登山
小一時間後、小豆は斜面を登っていた。舗装されている道はすでに途切れ、落ち葉や枝が散乱している道を進む。
少女が気になった、というわけじゃない。それじゃ気持ち悪いただのおっさんだ。違う。
一応、山の中に牛が迷い込んでいないか確認するだけだ。
同時に熊の痕跡があれば、駆除の人に情報を提供できる。
「こんな奥まで来るか……?」
無心で歩いていると、だいぶ奥地に来てしまったようで、だんだん木漏れ日が少なくなっていた。
「帰ろっと」
少し前にあった小さな社に手を合わせてから斜面を下ろうと思った、その時だった。
「!?」
目の前に、黒くて大きいものがいた。光沢のある漆黒の毛には、わずかに赤黒いものがこびり付いている。腹の底から震える呼吸音が、耳から体に響く。
「うわぁっ!?」
――熊だ
本物の熊だ。座ったこの状態でも立っている自分の胸あたりまである大きさだ。これが立ち上がったら、2メートルは超えるだろう。
最悪なことに、その隣にも小さな黒いものが2つ。子熊だ。となるとこの大熊は母熊。子供がいる熊は通常の熊よりも凶暴だ。
四肢が真っ先に冷たくなる。耳が遠くなる。心臓が破裂しそうなくらいに大きく速く動いている。さっき旭さんにいただいたバターたっぷりのパンを吐き出してしまいそうだ。
じりじりと小豆は距離を取る。あいにく拳銃は持っていない。警棒もスタンガンも置いてきた。
ただ牧場に話を聞きに行くだけだと思っていたロッカールームの自分を殴りたいと思った。
しかし熊は距離を取ろうとしたことを理解したのか、腰を浮かせて唸り始めた。
ぐるる、と脳に響く獣の唸り声。本能でわかる、恐ろしさが体を走る。
これは、まずい。威嚇している。
ゆっくりと後退りした背中に、木の凹凸を覚える。その向こう側は崖だ。襲われても、崖から落ちても、助からないだろう。とうとう背中全体が木の幹に着いた。
その瞬間、熊がこちらに向かって走り出した。標的はもちろん、小豆だ。
「うわあああああああああっっ!!」
――襲われる
本能が叫ぶ。けれど体は一切聞こえてないかのようにぴくりとも動かない。スローモーションのように自分の視界を埋めていく熊がゆっくり動く。
――もうだめだ
来たる痛みを覚悟して後ろを向いて歯を食いしばる。背中に硬い爪が当たったその時だった。
パアン!
鼓膜をつんざく破裂音が聞こえた。
「!?」
背中に当たっていた爪からどんどん力が抜けていく。そして大熊が膝から崩れ落ちた。小豆は何が起こったのか理解できなかった。
パアン!
もう一度同じ破裂音がして子熊が草むらに向かって逃げていく。
呆然と座り込んでいた小豆は、我に帰る。目の前にあの巨体が倒れている。獣臭い匂いのなかに微かに火薬の匂いがした。
音のした方に目線を移すと、崖上の草むらの中に、さっき見たあの少女が、そして数ヶ月前酔っ払っていた時に商店街で見たあの少女が、佇んでいた。
その手には、長身の銃。猟銃ではなく、ライフルだ。まるで戦場で使うような、実弾を装填して使用するものだ。
少女は、座り込む小豆を無感情に見下ろしていた。