5.なろうエッセイ・批判系エッセイ(過去作は検索除外しているのでこちらから)
正しさの反対側にあるのって何だろう、そんなことを主観的に考えてみた。
たまに「正義の反対とは何か?」みたいな言葉を見かけます。まあ、「悪」や「別の正義」という答えが返ってくることが多いのかな、どこにでもあるありふれた質問だと思います。
そうですね、「客観的に」見ればそうなのでしょうね。私も、その答えに異論を挟もうという気はありません。
……ですが、これを「主観的に」見たらどうなるのか、ふとそんなことを考えてしまいまして。「主観的な正しさ」の反対側にあるのは何だろう、と。
まあ、「自分の中にある正しさ」と矛盾する「他人の正しさ」は語れませんよね。他人の正しさは、どこまで行っても他人の正しさです。主観で語れることではないでしょう。
そして、「悪」を「悪」として語るというのは、「正しさ」について語っているのと同じことだと思います。
つまり、人間というのは、主観的な「正しさの評価軸」を一つしか持つことができない。だから、「正しいか否か」という考え方のまま「正しさの反対側」を考えても、その答えは多分「正しさの評価軸」の上にある。でも、それはきっと「主観的な正しさを語る」ことと何も変わらない訳で。
だから、「主観的な正義の反対」はきっと、正義や悪で語れないところにあるのかなと。……そこまで考えて、ふと思ったのです。
――「主観的な正しさ」の反対側にあるのって、実は「正直」と「礼儀作法」なのかな、なんてことを。
◇
私は、「正しい怒り」という言葉が好きです。
そうですね。怒りというのは厄介な感情です。抱えたまま行動すると、大抵の場合、ろくな結果になりません。
ですが、怒りという感情が全て悪いとも思いません。怒ってもいい時、怒ることが正しい時、怒るべき時、生きていればきっと、そんな時もあると思います。
私は、「正しい怒り」という言葉が好きです。だから、どうすれば正しく怒ることができるのか、今までに何度か考えたことがあります。
――ですが私には、どうすれば「正しく怒る」ことができるのか、どれだけ考えてもわかりませんでした。どうすれば「正しく怒る」ことができるのか、想像することすらできないでいるのが実情です。
◇
いつだって、怒りは唐突に訪れます。
その度に私は、できる限り怒りを鎮めて、冷静さと自身の正しさを取り戻してから、行動に移します。
その行動の途中で、鎮めた怒りを取り戻すこともあります。その怒りはきっと、最初の怒りよりも正しい怒りなのだと思います。
――でも、最初の怒りの方がきっと、「正直な怒り」なのかななんて、そう思う時があるのも事実です。
◇
そして、落ち着いて周りを見渡せば、怒っているときには見えなかったものが見えてくる、そんなこともあるかも知れません。
その怒りがどれだけ正しくても、素直な感情だとしても、その怒りで誰かを不快にさせているのかも知れません。その怒りは誰かを怖がらせる怒りなのかも知れないのです。
時に、正しさよりも素直さよりも、和を重んじるべき時もあるでしょう。和を乱さないためには「正しい怒り」も「素直な怒り」も相応しくない、そんなことだってあるはずです。
――自分の都合で他者を不快にさせない。「礼儀を重んじる」とは、そういうことだと思います。
◇
私は、「正しい怒り」という言葉が好きです。正しく怒れるようになりたいと望んでいます。
ですが、そのためには「怒りを制御する」ことを考えなくてはいけない。正直であろうとするのはその後で良い。自分の感情は自分で面倒を見なくては、正しさを支えることも、周りに気を配ることもできない。
だから、「正しく怒る」ためには、正直な、ありのままの自分であってはいけない。
――そして、それでもなお、ありのままの自分は持ち続けなくてはいけないと、そう思うのです。
◇
正しく怒るためにはきっと、怒りに振り回されないだけの、怒りで消えないだけの強さを持った「正直さ」と「礼儀作法」が必要で。
そしてそれは、「正しさ」だけではない。「正直さ」や「礼儀作法」も、きっと一緒です。
「正直さと礼儀作法を欠いた正しさ」も、
「礼儀作法と正しさを欠いた正直さ」も、
「正しさと正直さを欠いた礼儀作法」も、
それはきっと、意味もなく場を乱し、人を傷つけ、不快にさせるものになってしまうのかなと。
――そんな「正しさ」や「正直さ」や「礼儀作法」に、一体どれほどの価値があるのでしょうか?
心のままに動くのならただ正直に動くのではない、「誠実に実直に」動くべきで。周りとの調和を願うのなら礼儀作法をなぞるだけでない、敬意と節度を伴った「礼節ある態度」で接するべきで。
そうすればきっと、間違いを正したいという怒りにも、一本の芯を通すことができると、そう思うのです。
◇
覚悟のない正しさは醜くて、共感できない正直さには価値がない。そして、形だけの礼儀作法に意味は無いのです。そんな発言を繰り返しても、その言葉はきっと、時が経てば消えてしまう、蜃気楼のようなものになってしまうのではないでしょうか。
――だから、書いた文章はちゃんと見直した方が良いと思います。
正しさ、誠実さ、礼節、その時々で最も大切なものがあるでしょう。それを曲げなくても良いと思います。ただ、どう言えば伝わるのか、どんな言葉なら背負うことができるのか、常に考えるべきです。
そのためには、どれか一つだけでは駄目だと思うのです。反対側にある「足りないもの」を考え、言葉にして書き加えなければいけないと、そんな風に思うのです。
だから、正しいと思うことを書いたのなら、誠実さや礼節を忘れていないか。思ったことを素直に書いた結果、過ちや無礼を犯していないか。その場を取り繕うために偽りや信じてもいない言葉を吐き出していないか。そういったことに、しっかりと気を配るべきで。
そして、何かを理由に他の何かを切り捨てて、「これで良い」と言い訳をしていないかを確認するためにも、書き上げた文章は一度見直した方が良いと思います。
――そうして文章を見直して、足りない言葉を重ねていけば、きっと、自分自身がいつまでも残しておきたいと思えるような文章になっていくのかなと、そんな風に思うのですが、どうでしょうか。
◇
人間っていうのは矛盾だらけで。一見美徳に見えるような言葉にだってそれは潜んでいます。だから、「こうすれば理想に届く」なんて答えは、多分どこにも転がってません。
それでもきっと、答えを手に入れた気になって思考を停止しなければ、少しずつ、いろんなものを積み重ねていけるのかなと。
そうすればきっと、未熟な正直は誠実さに、なぞっていただけの礼儀作法は礼節になって。
――そうやって、いろんなことを積み重ねて。人間というのは成長していくのかななんて、そんな風に思います。