花の柩の巻 シェークスピア殺人事件の巻 秘宝島ツアーの冒険の巻
『花の柩(The Man who Read John Dickson Carr)』の巻
暮れなずむ夕闇に、中秋の満月が黒い山の上に浮かんでいる。
影絵の世界である。
マリアは、お祖父ちゃんの生まれた岡山県のW町の田舎に来ていた。
庭の鈴虫やコオロギの声が姦しい。
「アーア、美味しかった。あんなに腹いっぱい松茸を食べたのは初めてだよ」
一平が、虫の声を聞きながら言った。
「私は土瓶蒸しが好き」
マリアが好みを述べた。
「焼き松茸も贅沢だったわ」
ゆきちゃんも、ウットリした声で口を挟んだ。
三人は、涼しげな虫の声を聞きながら、名月を鑑賞していた。
「やっぱり田舎はいいな!」
美咲耕作警視が、開け放った座敷で、日本酒を一杯やりながら感想を述べた。
優子夫人がお相伴している。
「マリアのデビューの探偵譚って何ですか?」
一平は、いつの間にか美咲警視の横で日本酒を楽しんでいた。
「オレがマリアに頼んだんだ」
美咲警視が告白した。
「いわゆる、『杉本あや殺人事件』。兄貴の命名だけどね。それを兄貴が小説にしている!」
「ヘエー、そうなんだ」
「もちろん、登場人物も変えているし、マリアもでてこないよ。プライバシーのこともあるし、マリアを守るためにもね」
「でも、マリアちゃんの博識と類稀な推理力で事件を解決したのよ」
優子夫人が、マリアをやさしい目で見た。
「その事件のことを、もっと詳しく知りたいな」
一平が言った。
いつの間にか、みんな卓を囲んでいた。
美咲警視が、一冊の本を持ってきて、その部分を広げて、一平の方に差し出した。
“杉本あや殺人事件”とあった。
(このとき、一平は、この“杉本あや殺人事件”は、自分で書き脚色したのかもしれないと思ったものだった。マリアが、時どき高木清四郎のゴースト・ライターをやっていると言っていたからだ。)
「はじめに ※注、1
これからお話する物語は、実際二年前に起こった事件である。それを高木清四郎が小説にしたものだ。もちろん、いろいろ脚色し、名前とかも証人保護プログラムのように変えてある。第一、この事件の真の探偵はマリアであり、妃警部のブレーンになりアドバイザーとして協力したのである。しかし、プライバシー、マスコミの取材攻勢などが考慮されて、透明人間になったのである。
『杉本あや殺人事件
登場人物
杉本あや(28) ・・・主婦。
杉本正雄(39) ・・・大学助教授。
杉本鈴子(4) ・・・娘。
小宮良一(27) ・・・遊び人。あやの元彼。
中条由香(25) ・・・ホステス。正雄の浮気相手。
妃警部(30) ・・・この事件の担当警部。
石井刑事(26) ・・・妃警部の部下。
杉本あやが死体となって発見されたのは、七月十一日の午前十一時過ぎことだった。
この朝も温度計は三十度を超えており、この夏一番の暑さを記録しそうな一日だった。
場所は自宅の庭の南の外れにある温室の中で、死体の第一発見者は家政婦の香山鈴子であった。
鈴子は、寝室でねているはずのあやの姿が見当たらないので、不審に思いあちこち捜してみた結果、温室の中で変わり果てた女主人の姿と遭遇した次第である。
死亡推定時刻は、解剖の結果、七月十日の午後九時から十時の間とみられている。
死因は失血死で、ナイフで背中を一突き刺されたのが、致命傷になっていた。
凶器のナイフは、刃が細い鋭利なもので、死体の背中に直角に刺さっていた。このナイフが刃渡り二十センチの代物で、よく手入れされていた。
ナイフは柄の部分まで深く沈んでおり、シャネルのワンピースが血で真赤に染まっている。薄いピンクの布地と真赤な血の色のコントラストが毒々しい。
死体の発見された状況は、いわゆる推理小説でいう密室で、不可能犯罪の様相を呈していた。出入口は西側に一箇所あるだけで、それもちゃんと施錠されていたのである。電話の通報で駆けつけてきた警官は、ガラスを割って閂式の錠を開け、侵入したのだった。その上、日光を調整するための電動のブラインドが、ガラス全体を覆っていて目隠ししていたのだ。
ただ、死体の正面のガラスに、椅子を投げつけてできたと思われるひびができていて、ブラインドが少し捲れている箇所ができていた。それは縦が二十センチ、横が五センチ程の隙間だろうか。ここから家政婦の香山鈴子が無残な杉本あやの死体を見つけたのである。
ひび割れたガラスの傍には木製の椅子が転がっていて、何者かがガラスに向かって投げ
つけてできたものと想像できた。
ちなみに、凶器のナイフは温室で書きものをするときに使われる備えつけの机の引き出しに入っていたもので磨かれてピカピカに光っていた。
この事件は、最初単純なものだと思われたが、犯人の巧緻なトリックが散りばめられた絢爛たる殺人事件といっていいだろう。
たとえば、エラリー・クイーンが手にするような・・・。
「被害者の名前は、杉本あや。二十八歳。夫と四歳になる娘がひとりいます。正雄の両親はすでに他界していて三人暮し。あと香山鈴子という家政婦が通いでやって来ています。夫の正雄は、東都大学の助教授で、植物学者です。三十九歳と、あやとは年が十歳以上離れていますが、夫婦仲は良かったようです」
石井刑事が、杉本家へ向かう車の中で妃警部に報告した。
「容疑者は?」
妃警部が、後部座席の窓を流れる街並を見ながら訊いた。
日差しが強く、ものの輪郭がくっきり浮き上っている。
「まだ、捜査はそこまで進んでいません。状況から判断して物盗りの仕業とは思えませんし、さりとて怨恨としては動機が見つかっていません」
石井刑事は警視庁捜査一課の刑事で、妃警部の下で働き出して五年になる。あと半月で三十歳になるのにいまだ独身であるのを少し気にしているようだが、妃警部に言わせるとそれは贅沢な悩みで選り好みしすぎるから嫁が来てくれないのだということだ。確かに、石井刑事は、背が高くてハンサムでいい男なのだ。性格も、クソが付くほど真面目なので、結婚していない方がおかしいともいえるだろう。
「関係者のアリバイはどうなっている?」
「その日、七月十日ですが、正雄は友人の通夜に行っていて、午後五時から翌朝までその友人宅へいたようです。正雄は午前零時過ぎには、あてがわれた寝室にひきとって寝たそうですが、午後九時から十時まではちゃんと通夜の席へ着いていたという多くの証言があります。もっとも、四、五分はトイレなどへ行ったりして、席を外したこともあるそうですが、その友人の家は被害者の家から車で一時間の距離で、犯行は不可能です」
「正雄はその友人宅へ車で?」
「ええ、でも最初から一晩過ごすつもりだったようで、あやにも鈴子にもそう言い残して家を出ています。向こうでも勧められるまま酒を飲んだので、もう午後十一時には酔い潰れてしまっていたようです」
「酒は好きなのか?」
妃警部の目が一瞬だが光ったように感じられた。
「それほどでもないようですが、亡くなった友人というのが、高校、大学の同級生で親しくしていたので、遺された奥さんや子供達を見ていたら、耐えられなくなったと言っていました」
「その気持ち、わかる気がするな。まだ子供も小さいんだろう?」
妃警部も二人の子持ちで、子煩悩として有名なのである。
「ええ、その友人には小学校二年生と幼稚園に通う男の子がいるそうです」
石井刑事は黒い手帳を捲りながら報告した。
「香山鈴子はどうしていた?」
妃警部は話題を逸らすように云った。
「家政婦の香山鈴子は、夫に三年前に先立たれまして、三十五歳の未亡人です。子供はいないそうです。杉本家の近所のアパートに住んでいて、いつも通いでやって来ています。十一日の午前十時頃、あやは子供の奈々を鈴子に預けて出掛けていますが、午後三時頃帰って来ると、風邪をひいたようだといって寝室へ引き取る前に、子供を一晩預かってくれるように頼んだということです。鈴子は泊ろうかと言ったそうですが、子供に風邪が移ったらいけないからといって、子供も鈴子のアパートへ連れて行ってくれるよう頼んだそうです。鈴子は一人暮しなのでアリバイはありません。ただ、九時過ぎに子供が泣いて、アパートの住人が苦情を言うために鈴子の部屋へ押し掛けています。この時、鈴子は戸口まで出て対応しています。もっとも、その清風荘というアパートと杉本家とは歩いて五分程の距離ですから、全然アリバイにはなりませんが・・・」
石井刑事は上司を仰ぎ見た。
「子供をおんぶして殺人なんかにはいかないだろう。しかし、いくら風邪が移ったら困るからといって、子供まで預けるのはおかしいな。鈴子に泊まってもらうのが普通だろう。部屋は他にないのかな?」
「いいえ、数十はあると思われる大きな屋敷です。風邪を子供に移すのが嫌なら、離れた部屋に寝てもらえばいいはずです」
「ますます、怪しい。それも夫が留守にしている晩だ。一人じゃ心細いだろう」
妃警部は煙草に火を点けたが、妻の前で禁煙を誓ったことを思い出して、車の灰皿で慌てて揉み消した。
「だから鈴子もあの晩、杉本あやが誰かに密かに会う予定だったのではないかと疑っていた節があります。もっとも、鈴子はあや想いなので決して一言もそんなことは言いませんでしたが・・・。あやのことを本当の妹のように思っていたようで、あやも鈴子を姉のように慕っていたと近所の主婦連の噂です」
「その誰かというのは、男か? おしゃべり雀達は、あやが浮気をしていたといっていたのか?」
「そこまでは。いま所轄署の連中がそちらの方を当たっています」
石井刑事は襟元の汗を拭った。
車内は冷房が利いているにもかかわらず、汗ばんでくる熱気だった。
「ただ、鈴子の話では、あやは外出から帰って来ると、思い詰めた様子ですぐ寝室へ閉じ籠ったそうです」
「それが午後三時半頃のことなんだね」
「午後三時半ちょうどだそうです。鈴子は、その時、居間の柱時計を見ています」
「正雄と鈴子が浮気をしていたという線はないのか?」
「警部は鈴子が未亡人という言葉から想像を逞しくしていらっしゃるようですが、本人に会ってみれば自分が間違っていることに気づきますよ。世間一般の人が思い浮かべるような、色白で細面の嫋やかな女性ではありません。そのまったく正反対です」
“なんだ‼ そうなのか”と、妃警部はガッカリしたが、次の瞬間には、“いかん、その考えは差別で、女性に失礼だぞ”と自分を窘めた。
妃警部は女性に対してもフェミニストなのである。
石井刑事は、そんな上司の表情から感情の移り変わりを読み取って、微笑んだ。このように石井刑事は人の心の機微を感じとれるやさしさを持っているのである。
もっとも、女性の心を推察するのは苦手で、いまだに結婚できずにいるのだが・・・。
「生きている杉本あやに最後に会ったのは誰だい?」
「それは、香山鈴子です。あやは外出から帰ってくるとすぐに寝室に閉じ籠もったきりで、その後は顔を見ていません」
石井刑事が黒い手帳を見ながら云った。
「食事の時にも顔を現わさなかったのか?」
「食事は自分が作るからいいと断ったそうです。鈴子は午後五時に娘の奈々と清風荘へ帰っています」
「その時のあやの様子は?」
妃警部がガリガリ掻きながら訊いた。
「何か思い悩んでいたような様子だったそうです。顔色があまりに悪かったので、鈴子も心配して医者を呼ぼうかと声を掛けたそうですが、寝ていれば大丈夫だからいいと云ったそうです」
「本当に身体の調子が悪かったのかな? それとも、その誰かに会うために、緊張していたのか?」
「たぶん、会いたくない人間に、密会を強要されたんですよ。もしかしたら、脅迫されていたのかもしれません。だから、気分もすぐれなかったし、香山鈴子を遠ざけておく必要もあったのでないでしょうか?」
「なるほど。理屈は通っているな」
妃警部は自分に言い訊かせるように云った。
「すると、あやは昨夜会った誰かに殺されたというわけか? 鈴子や正雄には、あやの密会の相手というのに心当たりがないのか?」
「全然。あやが浮気していたにしろ。していないにしろ、会っていた人間がいたことは確かでよほどうまく隠していたに違いありません」
「あやの最近の様子はどうだったんだ? 塞ぎ込んでいたとか、そういった兆候はなかったのか?」
「まさに、そのとおりです。前は明朗活発で、よく笑う女性だったそうですが、ここのところ無口になり、物想いに沈んでいることが多くなったそうです」
「理由はわからないのか?」
「夫の正雄も鈴子も心配して、何回も訊き出そうとしたそうですが、ちょっと健康状態が心配だと云っていたそうです」
「本当に、体が悪かったのか?」
「そのような疑いはないようです。掛りつけの大学病院で、ここのところ何回か人間ドックに入ったりして精密検査を受けていますが、健康だということが判明しています」
「しかし、何回も精密検査を受けているところを見ると、身体を心配しているのは確かだね」
妃警部は石井刑事の方をチラッと盗み見た。
「でも、この前流産したようです」
「流産?」
「どうも、クラミジアにかかってようですよ。病院の精密検査では、性病までは調べなかったようです」
「クラミジアにかかると流産の可能性が大きくなるというからな」
「夫とか、そのことは?」
「全然。鈴子さえ知らなかったようです。しかし、誰かに脅迫されていたようなんです」
「あやには電話がよく掛かってきていたそうです。様子からして、けっして楽しい電話ではなかったようです」
石井刑事は散髪したばかりの短い髪の生え際の汗を拭った。
「それに、あやは一週間ほど前に親しい友人に自分は殺されるかもしれないと漏らしていたらしいのです。その友人が、テレビのニュースであやの殺されたのを知って、警察に届けて来たのです」
「その友人は、あやが、誰に殺されるか、相手の名前はきいていないのか?」
「いいえ。その友人は冗談だと思って本気にしなかったらしく、こんなことになるなら真面目に相談に乗っていてあげればよかったと、悔いていました」
「あやは、そんな冗談をよく言っていたのか?」
「いいえ。いたって真面目な性格で、そんなことを軽々しく口にするような女性ではなかったようです。しかし、その話がテレビのサスペンス劇場を話題にしていた時に出たのと、その話の切り出し方が冗談めかしていたので、その友人は聞き流したようです」
「あやは、本気で心の中を打ち明けたかったのかもしれないな」
妃警部が、信号待ちで隣に停まっている車に目を遣って云った。
乗っている人間は影になっていてわからなかったが、シルバーのボディに太陽の光が反射して眩しい。
「誰かに自分の悩みを訊いて欲しくてたまらなかったんじゃないかな」
「それが、思わず心の発露になったというわけですか?」
石井刑事が締め括った。
「携帯を調べる必要がありますね」
「大きなお屋敷ですね」
石井刑事は殺人現場の温室で溜息を吐いた。いまにも涎が垂れそうである。
「金はあるところには、あるんだよ」
妃警部は人型に白いテープが張られている地面を丹念に観察しながら言った。
もちろん、死体はすでに運び出されている。
杉本家は都心から少し外れた住宅街にあったが、誰もが羨む宏大な邸だった。
邸のまわりを、ぐるりとレンガの塀が取り囲み、楠の木立などが近所の目を遮っている。
鉄製の門扉を抜けると奇麗に手入された植え込みと、夏の花が咲きみだれ花壇がところどころに配置されて、目を楽しませてくれている。
しかし、連日の猛暑のためか、向日葵の一群も元気がなく萎れ気味であった。
問題の温室は、三階建ての屋敷の南側の芝生の上にあった。この西洋館は明治時代に、杉本正雄の祖父が建てたもので、温室も同時期に造られたそうである。
南側一面の芝生もきれいに刈り込まれて手入れされており、杉本正雄の几帳面な性格が忍ばれるようだった。
温室の横には、芝刈り機が一台所在なげに置かれていた。
「杉本正雄というのは、いかにも真面目そうな男だな。思ったより大柄で背が高かったので、少し想像していたのと違っていたよ。香山鈴子の方は、きみの話した通りだったけどね」
妃警部は、さきほど会ったこの屋敷の主人の顔を思い浮かべていた。杉本正雄は、黒い鼈甲縁の眼鏡を掛けて学者然とした男だった。しかし、身体つきは筋肉質で、スポーツマンタイプなのが、知的な顔とアンバランスな魅力を讃えている。
一方葬儀の指示をしていた香山鈴子は、浅黒い顔をした小太りの女だった。これでは、仮に鈴子が自分の雇い主に惚れていたとしても正雄が相手にしないだろう。
「しかし、警部も大変ですね。担当していた事件が解決されるやいなや、すぐこの事件に廻されるなんて! でも、警部でなくては、こんなひねくれた事件は解決できませんよ」
石井刑事が、広い温室を見渡しながら言った。その声には、思いやりの響きがあった。
「性格がひねくれているから、こういう事件は得意なんだよ。事件の方から、俺を追ってくるというほうが正しいかもしれないけどね」
妃警部は、中肉中背の風采のあがらない男で、腕力や体力にはからっきし自信がなくて、凶悪な暴力的な事件にはお呼びでないけど、探偵小説もどきの複雑な事件を解決するのには特異な能力を発揮するのである。それが、妃警部が重宝がられている所以だった。
本人も探偵小説が大好きで、そういった不可能犯罪には人一倍興味を持っているのだから、適材適所といえるだろう。
しかし、そういった人間は希少であるから大忙がしなのだった。今回も、この一週間掛かり切っていた事件の犯人に引導を渡すと、この家に飛んできたのである。
「杉本家の親族関係で、怪しい人物はいないのか?」
「全然、容疑者のリストに挙がって来ていません。まず、あやの家族ですが、両親と兄が一人いて京都に一緒に住んでいます。その兄が家の和菓子屋を継いで、なかなか繁盛しています。この両親も兄もあやをこよなく愛しているということですし、事件当夜のアリバイもあります」
石井刑事は、額の汗を手の甲で拭きながら言った。
今日も、青い空には太陽がギラギラ輝いて、温度計の針をグングン上昇させていた。
この温室の中も、まるで蒸し風呂の中のように暑かった。
「正雄の両親はすでに他界していますが、姉が二人おり、どちらも結婚しています。あやとの仲もうまくいっていたようです。二人とも他県に嫁いでいるので、めったに顔を合わせる機会がないので、当然ともいえるかもしれませんが・・・。アリバイの方は、こちらも完璧です」
温室は木の枠の骨格にガラスを嵌めて出来た長方形の本体の上に三角形の屋根が載っているという一般的な構造になっていた。学校などでよく見掛ける温室である。
大きさは、縦二十メートル、横三十メートル、高さは最頂部が三メートルもあるだろうか。
ただ、空調設備や電動のブラインドが完備されており、温度や日照時間を調整できるようになっている。古風な外観に、最新式の内装を持っているのである。
内部は七つの部屋に分かれていて、種々の花や草が生育していて、部屋によって異なった気候を現出できるようになっている。
出入口は西側に一つあるだけで、ドアは一面木製で、その部分だけガラス張りではなかった。戸の部分だけ木製の目隠しになっているのである。
このドアは部屋の中へ押し開ける蝶番式の扉になっていて、事件の時は内側からしっかりと閂式の鍵が掛かっていたのだった。
これは、金属の棒を横へスライドさせて、受け金に入れる鍵で、錆びていて強く力をかけないとビクとも動かなかった。構造そのものは、単純なものなのである。
正雄もこの古い鍵には苦労していて近々取り替える予定だったそうである。
