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あじさいの咲くころに (201806)

作者: 靄霧霞

※この作品はフィクションです。

※日本の方言を参考にした言葉遣いをする人物が登場しますが、

 実際の方言とは異なるものです。


銕蔵      :てつぞう。天才剣士。

おしち     :舟宿の奉公人。

先生      :ある徒党の主。額が大きい。

坂谷      :銕蔵の幼馴染。





 

「剣士さま、来ないなぁ」

 ある時代が終わらんとする末期、みやこにて、ある舟宿のすぐ近く。

 語るほどの強いなにかなどなにもない、ただの樹木があった。

 その樹のかたわらにいるのはある年若い娘だ。

 娘の口にはゆるいため息。

「忘れちゃったのかな」

 彼女は約束をしていた。ある男と。

 それは、花が咲いたらともに見ようというものだ。

 だが、見頃になっても男は現れなかった。

「こんな綺麗に咲いたのにさ」

 ふわりとまとまった、美しくも可憐な花たち。

 それは、梅雨ごろの天の下にあって、澄み渡った空のような爽色だった。




***



     あじさいの咲くころに




***




 みやこの南、舟宿が並ぶ川沿いの地区で、自分はある樹を見ていた。

 茂り具合が丁度よかったからだ。

「……お武家様。いかがなされました?」

「いや、その、立派な樹じゃと思うての」

 ある新しい仕事を控えて、気が緩んでいるのかもしれない。声をかけられて浮ついた言葉を返すなんて。

 振り返るとそこには、若い娘ぐらいの歳に見える女性がいた。飾り気のない丈夫そうな服を着ている。全体に端正な顔つきだが、眉毛だけは妙に濃い。

 人当たりのいい笑顔になって、彼女は語りかけてくる。

「これ、あじさいです。刈り込まないから、大きくなるばかりで」

 あたりを見渡す。この樹のように、下に潜めそうな大きな樹木は見当たらない。

「刈る。刈る。……えずいぜよ、よう育っちゅうに」

 下に潜めなくなると困ってしまう。樹が刈り込まれるより早く、仕事は終わらせた方がいいだろう。

 頭をかく。まったく、ろくな仕事じゃない。

 先生からの頼まれごとでなければ、きっと断っていただろう。

「私、そこの舟宿のしちです。失礼ながら、お武家様はどなたさまでしょうか」

「わしか。わしは、……その、ただの剣士じゃ」

「剣士、さまで」

「武家は武家でも、なんちゃじゃない身分ぜよ」

 言葉を濁す。名乗るほどの身ではないからだ。

「ほうか。そこの船宿のおなごか」

「はい。住み込みで、奉公を」

 それきり、会話は途切れた。

 わざわざ話すことなどなにもない。なんともいえない沈黙がしばらく続く。

 そんな時、視界の端でもぞりと動くものがあった。

「……ほんなら。近頃はひやい夜も増えちゅう。まっこと、戸締まりばぁ気をつけるがよか」

 黙って離れても良かったのだが、なぜか口からはそんな言葉が漏れた。

 だが、漏れようが漏れまいが些細なことだ。

 動き初めたその背、さっきから注意していた、かの武士の後を追いかける。

 この男は毎日のようにこの道を通る。時には夜でも。

 やはり夜がいいだろう。

 きっと簡単だろう、そう思った。



***



 思ったとおり、なんてことはなかった。

 あの行動自体は。

 心、技、体。すべてその一瞬をも念頭に入れ、日々を叩いてきたのだ。

 それでも、あれは、唐辛子を初めて齧ったときのような、これまでの体験をすべて過去にしてしまうような出来事であって。

 なにも変わってないと思う自分と、どこか変わってしまったと思う自分が、体の中で同居していた。

 だからだろう。

 ひと月ほど経ってから、自分は、その現場に行くことにしたのだ。

 禊や精進落し、というより、自分の中でなにかの決着をつけたく思っているのかもしれない。

 とても蒸し暑い昼下がり、蝉の鳴き声を聞きながら川べりを歩む。

 そうして、再びあの樹のそばに立った。大きな樹だが、もうすでに刈り込まれていて、樹の下に潜むにはおぼつかないだろう。

「……剣士さま?」

 振り向く。

 その声に聞き覚えがなければ、そのまま抜刀して斬りつけていたかもしれない。

