02
「『神域に至る聖杯』……他者の感情や欲求を操作する、わたしの能力だよ」
白瀬城菜の声は鈴のように透き通っていて、思わず聞き惚れてしまう不思議な揺
らぎがあった。
ドッジボールの惨劇を何とか紙一重で生き残った私はその日の放課後、一緒に帰
ろうとせがむ照をどうにかこうにか宥めすかして一人で帰らせ、白瀬さんを人気の
無い空き教室へと呼び出した。
いくらクラスメイトとはいえ、これまでほとんど言葉を交わした事がない人間か
らの突然の呼び出しに、しかし彼女は快く応じ、その上開口一番私の知りたかった
情報を開示してくれた。
その手に具現化されたシャンパングラスは、中に薄緑の液体を湛え、神聖な雰囲
気を纏っている。中の液体には細かいごみのような不純物が湧いているけれど、そ
れらはまるで張りつめた糸に括りつけられたかのように頑として動かない。
「これはきみの今の心情を表しているんだよ、夢路ちゃん。どうやらかなり緊張し
ているみたいだね。深呼吸でもして、少し落ち着いたらどうだい?」
促された通り、息を整えてみた。するとグラスの中の不純物が少し減り、いくら
か液体に波のようなものが見られた。けれどもそれはほんの僅かな変化であって、
ほとんど元の状態と変わらない。
当然だ。いくら白瀬さんがこちらに協力的でも、魔神である事に変わりはない。
例えるなら、常に喉笛にナイフを突きつけられているようなものだ。深呼吸くらい
で落ち着けるわけがない。
「……難しいか。それならこっちで処理してあげるよ」
そう言って白瀬さんはグラスを少しだけ傾けた。すると中に波紋が発生し、緑色
の液体がみるみる薄青に染まっていく。中の不純物も消え去り、先刻ジュジュさん
に使用した時と同じ様子になった。
それと同時に、私の心も大いなる平穏に包まれた。
魔神が危険なのは理解しているし、自分がその危険な状況にあるのも分かる。そ
れでいて、まるで心だけが外側からコントロールされたかのように、不気味なほど
落ち着いている。それに対する危機感や気持ち悪ささえ感じられなくなっているよ
うで、今の自分の状態を分析する事が出来ないでいる。
普通じゃないのは分かる。でもそれを上手く心が理解してくれない……歯がゆい
なあ。
白瀬さんは私の複雑そうな顔色を見ながら満足そうに頷き、近くの机にグラスを
置いた。おそらくあれが消えるまで、私の心情に変化が訪れる事は無いのだろう。
「それで、わたしに話ってなに?」
だからなのか、彼女にまっすぐ見つめられても、何の恐怖心も湧いてこない。私
は今までにないくらいの明瞭さで、言葉を紡ぐ。
「白瀬さんは……」
「城菜でいいよ。きちんと話をする相手とは、名前で呼び合う事にしているんだ」
「では、城菜さん。さっきのドッジボールでジュジュ……木霊木さんの怒りが突然
収まったのは、あなたの能力によるものと捉えていいんですよね?」
「見た通りだよ。わたしの能力は魔神が相手でも通じるらしいね」
「ジュジュさんを止めた理由は何ですか?」
「もちろん、彼女が暴走しかけていたからだよ。空々さんも応じるつもりだったみ
たいだし、あのままじゃ戦いになっていただろうね。だから止めた」
「つまり城菜さんは、戦いを好まない魔神という事ですか?」
「……」
私の問いに、城菜さんは少し考え込んだ。そして私の表情を窺うかのように視線
を送り、続ける。
「残念ながらそうじゃない。戦いそのものは野蛮だと思うけれど、だからって他の
魔神や人間の行動にまで口を出そうとは思わない」
「でもさっきは……」
「わたしはあくまで、この学園で戦ってほしくないだけだよ。きみは知らないかも
しれないけれど、学園の校舎や施設を造ったのはわたしだからね」
「え……それは初耳です」
そういえば学園の建造について、政府の人間から具体的な説明を受けた事は無か
ったっけ。話を持って行ったのが照というのは知っていたけれど……確かに私が知
っている照の能力ではそういう器用な事は出来そうにない。政府の協力があったと
はいえ、魔神発生から一ヶ月も経たないうちに造られているのだから、魔神の力が
働いていたと考えて当然か。
