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桜の雨、ふたたび  作者: 蒼原悠
壱 エンカウント・チェリー
9/69

八 誰も知らない




 拝島の中心に腰を下ろし、春待桜という地域のシンボルツリーを抱えているだけあって、邸中の生徒はこのあたりでは何かと贔屓(ひいき)されやすいらしい。

 誘いをかけてきた梢たちと数人で、(くだん)のスーパーまで買い物に出掛けたあとの帰り道のこと。柚と並んで歩いていた梢に、道端から声がかかった。

「あらぁ、梢ちゃんたちじゃないの」

 道の脇に立つお店からのものだった。梢たちの声色が、途端に変わった。

「あ、おばさん!」

「ねーねー知ってた? あのスーパーの二階にね、めっちゃかわいい内装のグッズ屋さんが入ってたんだよ!」

「あ、それ私も知ってたわよ? あなたたち絶対喜ぶだろうなって、向こうのクリーニングの奥さんと話してたとこでねぇ」

 『美堀精肉店』とある。声に惹かれるようにみんなが肉屋へ足を踏み入れてしまったので、取り残された柚もおずおずと近寄った。中で店番をしている割烹着の女性が、あ、と言いたげに柚を見て笑った。

「見ない顔ねぇ、引っ越してきたの?」

「柚ちゃんって言うんだよー」

 他の子が先に紹介してしまった。思わず猫のように首をすくめてしまった柚は、慌ててぺこりと頭を下げる。

「いいわねぇ邸中の子は、制服で一発で判別できるものねぇ」

「えー、でもおばさんも邸中だったんでしょ?」

「私の頃はこんなかわいい色の制服じゃなかったのよぉ」

 制服姿の女子中学生たちと、肉屋の店先のおばさんが仲良くしゃべっている。不思議と違和感を覚えることのない光景に、私はどうしたらいいんだろうと柚が困っていると、その脇を梢がつついた。

「仲良くしとくといいよ、柚ちゃんも。たまにコロッケとかタダでくれたりするから」

「え、そうなの?」

「このへんのお店、けっこうどこもそうだよ。邸中だって分かると待遇が変わったりねー」

 聞けば、拝島駅前の商店街やスーパーのテナント店舗でも、特別待遇はよくある話なのだという。そしてその理由を聞くと、誰もが決まって口にするのだそうだ。『あなたたちは拝島の宝だから』──と。

