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夏の蜃気楼  作者: サワヤ
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第13章 私の番

 礼奈との約束、その当日である土曜日17時30分。俺はジャケットを着て、傘を持ち、それから部屋を出た。予報通り、外では雨が静かに降っている。雨を見るのは随分と久し振りな気がした。雲に覆われた空を傘で遮り、俺は大井町駅へと向かって歩き出した。


 結局、俺は『底やり』で礼奈と会うことにした。『底やり』の3階フロアには個室があるし、それなりに落ち着いた雰囲気を持ちながらも、大衆居酒屋の気楽さも兼ね備えている店だからだ。


 やがて駅に着き、改札を抜けた。りんかい線に乗り、大崎で山手線に乗り換える。ふと気付いた時、俺は新宿に着いてしまっていた。


 腕時計を見る。18時25分。待ち合わせの19時までは時間がある。そもそも礼奈のことだ、19時には現れないだろう。どこかで時間をつぶすしかない。


 とはいえ、どこか喫茶店に入ってのんびり待つという気分でもない。とても落ち着けないのだ。体を動かしていたかった。用事もないが、新宿の周りを歩くことにしよう。


 これから俺は、礼奈と会う。長く、長く俺を苦しめ続けた礼奈。どうしようもなく俺にとっての憧れである礼奈。その礼奈とこれから会う。これから何が起こるにせよ、俺はきっと今日のことを一生忘れないのだろう。俺にとって、今日はそれほどの意味を持つ日なのだ。


 しかしなぜだろう。そこまで緊張はしていない。落ち着かないが、しかし体が震えるというほどでもない。きっと大丈夫だ。昔の友達と会うだけだ。俺はともかく、少なくとも礼奈はその程度の気持ちで来るだろう。



 新宿駅の東口に出る。土曜日、しかも雨が降っているにもかかわらず、相変わらずの人混みであった。交番の前では多くの人が立ち止まって携帯を熱心に操作している。


 俺は念の為、礼奈がそこで待っていないかと目を凝らした。しかし今は集合時間の30分前だ。あのルーズな礼奈がいるはずはないのだが。


 いるはずがなかったのに。


 礼奈は紺色の傘を差して、その人混みの奥に立っていた。彼女は何をしているわけでもなく、ただそこに立っていた。強いて言うなら、どこか遠くをぼんやりと眺めているようであった。