 ちきりと、刀の鍔が鳴いていた。

「まっこと、……げに、驚いたぜよ」

 そこには娘時分の女性がいた。声と濃い眉に覚えがある。いまはひどく驚いた顔をしていた。

「ごめんなさい」

「……おまんは悪うなかろう。わしじゃ。すまん」

 被っていた笠の端を押さえて謝意を表す。

「たしか、前に会うたがや」

「はい。剣士さま。わたし、しちです」

「こりゃあ丁寧に。……どうも、です」

 そう言うと、彼女は真顔になったあと、顔をほころばせた。

「あたし、町人ですよ?」

「わしだって武家ちゅうほど偉い身分じゃなかよ」

 ますます彼女は笑う。

「変な、剣士さま。樹のことを気にしたり、あたしなんかに丁寧にしたり」

 太眉の女性は、そっと刈り込まれた樹に手を添えて、笑いかけてくる。

「そんなに、この樹が気になりますか?」

「……おぅ」

 言葉ほども気にならなかった。他のなにかよりは意識がひっかかる程度だ。そもそも、あの仕事に関係がなければ、最初からひっかりもしなかっただろう。

「このあじさい、梅雨時になるときれいな花が咲くんですよ」

「そうがかえ」

 花など興味もなかった。

「私が奉公に出たのも梅雨時で。花が、きれいに咲いていて。だからよく覚えているんです」

「きれい、じゃったか」

「はい」

 花をきれいだと思ったことはない。

 だが、ただ単に、花をまともに見たことがないだけかもしれなかった。

 自分の頭の悪さはよく知っている。もし素直な気持ちできちんと見れば、思いのなにかが変わることもあるだろう。あまり興味は持てなかったが、それぐらいのことは考えられた。

「剣士さまは、お強いんですか?」

「天下一じゃ」

「てんか、いち」

「疑うかえ?」

 気づいたら唇を曲げていた。

 実際、正直な感想ではある。少しばかり自慢げになってしまうのは、いつものことだが。

「いえ、その。正直、よくわかりません。子供の頃に男の子たちが棒振りをしてたけど、それきりで」

「一緒にするんじゃなか。先生とあちこち巡ったがじゃ、どいつもこいつも、なんちゃじゃない腕じゃった」

 先生と一緒にみんなで、剣術修行の旅をした。あちこちに行った。

 どこに行っても、一度だって自分が負けることはなかった。楽しかった。あれほどたくさん笑ったのは、屈託なくいられたのは、そうだ。いまとなっては、なんて遠さ。

「……棒振りじゃ。わしを除けばの」

 だが、その棒振りなどもう飽きたのか、みなは小難しい話ばかりするようになっている。それで、このみやこに上ったのだ。いまはもう誰も、なまらない程度にしか剣を使っていない。

「この間、辻斬りがあったんです」

 息を吸って、吐く。

「ほうか」

「不謹慎ですけど、剣士さまは大丈夫かなって。少し、思ってたんですよ」

「たまるか。だから一緒にするんじゃなか。わしは剣士じゃ。腕を買われて先生の護衛をやっちゅう。人なんぞ斬らん。斬られるような下手もなか」

 そう言い切って彼女に顔を向ける。どんな表情をしているか確認しなければならなかった。顔つき次第では、まったく、どうなることか。

「安心しました」

 彼女の瞳は、言葉通りの色を浮かべていた。

「わからん」

 もうだめだった。今度こそ上ずった声になってしまっている。

 なぜ彼女は、この自分のことなど気にするのだろう。

「どういて心配しちゅう。どういて安心しちゅう」

「だって、剣士さま、あたしの心配してくださったじゃないですか」

 そんなこと、しただろうか。

「……覚えちょらん」

 そう言っても、この女性はふわりと笑うばかりだった。



***



 先生は言っていた。転がり込めるような場所は作っておけと。

 捕り方に追われることは十分にありうると。

 ――わからなかった。

 正しいことをしているのなら、追われることなどないではないか。

 自分は頭が良くない。

 いまだに生まれ故郷の訛りを消せないし、先生たちが話していることもよくわからない。悔しいが、頭がいいわけじゃなくて、どうしようもない。

 だとしても、天地神明に恥じない正しさであれば、世間とか権威とか、そういうものは自ずと叩っ斬られていくものだと思う。逆に、叩き斬れないならそんなものは正しくなどない。そう思う。

