……!
そう思った矢先、城菜さんは突然私を離したかと思うと、即座に鎖が巻き付いた
方の自分の腕を手刀で切り落とした。
鮮血と引き換えに、切り離された腕が鎖とともに虚空に消える。その様子を見て
一息ついた城菜さんは、また私を抱えて近くの物陰にそっと隠れた。
「照の鎖の能力は大体把握してる。これで多少は時間が稼げるね」
「……」
魔神同士の戦いは壮絶過ぎて、人間としては閉口する他無い。しかし黙っていて
も始まらないので、私は早速城菜さんに問う。
「えっと……私にどんな協力を仰ごうと?」
「いや、あのね」
ばつが悪そうに城菜さんが頭を掻いた。
「さっきのは全面的にわたしが悪かった。そう言って謝ったんだけど聞いてくれな
くてね。夢路ちゃん、仲裁してくれないかな」
「ぜ、絶対無理ですよ。話が出来る状況でも無いですし」
「なら行動で何とか照の怒りを解けないかな」
「……」
以前照と忍さんが戦った時、私は服を脱ぐ事で照の気を引き、戦いを止めた。
でもその時照に「もうしないで」と釘を刺されたし、怒っている照相手にそんな
愚行をしたらその怒りをさらに煽るだけだろう。今回は絶対に使えない手だ。
「逆に城菜さん、『神域に至る聖杯』で照の怒りを和らげられないんですか?」
「難しいね」
「……と言うと?」
「『神域に至る聖杯』を特定の相手に使用する時は、相手が目の前にいないといけ
ないみたいなんだ」
「じ、じゃあ目の前で……」
「そうしたいんだけど……駄目だった。照の感情を映し出すところまではいいんだ
けど……操作が間に合わない。照の攻撃の方が速いんだ。『聖杯』はあっという間
に壊されてしまう。夢路ちゃんが時間を稼いでくれれば、あるいは……」
「そ、それは無理です……」
どのくらい時間を稼げばいいのか知らないけれど、どう考えても私では役者不足
だろう。一蹴されて終わりだ。
「い、いっそのこと、魔神全体に能力を使えませんか? 今朝、全人類に能力を使
ったみたいに……そ、それなら相手を目の前にする必要も無いですよね……?」
「可能だけど……その場合、処理がすごく大雑把になるんだ。既に能力で感情を植え
付けられた照を基準に全ての魔神の感情をコントロールするとなると、他の皆にど
んな影響があるか分からないんだ。それでもやってみるかい?」
「い、いや、ちょっと待って下さい!」
それは最悪だ。もしも照を除いた十体の魔神が同時に暴走したら、どう考えても
世界の崩壊は避けられない。いくらなんでも、そんな危ない橋は渡れない。
「じ、じゃあもう、他の能力で対応できませんか? 城菜さん、あと二つ能力を持
っているんですよね?」
「持ってるけど……照の怒りを鎮める効果は無いね」
「せめて一時的に力づくで照を抑えたりとかは……?」
「いや、あの子の怒りの原因はわたしにあるわけだし……こっちから攻撃するのは
ちょっと違くない?」
「言ってる場合ですか!?」
城菜さんの常識的な感性が、かえって仇となっている。確かに非は私達にあるけ
ど……もうそんな事気にしていられる段階じゃないから!