 そんな彼女の横顔に、俺は見とれてしまった。新宿の喧騒の中で、彼女だけが淡く輝いて見えた。


「……あ!」


 礼奈は俺に気付いたようだった。その時俺はようやく我に返り、礼奈に向かって歩いた。


「礼奈、いつからいたんだ?」


「ついさっき。優樹こそ随分早いね」


「まあ。それよりこんなに早くにいるなんて、本当に礼奈か?」


「どういう意味?」


「いや、いつも遅刻してくる……」


「昔の話でしょ」


 そう言って礼奈はすっ、と歩き出した。


「さて、どこだっけ。確か三丁目の方だよね」


「ああ」


「それなら新宿三丁目に集合でよかったんじゃない?」


「礼奈の言う通りだ」


「ま、いいよ。歩くの嫌いじゃないからさ」




 俺と礼奈が『底やり』に着いた時、まだ19時にもなっていなかった。予約をしていたのは19時30分からであったが、店員が気を利かせて個室を用意してくれた。


「優樹。ジャケット」


「あ、ああ。ありがとう」


 礼奈は俺のジャケットを受け取ると、ハンガーに掛ける。俺と礼奈が席に座ると、店員が言った。


「お決まりでしたら、お飲み物だけでもお伺いします」


「ジンジャーハイをひとつ。優樹は?」


「生ビールをお願いします」


「かしこまりました」


 俺はポケットから煙草の箱を取り出し、テーブルの上に置いた。礼奈はそれを見て目を丸くして、それから微笑んだ。


「どうぞ」


「あ、いや、ポケットに入っているのが邪魔でさ」


「何をそんな。どうせ吸うんでしょ」


「礼奈は?」


「吸わない」


「それなら吸わないよ」


「ま、お好きにどうぞ」


 やがて店員がビールとジンジャーハイを持ってきた。それを受け取りながら、礼奈は焼き鳥とエイヒレを頼んでいた。


「それじゃ、乾杯!」


 礼奈はそう言うと、ジンジャーハイを一気にグラス半分まで減らした。


「すごいな」


「私、結構強いんだよね。それにしても……」


「それにしても?」


「なんだか不思議でさ。私は今、優樹とお酒を飲んでいるんだから」


「わかる。本当に不思議だ」


 いくらSNSで画像を見ていたとはいえ、俺の中での礼奈は高校生だったのだ。それはきっと、礼奈にとってもそうなのだろう。


「優樹は今、何をしてるの?」


「旅行会社で働いてるよ。まだまだ大変だ。礼奈は?」


「銀行。働きやすいと言えば働きやすい。この前も有給だったんだ」


「へえ。そういうところ、しっかりしてるよな」


「私のこと?」


「そう」


「なんかしたたかな女、みたいな言い方」


「そういうつもりじゃねえよ」


「あはは。段々、昔の優樹に戻ってきた」


 そう言う礼奈は嬉しそうであった。


「どういうことだよ」


「優樹のくせに、なんだか気を使っててさ。大人のフリなんかしなくていいのに」


「……わかったよ」


 俺は煙草を咥えて、ライターで火をつけた。


「ま、どうせ吸うとは思ってたよ」


 礼奈はそう言って鼻をつまんだ。


「お前が気を使うなって言ったんだろ」


「あはは」


 礼奈の、礼奈らしい笑顔に俺が見とれていると、焼き鳥とエイヒレがやってきた。



 さて。俺はどうする。


 今日、当たり障りのない話をして、それで終わり。それでも悪くない。だが、俺はどうしようもない。礼奈と会えるのは、今日が本当に最後かもしれない。あるいはまた何年後かになるかもしれない。


 踏み込まないといけない。伝えなければいけない。俺にとっての礼奈は、どういう存在なのか。俺がどれほど、礼奈のことを。



「なあ」


「ん?」


 礼奈は焼き鳥を頬張っていた。


「礼奈は、その」


「何?」


「彼氏とか、いるのか」


 礼奈は焼き鳥を持つ手を止めた。何かを感じたようだった。それから再び焼き鳥を食べ始める。やがてその一本を食べ終わると、串を串入れに入れて、それから俺を見た。


「ごめんね。あの時は」と礼奈は言った。


「…….いつのことだよ」


「私は逃げたね。優樹の優しさに甘えた」


「優しさなんかじゃない。俺は告白の返事を聞くのが怖かっただけだ」


 礼奈は俯いて、しばらく黙っていた。が、再び口を開いた。


「優樹の中で、もうあんな前のことなんてどうでもいいことになっているんだと思っていたよ」


「それは……」


「優樹は私に彼氏がいるかどうかを聞いただけ。でもね、私だって女だ。会話ひとつで、嫌でも気付いてしまうこともある」


「つまり、どういうことだ」


「詳しいことはわからない。でも、優樹にとっての私はきっと……」


「ああ。ただの高校の同級生じゃない。昔好きだったこともある、程度でもない」


「優樹は今日、私に何かを言いにきたの?」


「そうだ」


「普通の女の子なら、どうにかこの話をはぐらかそうとするんだろうな」


「でも礼奈は違う」


「そう。でも、優樹にこれ以上迷惑はかけられない。だから今日は、私が話すよ」


「迷惑だなんて思ったことはない」


「あの時、大学に入る前。町田に行ったよね。私は返事をしなかった。そしてその後、連絡もしなかった。優樹から連絡が来ないなら、きっと大学で彼女でもできたんだろうって」


「それは間違いじゃない」


「それからもっと前。優樹は私に、告白してくれたね。今となってはもう随分前のことだけれど」


「ああ」


「だから私はもう、優樹に恥をかかせたくないんだ。今日は私の番」


「俺は……」


「聞いてくれる?」


「わかった」


「優樹にとって、私がどれほどの存在なのかはわからない。でも、きっと優樹は私のことを大切に思ってくれている。もし私が勘違い女だとしても別にいい」


「勘違いなんかじゃないよ」



「最初の質問の答え。私は今、彼氏はいない。それどころか好きな人すらいない。でも」


 礼奈は深呼吸をして、続けた。



「でも、私にとって、優樹はただの高校の同級生なんだ。それ以上でも、それ以下でもない」



 意識が遠のいていくのを感じた。



「ありがとう、優樹。そしてごめんなさい。私はもう優樹と会うことはない。連絡をすることもない。どうか、元気でね」







 そこから先の記憶はない。



 気付いた時、俺はジャケットを着たままベッドの上にいた。電気は点いていない。目覚まし時計を見ると、日曜日の19時30分だった。


 どうにかして礼奈との飲み会を終え、なんとか部屋に帰ってきたらしい。それから一日中寝ていたのか、あるいは起きていたのか。


 何もわからない。


 何も覚えていない。



 俺は現実を、受け入れられなかった。



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