警察が厳重に調査した結果、木製のドアは隙間もなくピッタリ閉まるようになっていたし、ガラスと木の桟の間も接着材で埋められていた。
死体が発見された部屋は、出入口からすぐの部屋で、二十畳ぐらいの広さがあった。
いま石井刑事と妃警部がいるのもこの部屋である。
この部屋は温室というより正雄の研究室で、書き物机、椅子、本棚、テーブル、藤椅子などが置かれている。
書き物机の上には、電気スタンド、ワープロ、写真立てなどが見えた。
テーブルの上には、白い七宝焼きの花瓶がひとつあり、白い小さな花を付けた枝が数本生けてあった。
「彼女が、杉本あやか? 美人だな」
妃警部が、書き物机の上の写真立てを手にして感想を述べた。
「ええ、被害者です。まだ、二十歳ぐらいにしか見えないでしょう」
その写真には、この家を背景にして、細面でやさしい顔立ちの女性が写っていた。ピンクのスーツが可愛らしい。どうも着ているものから判断すると、ピンク系統の淡い色が好きのようである。肩までかかる黒髪がきれいで、背は女性にしては高いようである。それは、この部屋の地面に描かれている人型から推理したのであるが、まず間違いはないだろう。
「そちらのドアは、別の部屋へ通じているんだな?」
妃警部は写真立てを机に戻すと、東側の二つのガラスのドアを目で示した。
「ええ、隣へ行くドアです。出口じゃありません。出入口は、ぼく達がさっき入って来た西のドアだけです」
「犯人は、他の部屋から外へ出た形跡はないんだな?」
「はい。ガラスが割られているところもなければ、細工した痕もありません」
二人は残りの六つの部屋を巡って捜査し直したが、石井刑事の話が確認されただけだった。
「どうやって犯人はこの部屋から脱出したんだろうね?」
妃警部は、最初の部屋へ戻って来ると、周りを見回して溜息を吐いた。
「密室の謎を解くことが、一番の課題でしょうね。何かとんでもないトリックがあるんですよ。想像もできませんが・・・。もしかしたら、あのひびがそのトリックに関係しているのかもしれません」
石井刑事は、北側の十センチぐらいのヒビを指さした。傷は右上から左下へついており、地上から六十センチ程の高さ、西の角から二メートル程の距離にあった。
「他と変わっていることは、これぐらいだからな。しかし、被害者がガラスを割ろうと椅子を投げたような状況にみえるけどね。もしくは、犯人に向かって。それに、ブラインドが下りていたんだろう」
テープの頭はそちらを向いていたし、ガラスのヒビに向かって手を伸ばした格好で俯せに倒れていたという。
指先から、ガラスのヒビまでの距離は約三メートルということだった。
「しかし、そこだけブラインドはあのように捲れていましたよ。香山鈴子はそこから中を覗いて、あやを発見したんです」
石井刑事は部屋の北東の隅に行き、天井から垂れ下がっている輪状の紐を操作した。すると、スルスルとブラインドが上がって来た。
「警部には釈迦に説法かもしれませんが、犯人の擬装の可能性だってありますよ。それにブラインドといったって、会社にもよくあるやつで、薄い鉄板を重ねただけのものですから、隙間からだと何でもできますよ。電動でも開閉できます」
「この花壇には月下美人を植えるつもりなんだな」
妃警部は、この部屋の北東の位置にあるレンガ囲いの場所を指さした。
そこは黒い土が入っているだけで、右端に色っぽい名前の葉なの苗が六、七個並べられていた。この苗たちは根元を土が入ったビニール袋に突っ込まれ輪ゴムで止められていた。
「その木が月下美人というんですか? あやが植えることをせがむので正雄が手に入れて来たと云ってました。それはあやが自ら植えるつもりだったようです。夫だけじゃなく、あやも園芸をやるそうですよ」
「この月下美人は、夏の夜に一晩だけ、四時間ぐらいしか花を咲かさないんだ。この短命な花をトリックに使った推理小説もあるよ。知っているかい?」
妃警部は雑学に関する豊富な知識を披歴した。
「おや、こちらには食虫植物を生育しているんだな」
花壇の横には、細長い机が置いてあり、その上にウツボカヅラ、モウセンゴケ、ハエトリグサなどの鉢が並べてあった。
「このハエトリグサは何かを掴んでいるけど、どうも蠅より大きいようだぞ」
そこは、ちょうど死体があったところのすぐ横に当たっていた。
妃警部は、机の上に用意しているピンセットで、ハエトリグサの閉じている「手」をこじ開けると、器用に中を取り出した。
それを、ハンカチの上に載せて目を近づけて観察する。
「これは真珠だな。真中の穴が通っているから真珠のネックレスのうちの一粒だろう。それに血が付いている。この“手”が獲物を放さないのは、たんぱく質が付いているからだ。表面の値が消化されるまで開かないはずだ」
「すごいですよ! 警部。確かに、あやは午前十時頃外出したんですが、そのとき真珠のネックレスをしていたといいますからね。もちろん、帰った時もしていたそうです。きっと犯人がここで凶行に及んだ時、ちぎれて飛び散ったのでしょう。後の全部は回収したけれど、犯人もハエトリグサが捕獲した一個は見逃してしまったというわけです。真珠を持ち帰ったのは金のためです。売ればいい金になりますからね。もちろん密室とかの状況からみても物盗りの犯行とは考えられませんから、行きがけの駄賃でしょう」
石井刑事は一気に自分の推理を述べた。
「いい線、いっているかもしれないな。ところで、あっちのテーブルのバーベナは誰が生けたんだい?」
妃警部も腹に一物あるようで、話題を変えた。
「バーベナっていうんですか? あれは、あやが近所の花屋に注文して取り寄せたそうです。鈴子がそう云っていました。普段は、そのような雑事はすべて鈴子に任せていたのに、今回はどうしたんだろうと首を傾げていましたよ」
「バーベナは、別名“美女桜”っていうんだ。いまじゃ、季節に関係なく、オールシーズンの花が店頭に並んでいるから、どんな花でも買うことができるようになったね」
「それより、花を自ら生けたり、ブラインドを下ろしたりしているところをみると、最初からあやは、ここで誰かに会うつもりだったとみた方がいいですね。しかも、人目を忍ぶ逢い引きだと・・・」
「被害者が死んでいた状態はどうだった?」
「かなり抵抗したらしくて、服の背中などに土が一杯ついていました。ほら、あの花壇にも転んだ痕がついているでしょう」
石井刑事は、先程の花壇を指さした。
そこにはまさに月下美人を植えるつもりだったらしく、二、三の中型の木の苗がビニール袋から取り出されて倒れていた。
また花壇からも土が零れて落ちていた。
「なるほど、確かに争った跡があるね」
妃警部は、下段の土の上に落ちているビニール袋をひとつ手に取った。それは裏返しになって、外が土で汚れていた。
「ここに二種類の足跡が残っているようだけど、誰のものか判明しているのかい?」
「ひとつは、ハイヒールの跡で、被害者の靴と一致しています。もうひとつは、男ものの靴跡で、誰のものか不明です」
「判定はできないけれど犯人のものである可能性は大きいな」
「もし、この事件が通り魔的な犯罪じゃなく、顔見知りの犯行なら、犯人の逮捕も間近でしょう」
「正雄の靴の跡じゃないのか?」
妃警部が確認した。
「いえ、ちがいます。本人も否定していますし、正雄の持っているどの靴とも照合しません。この靴跡の方が、正雄のものより一サイズ小さいのです」
「靴で点数を稼ぐより仕方ないのか」
「しかし、犯人が靴跡を遺したのは致命的な失敗でしたね。よほど、慌てていたんでしょう」
石井刑事は、土の上の入り乱れた二つの足跡を見ながら云った。
妃警部が自宅で遅い晩飯を食べ寛いでいる所へ石井刑事がやって来た。妃警部が呼んだのである。
妃警部の家は下町にあり、小さいながらも庭つきの一戸建ての家だった。
先祖代々とこの土地に住む、生粋の江戸っ子なのである。
両親とは結婚して以来同居しているが、今その両親は旅行に出掛けていて留守だった。妃警部の父も警察官だったが、この三月で定年退職したので、慰労の意味も込めて、九州へ旅行に出したのである。
最初、海外旅行も考えていたのであるが、父親が飛行機に乗るのは死んでも嫌だというので、諦めてゆっくり鄙びた温泉へでもつかりに行こうということに急遽落ち着いたのだった。
「石井さん、いらっしゃい!」
いずみ夫人が、ビールと肴を載せた盆を持って応接間に入って来た。
「アッ、どうも、お邪魔しています」
いずみ夫人は妃警部の大学の後輩で、その妃警部が拝み倒して結婚してもらったと言われるだけあって、美人で気立てがよかった。
襖の陰からは、長男の伸と、その妹の和美の小さな顔が覗いていた。興味津々で気になって仕方がないが、はにかんでいるのである。
石井刑事が手を振ると、さっと襖の陰に顔が引っ込む。
そして、またそろそろと顔が覗いて来るのである。
「伸ちゃん、和美ちゃん、お父さん達はお仕事のお話があるので、お邪魔しちゃ駄目よ。
向こうへ行って遊びましょうね」
いずみ夫人は座卓へビールと酒の肴を並べると、「いいよ」「遊びましょ」と言いつつまだ未練たっぷりの子供達を急がせて寝室の方へ連れて行った。
「いい奥さんですね。警部が羨ましいですよ。ぼくも奥さんみたいな魅力的な女性を妻にしなくっちゃ」
石井刑事は注がれたビールを一口飲んで言った。
「シーッ、そんなお世辞をあいつが聞いたら頭に乗ってしまう。この前、きみがあいつの料理を褒めたもんだから、俺がいま何を食べさされていると思う。名前も知らない料理のオンパレードだ。不味いのか旨いのかもわかりゃしない」
妃警部は襖の向こうを伺うように手で制して小声で言った。
「ところで警部、今回はあっさり犯人が捕まってしまいましたね。拍子抜けけがしたんじゃありませんか」
石井刑事が真顔に返って云った。
「あのハエトリグサの真珠が、犯人逮捕の決め手になったんですから、警部のお手柄には違いありませんが・・・。もっとも足跡という動かしがたい証拠もあるにはありましたが」
「犯人が早く捕まるに越したことはないさ。趣味の問題じゃない」
あの後、杉本あやが付けていた日記や手帳から、小宮良一という二十八歳の容疑者が浮かび上がり、良一のアパートを家宅捜査した結果、温室に足跡を残した運動靴と血のついたバラバラのネックレスを押収したのである。
運動靴は下駄箱の奥に隠していたそうで、真珠のネックレスは押し入れの中から発見されたということだった。
問題のあやの日記は、あやの部屋の鍵の掛かる机の引き出しの中に密やかに隠されていたそうである。それによると、良一はあやの大学時代の恋人で、その時ヌード写真やセックスの写真を撮られていたらしい。
しかし、二人の関係も一年程で終わってしまった。良一の浮気が原因だった。
良一の方は、あやにたっぷり未練があり、かなりしつこく別離を拒んだらしいが、潔癖なあやはけっして許さなかったのである。
大学を出てから、あやは親に奨められるまま結婚して奈々という可愛い娘を儲けて幸せな日々を送っていた。
そのあやの目の前に、再び現われたのが良一だった。良一は自堕落な生活を送っていて、すっかり変わっていた。
そして、昔の猥褻な写真をネタにあやを脅し、再び肉体関係を持ってしまったのである。あやはその時までそんな脅迫の種になる写真が存在していることさえ知らなかったらしい。その心の動揺に付け入られたといってもいいだろう。
一旦、肉体を許してしまうと女は弱いもので、ズルズルとその関係は続き、最近では金品までも要求されていたのである。
警察では、その話が拗れて良一があやを殺めたものとみていた。この二年間ほど毎月三十万円ずつ良一の銀行口座に振り込まれていたことも突き止めていた。
「たぶん小宮良一はあやの脅迫の金額を釣り上げようとしたんですよ。それを、あやが拒否したもんだから、良一はカッとなってあやを殺してしまった。もしかしたら、あやはこれ以上付き纏うつもりなら警察へ行くと云ったのかもしれません。人間追い詰められたら、窮鼠猫を噛むの例えのとおり、思い切った行動に出ることがあります」
「報告書で読んだが、小宮良一はあやに連絡するとき、自分のスマホからではなく、公衆電話を使ってあやの自宅の固定電話に電話したというんだろう? 鈴子や正雄が出ると無言で電話を切った。そんな用心深い男が、自宅のアパートに証拠になる運動靴や真珠のネックレスを置いておくものかな?」
妃警部は、まるで他人事のような口調で訊いた。
「どんなに頭のいい人間も、必ずへまをやらかすものですよ」
「それに、小宮はまだ犯行を否認しているんだろう?」
妃警部は、小宮良一が逮捕されてからは警視庁の一部屋を、植物の研究所のようにしてしまった。花や草の本を高く積み上げ、植物の勉強に没頭していたのである。
妃警部は、植物図鑑を覗き込みながら、いつか言ったことがある。
「この花々の証拠は、まるで推理小説やミステリー映画に登場するような、魅惑的な証拠だから、余程吟味し熟慮しなければならない。これが、この事件の、キー・ワードになると思う」
そう、妃警部のいうように、これらの花々には大いなる謎が隠されていたのである。
そして、妃警部は、その過労がたたって夏風邪でダウンして寝込んでしまった。今日、石井刑事が角のお菓子屋で買ったケーキを下げて、妃警部の家を訪問したのも、見舞いを兼ねているのである。先程、子供達の関心を引いたものは、石井刑事もさることながら、そのお土産が一番だったのかもしれなかった。だから、妃警部は、それ以後の小宮良一の動静や事件の進展に関してはあまり聞かされていないのである。
「しかし、それも時間の問題ですよ。奴さんは必ず白状します。なんてたって、あの問題の運動靴と血染めの真珠のネックレスという決定的な証拠があるんですからね。あのような物的証拠を目の前に突き付けられたら、言い逃れはできませんよ」
石井刑事は寝巻き姿の妃警部をまぶしそうに見た。
「それについて、小宮はどう釈明しているんだ?」
「杉本あやの家の温室に入ったこともなければ、真珠のネックレスも知らないと主張しています。誰かが自分に罪を被せようとして、そんな細工をしたんだと言い張っています」
「犯行時刻の行動は?」
「アパートで寝ていたの一点張りです。しかし、その時刻にアパートの住人で小宮を見掛けた者はいません。もっとも、晝間から酒を飲んで、部屋に籠っていることが多かったそうですから、一概に嘘だとは断定できませんが・・・」
「確かに、小宮の部屋には何本か酒壜が転がっていたね」
妃警部は、小宮のアパートを訪問した時のことを思い出していた。
そのアパートは居酒屋が並ぶ繁華街の近くにあり、二階建てのこじんまりしたアパートだった。杉本家から南西へ車で約二十分の距離である。
小宮良一の部屋は二階の一番東端にあり、外からの階段で直接訪問できるようになっている。
入居している人達の大半は、夫婦共働きなのか、妃警部達が訪れた時にも、人影は見当たらなかった。
「ただ、部屋の明かりが一晩中ついていたのを、徹夜して受験勉強をしていた高校生が確認しています。しかし、この受験生の家はアパートの階段がある側とは反対側にありますので、たとえ小宮が外出したとしても目撃することはできません」
石井刑事が、キュウリのスライスを食べながら云った。
「本人は酒に酔っぱらって、明かりを消し忘れたと云っています。どうやら、その日は昼前から酒を飲んでいて、いつの間にか眠ってしまい、目が醒めたら翌日の午前十時だったそうです。二日酔いで頭がガンガンしたので、その日も一日中部屋にいたということです」
「小宮は相当すさんだ生活を送っていたようだな」
「大学を出てからも、あやのことが忘れられなくて、せっかく就職した会社もそのうち辞めてしまい、その後はヒモのような生活をしていたようです。現在は独り暮らしですが、昼間はパチンコ店に入り浸たっていたといいます。結構な身分ですね」
妃警部は、もし犯人が別にいるとしたら一体誰が運動靴を持ち出したり、真珠のネックレスを持ち込めたりしたかを頭に画いているかもしれなかった。
「鍵は本人しか持っていないとは云っています。しかし、女出入りが多かったですから、彼女等だったら合鍵を作れたはずです」
「あやが合鍵を持っていたとは考えられないかい? そして、それが誰かの手に渡った」「あやにご執心だった小宮のことを考えれば、そういう可能性もなきにしもあらずですが、小宮は渡していないと云っています」
「本人が否定しているんなら仕方がないな」
「警部は別に真犯人がいると思っていらっしゃるんですか?」
石井刑事は、妃警部のペースの乗せられている自分に気づいて訊いてみた。
「それはどうかな。小宮良一が犯人だとすると不審な点がいろいろあるのも確かだ。しかし、たとえ他の誰かが犯人だとしてもわからないことがある。それがずっと俺の頭を悩ませているんだ」
「密室の問題ですね?」
石井刑事がすぐさま訊いた。自分も頭を痛めていたのだろう。
「そう、あの花の密室だ。あれが、どうもわからない」
「しかし、どんなトリックを使ったにしても、人間が考え出したことですから、必ず解けますよ。ぼくが、あの密室を外から開けてみせます」
「俺が云っているのは、どうやって犯人があの密室から抜け出たかじゃないんだ。そんな方法論じゃないんだ。どうして犯人はあの温室を密室にする必要があったかということなんだ。杉本あやは背中にナイフが刺さっているんだから、他殺だということはハッキリしている。それをわざわざ密室にしたからって犯人の得になることはない」
妃警部は、ビールを一気に呷った。そのあとで、枝豆を摘む。
「それに、犯人は人を殺して、一刻も早く現場から立ち去りたいはずだ。それをぐずぐずして温室に鍵を掛けている。人間の心理に合わないよ。まして、きみがいうように、小宮良一がはずみで杉本あやを殺したのなら、なおさらだ。たとえ、真珠を拾うにしても、一目散に逃げ出してしまうだろう」
「なるほど、現場を密室にした理由と犯行後の犯人の心理ですか? 確かにおっしゃるとおりですね」
石井刑事も黙ってしまった。
「杉本あやが逢い引きの場所にあの温室を選んだのはわからないでもない。静かで誰の邪魔も入らないところだからね。もっとも、あの晩、あの屋敷には人は誰もいなかったけど。それはいいだろう。しかし、小宮良一が犯行を否認している以上、密室に対する物理的、心理的に謎を解き明かさないかぎり、真に彼を犯人として追い詰めることはできないと思う」
石井刑事は、このあと暫く妃警部と話をして帰って行った。
やはりこの事件の鍵は、物理的、心理的な密室の謎だった。議論もそこで、すべて行き詰まるのである。その鍵で、この密室を開けることができたら、この事件も解決できるのにちがいなかった。
「小宮良一の他には容疑者は浮んできていないのかい?」
妃警部は石井刑事に訊いた。事件の空白を埋めようとでもするようだった。まだ少し熱っぽいのか顔が赤い。
警視庁の近所の喫茶店での話である。
「もうひとり、中条由香という女が容疑者のリストに挙がるにはあがったんですが、アリバイがあったので断ち切れになってしまいました。それに小宮良一という本命が現われましたから」
「そちらに目が移ったというわけか? 中条由香というのは、どういう女なんだ?」
「正雄の浮気相手で、銀座のホステスです。正雄はたんなる遊び相手だと思っていたようですが、由香の方は結婚を迫っていたそうです。二十五、六の派手な感じの美人ですよ」
