幻の画家
次の日、ローラントは早速皇女を訪れた。誰に止められる事なくグレーテの開かずの扉を開いた。グレーテは少し驚いたが、直ぐに沈んだ顔になった。
「お兄様・・・ジークに言われて来られましたの?」
「ジークが心配している」
「・・・わたくしにもう・・・お兄様もジークも関わらないで下さい。わたくしは皆を不幸にしてしまいます」
「何故そんな事を言うんだ?」
(ジークはあの日の事をお兄様に言ってないのね・・・)
あの日の不名誉な言葉は誰にも知られたく無かったからグレーテはジークに心の中で感謝した。男達が嘲笑いながら言っていた〝疫病神の花嫁〟と言う言葉を忘れたいのに頭から離れなかった。夫となる筈だった者達が二人共、妖魔に殺され魔に魅入られた花嫁だと噂され傷ついていた。それが薄れ始めていたのに今度は疫病神が憑いていると言われて呆然としてしまった。自分が不幸では無く、自分の存在が周りを不幸にするのだと気が付いてしまったのだ。だからジークにも会えず扉を閉ざしていた。
「わたくしのことはもうお忘れ下さいませ・・・」
「やれやれ・・・私の言葉も届かないみたいだ」
「・・・・申し訳ございません」
「気晴らしの贈物を用意したけれど・・・残念だな」
ローラントが溜息をついて懐から出したカードをチラつかせた。小鳥の絵と署名がグレーテの目に留まった。
「それは・・・」
目に入った署名はロータルの作品に必ず記される金木犀の花と作者名。しかも小鳥はロータルが好んで良く描くもの・・・何度も何度も見ているグレーテは疑う余地も無くロータル本人が書いたものだと直ぐに分かった。
「お、お兄様・・・そ、そのカードは?」
「ん?ああ、最近知り合ってね。グレーテが好きだと聞いたから気晴らしに紹介でもしてあげようと思ったのだけど・・・会いたく無いのだろう?」
グレーテはロータルの絵を鑑賞する度にその作者自身に会ってみたいと何時も思っていた。素晴らしい絵を描き出すその人を見たかった。しかし・・・自分に会えばその憧れの人を不幸にするかもしれないのだ。
「グレーテ、以前言ったように花婿達が殺されたのは君の責任では無いし、責められるのは責任を放棄していた私だ。だから君は誰も不幸にしていないしこれからもしない。逆に引き籠って誰にも会わないのならジークは悲しむ。元気の無い彼女を見る私も悲しくなる。悲しみは不幸になるのと同じだ」
「お兄様・・・わたくしは・・・」
グレーテはローラントの思いやりのある言葉に耳を傾け、心が少し軽くなった。それに念願のロータルと会えるとなると憂鬱な気分が晴れて来るようだった。少し明るくなった顔をしたグレーテにローラントはそのカードを渡した。
「今日の午後、私の宮で・・・いいね、グレーテ?私は同席出来ないけれど、ジークがいる。君が会うと先方に言っていて良い?」
グレーテは上の空でカードを胸に抱いて頷いていた。心はもうロータルの事でいっぱいだった。男性なのか?女性なのか?若いのか?年配なのか?考えれば考えるだけ分からない。想像は何時もしていた。繊細な感じは女性かもと思っても、描く対象が変われば力強い筆使いは男性のようで・・・若々しく新鮮だったり、落ち着いて深みがあったりと年齢も不詳だった。
そして胸を高鳴らせながら待っていたグレーテの前に現れたのは・・・女性では無く、そして高齢な感じでも無かったが謎めいていた。ロータルと紹介された背の高い男は仮面を付けていたのだ。驚くグレーテに彼を連れて来たジークが頭を下げた。
「グレーテ様、申し訳ございません。貴女様の御前で仮面など大変失礼かと存じますが、ロータルの希望でして・・・顔を隠し、名を伏せておりますが身元は確かでして危険はございませんので、ご容赦下さいませ」
「わ、わたくしには正体を明かせないと?」
グレーテは初めて会ったロータルから拒絶されたような気分になって何故か胸が痛くなった。ドキドキしていた胸が今は、キリキリと痛むのだ。
「グレーテ様、それは・・・」
ジークが答えようとすると、クラウスがそれを止めるように口を開いた。