「──あと一ヶ月もすれば桜色の制服も拝めなくなるのかと思うと、やっぱり寂しいわよねぇ」

 肉屋の女性は嘆息混じりにつぶやいていた。「建て替えの必要な事情は分かるけど、もっとこう、すべてをなくしてしまわないような方法はなかったのかしらね」

「桜色、そんなに好きなんですか」

 思わず柚が尋ねると、彼女は小さく笑いながら、ショーウィンドウの表をそっと撫でた。

「肉屋に肉の色がなかったら不自然に思うでしょ? 私らからするとね、邸中の景色と春待桜のない拝島の町は、同じように物足りなく感じちゃうものなのよ」

 ここでも、春待桜の名前が挙がってきた。確かに解体工事が始まれば、必然的にあの桜も防音壁に囲まれて見えなくなる。

 梅の言っていた通りだ。みんな、知っている。

 柚は声には出さずに、感嘆のため息を漏らしたのだった。




 実際のところ、『肉屋のおばさん』の指摘したことは本当で、町を歩いていると桜色を見かける機会は多い。

 たとえば、駅前広場から続く商店街の街路灯のポール。

 たとえば、邸中の脇を抜ける五鉄通りの路面舗装。

 たとえば、地域の名所を紹介する市の看板の縁取り。

 景観を破壊しない程度に、拝島の町角には桜の色が溢れている。

 それらがすべて春待桜のことをイメージしているのだとしたら、春待桜の持つ影響力はいったいどれほど大きいものなのだろうか。


 不思議なのは、それだけの影響力が想像されるにも関わらず、梅の言っていた肝心の『春待桜の伝説』について、当の邸中の生徒たちがほとんど誰も知らないことだ。

 梢が好例だった。一緒に帰ろうとした時、尋ねようと考えていたのを思い出して聞いてみたら、こんな返答を寄越(よこ)してきた。

「伝承かぁ。あたし、そういうのホント興味ないからな、分かんないや」

「聞いたこともないの?」

「……うん、多分」

 後頭部を掻きながら答えた梢の目が、柚を奇異の意識で眺めている。それだけ、普段は誰も気にしないことなのだろうか。

 柚は重ねて問いかけた。

「じゃあ、誰なら知ってるかな」

「校長なら確実に知ってるんじゃない?」

 そんな滅多に会う機会のなさそうな人が知っていても、仕方がない。

 そっかぁ、と答えた。梢がすぐに別の話題──一週間後に迫った期末試験の話に移ってしまったので、柚も歩調を合わせて隣を歩きつつ、新たな話題にそっと寄り添う。

 これで、知らないという答えを突き付けてきたのは五人目だった。

(そんなに興味を持てないような話には思えないのにな……。それとも、こんなに気になってるのって、私だけなの?)

 すぐ横を通り過ぎる間際に春待桜を見上げ、また一段、落胆を深めた柚がいた。




 その日は偶然だった。玄関が開いて、サンダルの足音が路面に響いた。

「おや、柚ちゃん。帰ってきたとこ?」

 出てきた梅の声に、うん、と柚は頷いた。ちょうど家について、郵便受けに何か届いていないかを確認しようとしていたところだった。

 手を離した郵便受けのふたが、からんと軽い音を跳ね上げて閉まる。空を渡ってゆくカラスの渋い歌声がそこに重なった。夕陽は雲の奥に隠れているけれど、空の残照にオレンジを塗り重ねられた制服の桜色は眩しくて、梅も柚も揃って、目を細めた。

「えへへ。タイミング、ぴったりだったね」

「ほんとだねぇ。……それにしても制服、ずいぶん汚れとるね」

 柚はどきりとして、それから苦笑いした。ここのところ毎日のように出歩いているせいかもしれない。が、制服のほこりを取っている時の梅の楽しそうな表情が、罪悪感をうまく帳消しにしてくれる。

「着替えたいな。汗もかいてるかもしれないし」

「うんうん。さ、中へ入りんさい」

 自分でも郵便受けを確認した梅が、そっと背中を押す。

 柚も梅の後ろについて玄関をくぐった。


 前に春待桜の話をしてくれた時、梅は明らかに伝説の中身を知っている様子だった。

 否、きっと『様子』なのではない。梅は知っているはずだ。たかが生まれて十数年の中学生とは違って、梅はもう何十年もの間、この拝島で日々を送っているのである。

 梅の曲がった背中を、気付けば睨むように凝視していた。

 校長以外にも頼れそうな人がいたことをすっかり忘れていた。クラスメートたちが知らないなら、梅に尋ねればよかったのだ。それでいいから聞いてみたい、と思った。いくら聞いても伝説の正体が分からないでいるうちに、そのくらいには柚の興味は膨れ上がってしまっていた。

「ね、おばあちゃん」

 靴を脱ぎながら、柚は梅を見上げた。梅は一足先に引っ掛けていたサンダルを脱いで、敷台から廊下へ上ろうとしているところだった。

「なぁに」

「前に私に、ハルマチザクラのこと、話してくれたじゃない」

「そうだったっけねぇ」

「あのとき言ってた、“春待桜の伝説”って、何?」

 梅はまだ、きょとんとしている。突然そんな話題を持ち出した理由が分からないのだろうか。

 柚は、うつむいた。

「友達に聞いてみても、誰も知らなくて。あの桜がこの町ですごい存在感を発揮しているのは分かったけど、伝説なんて本当にあるの?」

「あらら。そんなにみんな、知らないことだったかしら」

 一昔前は有名だったんだけどねぇと梅は困惑顔になった。それから前置きをするように、付け加えた。

「そんなに大した話じゃないのよ?」

「大した話じゃなくてもいいから」

 柚ももう、やけになりかけている。

 観念したように梅は立ち上がった。苦味の感じられない柔らかな笑みが、口の端にまで滲んで行き渡って。

 そのまま柚の隣に来て、サンダルを履いてしまった。

「おいでなさい。あの桜を見ながら話した方が、きっと伝わりやすいからねぇ」






「……どうして、私だけなの……?」


▶▶▶次回 『九 ハルマチザクラ』

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