「あんな真面目そうな顔をして、正雄もお盛んなんだな。それで、その中条由香にはアリバイがあったというんだね?」
「ええ、熱海の旅館にいたことが確認されています」
「由香には誰か連れがいたのか?」
妃警部が部屋の中を見回して云った。
隅の方で、年配のカップルがお喋りしていただけで他には誰もいなかった。
「どうも常連のお客様と一緒に旅行していたようです」
「その連れの男性というのは信用できるのか?」
「東西電器の営業部の部長だそうですが由香に対して殺人の共犯になるほどの義理も愛情もないようです」
「その男とずっと一緒だったんだな?」
「はい、十分や二十分は一人でいたときもあったでしょうが、ずっと一緒だったようです。それに、七月十日の午後九時二十分頃、ケイタイが電源OFFになっていたので、クラブのママが旅館の由香の部屋に電話を掛けています。用事は二、三分で済んだそうですが、ちゃんと由香が出たと言っています」
「旅館の従業員は、中条由香の姿を確認しているのか?」
妃警部の目がキラリと光った気がした。
「午後六時に二人で部屋に引き籠ってから、翌朝十時にチェックアウトするまで、由香の姿を見た者はいません」
「食事にも出て来なかったのか?」
「夕飯は部屋へ持って来させて取ったらしいのですが、女中が食事を運んで行った時には、由香はその和室に備えつけの風呂に入っていたようで、会っていません。しかし、シャワーの音はしていたそうです」
「男がすべて応対したというわけか、怪しいといえば怪しいな」
「確かに三時間もあれば、熱海から杉本家まで犯行が可能の距離です。それに由香は車の免許も持っていますしね。しかし、電話の件がありますよ。由香は午後九時二十分にクラブのママからの旅館の電話に出ています」
石井刑事は病み上がりの妃警部の顔に目をやった。少し窶れが目立つようにも見えた。
「電話か!」
妃警部はそう言ったきり黙り込んでしまった。
「中条由香に何か不審な点がありますか?」
「いや、ちょっとね」
「確かに、最近あやを脅かせていた無言電話は由香の仕業かもしれません。しかし、果して由香は正雄のことを愛していたのでしょうか? ぼくにはそうは思えないのですが」
「そうかもしれないな」
妃警部は、言葉を濁した。
「あやは七月十日の午前十時に家を出ているけど、どこへ行ったかわかっているのかい?」
「鈴子には、デパートにショッピングに行くと云って出ています。しかし、これはまだ裏は取れていません」
「小宮良一のアパートに呼び出されたとは考えられないか?」
「それも一つの可能性ですね。さっそく当たってみます。そして、そこでその晩杉本家の温室で会う取り決めができた。もちろん、その時までに纏まった金を用意することを約束させられた。というのも、あやは、その日の午後一時頃銀行から二百万円下ろしています。
もちろん、そのお金はどこへ行ったのか? どこからも発見されていません」
「あやは間違いなく、あの温室で殺されたんだろうな? 他の場所で殺されて、後で運ばれたとは考えられないか?」
「出血の具合や現場の状況からみて、あの温室が犯行場所に間違いありません。あやの体内からも睡眠薬などの薬物は検出されていませんし、殴られて気絶させられた痕もありません。それに、手足を拘束されて、何処かに監禁されていたという痕跡もありません」
「それじゃ、犯人があの温室を密室にした理由がますますわからないな」
「警部は正雄を怪しいと睨んでいないのですか?」
石井刑事はニヤリと笑った。
「どうして? 杉本正雄には立派なアリバイがあるじゃないか」
「一旦家に帰って、あやを睡眠薬を飲ませて眠らせる。その後、手足を縛った状態で車のトランクに放り込んでおく。そして通夜の間に隙を見図って、あやを刺殺する。そういうことだって考えられますよ」
「抜け目がないんだナ。でも、あやには手足を縛った痕跡はなかった」
妃警部は、呆れたような声を出した。
「正雄は友人の通夜に出ていたということだが、その友人の死因は何だったんだ?」
「肝臓癌だったそうで、不審な点は何もありません。七月十日は、奥さんもずっと通夜の席についていて、完全なアリバイもあります。だから、交換殺人じゃありません」
「俺の考えていることは、手に取るようにわかるんだな」
「この五年間、ずっと警部から学んできましたからね」
「こういう事件の場合、あらゆる場面を考えに入れたほうがいいだろう。事実は小説より奇なりというからね。実際の犯罪は驚きの連続だよ。現実の事件が退屈だなんて、机上で論理をこねくりまわしている小説家の台詞にすぎない。そのことは、きみもよく知っているだろう」
妃警部が石井刑事にというより自分に言い聞かせる様に呟いた。
妃警部が庭に面している一階の居間で座卓に植物の本を開けていると、垣根の向こうから石井刑事の人懐っこい顔が覗いた。
障子は風を入れるため開け放ってあった。
その前の、小さな庭の菜園では、いずみ夫人が額に汗して土をいじっていた。おじさん臭い麦藁帽子が、聡明ないずみ夫人の顔とはアンバランスの印象を受けた。それがいずみ夫人の魅力を一層引き立てていた。
「この間は、どうもありがとうございました。キュウリがとっても美味しかったですよ。
あのキュウリは奥さんが栽培なさったんですってね。そんな趣味があったなんて、尊敬しちゃうなァ」
石井刑事が、見え透いたお世辞を云った。
「ありがとうございます。でも、まだまだ素人ですわ。キュウリもくるくる曲がっちゃってますもの」
いずみ夫人は立ち上がって、西日に目を細めた。太陽は沈みかけていたが、まだまだ暑さは去ってくれそうになかった。
「どうぞ、そんな所に立っていないで、中に入ってください。主人も勉強、勉強で退屈しているはずですわ」
今日、妃警部は非番で久し振りの休日を楽しんでいると思いきや、相変らず仕事の延長みたいな勉強をしているのである。
「頼んだことは調べてくれたかい?」
石井刑事が居間へ通されて来ると、妃警部は待ちかねたように口を開いた。
「エエ。ばっちりです。まず杉本家の台所事情ですが、火の車です。あんな宏大な邸があるのがあだになっているんです。維持費や固定資産税などで遺産を食い潰して、いまでは屋台骨が傾きかけています」
石井刑事が、早速報告した。
「それに、あやは三億円の生命保険に加入しています。保険金の受取人は正雄になっています。それも、保険金を掛けだして、二ヶ月もたっていません。これは正雄も知らなかったそうで、秘密だったようです」
「本当に知らなかったのだろうか? しかし三億円の保険金の掛け金ともなれば、相当のものになるだろう?」
「あやには、少しの貯金があったようです。小宮良一に毎月渡していた金も保険金の掛け金もそこから出ています」
「本当にあやの健康状態はどうだったんだ。巨額の生命保険を掛けたのには、それなりの理由があったはずだからね」
「この前、話したとおりです。本人が気に病んでいただけで、体はいたって健康です。幾つもの病院に掛かっていましたが、すべてから裏を取っています。普通クラミジアの検査なんかしません。これは、あやが自発的に産婦人科に行っています」
「あやが大きな病にかかっていたとしたら、生命保険には加入できないはずだろう。あやもそんなことは百も承知のはずだよ。たぶん、産婦人科に受診したのは、小宮良一と肉体関係があって、もしやと心配していたんじゃないのかな?」
妃警部が疑問を口にした。
「たぶんそうでしょう。それに、あやは、保険会社に勤める友人を介して加入しているんです。加入の関しては、抜け道はいろいろあるんじゃないですか?」
石井刑事が、忙しく働いているいずみ夫人に目を遣って云った。いま庭に打ち水をしているところだった。
「しかし、命の危機を感じていたことは確かだね。現に、ああして殺されたのだから・・・。だから、娘の奈々にお金を残そうと思って、保険に入った」
「警部は、前からあやの命が狙われていたというんですか? しかも、そのことはあやも知っていたと」
「何もそんなことは云っていないよ。あやの命が奪われた事実があるだけだ。それ以上の意味でも、それ以下の意味でもない」
「身の危険を感じていたとすると、最近塞ぎ込んでいたというあやの様子にも思い当たる節がありますね。しかし、あやもナイフで刺されるとは想像もしていなかったでしょう」
「問題の凶器のナイフのことを話してくれないか」
「あのナイフは、正雄がドイツに旅行した時に購入したもので、いつもは温室の机の引き出しに仕舞っていたということです。装飾品として置いてあったそうで、花や草を切るためのものではありません。もちろん、装飾品といったって本物で、非常に鋭利な刃物です。あれだと、少し押すだけで、抵抗なく身体に突き刺さるそうです」
ナイフからは、誰の指紋も検出されず、犯人が拭きとったものとみられていた。
「小宮良一は、温室にやって来たことを認めたのか?」
「いいえ、相変らずアパートにいたの一点張りです。温室に関しては、杉本家に温室があることさえ知らなかったと云っていました」
「温室からは、小宮良一の指紋は出て来ずじまいかい?」
「はい、駄目でした。しかし、だからといって良一が温室に来なかったことにはなりません」
石井刑事の脳裡には、青白い小宮良一の顔が浮かんで、通り過ぎて行った。
「それに、もし犯行の夜初めて小宮良一が温室に足を踏み入れたとしても、机の中にナイフがあるのを偶然発見したのかもしれませんし、あやがナイフで抵抗しようとしたので、逆に奪って刺したのかもしれません。別に、ナイフが机の中にあることを知らなくても、不都合はありません」
「なるほど。そうかもしれないね」
「ところで、警部。何を一生懸命研究しているんですか? 前から、ずっと訊こうと思っていたんですが・・・」
石井刑事が、座卓の上に開いている本を覗き込んで尋ねた。
「ハエトリグサだよ。この食虫植物が、あの密室を解く鍵になるかもしれない」
「あのハエトリグサがですか?」
石井刑事はいくぶん疑わしげな顔で、小宮良一逮捕のお手柄となった草花を思い出していた。
「ハエトリグサは、学名Dionaea Musci Pula ELLISといい、モウセンゴケ科に属する植物なんだ。茎は短くて横向きに這っていて、葉は地面の近くに放射状に数枚出ている。葉の長さは二~七センチメートルで幅は一センチメートル前後になっている。その葉の先端に、二枚貝を半ば開いたような“手”がついているんだ。この“手”には、長い突起がびっしりついていて、左右が合わさった時には、人が両手を組むような形になって、虫を逃さないんだ」
妃警部は簡単に説明した。
「そして、この“手”は中央近くに左右それぞれ三本の感覚毛を持っていて、虫などを知覚するんだ。この感覚毛に虫が接触すると“手”はすばやく閉じて、虫を捕獲してしまう。この“手”の内側は消化線をもっていて、虫を捕えると、約一・五日後に消化液を分泌して、たんぱく質を分解するんだ。虫を消化してしまうのは、だいたい一週間から十日前後といわれている」
「植物が虫を食べるなんて、まさに驚異そのものですね。しかし、本当にそのことと今度の事件とは関係があるんですか?」
石井刑事は、妃警部の俄講義を訊いて唖然とした顔をしていた。
「ああ、あると断言できるよ。なんだったらこの首を賭けたっていい」
「それは、杉本正雄か中条由香に関わることですか?」
「なぜ、そう思うんだい?」
「これまでの警部の言動から、何となくそんな気がします」
「そうとばかりは言えないんだけどね。まだ小宮良一の線を捨てたわけじゃない」
妃警部は、謎めいた言葉を口にした。
毎日三十度を超える暑さが続いていた。
明るい日差しが、くっきりと物の輪郭を浮かび上がらせている。木々の緑が目に眩しい。
温室の中では、エアコンがフルに作動して快適な空気を吹き出し続けていた。
「今日、新事実が判明しました。事件のあった日の杉本あやの外出先は、どうやら小宮良一のアパートだったようです。やはり警部がおっしゃっていたように、木が森の中に隠されていたんです」
「石井刑事と妃警部は、何回目かの現場検証を行っているのである。
「近所の主婦が、七月十日の午前十一時頃、あやが小宮のアパートに入るところを目撃していたんです。所轄署の刑事が、小宮の身辺調査のために一軒一軒訊き込みに廻っていて突き止めたんです」
「足と靴の勝利だな。それで、小宮はそれを認めたのかい?」
「最初、アパートで、一人で酒を飲んで寝ていたと言い張っていたんですが、近所の主婦が見ていたという事実を突き付けますと、しぶしぶ認めました。一番初めに、誰もアパートを訪ねて来た者はいないと言った手前、前言を撤回しにくかったようです。ましてや相手は被害者ですからね。へんに疑われると困るからというのが小宮の言い分です」
「逮捕された身でよく言うよ。あやが小宮のアパートを訪ねた理由は何だったんだ」
妃警部は、温室の外の芝生に目をやったまま訊いた。
「もうこれ以上付き纏わないでほしいと、直訴に来たそうです。一時間ほどいて帰ったと言っています。それが、あやを見た最後だったとも付け加えています。前の日の晩にあやから電話で会いたいと申し入れて来たそうです。もっとも、小宮があやを呼びつけたのかもしれませんが、死人に口なしでどうとでも言い逃れができます」
「そのとき、真珠のネックレスはして帰ったんだな?」
「はい、それは間違いありません。帰宅したあやがちゃんと真珠のネックレスをしていたことは香山鈴子が確認しています」
「そうか」と、妃警部は言ったきり、暫く黙っていたが、「その時、交渉が成立して、二百万円出したら、別れてやる、金を用意して自宅の温室で待っていろという約束ができたのかもしれないな。しかし、結局決裂してあやは殺されてしまった」
「やはり至急二百万円の行方を突き止める必要がありますね。小宮良一は一体二百万円をどこに隠したのでしょうか? 考えられるところは、すべて当たってみたんですが、まだ発見されていません。アパートの部屋は言うに及ばず、銀行口座まで調べてみたんですが、駄目でした」
「犯行時刻には、この部屋の明かりは灯いていたんだな」
妃警部は、天井からぶら下がっている照明を見ながら訊いた。
「ええ、一晩中つけっぱなしだったようです。現場に駆けつけた刑事が確認しています」
「おかしいところは何もないか! ところで、バーベナの花はあやがその日に用意したということだが、それは前から注文していたのか?」
「その前日に、近所の花屋に注文したそうです。だから、やはり客を迎えるためにバーベナの花を生けたとも考えられます」
「バーベナの花言葉を知っているかい?」
「いいえ、知りません。そんなことには疎いものですから」
「 “私のために祈ってください”っていうんだ」
「ということは、あやは前から小宮良一を殺そうとしていたのかな? 罪を犯す“私のために祈ってください”という意味かもしれませんね」
「自分の家で人を殺そうなんて考える人間なんていやしないよ。それよりは、別離の宣告をする“私のために祈ってください”と考えたほうがましだよ」
「警部もロマンチックなんですね」
石井刑事は、屈んで月下美人の花壇を調べていた。
「すると、あやは初めから小宮良一を温室に呼ぶことを決めていたことになります。しかし、ただ温室を飾るために、偶然バーベナを選んだだけかもしれませんよ。そういう可能性だってあるでしょう」
「可能性としてはね。でも、段取りをしたのはあやなんだよ。普段は、そう言ったことは家政婦の香山鈴子がやっていたんだ。それを思料すれば、やはりあの花には特別の意味があったと推理した方がいいだろうね」
「警部は、小宮良一が犯人ではないと考えているんですか?」
「どうだろうね」
妃警部は曖昧な返事をした。
「でも、もしそうなら、選択は三つしかありません。まず杉本正雄ですが、完璧なアリバイがあります。もちろん、動機としては、小宮良一の件と保険金のことがありますが、夫婦仲はよかったという香山鈴子の証言があります。次に、中条由香ですが、こちらも鉄壁のアリバイがあります。しかし、本当にあやを殺してまで、正雄と結婚したかったのでしょうか? どうも、ぼくにはそうは思いえません。最後に、香山鈴子にはアリバイはありませんが、どうも犯人だとしっくりしませんね。第一、殺したいほどの強い動機はみつかりません。いまのところ他には容疑者はいません」
「容疑者がいなくなってしまうというわけか。小宮良一のほかには。ところで凶器のナイフは持って来てくれたかい?」
「ええ。証拠物件を持ち出すのは、苦労しましたよ」
石井刑事は、黒い鞄の中からビニールの袋に入った細いナイフを取り出した。
「もう、すべて検査は終わっているんだろう」
と、妃警部は、その凶器を取ってよく観察した。
刃渡り二十センチ、幅三センチほどのタングステンのナイフだ。銀色に輝く刃が、不気味な色をたたえている。まるで、野菜を刻むように、何でも切れそうである。
柄の部分には東洋風な彫刻が施されており、目に美しく映った。
妃警部は、持って来た袋から牛肉の固まりを出して、ナイフで刺してみた。あまり力を入れないのに、スッと肉の中に埋まってしまう。その切れ味の実験を何回も繰り返し行なったが、石井刑事は妃警部がなぜそういうことをするのか理解できなかった。
「しかし、問題はこの密室ですね。この密室の謎を解かない限り不可能犯罪ということになって、小宮良一を起訴できませんよ」
石井刑事は、この温室の中を見渡して溜め息を吐いた。
「きみは、この密室について何か見解があるのかい?」
「いいえ、残念ながら、何の意見も持っていません。参考になるかと思って古今東西の探偵小説の密室トリックを調べてみたんですが、当て嵌まるものがありません。ジョン・ディクスン・カーまっ青ですよ」
「きみが、ミステリー・ファンだとは知らなかったな。しかし、もう推理小説だって、新しいトリックなんてないといわれているだろう。きっと、類以のトリックはあるはずだよ。それを発見すればいいんだ」
妃警部は楽観的に言った。
このあと、温室を一センチ刻みで調べてみたが、どこにも隙間さえもなく、見た目より遥かに完璧な密室だということが確認されただけだった。閂式の鍵も錆びた磁石なんかでは動かせそうになかったし、閂自身も形状記憶合金なんかじゃなく、普通の鉄で作られたものだった。
「やはり外からこの温室の鍵を掛けるのは不可能ですね。密室を作る古典的な方法は糸と針を使うことですが、糸を通す穴さえないんですから問題にもなりませんよ」
石井刑事が、西側の出入口の外の芝生に立って不満を口にした。
外へ出ると汗が吹き出すような暑さで、芝生の緑が目に染みた。
「じっくり考えてみることさ。人間の頭で解けない謎なんかないのだからね」
「しかし、この世には人知の及ばないことだって、たくさんありますよ」
石井刑事は続けた。
「たとえば科学的にも、“ポアンカレ予想”は、ペレリマン博士が証明したといわれていますが、難しすぎてだれにもわかりません。正しいとされているのは、否定される証拠が出ていないから。それだけです。つまり、間違っていると証明できないからです」
突然、こんな高尚な話題を持ち出す石井刑事もすごいが、すぐさまそれに答える妃警部も並ではないのである。
「でも、何年に一度かは“七つの問題、ついに解決”という噂が立つんじゃないか」