「貴女様が私の絵をお気に召して蒐集して頂いていると聞きました。もっと他の絵も欲しいと思われますか?」
「ええ、もちろん・・・もちろんですわ!貴方の絵は素晴らしいわ!もっと、もっと見たいしもっと欲しいわ!」
グレーテは落ち着いた力強いロータルの声にときめきながら答えた。皇女の自分がこう言えば誰でも嬉しい筈だとグレーテは思った。芸術家は何時も強力な出資者を望んでいる。グレーテはロータルもきっとそう思っていると思っていた。しかし・・・
「申し訳ございません。誤解をさせたようですね。私は後ろ盾を願っているのではありません。逆に関わって欲しく無いのです。私は自由に描きたいのです。皇子や皇子妃のように私の絵に興味が無い方は安心ですが・・・皇女はそうではございませんでしょう?私は今の生活に満足していますし、そっとして置いて欲しいのです。ですから今まで通り幻の画家と思って下さい」
グレーテは拒絶されて唖然としてしまった。誰もが喜ぶ手を払いのけられて・・・しかも恋愛小説で読んだような内容だ。うるさく纏わり付く恋人気取りの女が自分で、意中の男から興味が無いと断られる・・・
ジークは兄の返答に、ハラハラしていた。クラウスは普段から物静かなのに尊大な感じだったが仮面のせいか今日はそれが更に増大している感じだった。皇女を前にしてこの態度は幾らなんでも失礼だとジークは思った。しかし横から口が挟めない状況だった。グレーテは唖然とした後、とても怒っている感じなのに今まで見た中で一番輝いていた。
「わ、わたくしが、貴方の活動を全面的に支援すると言っているのですよ!」
「必要ございません」
「どうしてですの?わたくしが手を貸せば貴方は生活に煩わされる事無く絵に没頭出来るのですよ!」
グレーテはムキになって声を張り上げた。彼女を昔から世話をしている侍女でさえも驚くだろう。
「それが迷惑だと言うのです。私は描きたい時に描きたいものを描く。何気ない生活があるからこそ生まれる気持ちです。私に貴女様は必要ありません・・・」
必要無いと再三言われたグレーテは、グッと黙ってしまった。しかし言い負かしたいしロータルをどうしても手にいれたかった。
怒りに震えていた時、目の前のロータルがいきなり椅子に腰かけ手に持っていた素描し用の紙を開いて何やら描きだした。恐ろしく早い手の動きにグレーテは驚きながら何を描いているのかと覗くと丁度、顔を上げたロータルと目が合った。そのまま、じっと見つめられたグレーテは息が止まり、心拍数が多くなった。何もかも見透かされるようなその視線は、自分が何一つ身に着けていないような感覚になってしまうようだった。その視線が紙に落ち、グレーテは息が出来た。そしてふとその紙を見ればそこに描かれているものはグレーテだった!
「わたくし?わたくしを描いていますの?」
ロータルは無言で手を動かしていた。そして時折、グレーテを見る・・・それを何度か繰り返すと、今度はいきなり立ち上がった。
「残念ながら時間切れです。今日はありがとうございました。久しぶりに描きたいものが見つかりました。出来ましたらまたお時間を頂きたい・・・あっ、私の時間が取れないか・・・」
「わ、わたくしを描かれるのですか?」
「失礼しました。断りも無く申し訳ございません。私は描きたいものを自由に描きたいと申し上げたようにご不快でも続けさせて頂きます。それと・・・今回のような時間も余り取れませんから私が勝手に皇女を見させて頂きます。では、またの機会に」
クラウスはグレーテの返事も聞かずに自分の都合だけ言って去って行った。午後の休憩時間だけ仕事から抜けて来たからだ。
仮面を取って足早に帰るクラウスは楽しそうな笑みを浮かべていた。気乗りがしなかった皇女との面談は実りあるものだったからだ。グレーテに言ったように久しぶりに描きたいと思ったものが見つかった喜びに溢れていた。金木犀のような瞳は絶品で早く描きたかった。しかし風景や静物画と勝手が違う。グレーテが一番美しく見えるように描くにはまだまだ観察が必要だ。クラウスの時間が取れるのは早朝が夜・・・そんな時間に皇女を度々呼び出しては何事かと思われるだろう。だから後は、グレーテが社交場に現れるのを待つしかない。〝勝手に皇女を見る〟と言う意味はそう言う事だった。
