ジークリンデのお願い
そして翌日。すっかり早起きも出来るようになった皇子は早朝から元気良く公務に出かけた。逆にジークの方が昨晩の皇子の過剰な愛情行為に昼近くまで起き上がれない状態だった。鏡を覗けば気だるげだけど幸せそうな顔が映っていた。ジークは自分が本当に幸せだと感じたが、ふとグレーテの憂い顔が過った。
(グレーテ様にも幸せになって貰いたい)
ジークも初めて出来た同性の友人が大切だった。今までのような内向さだけなら心配しないが病的な感じとなれば心配になる。どうしたら良いのかもう一度考えようと皇女の部屋を訪れた。そしてグレーテが幼い頃から世話をしている侍女を呼んで話を聞いた。
「皇女は一言も私語は致しません。食事を運べばお食べになりますが少食です。定刻に湯浴みをなさってお休みになれます。その繰り返しです」
「日中は何かされていますか?読書だとか刺繍だとか?」
侍女は首を振った。
「いいえ。窓辺に座りぼんやり外を眺めておりますが、人の声が聞こえると窓の近くから離れて座って・・・あ、そう言えばお気に入りの絵を手元に持って来られ時々見ていらっしゃいます」
「絵がご趣味?」
「はい。幼い頃の話ですが絵に興味を持たれて熱心に習われました。しかし、その師であった画家が良い気になって皇女の権威を利用して色々としまして・・・皇女のせいではございませんが社交界では色々と・・・」
ジークは最後まで聞かなくても事情は分かった。今までこんな事情に疎かった彼女だが今ではそれなりに分かる。可哀想なグレーテは師と仰いでいた者に泥を塗られ裏切られたのだろう。
「でも、絵はまだ好きなのでしょう?」
「はい。好きになられたきっかけの画家のものは蒐集なさって鑑賞されております」
「蒐集?知らなかった」
「皇女しか入らない部屋に蒐集されているのです」
「皇女の宝物ですね。その存在は聞いていましたが、何かとは知りませんでした。それで誰の絵なのですか?」
「幻の天才画家ロータルです」
ジークはその名を聞いて目を見開いた。意外な場所でまさかその名を聞くとは思わなかったからだ。
「ロ、ロータルは・・・」
「そうです!皇子妃殿下もご存じでございますでしょう?その絵はまるで景色を抜き取ったように素晴らしく彗星の如く画壇に現れたものの年齢も性別も分からない謎の画家。誰もが大金を積んで欲しがりましたけれど、それこそ出回らない貴重なものですもの。皇女だとしても蒐集には苦労していました。自分が蒐集していると公になれば欲深いもの達から利用されるでしょうし、ご機嫌取りに貰っても嬉しく無いでしょうから、蒐集に私も及ばすながら随分協力致しました」
その話を聞いたジークはどうしたものかと迷ったがある人物に手紙を送った。内容は相談事があるのでクレール家に今夜来て欲しいとの事だった。ジークの実家クレール家に呼び出した人物とは?