 でも、やっぱり、そう感じる自分は頭が良くないのだろう。

 だから、先生の言うように、あの船宿の女性と仲良くなろうと決めた。

 そこでつまづいた。

 色街ならわかる。よくわからんが自分が客だということだけはわかるから。だがそうじゃない。あの女性はただの女性。どうすればいいかなど、なにも。

 困って、困って。

 その挙げ句、ある日、おしちの奉公している舟宿に押しかけた。

「おしちちゅうおなごはおるか」

 入ってすぐ、運良く彼女を見つけられた。目を瞬せながらこちらを見てくる。

「剣士さま」

「おったか」

 その手と肩をゆるく掴み、引き寄せる。

「け、剣士さま?」

「しばらくこのおなごは借りゆう。乱暴はせん」

 考えあぐねて、祭りの時なら親しくなれるかもしれないと思いついたのだ。

 今日は祭りの日だ。

「お侍様」

 宿で働く者が、おびえながらもこちらを見てくる。困った。どうしよう。

「ごめんなさい、少し出ます。きっと大丈夫」

「しかし……」

「お祭りの案内がほしい。それだけですよね、剣士さま」

 どうしたことだろう。彼女は、とりなしてくれている。

「ほうじゃ。すまん」

 他の者の怯えたような目は変わらなかったが、すんなりとおしちを連れ出せた。

 道は人々でごった返している。清水の天神社に向かおうぐらいのことは考えていたが、それ以外にはなんの手立てもない。

 祭りはいい。誰もが熱気にあてられて、知らない誰かとでも仲良くなれる。賭け事もできる。……今日は女性連れだから無理だが。残念だ。

「思ったより強引で、びっくりしちゃった」

「すまん」

 右手で、彼女とはつながったまま、謝る。

「わしは言葉を使うのが下手じゃ。声も文もわからん」

 きっと自分は馬鹿なのだろう。よく言われるし、自身でもそう思う。

「まつりは好きじゃ。おんしはどうか」

「賑やかなのは好きです。……すこし、ものさびしくなっちゃうけど」

「ほうか」

 夕暮れの朱に染められたおしちが、こちらを向く。いたずらする悪童のような顔付き。すこし、見惚れた。

「男の方とこんな風に歩くなんて、初めて」

 その瞳の輝きから、嘘を感じとれない。

 茜色に照らされているからだろうか。視界がやけに明るかった。

「やぁ、銕君だぜ」

 とっさに彼女を右の背中側に引き込み、かばう。手は離さないまま。

「坂谷。……先生方も」

「女性連れとは隅に置けないね」

 そこにはみながいた。一緒に剣術修行で各地を巡った間柄の。

 先頭にいるのは先生。いつものように笑顔で、いつものように額が広い。

 隣は坂谷だ。自分の幼馴染で、剣術修行には途中から合流した男だ。人当たりがよく、先生に次いで早く故郷の訛りが消えたお調子者だ。

 先生が口を開く。柔らかいが芯のある、通りのいい声が響いた。

「銕さんのこと、よろしく頼むよ。彼は女性関係にはからっきしでね」

「……おなごのことぐらいしっちゅうき。先生も人が悪いぜよ」

「ほらね。女性の前でこういうこと言っちゅうぐらい、からきしなんだぜ」

「坂谷ぼけぇ!」