石井刑事も妃警部も、以前数学者が殺された事件で、この「七つの問題」に関わったので、ある程度の知識はあるのである。フェルマーの定理(これは、ミレリアムの問題に入っていない)も、ポアンカレ予想もそのひとつだ。(こんな会話は、マリアでないと思いつけない)
「それよりは、この密室の謎を解き明かす方が簡単だよ」
妃警部は、芝生に膝をついて屈んだり、背伸びをしたり、ガラスを撫でたり、コツコツ叩いたりして温室の壁やドアを調べていた。
果ては梯子まで持ち出して来て屋根まで徹底的に捜査したのである。
その姿はまるでシャーロック・ホームズさながらで、滑稽だった。
「確かにどこにでも隙間がないな。エアコンの穴も金網が掛けているので、無視していいだろう」
「人間の心理の盲点になるような穴も存在しないようですね」
石井刑事も匙を投げたようだった。
「数字の問題は“否定的に解決される”ことがよくあるね。つまり、この問題は“解けない”または“正しくない”と証明されることだ。この密室も、そんなケースじゃないかと思うんだ」
妃警部は、外から温室の中を覗き込みながら云った。
「どういう意味ですか、それは?」
「そのままの意味だ。言葉以上の意味はない。逆転の発想なんだ」
妃警部は謎のような言葉を投げ掛けた。
「“どのようにして密室を作ったか”という問題がわかれば、この事件は解決できるはずだ」
石井刑事は、事件の全貌が目の前に現われた時、初めてこの言葉の意味に思い当たったのである。
このひとつの疑問が、この悲しい事件を象徴していたのだった。
時計の針は午前零時を回っていたが、いずみ夫人は夫の帰りを起きて待っていた。
石井刑事が一緒なのを知ると一瞬驚いた顔をしたが、すぐに満面に笑みを称えて歓迎の意を現わして居間に案内した。
石井刑事も深夜に上司の家を訪問することに気が引けたが、妃警部が「この事件の謎は一切解けた」と漏らしたので、のこのこ失礼も返り見ずついて来たのである。
もう昨夜になるが、行方不明の二百万円があの温室から発見されるという事件の進展があった。
妃警部の注進により、再びあの温室を徹底的に捜査したところ、月下美人を植えるはずだった種底から、ビニール袋に包まれた二百万円が見つかったのである。
二百万円の札束には杉本あやの指紋があっただけで、ビニール袋からは指紋は検出されなかった。
「犯人は手袋をしていたのでしょうか? そうすると計画的な犯罪のようにみえますが・・・」
それが、一報を耳にした時の石井刑事の見解だった。
「そう考えていいだろうね。札束にあやの指紋があることを考えると、拭き取ったんじゃないだろう。それを考えると、最初から手袋をしていた公算が強くなる」
妃警部は、その時このように答えたものだった。
「一体、犯人は誰なんですか?」
石井刑事は、いずみ夫人が銚子と酒の肴を用意して引き下がるやいなや、待ち兼ねたように口を開いた。
「きみは誰だと思う?」
「小宮良一じゃないというんでしょう。わかりません、負けました。教えてください」
「あの温室が密室になっていたことが、この事件を解決するキー・ポイントになっている気がする。もし小宮良一が犯人だったなら、二百万円をわざわざ温室に隠す必要はないだろう。あんなところで、グズグズするはずはないよ」
「犯人の心理状態に当て嵌まらないというわけですか? それは云えているかもしれませんね」
「犯人が誰だとしても、わざわざ密室を作る真似はしない。その可能性があるのは一人しかいない。それは、きみもわかっているはずだ」
妃警部はそこで一息吐いて、舞台俳優が効果を確かめるように宣言した。
もっとも、観客はたった一人だったけれども・・・。
「そして、あの密室を作れるのも一人しかいない。ずばり言ってしまえば、杉本あやだ‼
彼女は殺されたんではなく、自殺したんだよ。しかし、厳密に言えば、彼女は自分を殺したんだ」
「すると、あやは三億円の保険金を得るために自殺を偽装したんですか?」
頭の回転の速い石井刑事は、すぐさま上司の考えを読み取った。
「生命保険に加入して一年以内に自殺しても、保険金は支払われないからね。それに、あやは、小宮良一にクラミジアをうつされて流産させられた。(たぶん、小宮の体を検査すればその痕跡は出てくるだろう)そして、小宮に肉体関係を盾に強請られていて、せっぱ詰まっていたんだ。最近うつ病気味だったのもそのせいだ」
「それで、憎んでも憎みきれない小宮に罪を被せようとしたわけですか? でも、どうして警部はあれが自殺だと思ったんですか? あれが殺人だとしても別に不都合はないわけでしょう?」
「それは、ハエトリグサだよ。あの食虫植物が密室を開ける鍵になったんだ」
「それは前にも訊きましたが、どういうことですか?」
「ハエトリグサの感覚毛は、一回だけ刺激を受けても葉は閉じないんだ。続いて二回以上刺激してやると初めて葉は獲物を捕えるんだ。この二回の刺激の間隔は役二〇~四〇秒だといわれている。これは、誤って飛んで来た小石やゴミなどを見分けるすぐれたセンサーのなんだ。また、この葉は雨や風などの刺激には反応しないことがわかっている」
妃警部は、石井刑事の盃に酒を注いでやった。
「だから、真珠が飛び散って、偶然葉に当たっても捕まえやしない。二〇~四〇秒後に、もう一度突いて初めて葉が閉じるんだ。だから、あの血染めの真珠が葉の中に閉じ込められたのは偶然でもなんでもなく、誰かが故意に入れておいたものだということがわかるね。どうして、そんなことをするのか? それは考えるまでもなく、小宮良一に罪を被せるためだ。そして、それが可能だったのは、昼間小宮のアパートを訪問したあやだけだ。きっと、あやは小宮の酒の中に睡眠薬でも一服盛っていたんだろう。下駄箱に前に持ち出して工作に使った運動靴と、押し入れに自分の血をつけた真珠のネックレスを隠すためと、夜のアリバイをなくすためだ」
「なるほど。確かに、ハエトリグサもいちいち刺激に反応していたら身が持ちませんよ。
すごいシステムですね。しかし、そのことに気がつくなんて、やはり警部もすごいですよ。それで、本を読んで確認していたんでしょう?」
「本を捲ったら、偶然そのことが載っていただけだよ」
妃警部は謙遜して云った。
「それに、バーベナのことも、これで説明がつく。あれは、あや自身が取り寄せたんだから、あれにはあやの意志が籠められているとみた方がいいだろう。あれは、自殺していく“私のために祈ってください”という、あやの夫へ宛てたメッセージだったんだ」
「自殺者つまり加害者のダイイング・メッセージーですね。珍しいですよ」
石井刑事は洒落たことを言った。
「密室は自分で作ったんですか? 小宮良一の仕業に見せかけるのなら、普通温室の鍵は開けておくんじゃありませんか?」
「忘れてしまったんだ‼ あやは、誰も入ってこないように温室に鍵を掛けて自殺の用意を整え、自殺を図る前に鍵を元通りに開けておくつもりだった。それを、うっかり掛け忘れてしまったんだよ」
妃警部は痛ましい顔をした。
「それで、あんな完全な密室が出来上がってしまったというわけですか?」
「あやは、昼間小宮良一のアパートに行き、いろいろな偽装工作をした。そして、別に用意した真珠のネックレスをして、香山鈴子に同じネックレスだと思わせた。そして、鈴子と娘の奈々をこの邸から遠ざけてから温室へ行き内側から鍵を掛けブラインドを下し、ハエトリグサの細工などの準備を整える。最後に、ナイフの柄の部分に、月下美人の根を止めていたビニールの裏返しにして覆い、刃を上に向けて垂直に花壇の土に埋めて固定させる。そして、あやはナイフの刃に対して後ろ向きに座り、後ろへ倒れ込んだんだ。鋭い刃は、あやの背中に突き刺さる。その反動で起き上がる時に、ビニールも土から飛び出してしまう。花壇に人が倒れたような痕があったのも、裏返しになったビニール袋がひとつ落ちていたのもそのためだ」
「警部にそう云われてみれば、なるほどと思いますよ」
「そして、その時、初めてあやは温室の鍵を開け忘れたことに気がついたのだろう。とても入口のドアまでは辿りつけないことを悟って、あやは近くにあった椅子を壁のガラスにぶつけて、密室を開けようとしたんだ。その途中で傷口がパックリ開いて、出血大量で息絶えてしまった。こんなところじゃないかな」
これで、嵌め絵パズルの最後の一片が収まり全容が現われた。
「なるほど、それが警部のおっしゃる・“数学において否定的に解決される”ということですね。まさにこのケースがこの命題に当て嵌まります」
石井刑事がしんみり言った。
「しかし、杉本あやが自分の命を賭けて、杉本家屋体骨を立て直そうとし、憎い男に復讎しようとしたのだから、思いを遂げさせてやりたいですね」
「だからといって、いくら卑劣な男でも無実の人間を鉄格子の向こうに閉じ込めるわけにはいかないさ」
それが、妃警部の信念だった。罪を憎んで人を恨まず、それは妃警部の座右の銘である。
「しかし、俺も心情的には、きみと同じだよ」
妃警部の脳裡では、天国の扉の前に立つあやが哀しい顔を伏せた。
「それじゃ、今日は杉本あやの冥福を祈って、夜通し飲み明かそうか?」
「ええ、パーッと飲んで、すべてを忘れてしまいましょう」
石井刑事が、しんみりとした空気を吹き飛ばすように言った。
「私も、あやさんのために祈りますよ」
いずみ夫人のその笑顔だけが、この場の雰囲気を、あやの魂・人生を救うような心温かいものだった。
※注.サブタイトルを(The Man who Read John Dickson Carr)とした。ここで、Manというのは“男”という意味ではなく”人間“という意味で、ウイリアム・ブリテンの「ジョン・ディクスン・カーを読んだ男」ではなく、「ジョン・ディクスン・カーを読んだ人間」となる。つまり、杉本あやのことである』
おわりに ※注、二
このお話の中の知識や推理は、すべてマリアの頭から出ており、この事件を解決に導いたのである。このとき、マリア8歳。色々なことが考慮され、この小説の登場人物にも名前さえ連ねていない。マリアが目立つことを嫌ったからだし、マリア自身普通の子供の生活を送ることを望んだからだ。すべてのお手柄と賞賛を、妃警部といずみ夫人にプレゼントしたのだ」
※注、一・二 この注一、注二は、高木清四郎の注釈である」
「あの本、読んだよ。すごいね。ハエトリ草の習性なんてよく知っているなって感じ。読書量も半端じゃないから、この“ジョン・ディクソン・カーを読んだ男”ってのも読んでいるよね」
一平が、朝ごはんの座卓を囲んでいる時に、マリアに言った。
「ウイリアム・ブリテンが書いたカー先生のパロディー(パティッシュ)よ。発想が面白いでしょう?」
「一平さんや、お替りしようか?」
マリアのお祖母ちゃんが、一平に声を掛けた。
「じゃ、もう一杯!」
食卓には、かれいの一夜干し、ベーコン、牛の佃煮、漬物、味噌汁、のり、生卵などが載っている。
「やっぱり、農家のお米って美味しいですね」
「もう、調子いいんだから・・・」
「でも、本当においしい!」
ゆきちゃんも、舌鼓を打ちながらいう。
「ごはんが進みます」
「おじいさんが作ったんですよ」
お祖母さんが持ち上げる。
「たんと、食べておくれ!」
おじいちゃんが、力こぶを作ってみせる。
「もう、お茶目なんだから・・・」
「きのうの松茸も、ものすごくおいしかったですよ」
「うちの山で取れたんじゃよ。場所は秘密だけどナ」
お祖父ちゃんは、やさしく孫をみた。
「マリアは生まれたときからキラキラ輝いていたものナ」
「赤ちゃんのときのことは、言っちゃイヤ!」
マリアの顔が赤くなった。
「じゃ、話を戻そう」
美咲警視も暖かく言った。
「これは、オレの後輩が担当した事件だったんだ。それに、ジョン・ディクスン・カーが作ったような完全な密室だったからね」
「それで、天才の登場になったというわけですか?」
「一平が口を出した。
「捜査は、マリアのアドバイスと指示で進んで行ったんだ。捜査陣には秘密でね。妃警部だけが知っていた」
美咲警視が説明した。
「そして、みごと解決になった。悲しい結末だったけれどね」
「その妃警部というのも、仮の名・偽名なんでしょう?」
一平がきいた。
「実は、清四郎叔父貴の創作も入っているのよ。だって、妃警部はこの謎を四苦八苦して解いていたけど、小学校一年生のテストのように楽勝だったわ。百点満点よ」
「よく言うよ」
「でも、子供だ。心の機微がわかっていない!」
その美咲警視の声には、愛情がこもっていた。
「もう、あなたったら! マリアちゃん、ごめんなさいね」
優子夫人が心配そうに声をかけた。
「私も迷ったのよ。できることなら、叶えてあげたかった。女だもの。でも、神様じゃないから・・・」
マリアが、自分に言い聞かせるようにいった。あやの自殺の動機である。
「わかっているよ。辛い思いをさせたね」
美咲警視は、マリアを抱きしめた。みんなの温かい目が見守る中で・・・。
これでハッピー・エンドだ。
『シェークスピア殺人事件』の巻
外には、強い台風が来ていた。
激しい雨が降っていて屋敷の庭の木々や、花壇の花々が横殴りの風に今にも吹き飛ばされそうだ。
マリアと一平は、一階の居間で、豪華キャストで有名なアガサ・クリスティーの『オリエント急行殺人事件』の旧いDVDを観ていた。原作に忠実な奴だ。
「こんなに登場人物が多くて、アリバイが問題になる小説は、頭がゴチャゴチャしてイヤだナ」
「アガサ・クリスティーは、上手く処理しているわ。よく整理されているし、頭が混乱しているのは、一平ちゃんだけよ」
「ウフフ」
ゆきちゃんが笑った。
「ゆきさんまで!」
その時、テレビもシャンデリアもすべての明かりが落ちた。
風の音がひときわ大きく聞こえた。
「停電だ!」
一平がパニックのように叫んだ。
「ローソクをもって来ますわ」
ゆきちゃんは、よく気がつくメイドなのだ。
「どう、私がかいたミステリーを読んでみない? 叔父貴の小説に対抗して書いてみたの」
「それって、高木清四郎おじさんだよね?」
「そう」
「もちろん読ませてもらうよ」
一平は、マリアの口癖をよく知っていた。これを読まない? という誘いは、これを読め! という命令なのだ。
「タイトルは“ハムレット殺人事件”にしようと思ったんだけど、簡単だから“ABC殺人事件”にしたのよ」
「アガサ・クリスティーの原作の映画を観ているんだし、彼女の“ABC殺人事件”と何か関係があるのな?」
「ダメ! 今度は教えないわ」
マリアは無邪気に笑った。
ちょうど、その時ゆきちゃんが火がついたローソク持ってきた。立派な蜀台に大きな百目ローソクが載っている。
一平は、ローソクの光の中でページを捲り始めた。
『ハムレット殺人事件
美咲マリア
登場人物
天宮博士 ・・・BHT(バイオ・ハザード対策局)司令官。
アリサ ・・・天宮博士の娘。
ナオミ ・・・天宮博士の秘書兼アドバイザー。
綾瀬隊長 ・・・BHT部隊隊長。
デビッド ・・・同、副官。
ショウ ・・・同、隊員。
ミミ ・・・同、隊員。生物学者。
ユリ ・・・同、隊員。医師。
イワノフ ・・・同、隊員。武器の専門家。
オオタ ・・・同、隊員。IT担当。
シュイナイダー ・・・深海艇操縦士。通信士。
トンプソン ・・・メリル・ヤン海底研究所。所長。
中野博士 ・・・分子生物学者。
ウー博士 ・・・分子生物学者。
東シナ海を行く海洋調査船ビーグル号(ダーウィンが世界中を旅した帆船の名前)。台風で船上は荒れ、船はかなり揺れている。
デッキの下の会議室では、天宮博士の周りで、九人の男女が話を聞いている。
天宮博士は、初老の温厚な男である。後の人間は男女さまざまにトレーニング中のスポーツマンといった感じのラフな格好をしている。
「ここでおさらいしておこう。三日前メリル・ヤン海洋研究所がSOSの通信を最後に、消息を絶った。私たちは、その救助に向かっているわけだ。生存者は不明で、彼らに何が起こったのかはわかっていない」
「ヤン研究所は何を研究していたんですか?」と、訊いたのは、綾瀬隊長。綾瀬隊長は、がっしりした筋肉質の男で、何事にも動じない冷静さを持っている。
「メリル社は、大手のバイオ・テクノロジーの会社で、ヤン研究所はあらゆる生物のゲノム解析を手掛けている」
「ウイルスかなにかの生物災害ですか?」、と訊いたデビッドは、二十代後半のハンサムないかにもエリート然とした男だが、少し臆病で頼りなさそうな印象を受ける。銀髪をクルー・カットにしている。
「だから、我らBHT(バイオ・ハザード対策局)に出動の要請があったんだ。それから通信士は最後に『モンスターが』というなぞの言葉を残している」
「モンスター? 私たちは、謎の怪物と闘うってわけですか?」
ミミは、金髪で長身の美人である。勝気そうな性格に見える。
「さあ、それは行ってからのお楽しみだ」
「私は、それが遺伝子操作されたトランスジェニック動物だとしても驚かないわ」
ユリは、やさしい顔立ちの二十代前半の日本女性である。
「そんなのアリかよ」
オオタは、細身のひょうきんな男だった。
ビーグル号の、窓の外はますます嵐が荒れ狂っている。
広い食堂では、先程のメンバーでテーブルを囲んで、食事を取っている。
「私とナオミがこの船に残り、司令塔となる。きみたち全員、研究所へ行ってもらう。ヤン研究所は、もとはアメリカ海軍の海底基地で、それが払い下げられたものだ。中心のメイン・タワーを中心に五つのエリアに分かれ、それぞれ一本の通路で繋がっている」と、天宮博士が言う。
「海底五〇〇メートルなので、あなた方にはシュナイダーが操縦する探海艇で潜ってもらいます」
ナオミは、知的でスタイルがいい黒人女性で、シュナイダーは小柄な童顔の男だった。イワノフは、青い顔をして、黙っていたが、「ウェ、もう駄目だ」
彼は、急いで外へ消える。イワノフは一九〇センチをゆうに超える大男である。
「相変わらず、船に弱いのね」と、ユリ。
ショウが、「こんなに揺れたら誰だって、船酔いもするよ」と、静かに言う。修道僧のようなクールで穏やかな男にみえる。
深海艇にメンバーが次々乗り込んでいく。
艇内には、様々な機材が運び込まれているが、思いの外、広い。
オオタが、「博士は天才だけど、ハーバード倫理協定を破った実験をしているって本当かい?」と、訊く。
「娘のアリサが、研究中の事故で植物人間になってしまった。そこで治療法が発見されるまで人工冬眠機の中で眠らせているそうだ。それに、ゲノム解析の結果をもとに血液から彼女のクローンを作ろうとしているらしい」
と、シュイナイダーが答える。
イワノフが、「でも、いくらクローンと言ったって、体は同じでも、精神は別ものだろう」と、反論する。
「博士は、DNAの中に性格などの性質も記憶も包含されていると主張しているのさ」
「まさに、神の領域だわ。踏み込むべきじゃない」
ミミは、キリスト教徒なのである。
ショウが「彼はマッド・サイエンチストじゃないよ。ぼくは博士を支持する方に一票入れる」と、言う。
「ショウ、きみはアリサの恋人だったからな」
イワノフが、非難するように言う。
「だったじゃない。過去形で呼ぶのはやめてほしい」
綾瀬隊長が、「さあ、おしゃべりはそれぐらいにしろ。出発だ!」と、命令を下す。
探海艇が海面下へ沈み、ヤン研究所を目指して進む。みんな神妙な顔をして、丸窓の外の海中を眺めている。海中は静かで、いろいろな生物が泳いでいる。
ショウの回想。
ビーグル号の天宮博士の部屋で、ショウと博士がテーブルを挟んで座っている。
