02 痛む胸の意味
その日、シルヴィーは初めて祈りの森と呼ばれる禁足地に足を踏み入れていた。
その場所は、王都から少し離れた国境付近に存在し、限られた者のみが立ち入りを許されるエリアである。
森の奥には、神殿が存在し、そこは代々聖女が国の繁栄を願い、祈りを捧げる為に用意された場所だった。
今代の聖女は、エミュー・フレイアと呼ばれる、ごく普通の少女である。
桃色の短い髪の毛に、愛らしい顔立ち。特徴的な大きな瞳は、どこか意思の強さを感じさせ、思わず守ってあげたくなるような雰囲気の少女、それが、今代の聖女と呼ばれる彼女の印象だった。
そんなエミューは現在、シルヴィーの婚約者であるイクスのエスコートを受けながら神殿への道を進んでいた。
祈りの森では、王族と女性のみが立ち入りを許されており、必然的にそこに向かう人数は限られる事となる。
長時間悪路を進む事になれば、当然体を鍛えた経験のない聖女様にとって、体力的に辛い面もあるのだろう。
よって、エミューはイクスに手を借りながら進んでいたのだ。
「エミュー、そこにある植物には気をつけて。触れると毒があるから」
「有難うございます、殿下」
神殿に進む最中、聞こえてくる会話はそんなものばかりである。
イクスが道にある危険なものについて注意を促し、それに対して彼女が礼を述べる。
はたからみたら随分と、仲の良さそうな光景だ。
国の行事という事もあり、彼女を無傷で連れ帰る事が王太子としての地位を問われるのだろうが、悪路を進んでいくなら、別に動きやすい服装でも良かったのではとも思ってしまう。
現在、巫女であるエミューが身につけていたのは、こんな場所を歩くには似つかわしくない、純白なシルクの服であった。
最初エミューのエスコートを、シルヴィーが申し出たのだが、イクス本人にそれを断られて今に至る。
シルヴィーはその集団の中で最後尾を守るように彼から指示を受け、後方に気を配りながら進んでいたのだ。
*
何とか一行が神殿に辿り着くと、中では聖女が祈りを捧げるための準備がされているようだった。
そこにあった建物の内部は、意外にも手入れが行き届いているのか、古い外観の割にはどれも美しい。
祈りの間と呼ばれる空間には、ステンドグラスから陽光が射し込む造りになっているようで、聖女はその中央の陣が描かれた場所で祈りを捧げる手筈となっている。
また、その中心となる部分には、前もって聖水が薄く満たしてあるらしく、陣が描かれた場所は濡れているのが分かった。
教会の関係者である女性たちが、急ぎ準備を執り行う中で、騎士団に所属する者たちは、少し離れた場所からそれを見守るようにとの指示が出されていた。
よっぽどのことがない限り、騎士団がこの場で剣を抜く事はないので、今は手持ち無沙汰という状態である。
「――貴方、シルヴィー様ですわよね?」
それを良い事に、一人の女性が話しかけてくる。
どうやらその人物は王族の血筋を引く人物であるらしく、王家の模様が入った美しい服に身を包んでいた。
髪型はいかにもお嬢様と呼ばれる縦ロールであり、手には扇子が握られている。
その声にゆっくりと視線を動かしたシルヴィーは、相手が王族であると瞬時に理解した様子で頭を下げた。
「はい、私は一番隊所属、シルヴィーローズ・アンドラストと申します」
「頭を上げてくださいな、畏まらずにどうぞ楽になさってください」
「……有難うございます」
相手はどうやらシルヴィーに声をかけたかったらしい。畏まった彼女を手で制すると、笑いかけてくる。
シルヴィーがその言葉に従い顔を上げれば、相手はどこか眩しいものを見るように目を細めていた。
「お噂の通り、お美しい方ですわね……あぁ、申し訳ありません。私はレヴィア・レイヴェルグレイグと申します。殿下とは従兄弟の血筋に当たる者です、どうぞ以後お見知り置きを」
レヴィアと名乗った女性は、少しシルヴィーよりも年上のように見えた。
彼女は自身についてそう言葉にすると、視線を部屋の中央にいる聖女の方へと動かす。
「突然ですが、シルヴィー様は聖女様のことをどうお思いですか?」
「どう、と言われますと……?」
「あのように、婚約者がいる相手に親しげに触れているところです。礼儀がなっていないとお思いになられなくて?」