 どっ、とみなが笑う。自分も笑った。今日のこの場は居心地が良い。

 まるで、剣のためにみなで旅をしていたころのように。

「先生――」

「次はもうすぐだ。銕さん、鋭気を養っておくといいよ」

 おしちの手を握っていた指から、力が抜けた。

 彼女に軽く笑いかけてから、先生に顔を向け、頷く。

 みなが笑う。その目もうさっきとは別の色。……坂谷だけは少し妙で。

 軽く手を振り、みなは去っていった。

「……わしの先生と、その門下生どもじゃ」

「剣の?」

「いや。わしはもう天下一じゃき。剣以外の、じゃ」

 気づけば、もう日暮れ。あちこち暗く、提灯に明かりがつき始めていた。

「また仕事か……」

 不満はない。不満ではないのだ。

 だけど、その仕事は、取り返しのつかないことをしているのではないかという危機感ばかり刺激される、そういう行為だった。

 これでいいのだろうか。

 だが、あの頭の良い先生の頼み事なのだ。

「どこかに出かけられるのですか?」

 おしちが顔を覗き込んでくる。ああ、またこの心配そうな瞳だ。

「いんや。どこにも行かん。みやこで仕事じゃ……」

「すると、あのお武家様の護衛をなさるのですね」

 違う、と言いそうになった。

 だから自分は馬鹿なのだ。

「……そうじゃ。先生はえらい人じゃから、よう妬まれる。守らなゃいかん」

「立派な、お仕事なのですね。でも、怪我とかしないで、くださいよ」

「じゃから。わしは剣の天才ぜよ。心配なんぞするもんじゃなか」

 言うと、彼女は笑ったが、その目には陰りが見えた。

 たまらなくなった。

「なにか、欲しいもんはないがか。金ならある。あるんじゃ……」



***



 秋風、冬風。

 誰かがそれを天誅と言い。

 みながそれを天誅を言い始めた。

「なまぐさい話じゃ」

 人がやったことをむやみに天へ預けることも。そうであるとみなが語り始めることも。行為自体も。

「血ばっか降りゆう……」

 いつごろからか、先生と離れて、おしちのいる舟宿に泊まるようになっていた。

 先生が出かける時には護衛として付き、その他、頼まれた仕事もこなす。それだけで、古い樹の皮を剥がすような簡単さで、日々が過ぎていった。

「剣士さま。寝てばかりだと体が腐りますよ」

「寒いからじゃ。布団から出たらひやいきに」

「もう」

 故郷ではこれほど冷えることはめったになかった。みやこが冬は、底冷えのする冷気にいつも満ちている。

 春の日、暖かな太陽の下が恋しかった。

 おしちと連れ立って、そこで一緒に寝転べたなら、どれほどの幸せだろう。

「ほら、火鉢を入れましたから」

「おしちは観音さまじゃあ」

「もう!」

 楽しげに、おしちの太眉が釣り上がる。

 彼女と話していると落ち着く。どうやら、大半の者は同じように感じるらしい。

 おしちには相手の喋っていることがよくわかるようで、それが理由なのかもしれない。北から来た訛りの強い商人とも難なくしゃべっていた。まぁ、不思議だとは思うが、そういうことができる人間もいるのだろう。