「ヒトゲノム解読が完了してもう一世紀がたつ。しかし、新たな危険性、倫理、差別などのこれまで逃げてきた問題も噴出してきた。いまの私の実験はいろいろな倫理協定に抵触している」
「アリサを生き返らすためには仕方ありません。たとえ、それが神の意志に反することでも、ぼくもそれを望んでいます」と、ショウが慰める。
「ありがとう。私の研究を完成させるためにはどうしても、中野、ウー達の協力が必要だ」
天宮博士は、ショウの知らない名前を言った。
「彼らは何者ですか?」
「コールド・スプリング・ハーバー研究所で一緒だった友人だ。二人とも天才というに相応しい才能があった」
「もしかして?」
「そう、いまメリル・ヤン研究所にいる。だから、是非きみに彼らを救出してほしいんだ」
ショウが、「もし、死んでいたら?」と、訊く。
「USBなりなんでもいいから、研究の資料を取って来てほしい」
「わかりました。やってみます。ところで彼らはあそこで何を?」
「生物兵器を開発していた公算が強い。軍のバック・アップでね。だから、我らチームのメンバーといえども、気を許さない方がいい」
「まさかぼくたちの中にスパイがいると?」
「ナオミが軍の秘密通信を傍受した。それによると、コード・ネームが“ロミオ”というスパイに、『どんなことをしても、“ハムレット”からデータを入手し、すべての証拠を消せ』と命令している」
天宮博士は、一息いれる。
「その誰かは、“生か死か。それが問題だ”と言っている。音声は加工されていて正体はわからない」
「シェークスピア好きのスパイですか?」
ショウは、少し考えていう。
「その“ロミオ”についての手掛かりは? 名前から男ですか?」
「男だということだけはわかっている」
「他の情報は?」
「全くない。私たちも初めて聞く名前だ。性別も国籍も経歴も全く謎だ! また、相手の“ハムレット”というのも不明だ。研究所の一員で、二人は顔見知りに違いないが」
「気を付けて任務を全うしなければいけませんね」
「隊長、デビッド、イワノフから目を離すな。オオタもだ。寝首を掻かれるかもしれない」
天宮博士が警告する。
深海艇が、メリル・ヤン海底基地にドッキングする。
イワノフが隊員にずんぐりした黑っぽい感じのマシンガンと弾倉を渡す。
綾瀬隊長が、その銃を持ち、弾倉を込めて、「アメリカ製のM1L10スペシャル突撃銃だ。三連続発射で、総弾数一千発。自動冷却構造で水にも強い」と、説明する。
「すごい銃だな」
「ただひとつだけ注意しておく。どんなことがあっても、海底基地の窓ガラスと原子炉の付近では発砲しないように。窓は強化ガラスだが、もし割れると何万トンもの水で押し潰されるか溺れ死んでしまうだろう。また原子炉を破損するとたちまち核爆発に繋がる」
ミミが手で持って確かめながら、「この銃って、意外に軽いのね」
「オレとイワノフがロケット・ランチャーと火炎放射器を持つ。これは念のためだ」
シュナイダーが操縦席から首を捻り、「あらゆる生き物は火に弱いからね」と、注釈する。
船が揺れて、イワノフがミミに触れると、彼女の手から銃が床に落ちる。
「危ない!」
「“弱き者よ、汝の名は女なり”」
イワノフが、揶揄するように言う。
「ハムレットね」
ユリが、睨み合う二人の間に入って取り成す。
「さすが、学があるわ」
「お褒めの言葉を、どうもありがとう」
イワノフが恭しく頭を下げる。
「もう、いい加減にして」
ミミが、憤慨する。
ビーグル号のデッキで、ナオミが潜水艇のコンピューターで、研究所のメイン・コンピューターにアクセスしようと試みている。
天宮博士が傍に立ってコンピューターのディスプレイを見詰めている。ディスプレイにアクセス成功と表示が出る。
「メイン・コンピューターにアクセスできたわ。原子炉一部破損。でもそれほど深刻じゃない。コンピューター、正常に作動。生命維持装置、正常に作動、通信施設は壊滅。電力60%確保。空気濃度、正常。気温二十度。空気中に未知のウイルスが拡散している可能性0.01%以下。研究所は、ほぼ正常に機能しているわ」
潜水艇の中では、綾瀬隊長が、マイクに向かって、「ナオミ、ありがとう。ここが地獄じゃないことがわかって安心したよ」と、冗談を言う。テレビ画面のナオミが、ニッコリ笑う。
「どういたしまして」
デビッドが、「それじゃ、このラカル宇宙服は必要ないな」と、最新防護服を仕舞う。
メリル・ヤン海艇研究所では、深海艇のハッチがあき、カメラを積んだ小型のバギー車が飛び出していく。
シュナーダーが、前のテレビ・スクリーンの画面を見ながら運転しているのだ。ラジコン操作のバギー車が、進んで行く。研究所の通路は照明が弱いが、補助電源で十分見える。
メンバーは、集まってテレビ画面を喰い入るように見詰めている。
視線はローアングルである。
「そこで止めて! そして、壁を映してみて!」
ユリが、何かに気づいたようだ。オオタが操作すると、カメラが首を擡げ、上の方を捕らえる。黑っぽい染みが付いている。
「血だ」と、デビッドが叫ぶ。
「でも、死体がないぞ!」
イワノフが疑問を投じる。
「モンスターに喰われたんだヨ」
全員、オオタの顔を見る。
バギー車の画面は広い研究所の通路を進んでいく。
シュナイダーが、「何もないな。人っ子、ひとりいなけりゃ、怪物もいない」と、安心して一息吐く。
バギー車を止め、カメラを反転しても、後路も、何も見えない。
キーという音に、バシッという音が続き、画面は真白になる。
「アラッ、壊れちゃったよ」
シュナイダーが驚きの声を上げる。
「なんだか、叩き潰されたって感じだな」
隊長が、画面を喰い入るように見て言った。
ミミが、「でも、前も後ろにも何もいませんでしたよ」と、疑問を口にする。
「たぶん、天井から何かが落ちて来たんだ」
と、デビッド。
隣のテレビ画面に、ナオミの顔が写る。
「いまのビデオをコンピューターで分析してみるわ」
深海艇のハッチからシュナイダーを残して、隊員たちが出て来る。
海兵隊の戦闘服を着て、完全武装の戦闘モードである。M1L10突撃銃を構え、前後、左右を確かめながら、一固まりになって進んで行く。
「絶対、なにかいるぞ。油断するな」
綾瀬隊長が、肌で何かを感じて警告する。全員、ヘッド・ホン、マイク、トランシーバーを付けている。
深海艇の近くでは、何か見えない影が、動いている。
それはすばやく、開いているハッチから中へ入いる。
隊長が、マイクで「シュナイダー、ハッチを閉めろ!」と、命令する。
「ハイ、わかりました」
ハッチがシューと音を立てて閉まる。シュナイダーを残し、みんなラジコンのバギー車が壊されている場所に来ている。
ミミが、バギー車を見ながら、「何か鋭い刃物で切られているわ。床もえぐられている」
パタ、パタという音がして、目に見えないなにか巨大なものが飛んで来るのが感じられる。ヒューンと空気を切り裂く音がして、綾瀬隊長の首が飛ぶ。血が吹き出し、返り血を浴びてなにものかが一瞬姿を現わした気がしたが、それもすぐ消える。全員、わけもわからずM1L10を射ちまくる。一発が窓ガラスに当たり、罅が入る。
「みんな走るんだ。水が来るぞ!」
ショウが叫ぶ。全員、闇雲に奥へ向かって走る。 ヤン研究所の通路で、ついに強化ガラスが破れ、何万トンという海水が流入してくる。すでに、隔壁が降り始めている。
コンピューターの声が、「防災壁が閉まります。防災壁が閉まります」と、警告を発っしている。
全員、危機一髪で、隔壁が降りる前に向こうに逃れる。「ドーン」と流水が防護壁に当たる。
オオタが、「助かった!」と、安堵の気持ちを述べる。多少の水が流れ込んでいるが、大丈夫である。
深海艇の中では、操縦席のシュナイダーに何かが近づいている。
動くたびに、バックの色にすばやく変化しタイム・ラグが生じるが、カムフラージュは完璧である。
テレビ画面に、ナオミが映る。
「コンピューターで偏光分析したところ、ビデオには二メートルの、はなカマキリが映っていたわ。もっと巨大に、凶暴に変えられているけど。あのカムフラージュの早さは海洋無脊椎動物のそれだわ。たとえば蛸とかのね。驚くべき体色変化能力をもつカメレオンといえばいいかしら。だから、不可視なのよ」
シュナイダーの後ろで、カサコソと音がする。シュナイダーが振り返るが何も見えない。いや、少しバックのパターンが速く変わっている。彼は、恐怖の表情になり、息を飲む。声を出す間もなく、一瞬にして、シュナイダーの胸に、鋭い鎌が突き立てられ引き裂かれる。ナオミが悲鳴を上げる。画面に血が飛び散る。
メリル・ヤン研究所のゲノム解析DNAコンピューター室には、広大なスペースに何百というコンピューターが並び、通路を形作っている。部隊がそこで休んでいる。
ユリが、「デビッド、綾瀬隊長は死んだんだから、階級からいってあなたが隊長よ」と、命令指揮系統ハッキリさせるために言う。
デビッドが、自信なさそうに、「わかってる」と答える。
コンピューターの間の通路から、カサコソと音がし、時おりキーという擦る音がする。
ヘッド・ホンからのナオミの声が「相手はカメレオンみたいに変幻自在な巨大カマキリよ。体長は二メートルもあるわ。偏光ゴーグルを掛けてみて」と指示する。
全員、背中のバッグの中からゴーグルを取り出しつける。コンピューターの通路を、巨大カマキリ達がこちらへ向かってやって来る。
何十というカマキリの透明な輪郭が見える。
デビッドが、そちらへ銃を向け、「射て! 射て! 射ちまくれ」と、呼ぶ。すさまじい連続的な銃声がして、カマキリや果てはコンピューターまで、破壊され破片が飛び散る。電気がショートし火花が上がり、千切れたカマキリの死骸が姿を現わす。
「メイン・デッキへ急ごう!」
ショウ、ミミ、ユリたちも追って来るカマキリを射ちながら、後ろに続く。
オオタは走りながら、「これじゃ、きりがないぜ」
イワノフが火炎放射器を放ち、「これでも喰らえ!」と呼ぶ。
火炎が放物線を画きながら、モンスターたちを焼きつくす。
ヤン研究所のメイン・ブリッジのコントロール室は、広いフロアにコンピューター、ハイテクの機器が並びまさにこの基地の頭脳といえる部分である。また一方の壁一面が画面になっていて、様々な箇所に仕掛けられている監視カメラからの映像を見ることができる。すべての映像を同時に覗くこともできるし、一つをズーム・アップすることも可能である。出入口は二箇所あるがロックして、自動発射銃を仕掛けている。侵入者があると、感知し自動発射するのである。オオタを中心に全員がハイテク機器にとりつき、監視カメラ映像やコンピューターの記録の調査をして生存者の有無を確認している。
デビッドが、ヘッドホン・マイクで、「博士、いま我々はこの研究所のコントロール・ルームにいます。指示を請います」と、尋ねる。
ビーグル号のデッキでは、嵐が最高潮である。
博士が、マイクに向かって、「引き続き生存者の探索をしてくれ。シュナイダーも死んだ」
後はガーと、雑音が激しくなって聞こえなくなる。
ナオミが、キー・ボードを叩きながら、「博士、嵐が船のアンテナを吹き飛ばしました。通信不能です」
博士、天を仰ぐ。ヤン研究所の、コントロール・ルームではデビットがイライラしていた。
「博士、博士、応答してください。通信が切れた・・・」
オオタが、「たぶん嵐のせいだろう。ちょっとみんな集まってくれ」と、皆が休んでいる方を向いて言う。オオタが、監視カメラの画面のコントロール・パネルのキーを弄っている。
「画面は、三階上の食料庫のものだ」
画像がズーム・アップする。そこにはまぎれもない恐竜の姿があった。トカゲに似た体。体に比較して大きな頭。大きな口。ギザギザの歯。二本足歩行。足にある鉤爪。まさしく肉食獣である。
ミミが、「ヴェロキラプトルだわ。体長二メートル、動きはすばやく、跳躍力がすごい。足にある鉤爪で獲物を仕留める。性格は凶暴で、知能は高く集団で狩りをする。愛称はラプトル」
オオタが「”ジュラシック・パーク”みたいに蚊の血からクローンで作ったのかな?」と訊く。
「遺伝子工学で作り出したんじゃないかな? たぶん既存の動物の遺伝子を制限酵素やリガーゼ(のり)で切り張りして、恐竜を作り上げたんだよ。だから、あれは紙に絵を画くところをDNA上に画いたんだ。ここのスーパー・コンピューターやDNAコンピューターや量子コンピューターを使ってね」と、ショウが意見を述べる。
「つまりあれは”ジェラシックパーク”のヴェロキラプトルでも、本物のヴェロキラプトルでもないってことか!」
画面には、六、七頭のヴェロキラプトルが見える。オオタの隣の画面二個の研究所の平面図に、多数の赤い点が描かれている。
ユリが、「みんなここを見て、これは温度や空気密度などを捕らえて、動物の位置を示しているの。食料庫の奥の部屋に五つの赤い点があるでしょう。そして、その部屋のドアに体当たりしている七つの点があるわ。この五つの点は人間じゃないかしら」と自分の意見を述べる。
「七つの点はラプトルに間違いないな」
デビッドが、指摘する。
「それより、このコントロール・ルームを見て」
スクリーンに、この部屋の平面図が浮かび赤い七点が表示される。
ユリが、指さしながら、「これがわたし。わたしの右隣りがオオタ。その斜め後ろがミミ。わたしの右横がイワノフ。その斜めにショウ。わたしの後ろがデビット。そのずっと後ろになにかいるわ」
ユリの言葉でみんな恐る恐る後ろを振り向く。その視線の先には、ドアがひとつある。
「データ保存室」
それぞれ、思わず自分の銃に手を延ばす。
デビッドが、イワノフとショウに手で合図し、ドアの両脇を固めさせ、ドアのデジタル・ロックに向かってM1L10突撃銃を射つ。バリ、バリと音がして、ドアが開く。
イワノフとショウが、部屋へ飛び込む。
中から、男の「どうか討たないでくれ! お願いだ!」という大きい声がする。
ユリは、デビッドの後ろから、覗き込むようにしている。
イワノフとショウが、長身で金縁眼鏡の男を連れて出てくる。
「オオッ、きみたちは。助けに来てくれたんだな」
男は、両手に抱きしめ、キスしようとするような勢いでデビッドの方に近づいて行く。
デビッドが手を差し出すと、男は一瞬ひるんだようだが、すぐ愛想笑いを浮かべて両手で右手を取った。
「私は、ジョン・トンプソン。このメリル・ヤン研究所の所長だ」
デビッドがみんなを紹介し、「ここで一体何があったんですか?」と、訊く。
「ちょっとした手違いで、実験動物が逃げ出したんだ。あとは地獄だった」
「中野博士とウー博士はどうなりましたか? 安否を心配している友人がいるんです」と、ショウが尋ねる。
トンプソンは、神妙な顔で、「死んだ。ここにいる人間は、私を覗いてみんな死んでしまった!」
「ここでは、ハーバード倫理協定に反する実験をしていたんではありませんか?」と、ミミ。
「私たちがやっていたことはすべて合法的なものだ」
デビッドの後ろにいたユリが、「それはここにある資料を分析してみればわかるでしょう」と、強硬な意見を述べる。
トンプソンが、「そんな」と不可解な顔をする。
「中野、ウー両博士の遺品はありませんか? 持って帰れば、友人が喜ぶでしょう」
ショウが肝心なことを尋ねる。ショウは、後片付けという名目で、保管室の中に入り、仲間の輪から離れている。資料をショット・ガン的に見て、中野、ウー博士のCD/USBを捜すが、無くなっている。
ショウが、「所長か?」と、呟く。
ユリが、思い詰めたようにそちらの方に視線を向けている。
コントロール・ルームの中央の画面の前で、トンプソンがしきりに何事かを反対している。
「どうしたんだ?」とショウ。
デビッドが、「あの食料庫へ五人を助けに行くことを所長が強硬に反対しているんだ」
と、うんざりした顔でいる。
「絶対人間じゃない。みんな死んだんだ! あれは猫か犬の動物だよ」
ミミが、「あそこは、動物の飼育室か何かなの?」と、訊く。
「いや、食料庫の向こうは託児所のはずだ」
トンプソンが、しぶしぶ答える。
「だったら、人間の可能性は高いわ。それなら絶対行くべきよ」
ショウが、「デビット、指揮官はきみだ。きみが決めればいい!」と、促す。
「行こう。人間かもしれないのに、見捨てるわけにはいかない」
トンプソンは、両手を広げ、天を仰ぐ。
「この研究所には五つの脱出艇がある。それで、一刻も早く逃げるんだ。さもないと、とんでもないことになるぞ」
オオタが、「何かまだ隠しているんだな。トランスジェニック動物は二種類だけじゃないんだろう?」と、詰め寄る。
全員が、トンプソンの方を見る。
そのとき、画面の下の方の一部を真っ赤な蛇のようなものが何本も横切る。何かの触手である。まるで、巨大なヤワタの大蛇にみえる。
「何だ。ありゃ?」
イワノフが驚いた顔をする。
「アップにしてみて!」とミミ。
「三階下のフロアだな」
オオタ、画面を大きくする。巨大で赤い触手の中をラプトルが本体へ蠕動されていくのが見える。半分透明なので、ラプトルが消化されかかっている様子までが観察される。
「我々のペットの最後の一つだよ。はなカマキリ、ラプトル、そしてあれを飼育研究していたんだ」
「あれは何?」
ユリが訊く。
「深海のクラゲの一種だよ。名前は何と言ったっけな、とにかく、それを巨大にした」
「あんなの見たことないわ? 赤クラゲに似てるけど」
「深海にはまだまだ我々の知らない生物がいるってことだね。あの触手で獲物を捕らえて生きたまま飲み込む。そして強い消化液で溶かしてしまう」
「あれこそモンスターね。体長何メートルあるの?」
「触手も入れて数百メートルだ」
「あんなクラゲ、見たこともないナ」と、ミミも同意する。
「勿論ただのクラゲじゃないさ。遺伝子操作したトランスジェニック動物なんだ」
「モンスター1、モンスター2、モンスター3か? 一体何て素敵なところへ来たんだろう。クラゲの化け物に喰われるなんて、まるでSF映画じゃないか?」オオタが感想を述べる。
「クラゲじゃなかったけど、昔こんな風な巨大なぜん虫に襲われる映画があったナ」
「昔はSFでも、いまじゃあ現実だわ。二一世紀なんだから、当然かもしれないけど」
ユリが現実に、戻って言う。
ショウは、このチームの顔合わせのパーティーの時のことを思い出していた。ショウたちの馴染みの店である。バンドがカントリーの曲を奏で、ほどよい騒々しさが心地よい。店は適当に混み合っている。
「“造化の女神が彩った顔、それが君の顔だ。私が熱愛する男でありかつ女の君よ“」
イワノフがナオミを口説いていた。
「それは、芝居のセリフか何かかい?」
「シェークルピアだよ。『ソネット集二〇番』だ」
天宮博士が解説する。
「“ね、口説いて、口説いて。いまはお祭り気分なの”」
ナオミが、『お気に召すまま』の台詞で返す。
「“今ここで死ねたら、この上ない仕合せだ”」
「これは『オセロー』ですね」
デビットも、この輪に入った。
「“もし恋が盲目なら、恋は的を射貫けない”」
「『ロミオとジュリエット』だわ」
ユリも仲間に加わる。
「“この世は舞台、ひとはみな役者”」
「『お気に召すまま』ね」
「みんな、博識なんだな」
オオタが感心したように言う。
「イワノフは、海軍の演劇部にいたんだ」
綾瀬隊長が、笑いながら教える。
「初耳ですね」
静かに飲んでいたシュナイダーが口を挟む。
「見てられないわ」
ミミは、ナオミのところに行き、耳元で何かを囁く。
ナオミも頷いて、このグループから立ち去ろうとする。