レヴィアが話しかけてくる声は、周囲には分からないほど小さなものだ。だからこの会話を誰かに聞かれる事はまずないだろうが、こんな場所でする話題としてはいささか場違いのような気がする。
だが、相手は腐っても王族。無視するわけにもいかない。
どうやら彼女が口にしているのは、聖女であるエミューがイクスと親しげにしている事についてらしい。
確かに、儀式につての説明を聞くだけなら、わざわざイクスの真横に立つ必要は無いと思うが、本人たちが望んでその距離を選ぶなら、何もおかしな事ではないのでは、と彼女は思ってしまう。
「私の事を気にかけて頂き光栄です。レヴィア様はお優しい方なのですね。ですが私の方はこれが公務であると自負しておりますので、どうぞお気になさらないでください」
シルヴィーがさらりと言葉を返せば、レヴィアは予想しなかった様子で目を丸くする。
「ですが、貴方はあの方の婚約者なのでしょう? 気分が優れないなどはありませんの?」
「あの方が望まれる事は、私も望みでもありますので」
「……あら、そうなの。まぁ、貴方がそう言うのであれば良いでしょう……お仕事中にお邪魔しましたわね。お話できて良かったですわ」
レヴィアはシルヴィーが望むような反応を返さなかったことから、すぐに飽きた様子でそそくさとその場から立ち去ってしまう。
彼女が離れたタイミングで、ちょうど儀式の準備も終わったようだった。
部屋の中央では準備を済ませた聖女が、イクスに連れられて水の中心へと足を踏み入れるところであるらしい。
「君なら出来る、頑張って」
「はい……」
優しいイクスからの言葉に、エミューは口元を緩ませて陣が描かれた模様の中心に降り立つ。
彼女が身にまとう美しい純白の服は、そこに降り注ぐ光により輝いて見えた。
「あんな風にしていると、画になるお二人ね」
「しー、婚約者がいるんだから、聞こえたら困るでしょ」
シルヴィーが立つ位置から、別の隊に所属する騎士の声が聞こえてくる。
その言葉を耳にしながら、シルヴィーもそこにある光景を静かに見守っていた。
(殿下は、聖女様を好いておられるのでしょうか?)
元々、自分が彼の婚約者であるのは、カモフラージュなだけ。彼が誰を選ぼうとも、シルヴィーが口を出す事ではない。
ぼんやりとそんな事を考えていると、近くにいた騎士から小さな声が聞こえてくる。
「始まるわよ」
「一体、どんな事が起きるのかしら?」
この場所で聖女が祈りを捧げる儀式は、もう随分と長い事続けられている。だが、その内容については極秘扱いであり、聖女と言う存在は国を傾けさせるほどの大きな力を持つことから、彼女にまつわる多くのことが守秘義務として扱われていた。それにより、ここにいる殆どの者が、今日行われる儀式がどんなものかを知らないのだ。
「どうか、この王国が末長く豊かでありますように」
エミューが祈りの言葉を口にして、その場に跪く。
彼女は祈るように両手を組んで目を閉じると、ただ静かに祈りを捧げ始めた。
暫くすると、彼女の周囲にはキラキラと輝く白い粒子が出現し、彼女を中心として集まり始める。
エミューが両手で水をすくうように器をつくると、粒子は光の水となり、彼女の手の平を一杯に満たしていく。やがて彼女は神への捧げもののように、空に向けて両手をかざした。
すると、光は空に吸い込まれるように飛び上がり、消えていく。
その光景は、実に尊いものである。桃色の髪をした可憐な少女が、神に愛された証である聖なる力をその手に宿して、世界に祝福をもたらすのだから。
やがて周囲に集まっていた光の粒子が姿を消すと、儀式を終えた様子でエミューが声を出す。
「……終わりました」
その言葉に、ハッとした表情を浮かべたイクスは、すぐさま口元に笑みを浮かべて答えた。どうやら彼もその光景に見惚れていたらしい。
「……あ、あぁ……有難うエミュー。おかげでまた我々の国は緑豊かな土地となる」
「お役に立てて良かったです」
「それじゃ、帰ろうか」
「はい」
イクスの言葉を受けて、優しく微笑んだ少女は、ゆっくりとした足取りで陣の中から外へと向かう。だが、長時間悪路を歩いてきた彼女の足は、どうやら限界だったらしい。慣れない服装も相まって、バランスを崩してしまう。