「みやこは寒いんじゃなぁ。木々なんぞみな凍り死にするんじゃなか」

「大丈夫ですよ。思ったより強いものです」

 火鉢にあたりながら、おしちと話す。いまとなっては、彼女が起こしにくるこの時間だけが楽しみだった。

「あぁ、でも、あじさいは寒風に弱いとは聞きます」

「なんじゃ、あじ……さい?」

「ほら。剣士さまが気になさっていたあの樹ですよ」

 記憶にあるような、ないような。

「ほうじゃったかの」

 もしかして、おしちと出会った場所にある樹のことか。たぶんそうだろう。

 薄い胸を張って、彼女は高らかに言った。

「でも、きっと大丈夫です。あの樹、また、梅雨時には花が咲きますよ」

「花……花見は好きじゃ」

 人がたくさん集まって、騒がしく楽しんでいるのは、好きだ。

 幸せそうなのは、見ているだけで自分も楽しくなってくるものだから。

「でしたら、あじさいもぜひごらんくださいな。きれいな花が、咲くんですよ」

「ほうか」

「不思議な花なんです。同じ苗でも、場所で色が変わる」

 場所。

 色。

 その言葉で、頭の中が、複数の土壇場の光景で満ちた。

「場所で、色が」

 どれも違う場所だが、みんな同じような光景でしかない。

 白刃が閃く。

 血が吹き出す。

 命が、生が、――終わる。

「そうなんです」

 場所が違えば、彼らは死ななかっただろうか。違う色があっただろうか。

 赤と黒以外の色が。

「奇特な、花じゃのう……」

 見てみたいと思った。

 そうしたところで、なにも変わらないとも、わかっていたが。

「剣士さま、まだみやこにいらっしゃるんですよね?」

「先生の護衛じゃき、先生が動けばついていくがじゃ。わからん」

「です、よね」

 おしちが肩を落とす。思ったより残念そうには見えた。

 ともあれ、言葉を繋いでおく。

「じゃがの。もし、今年の梅雨時にみやこにおったら」

「……はい!」

「おう。そのあじさいゆう色を花見じゃ」

 約束をした。ゆるくとも、約束ならば守らなければならない。そう思った。



***



 睦月如月、弥生、卯月皐月。

 雪の日も。雨の日も。

 夜、あるいは昼も。

 天誅。天誅。天誅。天誅。

 天天天天天、誅誅誅誅誅。

(なにが天誅じゃ。天じゃない。殺してるのは人じゃ。わしじゃ)

 いつのまにか、同郷の連中とは言葉も交わさなくなった。

 先生も話しかけてこなくなった。

 気がつけば、幼馴染の坂谷も見かけなくなった。

(わしじゃ)

 手に入った金はすべて賭博に投げ込んだ。

 身近に置きたくもなかった。

 あんなに楽しかった博打に、砂のような苦味しか感じられなくなっていた。

(わしじゃ)

 みやこをうろつく。

 金はない。行きたい場所もない。

 歩けるだけ歩いて、舟宿に戻る。

 おしちは働いている。

 触りたかった。

 だが、手が汚れている気がして、伸ばせなかった。

(わしは……)

 赤い。

 赤い。

 赤くて、黒い。

(……わしは人か?)



***



「よぉ、銕君」

「おんしか。……先生から離れた裏切り者が、わしになんの用じゃ」

 仕事帰り、路地裏、先生のところへ戻る道すがら。

 やけに暗い朝の光の中に、坂谷は立っていた。

 どうやら自分に会いに来たらしい。

「ご挨拶だな。君を待ってたってのに。いやなに。頼みたいことがあるんだぜ」

 ――あぁ、朝だというのに、なんて暗い。

 いまさっき人を斬り殺してきたこの自分に、頼み事なんて、たったひとつしかないだろう。だけど、坂谷だけは、なんとなく、そんなことを求めてこないと思っていたのに。

「……おんしも同じか。そんなに人斬り包丁を振らせちゅう思うがか」

「たまるか!」

 体が後ろに退いた。坂谷が大喝し、それに押されたのだ。

 彼の大声は、本当にひさしぶりだった。

 いつだったか……そうだ。身分がはるか上の侍どもに侮辱され、斬りかかろうとしたとき以来だ。いまとなっては、ずっと昔の、ことだ。

「銕蔵、こっちの頼みは本当に護衛だ。……っていうか、君、まだそんなことをやってるのかよ。やらされてるのかよ」

「やらされちゅうわけじゃなか……」

 自分の口から出た弱々しい言葉を、まるで真っ二つにするような力強さで、彼は首を横に振る。

「どいつもこいつも一廉の人物だってのに、邪魔だ片付けろって、いちいち減らしてちゃどうしようもねぇ。歯抜けの顎で堅い舶来煎餅ぁ噛めねぇだろうが」

 坂谷が、手を差し伸べてくる。

 また大喝でもされたように、自分は後ずさりを始めていた。

「来いよ。君は人斬りなんてさせとくにはもったいねぇぜ」

 背が壁に当たる。

 これ以上は退けない。

 退けなくなってようやく、言葉が漏れた。

「わからん」

「なにがじゃ」

「おんしの言葉も。先生の言葉も。難しゅうて、わしには、わからんがじゃ」

「銕……あのな……」

「わかるのは目じゃ」

「目?」

「最初はわしを馬鹿にする目じゃった。賢いもんは好かん。あいつら、すぐ馬鹿にしゆう。だから剣でそのうち叩っ斬ったる思っちょった。わしがその気になりゃ簡単じゃと」

「…………」

「そんで、実際、わしが誰かを斬ってから、あいつらはわしを怖がる目になったんじゃ。それ見たかと思った。わしの剣の前じゃあいつらまとめて紙くずじゃ。へらへら笑っちょったのが冷や汗かいてこのわしを名人じゃと褒めゆう。先生もよう褒めてくれた。気分が良かったぜよ。徒党の中で居場所ができて、ああ、ここがわしの天かとも思ったがじゃ」