いや、でも力づくで抑えようとした余波で世界が滅ぶ可能性を考えると、どのみ
ち得策じゃないか……
まずい……本格的に策が無い。このままじゃいずれ……
最悪の想定をしたまさにその刹那、視界が白塗りに変わった。
私達の身を隠していた瓦礫はアスファルトとともに消え去り、こちらへ向かって
くる照との間にあった障害が無くなった。
背後を振り向くと、放物線上に白が広がり、その先は見えない。『オッカムの断
頭台』で私と城菜さんを除く進行方向全てを切り取ったらしい。被害範囲は……も
はや目視すら敵わない。照に戻して貰わないと、人類は壊滅的な打撃を受けている
かもしれない。
尚も彼女は憤怒に満ちた表情でこちらを向いている。瞬きした瞬間、すぐに戦闘
が再開してもおかしくない雰囲気だ。
城菜さんは果敢にも私を背後に庇い、両手を挙げて降参のポーズを取った。
「照、ごめんってば! お願いだから、機嫌を直してくれないかな? 服は弁償す
るし、今度埋め合わせもするからさ……」
「問答無用だよッ! わたしの怒りはそんなんじゃ収まんないから!!」
やっぱり言葉は通じない。照が拳を握り、今にも飛び掛かろうとしてくる。
八方塞がりな現状に、私はついに泣きそうになった。
目に浮かんだ涙が、皮肉にも私に力を与えた。
「城菜さん、『聖杯』を使って下さい!」
「え? 間に合わないよ……」
「照にじゃなくて、私にです! 最初にやったのと同じみたいに……!」
「それは……本当に大丈夫かな?」
「私を信じて……お願いですッ!」
城菜さんは全面的に私を信じられないらしく、少し躊躇いを見せた。しかしそれ
も束の間。
「何ごちゃごちゃやってるの? 怒ってるって言ってるでしょーが!」
照が地面を蹴り上げた瞬間、躊躇っている場合ではないと改めたらしく、手の中
に『聖杯』を具現化させた。中に入った液体は青白く、底に真っ黒な灰のような粉
が沈殿していた。どうやら私の悲しみと絶望が反映されているらしい。
「その手には乗らないよッ!」
照が即座に杯を破壊するために『つらなりの鎖』を具現化し、鋭く尖った先端を
杯に向かって投げつけてくる。城菜さんはそれを見て……杯を放り投げた。
「え?」
一瞬だけ呆気に取られた照。主を失った杯は鎖の軌道から外れ、破壊を免れる。
けれどその代わり城菜さんの手からも離れたので、感情の操作は利かない。事実上
攻撃を放棄したかたちになる。
ただし、私は知っている。『神域に至る聖杯』の隠れた能力を。
それを知る由も無い照は、再び杯の中身を頭から被る。奇しくも再び私の感情を
表した、その中身を。
美しい金髪は見る影も無く赤や青に染まり、白ワンピはまるでペンキを被ったよ
うに汚れてしまった。
けれど当人はそんな事を気にしない。武器を消し、動きを止め、その代わりに湧
き上がった感情に身を任せる。
「うわああああああん! なんかよく分かんないけど悲しいよお!」
泣き出してしまった。
周りにこれだけ壊滅的な破壊をもたらしておきながら、なんて勝手な言い分だと
憤りを覚えずにはいられないけれど、私の感情がそうさせているのだから仕方がな
い。事実上、私のせいでもあるわけだ。
「ふう……やれやれ」
照の怒りから逃れ、城菜さんは安堵の息を漏らした。
「なるほどね、遅まきながら理解したよ。照はきみの感情を頭から被ったから暴れ
ていたのか。よく気づいたね」
「……まあ、自分の感情の事ですしね。それより城菜さん、今回の事を悪かったと
思うのなら、えっと、いじった人間の感情の方は……」
「ああ、うん。そうだったね。名残惜しいが、きみの顔を立てておこう」
そう言って城菜さんは『聖杯』を具現化させ、不気味な色の中身を無色透明へと
変化させた。これで人類の感情が元に戻ったかどうか……生憎私には分からない。
既に私への効果は解除されているし、この辺りにはもう人間がいない……いてもと
っくに死んでいるだろう。
「うええええん! むーちゃん慰めてよー!」
現状を把握しきれないうちから、照が目に涙を浮かべたまま私をロックオンして
きた。それを見た城菜さんが、楽しそうに私を見下ろす。
「お、夢路ちゃんご指名だよ。行って慰めてきなよ」
「……」
「ん? どうしたの?」
「城菜さん……今なら『聖杯』使えるでしょう。照を戻してあげないんですか?」
「そんな事するわけないでしょ。せっかく照がきみに慰めて欲しがってるんだから
ね。わたしが介入するのは野暮ってものさ」
「……どの口が言うんですか」
「むーちゃん、早く」
まだ恨み言を言い足りないけれど、照に急かされたのでやむなく切り上げだ。城
菜さん……さては反省してないな?
泣きじゃくる照に膝を貸し、頭を撫でながら今回の騒動の主を仰ぎ見る。彼女は
私達を見つめ、まるで宗教画を見るように尊い眼差しを向けてきた。そして破壊さ
れつくした周囲を散策するかのように姿を消したかと思うとどこからかイーゼルと
キャンバスを持って戻ってきた。
そして彼女は筆を走らせる。まるで何事も無かったかのように、私達の姿を悠然
と描き始めた。
「……」
私は一体、どういうリアクションを取ればいいのだろう。
どういう感情を抱くべきだろう。
この後やるべき事はいっぱいだ。
この後考えるべき事もいっぱいだ。
でも今やるべき事は一つだけ。
照を慰めよう。
今考えるべき事は一つもない。
今はただ、照を慰める事だけに集中しよう。
さもないと、疲れてしまうから。
照の事は、私が慰める。でも私の事はきっと、誰も慰めてくれない。せいぜい自
分の感情は、自分自身で律するとしよう。