「……ぁ」
「エミュー!」
小さな声が聖女から漏れたと思えば、慌てたようにイクスが彼女の体を支える姿が見えた。
「……っ!」
イクスの胸の中に受け止められる形で、何とか転倒を免れたエミューは、申し訳なさそうに身を寄せながら謝罪を口にする。
「……すみません、殿下!」
「いや、怪我はないか?」
「はい、ありがとうございます」
少し疲れを滲ませながら、それでもしっかりと自分の足で立った少女は、お礼を口にしてイクスに笑いかける。
聖女に怪我がなかったと分かると、イクスも安堵した様子を見せていた。
「それなら良かった。今日は無茶ばかりさせてしまってすまない……」
「いいえ、平気です。それが私の役目ですので」
自分の立場をよく理解しているのだろう。そう口にした少女は、どこか凛とした強さのようなものを感じさせた。
これまで田舎育ちの聖女と言う噂ばかりの彼女であったが、その姿を見れば誰もが虜にならざるを得ないだろう。
健気に国民のためにと力を尽くす姿は、どこか胸を打たれるものがある。
周囲でそれを見ていた誰もが、彼女の姿に釘付けのようだった。
そんな中、素早く思考を切り替えたイクスは、周囲の騎士たちに命じるように声を上げる。
「皆、直ちに帰路の準備に取り掛かれ!」
「はっ!」
その言葉で我に返った一同は、持ち場に戻るようにバタバタと神殿の外へと向かって行く。
集団の最後尾の護衛を任されたシルヴィーは、中央の2人がゆっくりと神殿の外を目指す光景をただ静かに見守っていた。
「――っ!」
すると、その視線に気が付いたイクスが、驚いたように目を見開く。
シルヴィーが立っていたのは、入口付近の場所だったので、必然的に二人が此方を向くのは仕方がない。
しかし、彼はバツが悪そうな顔をしてなぜか視線を横に逸らしてしまう。
「……外に行こうか、エミュー」
「はい」
エミューはそんなイクスの動きに気がついていない様子で、シルヴィーの傍らをイクスと共に通り過ぎていく。
すれ違うその瞬間、何故か申し訳なさそうな表情を浮かべたイクスに、シルヴィーは胸の違和感を感じてしまう。
「……?」
その違和感に疑問を抱く彼女だったが、すぐに仕事に戻ろうと思考を切り替えてその場を後にするのだった。
***
儀式を無事に終えた王国は「聖女エミューにより、国には繁栄がもたらされることが約束された」と、大々的に声明を出したことで、暫くはお祭り騒ぎとなっていた。
聖女のお披露目の場では、多くの民衆が集まり、彼女を祝福する姿が見られた。彼女の人気は凄いもので、その噂は国の外にも広がっているらしく、彼女へ挨拶を申し出る人は後を絶たない。
それだけ、この世界に与える聖女の影響は大きいのだろう。
その頃には、イクスと会う機会も減り、すれ違う日々が続いていた。
「ねぇ、見てみて。聖女様と殿下のお姿よ。こうして横に並ぶと、本当にお似合いのお二人ね」
城の中を移動していたシルヴィーがそんな言葉を耳にしたのは、庭園の近くを通りかかった時である。
まるで微笑ましいものを見るように、次女たちはどこかを眺めている様子だった。
「あら、本当だわ」
「お花を見に来たのかしら?」
言葉通り、そこには花壇のそばで花に視線を送るエミューと、それを優しく見守るイクスの姿がある。
彼らの周りには美しい花々と、綺麗な蝶が飛んでいるようだった。
「最近よくご一緒されているわよね」
「もしかしたら、お二人はそういう仲なのかしら?」
王太子と聖女の結婚など、この国ではよくある話だ。
そうやってこの国は代々繁栄を守り続けてきたのである。
他人から見てもそう見えるのなら、当然それを遠くから見ていたシルヴィーにだって、同じように映ることだろう。
花の匂いを嗅いでいたと思えば、虫に気付いたエミューが驚いた表情を浮かべている。
その様子を近くで見ていたイクスは、不意を突かれたように気の抜けた表情で笑っていた。
間抜けな姿を笑われたことに、エミューは少しだけ不機嫌そうな表情を浮かべて、きっとそれを彼は謝っているのだろう、随分とそこには楽しげな光景が見られた。