「……おんしの、天」

「そうじゃあ! じゃ、じゃから。斬って、斬って、斬りまくったんじゃ。頼まれただけ、言われるままに、斬り捨てて……」

「銕蔵……」

「……気がついたら犬でも見るような目で見られちょった。投げられた餌を噛み砕いてくるだけの犬っころ。わしはもうそういう扱いじゃった。せん、先生もそんな風にわしを、わしを扱ったがじゃ。小難しい言葉を使ってくるが、目を見たらすぐじゃ。わしはもう、人間でもなんでも……」

「もうええ」

「わしは……!」

「ええから。もうあんな場所におらんでよか」

 気がついたら、幼馴染に抱きすくめられていた。

 血の匂いが染み付いてしまったこの体を、躊躇せず、強く。

「洗濯じゃ。血生臭さなんぞ落とすんじゃ。剣の天下一がなんてざまじゃ……デコめが、そこまで堕ちゆうか……」

「わしじゃ。わしが間違っただけじゃ。せ、先生は……えらい人なんじゃあ……」

「終わりにするんじゃ! おんしは人間じゃあ!」

 坂谷のつばや涙が顔にかかる。泥臭い暖かさは、なんて人間らしいんだろう。

 自分はもう泣きもしていなかった。

 どうしようもなくひどい気持ちなのに。

「三日後じゃ。舟宿春田屋に必ず来るんじゃ。来なかったら、俺は君を迎えに行くからな」

「……正気か」

「ああ。俺が裏切り者じゃって敵視されてるのは知っとる。それでも行くぜ」

「めったにゃあ……」

 そんなことをしたら、きっと斬り合いになる。坂谷はそれなりに剣の腕があるけれど、彼の程度じゃあ多数に囲まれて斬り殺されるだけだろう。

「じゃったら、約束せい。俺と君、幼馴染の約束じゃ」

 まっすぐ、この男は、目を見つめてくる。その瞳は誠に満ちていた。

 朝の光よりも眩しくて、まっすぐに見れない。

「わかった。わかったぜよ」

 彼の説得を受け入れたというより、もう、ただ、その明るさから逃れたくて。

 自分は首を縦に振った。

「約束だ。破ったら追いかけて叩くぜ」



***



 叩かれることも、ないだろう。

 自ら約束を破るなんて、どれほどぶりか。

 雨具もなく、ただぬるい雨に体を浸しながら、自分は独り言を漏らした。

「やっぱり、絵空事ぜよ……洗うても血脂は落ちん。傷も消えん」

 坂谷と言い交わした次の日、先生から呼びつけられ、いつもの調子でことを頼まれた。珍しく人斬りではない。文を届けてほしいというものだ。

 その時、自分は先生に問いかけた。

『ぜんぶ終わったら先生はどうするがかや』と。

 いつもの、優しい口調のまま、穏やかに先生は語った。

『銕さんにはいつも苦労をかけてるね。大丈夫だよ、あなたの働きには十分に報いるから、安心して働いてください。頼りにしているんです』

 そうして頭を下げた。

 犬を見るような目のままで。

 だから、なんとなく、わかってしまった。あぁ、この賢い人はいま、見切りをつけたんだな、と。

 そして、文を届けた帰り道の路地裏にて、自分は先生の門下生たちに取り囲まれている。結局、先生の弟子にはなれないままでしかなかった。自分はずっと、同志でもなんでもなかった……。

「裏切り者の坂谷と会っとったろう。あやつは売国奴の奸物に尻尾を振った恥知らずじゃ。話したことを言え。そして、みなに詫びて死ぬんじゃ。先生もそれを願っちゅう」

「血迷うなよ。おらに剣を向けるは、先生に剣を向けると同じ」

 そうだ。彼らは先生の同志。そして、いまだに自分は先生を敬愛している。

 あの人はえらい方なのだ。この自分にはわからない世界を見、このままではだめだと認識でき、あらゆる手を尽くして前に進もうとしている。

 そんな相手に、人斬りの剣など。

「斬られゆうはおんしらぞ」

 まずは抜刀術で油断していたひとりを始末。次は、不用意にこちらに進み出た男の腕を切り飛ばし無力化、その体を残っていた連中の方へ蹴り込む。倒れ込んでいくそれに気を取られた者に遠間から突いて仕留め、ついで地に伏す男にもとどめを刺す。残りはひとり。