「“もうおまえは返ってこない。二度と(ネヴァー)、二度と、二度と、二度と、二度と”」
「『リア王』よ」
ユリが解説役だ。
「“さらば、さらば、さらば。私を忘れるでないぞ”」と、ナオミ。
「これは『マクベス』だわ」
「“芝居は最後までやらせてくれ”」
「『ヘンリー四世』よ」
「まだやっているわ。ほっといたら、調子に乗るだけよ」
ミミが、席に帰って来て言う。
「ナオミも飲みすぎよ」
「いつも喧嘩をしているけど、仲がいいんだナ」
綾瀬隊長が、からかう。
「ただの昔からの腐れ縁ですよ」
このミミの言葉で、笑いの渦がおきる。
その夜は、ショウが珍しく酔っ払ったユリを、ホテルのユリの部屋に連れて帰った。肩を貸しながら縺れるように部屋の中に入る。
「今夜はいい夜ね」
「そうだね」
「いい気分よ」
「だいぶ飲んだね」
「ちょっと、お化粧を直してくるわ」
ユリは、急いでトイレに行った。
「ぼくも、ちょっと用を足してくる」
ユリが戻ってくると、ショウがいった。
「興ざめよ」
ユリは笑った。
「楽しみは後にとっておかなくちゃ」
ショウは、あがっている便座でようをたす。
ベッドの上では、ユリが嫣然と微笑みながら服を脱ぎだす。エロチックなストリップだ。男の目を意識したセクシーな媚態だ。そして、ショウに抱きつき、キスをする。
「きみらしくない」
ショウは、少し突き放していう。
「私らしいって、どういう意味? 私も生身の女よ。私を抱いて! あなたが好きなの」
「それが、いつものきみらしくないっていうんだ。普段のきみはお淑やかで、慎ましやかなのに」
「それは、私の仮の姿よ。今日は、お互い本能を開放しましょう」
「だいぶ酔っているナ」
「悪い? 酔わないと、自分の気持ちが告白できない女もいるのよ」
ユリが服を脱ぎ棄てて、部屋の明かりを消すと、白い裸体の上半身が闇の中に浮かび上がる。モデル並みの曲線である。窓から月の光が差し込み、幻想的な雰囲気を醸し出している。スカートはまだはいている。ユリは、ショウの服を脱がしていく。ショウはユリの誘惑に負けそうになるが、ショウはユリを突き放す。
「ゴメン! ぼくには、アリサがいる」
ショウは、自分の服を掴んで下手を飛び出して行く。
ユリはそれを呆然と見送っている。悲しげな顔だ。
淡くて苦い夜だった。
皆で順番に仮眠を取り、一夜が明ける。
テーブルを囲み、研究所の図面を広げて鳩首会議を始める。
デビットが、「この作戦中に部隊と逸れてしまったら、無線で連絡を取りつつ、脱出艇へ向かうことにする。コンピューターで調べたが、幸いどの艇もまだ係留され無傷のようだ」と、指示する。
ミミが、「コンピューターの詳しい分析結果がでたわ。はなカマキリをモンスター1、ラプトルをモンスター2、クラゲをモンスター3とすると、モンスター1が一〇八匹、モンスター2が三七匹、モンスター3が一匹、こういう数になるわ」と、言う。
「こんなにも恋人が多いと、デートに誘うのに困っちゃうネ」
オオタが、うんざりしたような声を出す。トンプソンは、不貞腐れた態度で席から外れている。エレベーターは使わず、全員が階段で、食料庫へ向かっている。一行の一番後にミミとユリがいる。
ミミが、小声で、「あなた、ショウが好きなんでしょう?」と、訊く。
「エッ!?」
「隠しても駄目よ。ちゃんと顔に書いてあるもの。でも、仕事中は忘れた方がいいわ。とんでもないミスをすることになる」
「ありがとう」
トンプソンが、「私にも銃をくれ。身を守る武器がないと、何もできない」と、頼み込む。デビッドが、腰のホルスターからコルト・ガバメントを抜きトンプソンに渡す。
トンプソンが、銃をデビッドへ向け、「もう嫌だ。私はここから脱出する。そんなにラプトルに喰われたいなら、あんたらだけで行け!」
トンプソンは、銃をデビッドに向けたまま後退りしてドアから外へ出て消える。
「私に任せて! ほうっておけないでしょう」と、ユリが言う。
ショウが、「一人で大丈夫か。ボクも行こうか」と、助け舟を出す。
ユリが目を伏せ、「いいの。私だけで十分よ」
「がんばって!」
ミミが耳もとで、声援を送る。ユリは、トンプソンの後を追う。
食料庫は、ドーム型になっていて、天井が高く広い。
デビッドたちは、周りをグルリと取り囲むバルコニーから様子を見ている。フロアには、箱や袋のままの食料品が山積みになっている。その間を、緑の地に赤い縞のトカゲが七、八頭動き回っている。
デビッドが、双眼鏡を覗きながら、「あの、ドアだな」と、指摘する。
「今回は、どんな作戦で?」
イワノフが訊く。
デビッドが、優柔不断さを見せるが、「やはり、正攻法でいこう。イワノフ、オオタ、ミミ、私の四人で隊伍を組み進攻する。ショウ、きみはここからライフルで私達を援護してくれ」と、命令する。
そして、ショウへ8ミリ狙撃用ライフルを渡しながら、「これが弾丸の矢だ。この矢には強力な神経毒が仕込まれている。ラプトルだろうが一秒ももたないだろう」
「私たちきっと、生き残るわよね」
と、ミミが自分に言い聞かせるように呟く。
「もちろんさ」
イワノフが、請負う。デビッド、イワノフ、オオタ、ミミの四人がフロアを奥へ進んでいる。ショウはテラスの上へ腹這いになり、スタンド付きのライフルのスコープの中を覗いている。デビッドの手が震えている。
「いくぞ!」
「さあ、ショウの始まりだぜ!」
オオタが、わざと陽気にいう。
「ファイトよ」と、ミミが気を奮い立たせようとする。
イワノフが、「きっと、大丈夫さ」と、ミミへ親指を立ててみせる。
四人が最初の食料品の山に到着する。ところどころに、品物が山のまま積まれ、恐竜のスクリーンになっている。斜め前方から、一匹緑の体に赤い縞のトカゲが現れる。細長い顎を開け、シャーという威嚇の声を上げる。四人が魅入られたように立ち竦んでいると、斜め後ろの山からもう一匹のラプトルが跳躍して、四人の後方五メートルのところに飛び降りる。すかさず、ショウがライフルの引き金を絞る。矢がトカゲの首に突き刺さり、ラプトルはゴボッと白い泡を吐き倒れる。
ショウが、ヘッドホン・マイクで、「油断するな!」
それを契機にラプトルが三匹、左右前方から影のように突進してくる。
「クソったれが!」
四人は、一斉にM1L10を撃ち捲る。タタタとリズミカルな銃声が響き渡り、ラプトルが血を吹き出しながらフロアに沈む。弾は食料品にも当たり、破片を撒き散らせ、惨憺たる有様である。四人は、食品の箱の山に沿って進む。
ミミの頭上で「シャー」という威嚇の声がする。見上げると、ラプトルが箱の上へ立っている。まさに飛び掛からんとするその瞬間、トカゲは白い泡を吐き落ちてくる。
ミミが、ヘッドホン・マイクで、「ありがとう!」
「隠れているがまだ十匹はいるぞ。ここからだとよく見える」
「そんなにか」
デビッドは、明らかにビビッている。ラプトルが一斉に姿を消す。
オオタが、「デビッド、ひとつ訊いておくんだが、怒らないでほしい。きみはこういった指揮をとったことがあるのか?」と、訊く。
「いや、ない。でもシミュレーションでは何回も経験している」
デビッドが、平然と答えるが、声が少し震えている。
イワノフが、安心させるように、「実戦も訓練も同じだ。基本に帰れさ」
「やさしいのね。でも女性の前で”クソッタレ”なんて下品な言葉を使わないで!」
と、ミミ。
フロアでは、四人の前の山で、カサッという音がする。
イワノフが、銃を力強く握り締め「くるぞ!」
その声と同時に六匹のトカゲが同時に襲いかかる。タンタンタン。タンタンタン。タンタンタン。混乱と喧騒の中で戦闘が始まる。
中二階のテラスでは、ショウがライフルのスコープを覗き込んで一発射つ。ショウが、ラプトルが白い泡を吐き倒れるのを見て小さな声で、「よし!」と、叫ぶ。ショウの後ろで「シャー」という音がする。ショウは、恐る恐る首を捻って後ろを振り向く。緑の体に赤い縞のトカゲが立っている。「シャー」と、再び威嚇の声を上げる。
一階ではハイテク銃火器が、次々にラプトルを倒していく。四人は一挙に目的のドアに向かって走っていく。
一方、中二階のテラスでは、緑色のトカゲが跳躍し、ショウの背中へ飛び乗ろうとする。前足の鉤爪がショウの背中を切り裂こうとする瞬間、体を躱す。ライフルをラプトルに向けるが、鉤爪で蹴り上げられ手放してしまう。ショウは、サバイバル・ナイフを構えるが、コーナーにジリジリ追い詰められる。
一階のフロアでは、ドアの前まで四人が辿りつく。
デビッドがドアを叩きながら、「だれかいますか!」
三人は、銃を左右に向けてラプトルの襲撃を警戒している。
デビッドの問い掛けにも反応はない。
「病気で動けないのかもしれないわ」
「ドアを吹き飛ばそう!」
イワノフ、指向性爆弾を仕掛け、スイッチを押す。
バンと音がしてドアが前に吹き飛ぶ。次の瞬間、犬が五匹勢いよく飛び出してくる。イワノフ、口笛を吹く。
「やっぱり、ペットだったの? こんな危険を冒して来たのに」
オオタが、「もうここにいる必要はない。早く撤退しようぜ」と、提言する。
「そうだな」
デビッドも同意する。
中二階のテラスでは、ショウがトカゲに追い詰められている。
ラプトルは、飛び掛かる格好をする。
しかし、急にゴボッと口から白い泡を吐き崩れ落ちる。
その向こうにライフルを持ったユリの姿がある。
「あなたの姿が見えたものだから」
「ありがとう。もう駄目かと思ったよ。ところで、トンプソンは?」
ユリは、溜め息を吐き、「逃げられたわ。ラプトルに殺されちゃうのに」
「さもなければ、はなカミキリかあの巨大クラゲにね」
ショウは、昨夜のユリとのことを思い出していた。その時、資料室には二人きりだった。
「どうもイワノフが怪しいわ。スパイかもしれない」
「シェークスピアに詳しいからかい?」
ショウが気色ばんで訊く。
「そんなことどうでも・・・」
ユリがショウの唇に唇を重ねる。
「いや、ダメだ!」
「アリサさんがいるから?」
「いまは任務中だ」
「そうね」
メイン・コンピューター”マザー”の声が、アナウンスで、「自動爆破命令が発動されました。爆発まで二時間です。できるだけ遠くに避難して下さい」と、思いがけないことを放送する。
デビッドが、動転して、「自爆?」
「トンプソンだな」と、イワノフが推測する。
「馬鹿なことをするわ」
上からラプトルが飛び降りて来る。オオタがすばやく、ミミを突き飛ばし、「危ない! と叫ぶ。しかし、自分も転がり銃も落としている。丸腰のイワノフが、ミミを受け止める。ミミの銃も、床を滑って行く。ラプトルは、オオタのすぐそばにいて襲いかかろうとしている。デビッドは、スミス&ウエッソン四四マグナムを持ったまま立ち竦んでいる。オオタが、哀願の瞳をデビッドに送る。しかし、デビッドは、蛇に睨まれたカエルのように動けない。
「デビッド!」
イワノフが叫ぶ。
その声に反応したのはラプトルの方だった。鉤爪でオオタの腹部を切り裂く。血が飛び散り、腸がはみ出し倒れる。
「デビッド!! 何をしている! 射て!」
デビッドが、二回、三回引き金を引く。イワノフもM1L10を拾い、射ちまくる。トカゲはバラバラになって、後ろへ吹き飛ぶ。また一頭、二頭とラプトルが現れる。
「デビッド! 逃げるんだ! 切りがない」
イワノフが、茫然自失のデビッドの手を引っ張って走り出す。右手では、ロケット・ランチャー付きの銃で撃ち捲くる。ミミも、M1L10で襲い来るラプトルを殺していく。その時、床の下から、ドスンという大きな音がし、穴が開き、海水が吹き出し巨大クラゲの触手が何本も出て来る。イワノフが触手に捕らえられ、触手の口が開き飲み込まれる。ラプトルも何頭かが食べられている。
この触手の大きさからいっても、クラゲ全体が、いかに巨大かがよくわかる。表皮の硬さや柔らかさ、大きさや形をどうも自由自在に変化させることが可能のようである。
デビッドとミミは、縺れるようにして床の穴に流される。
中二階のテラスでは、ショウとユリが、この地獄図を眺めている。
「まるで地獄に落ちたダンテになった気分だわ」
外壁に穴が開いたのか、海水が入って来ているが、防護壁が閉まり、排水装置が稼働しているせいか、水面の上昇が落ち着いて来ている。いまは、食料フロアの箱の上の方が見える程度である。高さ二メートルぐらいまでが水に浸っている。泳いでいるラプトルへ触手が伸びパクッと飲み込む。
ショウが、「上のデッキへ行こう。ここにいると危ない!」と、誘う。
ショウの目の前を太い触手が通っていく。いまは透明になっているために、触手の中がよく見える。その中をトンプソンが蠕動により運ばれていく。消化されかかっていて、真赤な血の固まりにも見えるが腹に大きな銃創があいているのがわかる。
ユリが、「たぶん、飲み込まれる前後に、銃で自殺したのね」と、痛ましそうに目を背ける。
「でも、クラゲでも、触手で、ものを食べるものなんかわたしの知っている限り見たことないわ」
「たぶん、ぜん虫を掛け合わせたんじゃないかな。オオタがいったようなね。それとも、トンプソンがいったように深海には我々の知らない未知の生物がいるんだ」
食料庫の下のデッキの通路。海水と一緒にミミとデビッドが流されていく。ミミが階段に辿りつき、デビッドを踊り場へ引き上げる。そして、マウス・トウ・マウスでデビッドに人工呼吸をする。デビッドは、ゴボッと水を吐き蘇生する。
「助かったわ」
デビッドは、魂を抜かれたように膝をかかえている。ミミは、床に水に濡れた武器等を並べている。コルト・ガバメント一丁、弾倉二個、手榴弾三個、トランシーバー一個、サバイバル・ナイフ一丁である。
デビッドが、流れる海水を見ながら、「ぼくがオオタを殺したんだ!」と、ポツリと言う。
「自分を責めたって仕方ないわ」
そして、ひとり言で、「私こんな雰囲気苦手なんだけどな」
その時、クラゲの巨大な触手が海中から数本現れる。
ミミを狙っている。ミミは凍りついたように立っている。
デビッドは、身を引いて逃げようとするが思いとどまる。
デビッドが、触手に飛びつき、「クソッタレが!」と叫ぶ。
触手はデビッドの下半身を飲み込む。
デビッドの体で覗いているのは、上半身だけである。デビッドは、振り回された時にうまく手榴弾を取り、捩じる。
「ミミ、逃げろ!」
デビッドが叫ぶ。ミミはトランシーバーと銃を摑んで、脱兎のごとく階段を登る。ミミが振り返ると透明な触手の中に、ハッキリと人を助けた満足そうだが悲しそうなデビッドの笑顔が見える。
ミミが、「デビッド!」と叫ぶ。
バーン、すさまじい爆発が起き、踊り場が炎に包まれる。ミミは、炎に嘗められ通路に飛び出す。この階の通路には、ミミひとりしかいない。
「わかったわ、デビッド。運命は自分で切り開くべきものよね」
メリル・ヤン研究所の原子炉は、吹き抜けのホールで、ずっと上、ずっと下までの空間がある。ショウとユリが、その梯子を登っている。ここには、何メートルかごとに周りを取り囲むテラスがある。
ショウとユリは、そこに辿りつき、一息つく。デッキへのドアが開いているのが見える。
ショウが、悲しそうな顔で、「ユリ、きみが軍のスパイだったんだね。きみが“ロミオ”だ。トンプソンを殺したのもきみだ」と、告発する。
「なんのこと?」
ユリが訊く。
本当に何のことかわからないようである。
「きみは男だ」
「私が男? 頭がおかしくなっちゃったの?」
「「とぼけなくていい。いつか、君のホテルに行ったとき、便座が上がっていた。女性は便座を上げて用は足さないよ」
「バカバカしい」
「軍のスパイだ。性別・履歴なんてどうでも書き換えられる」
「私は女よ」
「それに」
「それに?」
「トンプソンの腹に大きな穴が開いていた。もし、自殺して、前から撃ったんなら、前は小さな傷で、背に大きな穴が開いているはずだ。あれは、背中から射たれた証拠だ」
「そんなこと知らないわ」
「それに、トンプソンは発見されたとき、ある人物を抱きしめようと、両手を広げ、近づいてきた。(もちろん“ハムレット”という研究所のスパイはトンプソンだよ。)あのとき、ぼくは相手をデビッドだと思ったんだけど、果して男が男を抱きしめ、キスするかな? あれは、女に対する動作だ。そして、デビッドの後ろにはきみがいた。たぶん、きみは軍人で、トンプソンとは面識があったんだ。そうだとすれば、トンプソンのあの行動も納得できるし、何の不思議もない」
ユリは毅然として、ショウを見詰める。
「きみはイワノフがスパイだと仄めかした。でも、なぜ仲間の中にスパイがいることを知っているんだ? 天宮博士とナオミとぼくしかしらないことを。いわゆる、犯人しか知り得ない秘密というやつだ」
ショウは、悲しそうな顔で続ける。
「それに、きみのシェークルピアに関する知識は半端じゃない。イワノフの口にするセリフの引用をことごとく言い当てた」
ユリは、暫く黙っていたが、「頭いいのね。そうよ、私がトンプソンを殺して、自爆装置をセットしたの。こんなことが公になったら、軍の名誉も地に落ちるわ。一生懸命国を守っているのに」
「それが、あの生物兵器を作ることなのか?」
「理想主義者のあなたには、一生わからないわ。私の両親は、テロリストに殺されたのよ」
ユリは、スミス&ウエッソン三七五マグナムを、ショウに向ける。
「きみが中野博士とウー博士のものを?」
ユリが、ポケットからUSBを取り出し、「ここにあるわ。トンプソンから取り上げたの。たしか、これがあればアリサが助かるのよね?」と、告白する。
ショウは、テラスから足を垂らして、下を見ていて、ユリが少し離れて拳銃を構えている。ユリは、ギョッとする。ラプトルがヌーッと現れ、ショウを狙っているのだ。ユリがバン、バン、バンと緑のトカゲを狙う。ラプトルは、すばやく反応し、蹴り上げる。USBが、宙に舞い、床に落ちる。ユリは背中を切り裂かれ、テラスから落ち掛ける。ユリはそれでも全弾をラプトルに打ち込み倒す。確かに、総弾数は六発なのに、五発しか射てなかった。どこかで一発撃った証拠だ。ショウは、その手を取り落下を防ぐ。ショウが、右手でユリの右手を持ちぶら下げている。
「どうして? ぼくを見捨てれば助かったのに?」
ユリが、ニッコリ笑い、「さあ、なぜかしら? たんなる気まぐれよ」
ガーンと基地が揺れ、少し傾く。USBが滑り、そばの鉄柵のバーに掛かって止まる。しかし、今にも下に落ちそうである。ショウとユリは、それを見ている。
「私のことはいいから、それを拾って」
ショウが首を振り、「駄目だ、きみを見捨てることはできない」と、真剣な顔でいう。
「いつも女に甘いのね」
USBは、下へ落ち見えなくなる。ショウとユリの手は、汗で滑り外れそうになり、ついには離れる。
ショウが、落ちて行くユリを見て「ユリ!」と、涙を流す。
ユリは、「愛していたわ」と、空中で悲しそうな笑顔を見せる。
研究所全体へ、”マザー”が「爆発まで三十分。できるだけ遠くまで避難願います」と、警告を流す。
しかし、ショウは、何もやる気がしなくて大の字に寝ている。無力感に苛まれているのだ。その時、そばのトランシーバーが鳴る。
「こちらミミ。だれか応答願います」
その声からは、生きようとする健気さが感じられる。ショウは、起き上がる。
二階上のデッキの食堂の前で、ミミとショウが再会する。
「他のみんなは?」
ミミは、首を振り「みんなやられちゃった。デビッドも死んだわ。私を助けるために犠牲になって」
「ユリも死んだ」
ショウも悲しい顔をする。