あっという間に取り残されたグレーテは唖然としたままだった。ジークも流石に兄の失礼な態度を取り繕う事も出来ず、呆然としてしまった。我に返ったのは皇女が先だった。
「・・・ねぇ・・・ジーク。彼の言っていた勝手に見るってどういうことなのかしら?」
「それは・・・分かりかねます・・・」
ジークはクラウスらしくない行動や言動に驚いていて考えがまとまらなかった。
「・・・教えてくれないでようけれどあの方は身なりや言葉使いからして貴族だと思うのよね・・・だから顔を隠したのでしょう?わたくしと会うかも知れないし・・・わたくしが社交場に顔を出せば貴族なら勝手に見ることは出来る・・・そう言うことなのかしら?」
「なるほど・・・しかし・・・グレーテ様はそういう場所は苦手でございましょう?」
「ええ・・・嫌いよ。でも・・・ロータルの作品の為なら行くわ・・・」
ロータルの作品の為と自分に言い訳をしたグレーテだが、彼のあの視線が忘れられなかった。仮面の影で瞳の色まで分からなかったが、その熱い眼差しに胸が高鳴った・・・それは初めての経験だった。そして嫌な社交界に出ても構わないと思うくらい熱に浮かされたようなもの・・・グレーテ自身、何が何だか分からない気持ちに突き動かされたのだ。
それからのグレーテは人が変わったように貴族が集まる場所には積極的に顔を出していた。そして何時も誰かを探しているように周りに視線を巡らしているようだった。正体不明のロータルを無意識に探しているのだ。しかしグレーテは相変わらず喪服のようなドレスを脱げずにいた・・・何度も色物のドレスを手にしたが気が進まなかった。
ロータルの絵に暗い配色は無い・・・生命力溢れた色使いだ。彼の為にも明るい色のドレスを・・・と思っても心の傷は深くどうしても着られなかった。喪服はグレーテにとって自分の身を守る盾のようなものだった。喪に服している皇女を誰もが遠巻きにしているからだ。他人に関わる事によって傷つくなら関わらない方が良いとグレーテは思っている。
クラウスはそんなグレーテを静かに観察していた。喪服を着た皇女は何処に居ても目立つ存在だ。クラウスには喪服が黒く見えなかった。逆に純白のドレスを身にまとっているような感じがしていた。自分の目がおかしくなったのかと何度も瞬きをして見たが印象は変わらなかった。貴婦人達の鮮やかなドレスの中で目立つ無彩色は純粋で、黒も白も変わらないのかもしれないとクラウスは思った。その場で描けないもどかしさ・・・その想いだけグレーテを目に焼き付けては帰宅してそれを紙に写した。
風景や静物を描くより手間がかかるが誰かの一挙一動を見守るのがこんなに楽しいとは思わなかった。グレーテの見た目の大人びた優美さと異なる可憐な仕草が特に目を惹いた。だからそんな場面を見るとクラウスは思わず吹き出してしまった。その日は丁度現れた親友のライナーにそれを見られ驚かれた。
「どうした?クラウス。お前がそんな風に笑うなんて珍しいな。何がそんなに面白かったんだ?」
「いや、何でもない」
「何もないのに笑うか?教えろよ」
まだ笑いを堪えている様子のクラウスを、ライナーが小突いた。
「ライナー、静かにしてくれ。お前は目立つから出来ればしばらく私に近付かないで貰いたいくらいだ」
「皇女にバレる心配か?顔は殆ど仮面で隠して見せて無いのだろう?用心深いな」
皇女の身辺警護を指示するライナーには色々と協力して貰う為に事情は話してあった。
「用心に越したことは無い。面倒事は嫌だからな・・・あっ、ほら、皇女がこっちを見ている。私は行くから後は適当に誤魔化してくれよ」
肩を竦めたライナーを置いてクラウスは、さっさとその場から去った。