「けど、殿下には婚約者が居られるのでしょう?」
「なんでも、あの騎士団に所属するシルヴィー様だとか」
「……っ! しっ!」
侍女たちは何かに気付いた様子で、慌てて口を閉じると、足早にその場から立ち去ってしまう。きっとそこに、話題の本人が居たせいだろう。
しかし、その様子を眺めていたシルヴィーは、何事もなかったかのように表情一つ動かすことなく、長い髪をサラリと揺らしてその場に背を向けて歩き出すのだった。
***
「ご無沙汰しております、殿下」
「あぁ……最近はあまり時間がとれなくてすまない」
その日、シルヴィーは久々にイクスとの時間を過ごす事となっていた。
彼が多忙の中で取れた時間は、たった数刻ということもあり、今日は城の中でお茶を楽しむ予定である。
彼が用意した部屋に足を運んでいたシルヴィーの今日の服装は、季節に合わせた緑色の衣装であった。
久々に騎士服以外に身を包んでいた彼女は、双子の兄であるキールから色々とアドバイスを貰い、今日に備えたのである。
イクスがくれた髪飾りは、当然今日も白銀の髪に美しさを添えていた。
「いいえ、私の方はお気になさらないでください。殿下がお忙しいのは重々理解しておりますので」
普段から騎士団で働いているだけあり、彼がいかに多忙であるかなど百も承知だ。
公務を行いながらも聖女の対応など、やる事は山ほどあるのだろう。
「むしろお忙しい中でこのような時間を作ってくださり、ありがとうございます」
「私が君に会いたかったんだよ……今日は緑色の服なんだね。初めて見たな……うん、よく似合っているよ」
「最近は暖かい気候が続いており、花々が美しい季節になりましたので。お褒め頂き光栄です」
「そうだね。もうすっかり春だ……あぁ、せっかく美味しいお茶とお菓子を用意したんだ。さぁ、座って」
まるでその姿を目に焼き付けるように、シルヴィーを凝視するイクスは、我に返ったように用意していたテーブルへと誘う。
そこには香り豊かな紅茶と、美味しそうな焼き菓子が乗せられているようだった。
「失礼します」
案内されるがまま、シルヴィーが椅子に腰掛けると、ルクスは彼女をエスコートして、自身もその正面に腰掛ける。
「今日は私が君にお茶を淹れても良いだろうか?」
「……私のような身分の者に、王族である殿下がそのような事をしては……」
「大丈夫。ここは見ての通り2人だけだから。だめかな?」
イクスの言葉に、ほんの僅かに驚いた色を顔に浮かべたシルヴィーだったが、念を押されて言葉に詰まる。
こんな時、どう反応をしたら良いのかよく分からない。
「私が君をもてなしたいんだ」
「……分かりました、ではお言葉に甘えさせていただきます」
相手の言葉にシルヴィーが折れる形で了承を口にすれば、イクスは分かりやすく笑って、カップに紅茶を注いでいく。随分とその手つきは手慣れたものだ。
「ありがとう、さぁ、久々のデートなんだし、色々と話を聞かせてくれ」
まるでその姿は最初からこうなる事を理解していたように、彼は笑っていた。
二人が穏やかな時間を過ごす部屋の外には、雲ひとつない青空が広がっていた。
「最近、仕事の方は順調かい?」
「殿下がお耳にされている通りにございます。聖女様の護衛以降は、変わらずに過ごしておりました」
「そうか、怪我もなくて安心したよ」
シルヴィーに仕事のことを尋ねたという事は、もしかしたら多忙のせいであまりそちらに気が回っていなかったのかもしれない。
いつも通りにシルヴィーが答えれば、相手は安心したように声を弾ませていた。
「殿下の方は、随分と忙しくされているようですね。ご無理はされておりませんか?」
「私の方は大丈夫。こんな事で根を上げていられないからね」
「あまりご無理はなさらないでくださいね」
「ありがとう。だけど、それはお互い様だろう? 君も騎士団の仕事となれば、無茶な場所にだって飛び込んでいくんだから」
確かに人のことは言えないが、とは言え最近は至って穏やかな任務ばかりこなしているので、彼ほどではない。
噂によると、国王から聖女と婚約を結ぶように言われているとも耳にしたが、どうなのだろう。
相手の言葉に、シルヴィーは表情一つ変えずに答えていた。