「ジーク、どうした?改まって手紙をよこすなんて何か問題でもあったのか?」
「クラウス兄様、お忙しいのに申し訳ございません」
ジークが呼び出したのはクレール家の長男クラウスだった。クラウスは幼い頃から学問に秀でて今では皇城の財務機関で働いている。帝国の財政を動かす機関だけあって妖魔を駆逐する軍部と肩を並べる位、恐ろしく忙しい仕事だ。だから自由な時間はもちろん無く、帰宅さえ出来ない事も度々だった。そんなクラウスにジークは時間を作って貰うように手紙で願い出たのだ。受け取ったクラウスは初めてのジークの呼び出しに何事かと急ぎ帰宅したのだったが・・・
「その・・・」
何時もはっきりと言うジークが言い淀んでいた。しかし意を決した様子で真っ直ぐクラウスを見て重い口を開いた。
「兄様、グレーテ様に会って下さい」
「グレーテ?皇女に?何故?」
「それは・・・兄様がロータルだからです!」
ジークはきっぱりと言い放ちクラウスを見た。謎の幻の画家はクラウスだった。これは家族と親友のライナー、そして画商をしている叔父しか知らない事実だ。本当は画家になりたかったクラウスだったが、クレール家の長男としてそれを生業に出来なかった。あくまでも趣味の範囲で描いていたが意外に売れてしまい、本職に影響が出るとして正体を隠す事になったのだ。謎が謎を呼びその正体の話題はもちろん、滅多に出ない幻の絵は恐ろしい高値で取引され、更に人気に拍車がかかっている状態だ。
クラウスはジークの説明を聞いた。要するに皇女が引き籠り出て来ないので興味を持っている画家を登場させたいと言う具合だ。
売り出した絵が時々、誰か分からない人物に買い取られていたことにクラウスは納得した。それは全て皇女が購入していたのだ。しかし・・・
「事情は分かった・・・しかし私が行って仮に皇女が出て来たとする。しかしそれは一時しのぎにしかならない。根本的な解決にならないだろう?」
「でも、何か打ち込めるものが出来れば変わると思うのです!私がライナーの剣技を見て人生が一変したようにグレーテ様も変われると思います!だからお願いします!お兄様、私は只、会って欲しいだけではありません。描くところをお見せして欲しいのです!」
「私に絵画教室でも開けと言うのか?皇女の部屋で?」
「いいえ、それはお話したように皇女を悲しませた原因の一つなので逆効果になると思います。だから兄様には皇女の肖像画を描いて欲しいのです!」
クラウスは無言だった。ロータルは一度も人物画を描いた事が無かった。描けないのでは無く、描きたいと思う対象が無かったのだ。今までは好きな時、好きなものしか描かなかった。創作意欲を刺激された時に描くだけだ。だから・・・
クラウスは〝喪服の皇女〟と呼ばれるグレーテを思い浮かべた。社交場に顔を出さない彼女の姿を見かけるのは本当に稀で、しかも身分からすれば遠くから垣間見るだけで印象に残っていなかった。宮廷一、美しいと噂でもクラウスは興味が湧かなかったのだが・・・クレール家の兄達はジークに甘い。妹の初めてのお願いを無視するのは難しかった。今は皇子の活躍で妖魔が激減して皇城の機関全てが平常に平穏に稼働し始めている。クラウスは忙しい時でも描いていたが、時間のゆとりが出来れば思い存分絵を描けるところだったのだが・・・描きたいと思うものが無かった。描きたい気持ちはあるのに気持ちが乗らないのだ。最近、忙しかったせいだと自分で思っているが・・・
「兄様、如何ですか?」
無言のままの兄にジークは催促したが、クラウスの返事は貰えなかった。しかし断りも無い・・・脈はあるとジークは思った。
「グレーテ様の瞳の色をご覧になられた事がございますか?兄様の好きな金木犀のような色です。珍しいでしょう?」
「金木犀の瞳?」
クラウスはジークの表現に興味を引いた。橙黄色の瞳は確かに珍しい。しかしジークから好きな花の色と言われたのに皇女が好きだと言われたような変な気分になった。まともに見たことの無い皇女に何の気持ちも湧かないが、画家として間近でその珍しい瞳を見てみたいと純粋に思った。
「肖像画を描くのは約束出来ない。私は描きたいものしか描かないし、今は描きたいものが無い。それに皇女の承諾も無く描けないだろう?」
「では駄目なのですね・・・」
「・・・嫌・・・会うだけなら会おう。もちろん、ロータルとして・・・」
「兄様!」