「でも、一体どうやったんですか? 『神域に至る聖杯』では無理ですよね?」
「そうでもないよ。多少無理をさせればこの程度の建築、一ヶ月での竣工も多分可
能なはず」
「……」
なんだか、いろんな含みが感じられる回答だ。あの『聖杯』、上手く使えば他人
の言動までコントロール出来るのかもしれない。それにしても実際は他の能力を使
ったみたいだけれど……城菜さんも他の魔神同様、自分の手の内を全て開示するつ
もりはないらしい。諜報員としては、もっといろいろ知りたいけれど……
「それより夢路ちゃん、さっきの質問……きみはわたしを人畜無害な魔神だとでも
思っていたの?」
「それは……」
「わたしだって敵対してきた人間を殺した事くらいある。もしもきみが、無条件で
人類に協力してくれるような優しい魔神なんてものを期待しているのだとしたら、
それは幻想だってはっきり否定しておくよ。そもそも人類は皆、魔神に対して酷い
悪感情を抱えている。それなのに魔神に対してだけ一方的に友好的でいてほしいだ
なんて、虫の良い話だとは思わないかい?」
「……」
城菜さんの口調に、非難や開き直りは見られない。特別強い思想を持っているわ
けでもないし、仮に反論されてもどうでもいいと考えているような、そんな雰囲気
を感じる。魔神らしく、人類を取るに足らない存在だと思っているのだろう。
測り間違えた。彼女は穏やかなだけで、決して友好的な個体じゃない。もしも私
が悪意を持って敵対すれば、あっさりと殺すだろう。さながら飛び回る羽虫のよう
に、いてもいなくても変わらない、といった風に。
恐怖は無い。でも彼女から協力を得る事は出来ないだろうという落胆が、心の奥
底で発露するのを待っているように燻っていた。
「……余計な時間を取らせてしまって、すみませんでした」
「ん? 質問はもう終わりでいいの?」
「はい。あなたからはもう、十二分にいろいろ訊けましたので……さようなら」
そう言って頭を下げ、踵を返す。すっかり茜色に染まった空き教室から出ようと
扉に手を伸ばしたその瞬間、「待って」囁き声が耳元に現れた。
振り返ると、城菜さんの顔が目の前にあった。
平穏な心に突然湧き上がった驚愕が、私の動きを硬直させる。その間に城菜さんは
扉の前で止まった私の手を取り、反対側の手を扉へ押し付け、そのままずい、とさ
らにこちらとの距離を縮めていく。扉に背中を押し付けられ、両腕で退路を断たれ
た私は、動揺か困惑か恐怖かで理解不能なまま激しく動悸する心臓の音に耳を傾け
る他無かった。
目の前に迫る城菜さんの肩越しに、教卓のグラスが消えている事に気付いた。い
つのまにか、能力が解除されていたらしい。でも、どうして?
「帰るのはまだ早いよ」
城菜さんが優しい口調で言う。
「わたしはきみの話を聞いた。今度はきみがわたしの話を聞く番でしょ?」
「わ、私に話があるんですか……?」
「もちろん。今日のパフォーマンスはそのための呼び水でもあったんだからね」
「え?」
「さあ、座って。話はそれからでも遅くない……そうでしょ?」
そう言って城菜さんは教室の隅から適当な椅子を持ってきて、やや強引に私を座
らせた。その勢いと突然自由になった感情に追いつけないけれど、どうやらこちら
に危害を加えるつもりは無いらしく、着座した私を前に城菜さんは、どこからかイ
ーゼルとキャンバスを取り出して、私に向かって鉛筆を立ててみせた。
「前々からきみには目を付けていたんだよ……うん、やっぱりいいね。きみは座っ
ているだけで絵になる」
「あ、あの……」
「わたしはね、夢路ちゃん。絵を描くのが好きなんだ」
口を挟む余地を与えず、城菜さんが続ける。
「人間は取るに足らない生き物だけれど、人間が作る芸術作品には素晴らしいもの
が多い。そういう意味でわたしは、人間を尊敬しているよ。魔神がいくら強力でも
芸術という観点では無力だからね」
「……」
「そう、無力だ。わたしは魔神になったけれど、魔神の力は画力も感性も与えては
くれなかった。未熟なわたしが芸術と呼べる作品を造るためには、地道に努力と研
鑽を続ける他無い……人間と同じように、ね」