「私は、無茶な事は何一つしておりませんのでご安心ください」
「さすがシルヴィーだね」
満足そうに笑うイクスは、ふと瞳を伏せると何やら覚悟を決めたように口を開いた。
「実は、君に一つ伝えておかなければならないことがある」
「はい、なんでしょう?」
いよいよ婚約破棄の件かと、シルヴィーが冷静に言葉を受け止めれば、彼は真っすぐな瞳を向けたまま口を開いた。
「……その、聖女である彼女についてだが……様々な噂が飛び交っているのを耳にして……それで、私は君との婚約を破棄する気はない。それを伝えたかったんだ」
「……そうですか、承知しました」
ルクスからの言葉に、シルヴィーは「まだその時ではないのか」と納得する。
「私の方はいつでも構いません。お噂ではとても親しい仲だと聞いておりますので、それを邪魔するつもりもありませんのでご安心を」
「……やはりそうなったか……いや、いい。君はそういう子だ……言っておくが、私は後にも先にも君だけだよシルヴィー」
「……分かっております。私は私としての使命を果たします」
何を言ってもシルヴィーはそれを「仕事」だと思い込んでいるらしい。自信満々にそう言われてしまい、イクスは肩を落として苦笑を浮かべる。
「けど、まぁ自業自得か……最近はスケジュールが取れなかったけど、また今度からはこうやって2人の時間を作ろうと思っているんだが、良いだろうか?」
「殿下が望むのであれば構いません」
「……シルヴィーは、私と過ごす時間は嫌かい?」
淡々と言葉を返すシルヴィーの表情は変わらない。人形のように、ただ美しい顔立ちがあるだけだ。
それを見ていたイクスは、ほんの少しだけ寂しげな様子を見せる。
最近は二人で過ごす時間が少なかったこともあり、彼も思うところがあるのだろう。
王家特有の深紅の瞳に、わずかに影がさしたのを見て、シルヴィーはぎこちなく言葉を口にする。
「……嫌……ではありません。殿下とのお時間は、不思議と落ち着きます」
「っ!……そうか、それはよかった」
今の感情を言葉で表すなら、きっとそれが正しい。
シルヴィーの素直な気持ちを受け取ったイクスは、目を見開き嬉しそうに微笑んだ。
「私も君といると、とても落ち着くんだ」
「そうなのですか、初耳です」
「あれ? 言ってなかったかい?」
「はい」
「それは、すまない」
苦笑と共にルクスが謝れば、シルヴィーは謝る事ではないと首を振る。
「殿下が謝られる事ではありません。察しの悪い私の落ち度です」
「……そう言えば! このクッキー。とても美味しいから食べてみてほしい」
業務的な雰囲気でシルヴィーが答えると、イクスは話題を変えるように、テーブルにある焼き菓子を差し出してくる。
そこに置いてあったのは、シンプルなチョコチップクッキーだった。
「クッキーですか?……いただきます」
「……どうかな?」
促されるまま口にそれを運べば、ほろほろとした食感と共に共に、甘い香りが口の中を満たす。
「美味しいです」
普段はあまり表情が顔に出ないシルヴィーも、その味に感銘を受けたように目を輝かせたのが分かる。
「だろう? 君の口に合うかと思って、取り寄せたんだ。エミューがお菓子について詳しくて……そのクッキーも、彼女に教えてもらったものなんだ。王族としての視点からでは知らないものを、彼女は多く知っているから、話をするととても勉強になり……」
紅茶を口に運びながら、その言葉を口にしたイクスに、シルヴィーは無意識のうちに動きを止めていた。
その視線に気がついたイクスは、不思議そうにシルヴィーを見つめる。
「どうかしたのか? もしかしてあまり好きな味ではなかったかい?」
「いいえ、とても美味しいです……殿下は聖女様のお話をされる時は随分と楽しげなのですね……私も、先日初めてそのお姿を拝見いたしましたが、とても愛らしいお方でした」
小さくて、ふわふわしていて、まるで守りたくなるような存在だ。
クッキーを手にする自分の手は、剣だこにより角ばっているし、触り心地だって悪いだろう。
薄く笑んでシルヴィーが記憶を振り返れば、思い出されるのはいつだって2人が寄り添う光景ばかりである。
周囲が言うように、本当にお似合いなのだろう。