「……げに、まっこと、わしの剣は人を選ばんのぅ」

 そうだ。

 結局、自分は、その敬愛している先生でさえ殺すことができてしまう。できている。できてしまった。できてしまうのだろう。

 本当に、ただの、人斬りでしかないのだ。

「げ、外道が」

「はは」

 笑って、構える。

 後は彼の剣を撃ち払い、返す刀で斬れば終わりだ。

 なにもかも。

 震え声を引き絞って彼が突っ込んでくる。剣を振る。

 甲高い音と衝撃。

 剣が、自分の剣が砕けてしまっていた。

(いかんぜよ。斬りすぎたがや)

 それを見た彼の目に生気が灯る。その体に力が漲る。ここを切り抜け、生き延びるという希望を見たのだ。

 体をひねった。

 勇んで進む彼の剣、それをかわすことはたやすい。自分は剣の天才だ。返す刀で斬れば、それでもうよい。剣なぞ、割れていようが人を斬るには十分なのだ。

 ……十分な、はずだった。

「なんじゃ……」

 彼の剣は速かった。必死に速くなったのだ。

 だが、常の自分ならばそれを上回ることなど簡単だっただろう。

 ならば、どうして、彼の剣が自分の剣をすこしでも上回ったのか。

「……わしはもう死にたかったがや」

 そういう、ことだった。

 したたかに斬りつけられた右腕から、割れた刀が落ちる。

 足音が遠くへ消えていく。水たまりを跳ね散らかすそれは雨の中でも派手派手しく響き、あぁ、生きているな、と思った。

 彼は脇目もふらず走り去っていったのである。

「人の夢、獣の理。そりゃあ強いぜよ……」

 歩きだす。

 もうここには居たくなかった。

 天地のはざまに、人斬り、この身を置く場所がどこにもないとしても。



***



 どうしてこうなってしまったのか。

 もし、どこかからやり直せたらこうはならないか。

 右腕をかばいながら歩きつつ、ぼんやりと思う。

 きっと無理だろう。

 寒い。

 自分には剣しかなかったが、その剣が、ここまで自分を連れてきてしまった。

 先生に褒められたかった。坂谷に認められたかった。同志になりたかった。でも頭が足りなくて、それでもついていって、そうこうしているうちに自分の能力が必要とされて、だから、いまこそ仲間になるんだって、走って、振って、必死に働いたら、あぁ、――結局その能力こそが決定的に彼らと自分を隔てた。

 人斬り。

 人斬り。

 人斬り。

 ただの、人斬り。

「約束なんて、するもんじゃなか……」

 もう彼にも会えない。

 この体を洗うことなんて、無理なのだから。

 自分自身、この身を人間なぞとは思えないのだから。

「…………」

 ふと気がつけば、あの樹の下に座っている。

 そう。初めて人を斬ったあの夜、自分はこの樹の陰で潜んでいたのだ。

(きれいな花が、咲くんですよ)

 ぼんやりと。

 彼女と、話したことを、想い出す。

 ゆるく約束した。見れるなら見たいと、そのとき、自分は思ったはずだ。

(不思議な花なんです。同じ苗でも、場所で色が変わる)

「あぁ……おしち。おしちやぁ」

 花を見たかった。

 彼女と見たかった。

「……見たいぜよ」

 だったら。

 ここで倒れるわけにはいかない。

 自分の血や体で樹を汚すわけにはいかない。もし、こんな人斬りの影響を受けでもすれば、ろくな花が咲かないだろう。どこで死ぬとしても、ここだけはだめだ。

 めまいを堪えて立ち上がる。

 道に歩み出た。

「まるで、梅雨みたいな空じゃあ……」

 遠くから、誰かが走り寄ってくる音が聞こえる。

 捕り方だろうか。それとも、さっき走り去った男が仲間を連れてきたのか。

 だとしても。

 誰であるかも、逃げ切れるかも、もはや問題ではなかった。





 

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