目の前のキャンバスに鉛筆を走らせながら、城菜さんはしみじみと語る。他の魔
神には見られなかった人間性を感じさせられる言葉に、私の緊張は徐々に解れてい
った。
「じゃあ、努力と研鑽っていうのが具体的にどんなものか……残念ながら、わたし
はそれを知らない。絵を描き続ければ画力は上がるけれど、写真のように精巧な絵
が芸術かと言われるとそうじゃない。そもそも芸術というものを概念で括るのは難
しいし、概念で括れないからこそ芸術であるとも言える。結局のところ、手探りの
概念を身に着けるために、手探りを続けるしかないんだろうね」
「は、はあ……」
「その手探りの一環として、わたしはとにかく良いモデルを探していたんだ。仮に
写真のような無味無臭な仕上がりになろうとも、モデルそのものが芸術的なほどの
美しさならば、きっとそれを描いた絵もまた、芸術的であるはずだ……と、そう考
えた結果だ。だからわたしは、これまで出会った中で最も美しいと思った人間……
つまりきみを、モデルにしようと決めた」
「……」
えーと。
わたしが美しいっていう判定がどこからどう見てどういう分析を施した結果なの
かは小一時間問い詰めたい気持ちでいっぱいだけれど……とりあえずそこは置いて
おこう。美醜の感覚は人それぞれ……魔神それぞれだから、何も言うまい。
「もちろん椅子に座るだけじゃなくて、いろんなポーズもお願いしたい。服装や装
飾品も凝ったものをいくつか用意しないとね。描く枚数だって、一枚じゃ絶対に足
りないだろうから、何十枚と……」
「え? い、いや、ちょっと待って下さい!」
手を止めずにどんどん重い要求をしてくる城菜さんに、思わず異議を唱える。モ
デルそのものは別に構わないけれど……そんな時間が私にあるものか。
「えーと。私にもいろいろやる事がありまして……」
「うん。きみが照や他の皆の機嫌を取るためにいろいろやってるのは知ってるよ。
この間の恋人制度とか、木霊木さんとの合体とかで、ろくでもない事に巻き込まれ
がちなのもね。聴衆としては、なかなか刺激的で面白い催しだったけれど」
「……あまり蒸し返さないで貰えると助かります」
「まあまあ、いいじゃない。おかげできみが苦労人だというのがよく分かったよ。
きみが大事にしているものが何なのかもね」
「え、えーと……」
「落ち着いて。別にきみを脅すつもりはないんだ。むしろ反対に、きみを支援して
あげてもいい」
「え?」
「最初に言ったでしょ? 無条件できみに手を貸す魔神なんていない。でも条件さ
え合えば、交渉の余地はあるだろうね」
「……」
つまり、こういう事か。
私は魔神の暴走を止め、人類を守りたい。
城菜さんは私をモデルにして、芸術家としての実力を身に着けたい。
ここに需要と供給がマッチしたわけだ。城菜さんはそうなると思ったからこそ、
「呼び水」とやらで私を誘き出した、と。
またしても私は掌の上か。
でもいつもと違って、城菜さんは私に対して命令や脅迫ではなく、交渉を迫って
きている。私にとって莫大なリターンのある契約を、あくまで私の意志で選ばせよ
うとしているのだ。
望むべくもない。それは私が元々彼女に要請しようとした事なのだから。
ただ……私の方にもやる事が出来たというのは、少々予定外ではあるけれど。
「モデルって、具体的にどうすればいいんですか?」
「難しい事は何もないよ」
交渉が成立した事を悟ったのか、城菜さんの表情に歓喜の色が浮かんだ。
「今日と同じように、放課後ここに来て欲しい。ポーズの指定や必要な小道具なん
かはわたしの方で準備しよう。きみはただここに一、二時間ほど留まってくれれば
いいんだ。無理はさせないと約束しよう」
「え、えっと、私がその約束を守っている間は……」
「ああ、もちろん。わたしの目が届く範囲で、魔神の暴走を止めよう。心配しなく
ても、手は抜かない。きみが少しでも快くモデルの仕事を引き受けてくれるよう、
ケアするからね」
そう言って、城菜さんは微笑んだ。私もまた、ぎこちなく愛想笑いを浮かべて見
せた。
魔神の学園にやってきてはや二週間。
かくして私はようやく、魔神の一人を味方に引き入れる事に成功した。
やった……のかな?