グレーテは貴婦人達に取り巻かれていたライナーが、彼女達を丁寧に退けて行った先を何となく見ていた。クラウスが言うようにライナーは名家の出身で帝国一の剣士。しかも栄えある近衛兵の隊長。更に眉目秀麗となれば立っているだけでも注目してしまう存在だった。そのライナーの表情からすると向かった先の相手は親しい友人だろうとグレーテは思った。交友関係の広いライナーが誰と話しをしていても気になるものでは無かったが、グレーテはその相手が気になった。だから思わず視線を定めているとその男は立ち去ってしまった・・・グレーテは無意識にライナーに近寄っていた。
「ライナー、今の・・・」
グレーテはライナーと話していた人物が気になって尋ねようとしたが言葉が出なかった。以前、何気なく誰か?と尋ねただけで変な誤解を招き嫌な思いをした事を思い出したのだ。今もグレーテの言葉を周りの者達が何気ないふりをして、じっと聞き耳を立てている。
「何か?グレーテ皇女?」
「・・・いえ・・・何でも無いわ」
グレーテは誤魔化すように少し微笑みながらそう言うと去って行った。それからのグレーテは視線を感じればクラウスの姿を探した。今までも視線を感じては周りを窺ったが皆同じに見えて特定出来なかったが今はその先にクラウスを確認出来る。
(あっ・・・また居たわ)
グレーテは視線を感じると、扇子で自分の視線を隠しクラウスを見つけるのだ。まるで悪いことをしているみたいに胸が、ドキドキしていた。日増しにロータルが誰なのか?気になって仕方が無かった。と・・・言うよりも・・・自分が思っている人物がロータルだったら良いのに・・・と言う想いが強くなっていたのだ。
そんなある日、ロータルから連絡が来た。時間が取れたから皇子宮で最終的な下絵を描きたいとの事だった。グレーテは胸を弾ませて向かうと既にロータルは来ていて絵を描いていた。床いっぱいに散乱している素描は全部グレーテだった。どれもこれもグレーテが頑張って色々出席した社交の集まりの時のもの・・・髪型やドレスが正確に描かれていてどの日のものなのか分かるものだった。
「素晴らしいわ・・・」
グレーテは心からそう言った。しかし、ロータルは落胆したような大きな溜息をついた。
「これが?これが素晴らしいと言われますか?私には最低にしか思えません」
「そ、そんな事はございません!自分で言うのも恥ずかしいですが美しいと思います!」
「・・・本当の貴女が描けていない・・・うわべだけの薄っぺらなものだ・・・描きたいものが見つかったのに結局描けなければ見つからないのと同じだ・・・こんな筈では無かったのに・・・描けば描くだけ分からなくなってしまった・・・私が描けないのか?それとも貴女がまだ私に本当の姿を見せてくれていないのか?」
「ロータル・・・」
苦悶するロータルの前にグレーテは立ち尽くしてしまった。
「わたくし・・・わたくしは何を・・・何をすれば良いのですか?わたくしに出来る事は何でも致します!ロータル!貴方の為ならわたくしはどんな事でも致しますわ!」
グレーテは〝貴方の為なら〟と思わず言ってしまい頬を赤らめた。それは恋をする乙女の顔そのものだった。クラウスはその表情に惹き込まれるようにグレーテに近付いていた。その恥じらう頬に、そっと手を伸ばすとグレーテが、ピクリと肩を揺らし更に頬を染めた。クラウスは絵の為だと言い聞かせながら、皇女が驚く事を口にした。
「恐れながら・・・口づけさせて頂いても宜しいですか?」
クラウスは皇女の了解を待たず、驚くグレーテに唇を重ねた。グレーテにとって初めての口づけは驚くだけでどうして良いのか分からなかった・・・クラウスは強引に唇を重ねても口づけは優しく・・・初めての口付けはグレーテを夢心地にさせるには十分だった。クラウスが唇を解くとグレーテの金木犀色の瞳は潤み、唇は紅く頬は薔薇色に染まっていた。
立っていられないような状態のグレーテをクラウスは抱き上げ、カウチに横たわらせた。そして絵を描き始めたが・・・また惹き込まれるようにクラウスはグレーテを覗き込んだ。唇が口づけを誘うように少し開いていた。
クラウスの心では駄目だ!必要ない!と叫んでいるのに唇を近づけてしまう・・・しかしその時、正気に戻ったグレーテがクラウスの仮面に手をかけていた。
避ける間もなく仮面が取られ・・・