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夏の蜃気楼  作者: サワヤ
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第9章 喧騒の中で

「いってらっしゃい」と菜々が言った。


「ああ」俺は答える。


「いってきます、でしょう?」


「いってきます」


「えらい!」


 菜々が俺を褒めた後、俺は鞄を持って部屋を出た。夏物のスーツ、晴れた空。プレゼンテーションの仕事を午後に控えているのに、駅へと向かう俺の足はなぜか軽かった。


 菜々が俺の部屋に居候するようになって1週間が過ぎた。1ヶ月間姿を見せなかった菜々。しかし1週間前の夜に突然現れ、それから俺の部屋に住みつくようになった。ベッドを使う権利は日替わりで、権利のない日は床に布団を敷く。暗黙のうちにそれがルールになった。居候にベッドを使う権利が半分あること自体おかしいのだが。


 大井町駅の改札を通り、りんかい線に乗る。普段通りの通勤混雑。椅子に座れるはずもなかった。


 朝の不快な電車に揺られながら、菜々のことを考えた。


 どうして素性の知れない女を住まわせているのか。理由は簡単だ。俺はきっと、菜々のことが好きなのだ。


 恋愛感情というわけではない。それでも俺は菜々という人間を受け入れ、さらには好意的に思っている。


 もちろん菜々は怪しい人間だ。何者なのか、どうして俺にまとわりつくのか、何もわからない。俺は彼女のことを好意的に思ってはいるし、彼女に騙されてもいいという覚悟もある。しかし心から彼女を信用することまではできない。


 それでも俺は、菜々を受け入れないわけがないのだ。なぜなら彼女は、礼奈の外見を持っているのだから。


 人の魅力はどこで決まるのだろう。外見、表情、性格、人格、声。あるいは頭脳や運動、仕事や芸術などの能力の高さだろうか。少なくとも俺は、菜々の外見が礼奈のそれと同じでなければ、彼女を受け入れることなどしなかっただろう。いや、できなかっただろう。


 菜々がどんな性格で、どんな価値観を持っているのか、俺には何もわからない。それでも俺は彼女を受け入れる。ある程度の部分までは。


 人は見た目よりも中身だ、そんな言葉をどこかで聞いた。中身とは何だろう。仮に、それは性格のことだとしよう。では中身が良いということは、性格が良いということになる。


「あの子は性格が悪いらしい」


 高校生の時、クラスの女子がそんなことを話していた。性格が悪い、とは何なのか。性格が良い、とは何なのか。例えば誰からも愛されていて、誰に対しても優しい態度の女の子がいたとする。しかし彼女は心の中で自分以外の全人類を見下している。そして彼女の心中は、誰にも気付かれることがないと仮定する。その場合、彼女は性格が悪いのだろうか。


 いや、それは性格が悪いということにはならない。彼女の心中がどうであろうと、彼女以外の人にとって彼女は良い人なのだ。実際には、態度に表れてしまったり、言葉に表れてしまって性格が悪いと思われてしまうこともあるだろう。しかしそういった綻びが全くないとしたならば、心中がどうであれ、それはもう良い人なのだ。


 結局、性格の良し悪しなどその程度のものなのかもしれない。他人が勝手に判断するだけ。自分にとって都合の良い人、価値観が近い人、無意識に好意を持つような人、そういう人のことを勝手に性格が良いということにするのだ。


 今まで俺が付き合ってきた幾人かの女の子達。彼女達は多かれ少なかれ、俺にとっては魅力的な容姿を持っていた。顔立ちが整っている人もいたし、あるいはそうではなくとも可愛らしい雰囲気を持っていた。


 友達にしても、醜い容姿の人はほとんどいない。もちろん友達ならば、容姿など関係ない。関係ないが、そもそも出会ったばかりの醜い人と積極的に会話しようと思うだろうか。友達として仲良くなろうと思うだろうか。


 よほど思い入れがある人や、何かしらの大きなきっかけで仲良くなったという人を除けば、わざわざ醜い人と友達関係を続けたりはしない。少なくとも俺はそうだ。



 俺はこんなことを考えているなどと誰かに話したら、きっと俺は性格の悪い人間ということにされるのだろうな。




 電車は新宿駅に着いた。ドアが開き、乗客が一斉に降りていく。俺もまた、その1人だった。


 人混みに流されながら、改札を目指して歩く。大勢の人がせわしなく歩き、地面を揺らした。電車の発着音。あちらこちらから人の声が聞こえた。あまりにも多くの雑音が新宿駅には集まっていて、何が何の音だかわからなくなっていくような気がした。



 そんな喧騒の中。



 確かに俺はその声を聞いた。



 突然、心臓が激しく動き始めた。血液が身体中を巡っていく。筋肉がこわばり、脳は点滅した。


 その声の主は俺のすぐ後ろにいる。振り向けば目の前だ。俺と同じように、彼女もまた人混みの中で歩いている。偶然、あまりにも偶然に、彼女は俺のすぐ後ろにいるのだ。


 しかし俺は振り向くことができずに、変わらない速度で歩き続けた。


 彼女は誰かと話している。おそらく電話だ。何の話をしているのかはわからない。聞こえてはいるが、俺の脳がその会話内容までは理解できない。その声が、彼女のものであるという事実を整理することに精一杯なのだ。



「そうそう。だから先に行っててくれる?」



 間違えようもない。それは礼奈の声だった。

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