「みんな死んだのね。でもわたしたちは死なないわ! ネ?」
「この先を曲がったところに脱出艇がある。それで逃げよう」
ショウとミミはそちらへ向かうが、前にラプトルが何匹か、立ちはだかる。武器はショウのM1L10、スミス&ウエッソン四五マグナムとミミのコルト・ガバメントだけである。ショウがM1L10を撃ち続けるが、弾が切れる。
「こちらからは駄目だ。反対側から行こう」
反対に取って返すが、行き止まりで階下も水浸しになっている。
「たしか、階下から壁の向こうにでられるはずだ。三十メートルほど潜るだけでいい」
「それしか道がなさそうね」
二人は、水に飛び込み、三十メートル向こうのデッキへ出る。
ショウが、床に上がりながら、「この向こうに脱出艇がある」と、説明する。ショウとミミは、曲がりくねった通路を行くが、ギョッとして立ち止まる。深海艇の前の入口に、ラプトルが一匹立っているのだ。深海艇の中を覗き、「シャー」という威嚇の声を出している。
「クソッたれめ!」
ラプトルが振り向き、二人を見つけ「シャー」と、威嚇の雄叫びを上げる。”マザー”の声が「爆発十二分前」と続けている。
ラプトルが、こちらに突進してくる。
「クソッタレ!」
ミミも、汚い言葉を吐く。
ラプトルに向かって正確に、コルト・ガバメントの弾を全弾射ち込む。ラプトルが崩れ落ちる。ラプトルを手で退けて、ハッチを閉める。その床に、白っぽい糞が落ちている。
「爆発十分前です」
ショウとミミが脱出艇に乗り込み、席につく。ショウが、操縦パネルを操作する。脱出艇の機能が、始動し、すべての装置がオンになる。
ミミが、ほっと息をつき、「助かったのね?」
”マザー”が、「爆発八分前」と、危険を告げている。
脱出艇が、進水する。
ミミとショウは、抱き合って喜ぶ。
「可哀相なユリ。ユリはあなたのことが本当に好きだったのよ」
ショウは、沈痛な面持ちで「わかっている」
ミミは、ショウに軽くキスする。
「”くそったれ”という言葉が好きになりそうだわ」
ショウが、「なんだい。それ?」と、訊く。
「私に勇気を与えてくれる言葉よ」
表示は、”爆発六分前”となっている。
ショウとミミが、前部の操縦席についている。
後ろで、カサッという音がする。ショウは、後ろを振り向くが何も見えない。恐る恐るゴーグルを掛けると、はなカマキリの姿が見える。ショウが、ミミに目で合図する。ミミは、ショウの左のホルスターから抜き取り、振り向き様に、スミス&ウエッソン四五マグナムを、全発撃ちきる。透明なはなカマキリは、バタッと倒れて、死ぬ。そして、死骸のまま姿を現わす。
脱出艇が、海底研究所を離れる。
その時、海底研究所の壁の一部が割れ、巨大クラゲの触手が脱出艇のアームを捕らえる。ショウとミミの体が、衝撃で揺れる。
「何かに捕まった。たぶん、あのお化けクラゲだ」
「どうすればいいの?」
「アームで電気ショックを与えよう」
ショウが、電源のスイッチを押す。十万ボルトの電流が流れる。
クラゲの力が一瞬弱まる。
脱出艇は、その触手の隙をスルリと縫って、海上へ向かう。
メリル・ヤン海底研究所が、カウント・ダウンで核爆発する。
はなカマキリ、ラプトル、巨大なクラゲが一瞬にして、殲滅する。
「来るぞ!」
すさまじい衝撃波が脱出艇を襲う。
脱出艇が、海上へ向かって、浮かび上がっている。ショウが、無線機で、「メーデー、メーデー」、と叫ぶ。しかし、核爆発の電磁波のため、電子機器が使用不能になり、脱出艇の中は真っ暗である。
海上に脱出艇が、プッカリ浮かび上がる。核爆発の嵐が過ぎ、青空が広がっている。ショウとミミは喜びからキスをする。数時間後。遠くにビーグル号が見え、近づいてくる。
「みんな無事なの?」
ナオミが、スクリーンへ映っている。電子機器を直したのだ。
「ここにいるのは、ボクとミミだけだ。みんな死んだ。それに、中野博士たちの研究は、文字どおり海の藻屑と消えた」
「きみたちが助かっただけでも幸いだ。アリサには、またチャンスがあるさ」
天宮博士が、失望を隠して言う。
「早く帰ってきて! 美味しい食事が待っているわ」と、ナオミのやさしい声がする。
「アイアイ・サー。もう、当分水なんか見たくない気分だナ」
ミミが、笑顔で、「でも、早くシャワーを浴びたいワ」
完』
「フー」
一平は読み終えて、ため息をついた。
「これはSF小説じゃないか? “ハムレット殺人事件”だから、ハムレットを演じる役者が死ぬか、シェークスピアの劇の中で殺人事件が起きると思ったのに・・・」
「おあいにくさま。そんなに単純じゃないの。モダンでしょう?」
マリアが笑った。
「予想できないよ。クリスティーの“ABC殺人事件”だったら簡単すぎるし」
一平が、両手を広げた。
「ボクは、この前きみが『ABC予想の証明』を紐解いていたのを知っていたし、隣の図書室にはマクベスやハムレット、ロミオとジュリエットというシェークスピアの本があるのを見たから、それを読んでいるときに思いついたと考えたのに・・・」
「それは正しいわ。望月新一教授の論文を読みながら、ふと思いついたの」
「でも、全然難解なトリックじゃない」
「これは、和也、大助、俊彦くんに読ますために書いた小説よ。あの三人は私のファンだから・・・」
「ボクが小学生並みの頭だってことか?」
一平が気色ばんだ。
「プッ」と、ゆきちゃんが吹き出した。
そのとき、ちょうど明かりがついた。
「ネエ、それよりみんなで『どうぶつの森』をしましょうよ」
「もう、そんなのばっかりなんだから」
そういう一平も楽しそうだった。
『秘宝島ツアーの冒険』の巻
登場人物
浅川滝子(65) …大金持ち。会社会長。
吉田虎彦(35) …滝子の伯母。会社員。
吉田由美(30) …虎彦の妻。派手な美人。
リリー …由美のペット。スピッツ。
有森良一(50) …公務員。
有森美奈(45) …良一の妻。
春休みも終わりに近づいた日。外では、ホーホケキョと鶯が鳴いている。一平の部屋にマリアがお邪魔している。
一平はビールを飲んでいる。
「私も欲しい」
「まだ、小学生は駄目! IQ200以上でもネ」
「でも、頭は大人の一流の博士並みよ」
「体は子供だよ!」
一平は、全然相手にしない。
「もう、都合がいいときだけ、子供なんだから」
マリアが頬を膨らませる。
「それでも、駄目!」
「ぼくは、勉強さえすれば、マリアがいなくたって全てAを取る自信はあるんだ」
「はい、はい。わかっていますよ」
マリアも、生返事をする。
「ねぇ、一平ちゃん、今度の土曜日なんだけど、二泊三日の秘宝島ツアーに参加しない? 旅行会社が用意した宝を探すイベントなの」
「もう予約しているんだろう?」
一平も、最近マリアの考えというか行動に精通しているのである。
「当ったり。ねぇ、いいでしょう」
「詳しいこと教えろよ」
「『秘宝島ツアー』っていうんだけど、場所はこの東京都の南の島。クルーズ船で一日かかる島で参加者は二十名程度かな」
マリアが説明する。
「ぼくらはだれだれ参加するんだい?」
「私たちとゆきちゃん、耕作叔父夫婦、友達の和也くん、大助ちゃん、俊彦くんよ」
「また、あの悪ガキ三組か?」
一平がウンザリしたように言う。
「耕作おじさんがお目付け役ということかい?」
「叔父さんは、なんでもお仕事があるそうよ」
マリアが、一平を少し睨む。
「それに、和也くん、大助くん、俊彦くんは、いい人よ。一平ちゃんと同じく、私の親衛隊だし」
「だれが、マリアのファンだって?」
一平が気色ばんで反応する。
「一平ちゃんよ。私の色気にクラクラなんでしょう」
マリアがからかう。
「でも、行きたいのは山々だけど、フランス語と数学の抜き打ちテストがあるんだ」
「普段、私は寝室に男を入れたりしないのよ。その反対も」
「わかっているよ」
一平が、うんざりしたように言った。
「私が、教えてあげるわ。また、CIAやMI5のスパイ・グッズを使えばいいんじゃない?」
マリアがいとも簡単に言う。
「それとも、プライドが許さないってわけ」
「でも、そのツアーも魅力的だ!」
一平が、未練がましく言う。
「それじゃ、決まりね」
「でも、この前のようにやりすぎるなよ。全科目超Aなんて、無茶すぎる」
「私は、中途半端が嫌いなの。完全主義者だから」
「それを止めろといっているんだ」
一平が釘を刺した。
高等数学の研究室で、一平が森川教授と対峙している。
「また、やってくれたな」
一平が小声で囁く。
「すごいじゃないか? きみにかかれば『フェルマーの定理』なんて子供騙しに思える。それに、これで、ペレリマン博士の『ポアンカレ予想』が間接的に正しいことが証明されることになる」
森川教授が絶賛する。
“もう、だれが世界一の数学者になれといったんだ?”
と、一平が心の中で呟く。
一平は、マリアの部屋での会話を回想していた。
「数学を制するものが、世界を征服するのよ。たとえば、どんな暗号も解けるとなると、ケイマン諸島の銀行から幾らでもお金を引き出せるし、ロシアやアメリカの原潜から核ミサイルを飛ばすこともできるの」
「そんな?」
「もし、私が、007の敵の世界征服を企むマッド・サイエンテストだったらどうする?
スペクターの一員かもしれないわよ」
「何か本気に聞こえるぞ」
「冗談よ。せいぜいウオール街のクオンツになるぐらいで満足するわ。グリフィンやミュラーやアマネスやワインシュタインぐらいのね」
「何者だい? 彼らは?」
「数式を引っさげて登場したファンド・マネージャーよ。大金持ちになった」
マリアが説明した。
「一平ちゃんなら、たぶんグリフィンが好きになるわ。とにかく派手なのよ。八千万ドルのジャスパー・ジョーンズの絵画を購入したり、パリのベルサイユ宮殿で結婚式を挙げたりしたの」
「それは、すごいね」
一平は、憧れの目をして言った。
一平が天を仰ぐ。
秘宝島ツアー当日、港の桟橋に、豪華な客船が停泊している。これが秘宝島ツアーの船である。マリア、一平、ゆきの三人が到着する。ラッシーも同行している。和也、大助、俊彦の悪がき三人組が待っている。
マリアがニッコリ笑う。
「お待たせ!」
三人組が、みんな笑顔でオッス! と、挨拶する。
「なにがオッスだ。しかし、思ったより立派な船だな」
一平も客船を見る。
「フェリーを想像していたんだけど、マスコミ用の宣伝よ」
ゆきが推理を述べる。
「オーイ、マリア」
美咲耕作と優子夫人が船のデッキに立っている。
耕作は三十半ばのガッシリした好男子で奥さんの優子さんはやさしい顔立ちの美人である。マリアたち一行が、豪華客船に乗り込む。
豪華客船の中で、マリアたちが窓際の席について外の景色を楽しんでいる。
サンタ・マリア号が出航する。
ラウンジでは、主催者側が明日の宝さがしツアーのルールや客室の部屋割りを説明している。マリアたちは、はしゃいで耕作から注意されている。
PM七時三〇分。
サンタ・マリア号のラウンジ。
ディナーが始まっている。
美咲夫妻、ゆき、小学生三人組が一つのテーブルを占めている。マリア、一平、吉田夫妻、浅川夫人、有森夫妻が、隣のテーブルについている。
吉田夫妻は三十代の美男美女のカップル、浅川夫人は六十代の頑固そうな老女、有森夫妻は五十を過ぎた感じの夫婦だった。
吉田由美夫人は、スピッツを連れており、彼女がキャンキャン鳴く度に、浅川夫人が黙らせなさいと喚いている。
そのスピッツは、ミリーと刺繍された首輪をしている。
「一平さんはM大学の学生さんだけど、ご専門は?」
由美夫人が、一平に訊く。
「経済です」
「私の主人もM大学の卒業なのよ。医学部だけど」
「そうなんですか?」
一平が親しみを籠めて言う。
「独立するのが早すぎたんですよ。あのまま大学病院にニ、三年いれば、箔が付いたのに悪徳金融業者なんかにひっかかって」と、浅川夫人。
「伯母さん、だから少し借金させてくださいと、頼んでいるじゃありませんか」
吉田氏が、周りの目を気にして、頼む。
「駄目ですよ。ご自分の蒔いた種は、自分で刈り取りなさい。もし、その女と別れたらお金を融通してあげるわ」
浅川夫人が、意地悪な目付きで宣告する。
「そんな事できるはずはありません」
「あなたはその女の本性を知らないのよ。その女は・・・」
「伯母さんは、誤解しているんですよ」
由美夫人は、うなだれて黙ったまま口を開かない。
そのテーブルには、気まずい雰囲気が漂っている。
「マリアちゃんの趣味はなに?」
有森夫人が、気まずさを吹き飛ばそうと聞く。
「パソコンかナ?」
「ゲームかなにか?」
「まあ」開発なんだけどという言葉は、飲みこむ。
「子供は集中力があるからね、大人顔負けの力を発揮することがある」
有森氏が青い顔で言う。どうやら、船酔いらしい。
「そうかもしれない」
マリアは無邪気に微笑んでいる。
「マリアは、世界一頭がいいんですよ」
一平は苦笑いして心の中で叫ぶ。
船は静かに進んでいる。波があるようだが、揺れは感じない。
「船に酔ってしまったみたいです。すみませんが、この辺でおいとまさせていただきます」
有森氏は気分が悪そうに言う。
「あなた、大丈夫?」
「顔が青いですわ」と、由美夫人。
有森氏は、夫人に付き添われて部屋を出て行く。
「後で、お薬を届けますよ」
吉田氏が、その後ろ姿に向かって声を掛ける。
「私も、これで失礼しますよ。夜ふかしは身体に毒です」
浅川夫人も、サッサとラウンジを後にして出て行く。胸に大きなダイヤのネックレスをしているが、痩せた身体には不似合いである。
PM八時三十分。
ラウンジで懇親会のパーティーが始まる。八人の楽団が軽快な曲を演奏している。
「八人の楽団員が? まるでタイタニックね」
マリアが一平の方に目を遣って言う。
「不吉なことを言うなよ」
一平が真面目な顔で言う。
「冗談よ。一平ちゃんは、いつも本気なんだから」
「あんまり生真面目すぎると、女の子にもてませんよ」
和也が一平の方をニヤリと見る。
「そうだよ」
「同じ意見!」
と、俊彦いと大助。
一平と彼等は、マリアへの恋のライバルなのだ。
「お前らに、そんなことを言われるまでもないよ」
「まあ、まあ落ち着いてよ。一平さん!」
ゆきも笑いを噛み殺してなだめる。
マリアが、叔父さんの横のソファに座って聞く。
「警視庁きっての名探偵が、今日はどんな捕物なの?」
「シッ、声が大きいよ。今日は、休暇で来ているだけだし、表向きはしがない会社員なんだからな」
美咲警視が窘める。
「へーつ、美咲さん、刑事さんなんだ」
和也が感心して言う。
「バリバリの警視よ。奥さんの優子さんは検視官。夫婦揃って桜田門に奉仕しているの」
「すごいや」
「マリアのアドバイスのおかげだよ。私に取ってマリアは幸運の女神なんだ」
一平は、ウンウンと頷く。
「今日は一体何なの?」
マリアは、興味津々である。
「誰にも云うんじゃないぞ」と、美咲警視が、声を潜めて言う。
マリアと一平と少年探偵団は、ウンウンと頷く。
「あの部屋の隅に目立たない男がいるだろう」
地味な服を着ている四十五~六の中年の男である。
「あいつは川瀬修一といって、有名な宝石泥棒なんだ。あいつが浅川夫人の、宝石を狙っているという情報が入っている」
「あの、おばあさんの?」
一平が頷く。
「あの浅川夫人は、ああみえても大金持ちなんだよ。夫が莫大な遺産をのこしたんだ」
「すごい。まるで、怪人二十面と明智小五郎だね」
マリアは単純に喜んでいる。
ラウンジには、一平たちのすぐ後ろに吉田夫妻がいる。
「先程は見苦しいところをお見せしまして申しわけありませんでした。伯母さんも由美のこととなると、人が変わっちゃうんです」
吉田氏は、美咲警視に向かって言い訳をする。由美夫人は、寂しそうに微笑んでいる。
「たぶん、それだけあなたのことを愛しているからですよ。嫁と姑は、難しいですから」
PM九時十五分。
ラウンジでは、マリアが、美咲優子、吉田由美を相手にマジックをしている。一平、ゆき、三人組がギャラリーである。同じタネなので、一平は辟易している。
「(テーブルの上へ封筒を置き)優子さん、一から五十までの間で好きな数字を選んで下さい。二桁の数字の場合は両方とも奇数にして下さい。ただし、十と一の位の数字はちがうようにしてください」
優子夫人、紙の上に35と書く。
マリア、テーブルの上の封筒から35と書いた紙を取り出す。
「由美さん、例えば六角形、四角形、八角形のような簡単な図形を一つ書いてください」
マリア同じように封筒を置く。由美夫人、三角形を書く。
マリアが封筒を開けると中味は三角形である。
「ゆきちゃん、A、B、C、Dの中から一つ選んでください」
今度も二人とも同じくCである。
「うちの主人もマジックをやるんです。鳩を出したりカードを使ったりするやつだけど」
由美夫人が、夫のことを話す。和也、大助、俊彦はアイドルを見るような目つきでマリアを見ている。
PM九時三0分。
ラウンジでは、マリアが四枚のポーカーチップと一つの封筒をテーブルの上へ並べる。
「和也くん、これからこの赤、白、青三枚のポーカーチップの中からあなたが何色を選ぶか予言してみせましょう。テーブルの上の封筒にはあなたが選ぶ色のチップが入っています。いいですか?」
「いいよ」と、和也。
「どれでもいいから、ポーカーチップを二枚取って下さい」
和也は、青と赤のチップを取る。テーブルの上には白が残ることになる。
「それでは、そのどちらかを私に渡して下さい」
和也は、青のチップを渡す。手には赤のチップがあることになる
「大助ちゃん、封筒を開けてみて!」
マリアは、青のチップを白のチップの横へ置く。果して、封筒の中からは赤のチップが出て来る。「やったア」と俊彦が叫ぶ。
しかし、この手品はいつも同じだった。
PM九時三五分。
ラウンジでは、由美夫人が一平とゆきを部屋隅へ連れていく。
「夫が見当たらないの。たぶん、叔母さまのところに借金のことで言っていると思うの。悪いんだけど、一緒に付いて行ってくださらない。お願い!」
一平は、ゆきと顔を見合わせる。
「いいですよ」
PM九時四五分。
デッキの浅川夫人の客室の前。
吉田虎彦がちょうど出て来るところで、中へ向いている。
一平、ゆき、由美夫人がやって来る。
「いくらお金の無心をしたって駄目ですよ。あなたがあの女と別れるなら出してあげてもいいわ」と大きな浅川夫人の声がして、虎彦が「ちょっと話だけでもきいてくださいよ」と、言っている。
最後は、呆然としてドアのノブを握っている虎彦の目の前で「駄目なものは駄目です」と、ドアがピシャリと閉められる。
「どうでした」
由美が夫へ聞く。
「全然話にならない」
その時、由美夫人の腕の中のミリーが起きてキャンキャン鳴きだす。
「ちょっと有森さんに酔止めの薬をあげてくるよ」
虎彦は、手前隣りの客室へ入って行き、二~三分で出て来る。
一平とゆきが少し離れたところでその様子を見ている。
「吉田さん達、ピンチみたいね」
ゆきが一平に囁く。
PM九時五〇分。
ラウンジでは、吉田夫妻が美咲夫妻と一緒に、アルコールを飲みながら歓談している。
PM一〇時〇〇分。
ラウンジでは、一平、ゆき、マリア、三人組が部屋の隅のテーブルについている。
「ねえ、マリア。さっきのマジックのトリックを教えてくれないか?」
一平が訊く。
「知りたい?」
和也、大助、俊彦が、「知りたい! 知りたい!」と、一緒に助け舟を出す。
「簡単なことなのよ。心理学を応用したの。まず数字当てでは、かなりの人が35か37を選ぶのが統計でわかっている。図形では、三角形。ABCDでは、Cといった具合よ」