ジークが珍しく声を高く上げ、そして満面の笑みを浮かべた。それを見られただけでもクラウスは満足した。
「ただし。私の正体は秘密にする事」
「秘密にと言っても・・・顔を合わせるのにどうやって・・・」
兄の無理な注文にジークは困惑した。それはどうにかするとしてもどうやって皇女に伝えるか?だった。侍女に取次を頼むのは避けたかった。情報通な彼女達にとってロータルの話題は美味しいに違いないからだ。それに交友関係の少ないジークがロータルを知っていると言うのも不自然でクラウスの正体が判明し易い懸念もあった。
「皇子に頼むしかないだろう?」
「皇子に?それは駄目です!お忙しい皇子に御足労かける訳には・・・」
ジークは忙しい皇子に迷惑をかけたく無かったが、クラウスが言うようにどう考えてもローラントに頼むのが一番だった。確実にグレーテに用件を伝えられて、クラウスの正体が判明し難いのだ。
クラウスはジークを説き伏せ、ローラントに協力を申し出る事を決めさせた。
その夜、内容を聞いたローラントは、ジークが思わず目を細めてしまいそうな眩しい笑みを浮かべた。
「クラウスがロータルだったとは驚きだったが、それよりも君が私を頼ってくれた事が一番嬉しいよ」
「お忙しいのに申し訳ございません。お手数をかけるつもりは無かったのですが・・・兄が皇子にお頼みする方が良いと申しましたので・・・」
頭を下げるジークにローラントは小さく溜息をついた。
「ほら、それだ。だいたい君は遠慮し過ぎなんだよ。私は何でもしてあげたいのに君は何でも一人でやってしまう。私の出番が無くて本当に情けないと思うよ。私は必要とされて無いようで・・・」
眩しかったローラントの顔が曇ってしまった。
「違います!必要が無いなんて!私は、私は・・・」
自分の気持ちを言うのが苦手なジークは言葉につまってしまった。ローラントを悲しませるつもりは無かったのに・・・
「分かっているよ、ジークリンデ。今は私が悪かった。相談してくれて嬉しかったのに、クラウスから言われたからだと思うと少し拗ねてしまって・・・私は君にもっと心もからだも、もっと甘えて欲しいんだよ。君が母上みたいに出来ないだろうけれどね」
(皇后様?心もからだも?甘える??)
ジークは皇子の後半の言葉の意味が分からず無表情になった。心とは今のような相談事をしろとの事だろうが・・・
(からだ?)
ジークは、あっと思いついた。ローラントの母は皇帝に、ベッタリで私的な場所ではそれこそ磁石で引っ付いているかのようだった。しかも先日、皇后は皇帝の膝の上で果物を食べさせていた場面に出くわした事もある。思えばローラントは呆れる様子は無く・・・
(羨ましそう?だった?かも・・・)
無表情だったジークが頬を少し赤らめた。
「皇子は・・・私が膝に乗るような行為をお望みなのですね。気付かず申し訳ございませんでした。今後、なるべくご希望に添えるように努力致します」
ローラントはその返答で愉快そうに笑い出した。
「相変わらずで全く退屈しないよ。ジークはそれが魅力だったのに、我儘言う私が全部悪かった。すまない、ジーク」
「いいえ!皇子は悪くございません!皇子が我儘言って下さらないと私が困ります!私は、私は・・・」
ローラントが微笑んだのでジークは言葉を呑んでしまった。そしてローラントに優しく引き寄せられると口づけが落ちて来た。
「ジークリンデ、私は・・・の続きは何?」
「私は・・・私は我儘を言って下さらないと私の方こそ必要無いのかと思ってしまうから・・・」
「ジークリンデ、それこそ思い悩む必要が無いものだ。君と出会わなければ私は只、息をするだけの空っぽな人生か、息さえするのも面倒だと思って冥の門をくぐっただろう」
「皇子!」
ジークは驚いて声を上げた。今までが夢であって幻のようなローラントが消えてしまうような気がしたのだ。真っ青になったジークをローラントは腕の中へ引き寄せた。
「ジークリンデ、愛している。君はずっと私の傍に居ないと駄目だ。そうしないと私は死んでしまう・・・覚悟して欲しい。これは私の譲れない我儘だから・・・」
微笑むローラントの視線をジークは受け止めた。甘い束縛はジークの恐怖を和らげ、胸元で緊張して折りたたんでいた腕が、自然とローラントの背中にまわり、皇子を抱きしめていた。
「離れません!ずっと共に居ります!何処までもご一緒です!」
「ジークリンデ・・・」
二人は一つに溶け合うかのように強く抱き合い口づけを交わしたのだった。