所詮この関係は形でしかない。偽りの関係に律儀に時間を取らずとも良いのだと、シルヴィーが口を動かそうとすれば、そこには真剣な表情を浮かべるイクスの姿があった。
そのイクスの瞳を、シルヴィーは炎のようだと感じる。
炎のように暖かく、そして熱を持っている、と。
視線が重なれば、イクスは真剣な声で、言葉を紡いでいく。
「君ほどではない」
「……、……」
「彼女には申し訳ないが、私は君ほど愛らしく美しい人を知らない」
まさかここに来てそう返されるとは思わず、シルヴィーは言葉を失う。
しかし、彼は追撃をするように続けた。
「私にとっては、君だけが眩しく映るんだよシルヴィー。君の髪も、姿も、戦う姿でさえ美しいと思うんだ」
まだ何かを言うつもりなのか。
それ以上、言葉を受けては駄目だと本能が警告を鳴らす。
ドクドクと脈打つ心臓が煩くて、シルヴィーは何とか声を絞り出していた。
「……と、言われましても……」
消え入るような小さな声で顔を俯けると、イクスは慌てた様子で謝罪を口にする。
「すまない! 君を困らせるつもりはなかった……ただそれが本心であることだけは信じてほしい」
彼はその言葉を呟くと、何かに気が付いた様子で「もう時間だ」と囁く。
「すまない、シルヴィー。今日はここまでのようだ……ここにあるお菓子は好きなだけ食べてくれて構わないから……それから、片付けは後で私の方が手配していくから気にしないでほしい」
慌ただしい様子で紅茶の口の中に流し込んだイクスは、足早に席を立つと部屋の扉へと向かっていく。
「では、せめてお見送りを……!」
ハッとしてシルヴィーが顔を上げたものの、イクスは優しく笑ってそれから部屋の扉を開いた。
「……構わない、それよりも、今日は楽しかったよ。君に会えて良かった」
甘さを含むその視線に、シルヴィーが動けずにいると、彼はあっという間に扉の向こうに消えてしまう。
よっぽど急ぐ仕事がこの後に控えているのだろう。
まるで嵐のように去っていた相手に、シルヴィーは何も言う事が出来なかった。
やがて静寂に耐えきれなかった様子で、彼女は言葉を漏らす。
「どうしたと、言うのでしょう」
何かがおかしいのだ。
少し前から、自分の中にある何かが狂い始めている気がする。
どうにも、先程から鼓動が煩いくてたまらない。
彼はあの聖女を好いているはずだと言うのに。何故自分の心はこんなにも締め付けられるように、苦しいのだろう。
今日の自分は少しおかしかった気がする。
最近はエミューと楽しそうにしている姿ばかり見ていたせいで、久々に会う彼にどんな顔をしたら良いのかなんて、柄にもない事を考えた。
だから普段は気にもしない服装のことを、双子の兄に尋ねたりしたのだ。
似合わないと言われなくて良かったと思いながら、シルヴィーは窓の外へと視線を走らせる。
「何だか、変ですね」
以前の自分なら、これほど自分の気持ちが分からないことがあっただろうかと思ったからだ。
イクスが婚約者になってから、自分を取り巻く環境が目まぐるしく変わってしまったせいだろうか。
1人そう悶々と時間を過ごしていると、ふと窓の外に見慣れた姿を目撃する。
「あれは……」
そこには、つい先ほどまでシルヴィーと共にいたイクスと、話題に上がったあの聖女の姿があるようだった。
どうやらイクスが急いでいた理由は、彼女と会う為だったらしい。
あの装いからして、共に出かける予定なのだろうか。
(もしかしたら、デートでしょうか?)
おしゃれな服装に身を包み、心なしか楽しそうなエミューの横顔に、自然と目が奪われる。
そこにいるイクスの表情を窺うことは出来なかったが、二人の様子はここからでも楽しそうであるのが伝わってくる。
その光景を目にした直後、何故か急に胸の奥がツキツキと痛む感覚を覚え、彼女は首を傾げていた。
「また、ですか」
どうにも、最近の自分は2人を見ているとおかしいのだ。
その事に瞳を伏せたシルヴィーは、今度兄に会うときに尋ねてみようと考える。
「キールなら、何か理由を知っているでしょうか……」
同じ双子であるなら、きっとこの感覚も知っているかもしれない。
そう思ったシルヴィーは、そこにあったクッキーに手を付ける気にもなれず、その部屋を出ていくのだった。