「もし37なんかを選んだら」
「あっち、こっちのポケットに封筒を用意していて、それと摩り替えるの」
マリアは、ニッコリ笑っている。
「それじゃ、ポーカーチップのトリックは?」
「あれも子供騙しよ、もし、和也くんが青と白のチップを取れば、テーブルの上の赤を選んだ、ということに持っていき、それでお終いにすればいいの。もし、青と赤を取って、私に赤を渡せば、〝これが選んだ赤のチップですね“と云えばいいの。封筒には赤のチップが入っているんだから。言葉のマジックよ」
「ペテンだ」と、一平が叫ぶ。
「(ニッコリ笑い)マジシャンというものはペテン師よ」
マリアは一平を見る。
「それに、私はシャーロック・ホームズでもあるの。間違えっこないわ」
「いま言ったことは、もっともらしく思えるけど、真実はまったく違うの」
「どういうこと?」
「マジシャンは、もっと高度な確率と心理トリックを使うっていうことよ」
マリアが説明した。
「だったら、このマジックの真相を教えてよ」
和也が訊いた。
「自分の頭で考えて!」
マリアは笑った。
「それに、女には二つや三つの秘密があってもいいでしょう?」
「いつもそうなんだから」
「うまく逃げられたんだよ」
俊彦が説明した。
PM一〇時三〇分。
三人組の客室。マリアが遊びに来ている。
「マリアちゃん、もう夏休みの宿題の自由課題はしたの」
「もうできたわ。あなたたちは?」
「僕は、東京スカイ・ツリーをマッチ棒で作ったんだ」
「ボクは日本アルプスの植物探集」と俊彦。
「オレは東京中の駅のスタンプラリーだよ」
大助も笑顔を見せる。
「マリアちゃんは?」と、三人揃って聞く。
「私は童話を書いたの」
「ワァー、さすが女の子っぽい」
「女の子っぽい?」
「いや、マリアちゃんは、十分レディーだよ。一平さんのマリアちゃんを見る目が違うからね。たぶん、一平さんはマリアちゃんが好きなんだ。女としてね」
一平が聞けばブッ飛ぶ言葉だが、俊彦が言ってのけた。
「一平ちゃんが?」
マリアは 笑い転げる。
「でも、一平さんは本気だよ」と、大助。
「一平さんも男だから、隅におけないからね」
「そうか、一平ちゃんがね」
マリアの童話である。
『「空を飛ぶ人魚」
むかし、むかし、南の人魚の国に、心のやさしい人魚の小さな王女さまがいました。
ジュリエットは、黒い長い髪と黒い瞳が似合う、非常に美人のお姫さまでした。
いつも南の太陽の下にいたものですから、肌も小麦色で、いかにも健康そうです。
お父さまの国王様は、強く立派な方で、家来や国民から頼られていましたし、お母さまのお妃様はやさしくて女らしい人で、みんなからしたわれて愛されていました。
二人のお兄さまと三人のお姉さまも、妹のジュリエットを大変可愛がっていました。
ジュリエットは歌が大好きな、お転婆の女の子で、とても好奇心の強い女の子でした。
だから、ときどき夜にこっそり城を抜け出し、海の上へ行きました。
南の星空はとてもきれいで、まるで宝石が散りばめられているようです。
たまに、沖には漁船などの漁火が見えることがあります。
そんな時、ジュリエットはお母さんに抱かれているような、なつかしい気持ちになったものです。今夜もジュリエットは真夜中に部屋をこっそりと出て、冒険に出掛けました。
王子さまやお姫さまは、一人にひとつの部屋がありましたので、見回りの家来をやり過ごせば、簡単に外に出ることができたのです。
今夜は大きな嵐が来ると、遠くの魚が知らせてくれていました。
だから王様たちもそれを警戒していて、みんなにも、そのことを伝えていたのですが、ジュリエットは嵐というものを、一度見たくてたまらなかったのです。
海の中も大荒れに荒れていました。しかし、ジュリエットは海の上へあがっていきました。ジュリエットは、泳ぎにも自信があったのです。ジュリエットが水面から顔を出すと山のような波が押し寄せてきました。
嵐の真正中にいたのです。最初の波をまともに喰らい、大きな船に頭をぶつけてしまってジュリエットは気を失ってしまいました。気がついて、また海から顔を出すと一面は氷の世界です。ペンギンやあざらしの姿も見えます。
「ここは、どこですか?」
「お嬢さん、南極だよ。一面氷の大陸だし、ペンギンもいるだろう? 北極じゃないよ」
と、皇帝ペンギンが言いました。
「きみは、きっと赤道に近いところに住んでいる人魚だろう。肌が日に焼けている」
「よくわかるわね」
「それに、口のきき方が上品だからきっとプリンセスだ」
「そうよ。王位継承者」
美しい人魚はそう答えました。
「私は、ジュリエットよ」
「ぼくはクルー・カットのジョジョだ」
「変な名前ね」
「南極なんか来たことがないだろう。だったら、ぼくたちと暫く一緒に住めばいい。魚の捕り方もわからないだろう?」
「ありがとう。親切なのね」
「ジェントルマンだからね」
ジョジョはそう言って、凍っていない洞窟の水たまりにジュリエットを連れて行って、家族に紹介しました。
パパとママと弟と妹の四人家族です。
「でも、家というかお城の人も、さぞ心配で捜索しているんじゃない?」
ママが心配して言いました。
「王様もお妃様も、きみがこんな地の果てまで流されたことを知らないだろう? 帰る道もわからないんじゃないのかい?」
「でも、一つだけ方法があるの」
ジュリエットは、夜空の白鳥座を眺めながら言いました。
「この笛よ。いま、鳥を思い出しちゃったの」
「なんだい? そのハトの形をしたものは?」
「オカリナといって、きれいな音色がでる簡単な楽器よ」
ジュリエットは、首から下げているハトの形の笛を差し出しました。
「それじゃ、さっそくそれでSOSをした方がいい。パパもママも心配している」
ジョジョが提案しました。
「この南風さんがきみの助けをきっと伝えてくれるよ」
ジュリエットがオカリナを吹くときれいなメロディが流れました。それを南風さんが赤道の方へ運んでいきます。
「また助けがくるまで時間がかかるから食事にしようよ。お腹がペコペコだよ」
ジョジョの弟が提案しました。
「そろそろね」
出された魚を食べ終えるとジュリエットが口を開きました。
「救助部隊が助けに来てくれるってことよ」
「こんなに早く?」
パタパタという音が大きくなるのに気づいて、みんなは洞窟の外へ出てみました。
王様とお妃様が乗った空飛ぶひらめが、一個部隊を引き連れてやってきたのです。
「あなた方がジュリエットを助けてくれたのですね」
「どうも、ありがとうございました」
王様とお妃様は、ひらめから降りて、お礼を述べました。
「どうぞ! これは、姫を助けてくれたお礼です」
王様は、後続の補給部隊から、暖かい南国で捕れた珍しい魚やサンゴなどを山積みにして言いました。
「こんなにたくさんのお土産をもらっては、困ります」
「あのオカリナで、ジュリエットは大変お世話になったから、お礼をもってきてくれるように頼んできたのです」
「あのオカリナにはそういう意味もあったのね」
ジョジョの妹が、さもありなんという顔をしました。
「それじゃ、また改めてお礼に参りますので今日のところは失礼します。ジュリエットを医者に診せなければならないので」
「どうもありがとうございました」
パパが恐縮してお礼を述べました。
「やっぱり、ジュリエットは人魚のお姫様だったんだ」
その空飛ぶひらめたちを見ながら、ため息をつきました。
「空飛ぶひらめ、空飛ぶ人魚ってカッコいいじゃない!」
ジョジョが、感想を述べました。
「でも、あのオカリナといい、空飛ぶひらめといい、ハイテクかローテクかわからないわね」
ジョジョの妹が感想を述べました。
「これをあげるよ。この洞窟にしか咲かないんだ」
ジョジョは、青い薔薇の花を、ジュリエットの髪飾りとして、長い髪に刺しました。
「さようなら」
「また会えるわ」
ジュリエットは笑顔をみせました。
ジュリエットは、暖かい南国の海底にあるお城に戻ると、医者にジュリエットを診察させました。
「頭の傷は治っていて、他にはどこにも傷とかはありませんね。一晩寝れば疲れは取れるでしょう」
「ジュリエット、もう夜遊びはやめなさい、これでこりただろう」
ジュリエットは、朝起きると、すっかり元気になり、王様やお妃様に昨日の出来事を詳しく話しました。
「きみは夢でもみていたんじゃないのかい?」
と、王様が言いました。
「だってお前の話には矛盾したところがあるよ」
「そうよ。お話し自体がおかしいもの」
「だって、私はちゃんと南極にいたでしょう?」
「私はお前の話を信じるよ」
王様もお妃様も、ジュリエットが低体温症で夢を見ていたとお医者様から聞いていたのです。全て夢だと・・・。
「わたしもよ。ジュリエットを愛しているもの」
お妃様は、ジュリエットを抱き締めました。
ジュリエットは朝鏡を見て驚きました。
青い薔薇の花の色が真っ赤に変わっていたからです』
「すごい。空飛ぶひらめや人魚って発想はだれも思いつかないよ」
和也が、お世辞を言った。
「それでは、なぜ王様とお妃は、ジュリエットが夢を見ていたと思ったのでしょうか?」
マリアが質問した。
「ひらめが空を飛ぶなんてことはあり得ないから」
俊彦が推理した。
「青い薔薇の花は存在しない」
和也が知ったかぶりをしました。
「いまは、遺伝子操作で青い薔薇の花も作れるのよ。それをお妃様が、ジュリエットが寝ているうちに差し替えたとも考えられるわ」
「その可能性はあるね」
「オレにはわからないな?」
大助が、素直に白状しました。
「それじゃあ、答えを教えてあげるわ」
マリアが、エヘンと声を出しました。
「だって、南極からだと、絶対白鳥座は見ることができないんだもの。緯度の関係でね」
「推理小説でいうミス・ディレクションだね。白鳥から、空飛ぶ鳥から、ひらめを思いついたように見せたんだ」
一平が講釈した。
「一平さんはわかっていたの?」
和也が訊いた。
「もちろんさ。これでも大学生なんだぜ」
一平は、少し赤くなって答えた。
「わからなかったのネ」
マリアが、だれにもわからないように、ひとり言を呟いた。
「これは、童話じゃないわ。立派なミステリーよ」
「アンデルセン風だね」和也が感想を述べる。
「楽しい物語だね」と、大助が笑った。
「これは、夢なんだからね。でも、あの空飛ぶひらめはいいね」
俊彦がドライな批評を述べる。
PM一一時〇〇分。
ラウンジでは、美咲夫妻、吉田夫妻、一平、ゆきがいて酒を飲んでいる。
一平の顔は真赤である。火災報知機が鳴り、乗務員がデッキ上を走ったりして、慌ただしい。バンドマンも手を止める。
PM一一字一〇分。
ラウンジに一等航海士が入ってくる。
「この中に警察の方、お医者様はおいでになりませんか」
美咲警視が手を上げ、航海士のところへ行って事情を訊いている。
「優子、吉田さんちょっと来てくれませんか? どうも、火災が出て人が死んだとか、重症だとか?」
美咲警視は、すぐに帰って来る。
有森夫妻の客室近くの倉庫は、デッキから引っ込んでいて、煙が上っている。
やじうまが現場を取り囲んでいる。マリアたちも珍しそうに様子を伺っている。
「子供たちは、部屋に帰っていなさい」
美咲警視は、それを目敏く見つける。
美咲警視が船長に挨拶し、優子夫人、吉田医師とともに、現場に入る。一平、ゆき、由美夫人は後ろから様子を覗いている。
倉庫の中は、スプリンクラーが働いて水浸しである。まだ煙が籠っている。
美咲警視は半分焼け焦げた死体を見る。顔はきれいなままである。
「やつ、これは! 浅川夫人!」
「伯母さん!」
吉田氏は青褪めた顔で、美咲警視はこの死体の発見者に話を訊いている。
優子夫人は、死体の検死を始める。
「死亡推定時刻は?」
美咲警視は、ハンカチで鼻を押さえている。
「解剖してみないと詳しいことはわからないけど、午後九時から十時の間ね。多少のずれはあるけど」
「私が伯母さんに最後にあったのが、午後九時四十五分頃ですから、犯行はそれ以降ですね」と、吉田氏。
深夜のサンタ・マリア号の美咲夫妻の客室。
マリア、ノート・パソコンに記録しながら美咲警視の話を聞いている。
「一番怪しいのは、ただ一人の身内である吉田夫妻だ。浅川滝子の死亡で、天文学的な遺産が手に入るんだからな。彼らがサラ金から脅迫まがいの取り立てを受けていることもわかっている。しかし・・・」
「完璧なアリバイがあるんでしょう」
「そのとおり。浅川さんの声は一平くんたちが聞いているし、隣の各室の有森夫妻もその遣り取りを耳にしている。おまけにうるさいミリーの鳴き声もね」
「浅川さんの部屋から無くなったものは? 何かあるんでしょう?」
マリアが鋭く訊く。
「吉田夫妻が言うには、宝石箱の中の宝石がごっそり無くなっているらしい。金額は知らないそうだがね。だから、強盗殺人の線も捨てられない」
「あの火事の原因は何なの」
「どうも犯人が放火したらしい。灯油缶と簡単な時限発火装置も発見されている」
「犯人は、なぜそんなことをしたのかな?」
マリアは首を傾げる。彼女が考える時のくせである。
翌朝の島のリゾート・ホテルでは、秘宝ツアーの一行がホテルに缶詰めにされている。
ツアー客が文句を言っている。
そのリゾート・ホテルのゆきとマリアの部屋に一平も来ている。
マリアはテーブルでノート・パソコンのキーを叩いている。
「犯人は逮捕されたの?」
「あの川瀬とかいう人が宝石を盗みに入ったところを浅川さんに見つかって殺しちゃったという噂よ」と、マリア。
「でも、彼は、全面的に犯行を否認しているらしい」
「でも、彼のポケットから宝石が出てきたと聞いたわ」と、ゆき。
「模造品がね。彼はそんなものは知らないし、そんな紛い物を盗むはずはないと主張しているそうだよ。それに彼には完璧なアリバイがあるんだ」
「伯父さんが四六時中見張っていたからでしょう。それで伯父さんが相談に来たわ」
「マリアは、誰が犯人だと思う?」
「決まっているじゃない。浅川さんをなぜ燃そうとしたかがキー・ポイントなのよ」
マリアが、自信たっぷりに言う。
「一体、犯人はだれなんだ?」
「もう少し待って。証拠を見つけなきゃ」
「名探偵はいつもそう言うんだよな」
リゾート・ホテルの一平の部屋。
一平とマリアの二人だけである。
「これじゃ、罠にかけるしかないわ」
「駄目だ。この前、そのためにきみは死にそうになったんだぞ!」
「いいの。そのことは考えなくても。今度犠牲になるのは、一平ちゃんだもの」
「ごめん。でも、いま一平ちゃんって言わなかった?」
マリアがパソコンのリターンを押すと、少し長いメッセージが浮かび上がってくる。
一平は、ホテルの裏へ吉田夫妻を呼び出し、温やかに次のような告発をしている。
あなた方が犯人で、もう逃がれようがないから、すみやかに自首しなさいという内容である。
その前に、マリアからレクチャーをうけていた。
『浅川夫人を殺した犯人は、吉田虎彦、由美夫妻。動機はずばりお金。犯人の決め手、なぜ海に捨てる方が簡単なのに、手間暇かけてわざと火をつけたのか? それは、もし死体が発見されなければ生死不明で七年間遺産を相続できない。また、火をつけたのは、死体を早く発見させて、自分達のアリバイを完璧にするため。トリックは、まず虎彦が九時一五分頃、伯母さんを怒らせ大きな声を出させる。それを隣室の有森さんに聞かせる。またその声を録音しておく。そして、ミリーを鳴かせ、有森夫妻に酔い止め薬と称して睡眠薬を与える。九時三〇分頃伯母さんの部屋を再び訪れ、殺して、倉庫へ運ぶ。この際、灯油を撒き、発火装置を仕掛け十一時にセットする。九時四五分頃、由美夫人は、一平ちゃんとゆきちゃんを証人とするべく伯母さんの部屋へ連れていく。虎彦は、頃合いを見計らって、ドアを少し開け、小型のレコーダーで伯母さんの大きな声を聞かせパント・タイムを演じる。由美夫人はミリーを鳴かす。虎彦は有森夫妻の部屋に入り、何もせず少しして出てくる。これが真相よ』
マリアが、理路整然と推理した結論である。
一平は、ホテルの駐車場で、一平と吉田夫妻が対峙している。
「一体、いくらほしいんだ?」
「一億円といったところですかね?」
「そんなにあるわけないだろう。お前なんかに一円でもおしい」
虎彦が、ポケットからサバイバル・ナイフを取り出し、一平の首に当てる。
「そんなの、許されるわけがないでしょう」
すぐそばの壁の影で、マリアの声がして、スタンガンが虎彦の首に当てられる。
ビビビッと、大きな音がして、虎彦がぶっ倒れる。
「僕ら、少年探偵団が、悪を見逃がさないよ」
和也が決めゼリフを言う。
「なによ。あんた達、急に出てきて! みんな、ぶっ殺してやる!」
由美夫人が落ちたサバイバル・ナイフを取り上げ、マリアへ向かって来る。
「ごめんね」
マリアは、バッグから取り出したティーザー・ガンを由美に向け、引き金をひく。
釣り針状の電線が由美に刺さり、バリバリバリと由美に電撃ショックが襲う。
「私を甘く見ないでね」
と、マリアがニッコリ笑う。
由美夫人が気絶する。
「人は進歩するものよ」
マリアは、一平に抱きつき熱い接吻をする。
「もう、湖では泳いだりはしないわ」
「今回は許せるよね」「命を賭けたんだから」「でも、嫉妬しちゃうナ」
和也、大助、俊彦の三人たちの感想である。
“でも、どっから、あんな武器を?”
美咲耕作と優子夫人の部屋である。
マリアと一平が頭をさげている。
「この前のことといい、今度のことといい、何かあったら、我々警察に相談してくれよ」
「あなたたちが心配なのよ。彼は! マリアちゃんが大好きなの。私が妬けるぐらい」と、優子夫人が笑顔をみせる。
「すみません」と、二人は再び頭を下げる。
マリアとゆきの部屋にマリア、美咲夫妻、ゆり、一平、三人組、駐在さん、ラッシー、ミリーがいる。
ミリーも、大人しくしている。
吉田夫妻は、二人とも固く口を閉じて宝石の在り処を吐かない。
「川瀬にイミテーションを握らせたのも、虎彦がぼくたちの話をきいたからだと思う。だけど、ケチッて、ボロを出した。犯行の証拠になりますからね」
一平が、捕捉する。
「どこにあるかは、ハッキリしているわ。あの強欲な由美さんが動物なんか可愛がるはずはないもの。きっと、このツアーの前に買ったのよ」
マリアは、意外なことを口にする。
そして、ミリーを抱きかかえ、首輪を外す。
首輪の裏側に切れ目があり、ポケットの中から、ダイヤやエメラルドなどの宝石が出てくる。
「ほんとうに、秘宝島ツアーだ」
一平が目を丸くする。
「ワォー、すごいや!」
三人組が叫ぶ。
美咲博士の屋敷の一平の部屋。
一平は、また恋愛ゲームに夢中になっている。
マリアが、急に後ろから、一平に抱き着く。
「一平ちゃん、何してるの?」
「マリアか、ああびっくりした!」
「また、十年後の私をクドこうとしているの?」
一平は、黙っている。
「実際の私と、バーチャルの世界の私とは違うのよ」
「一平は、だってマリアはこのゲームを自信もって作ったんだろう?」
「でも現実の恋愛は、夢にみる恋愛はちがうかもね。いつも、マリアは危険なことばかりして、パパが心配するぞ!」
「パパには、内緒にして、お願い!」
マリアが、両手を合わせて頼む。
「今度、デートしてあげるから」
「どこへ行く?」
一平が、やさしく聞く。
「それじゃ、アルファ・イン・ホテルでどう?」
「もしかして?」
「そう、ラブホテルよ。あそこの朝食って美味しいのよ」
一平がズッコケる。
「冗談はよせよ!」
「冗談よ」
マリアが、笑い転げる。