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桜の雨、ふたたび  作者: 蒼原悠
壱 エンカウント・チェリー
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七 リスタート



 こんもりと膨らんだ隣の布団から、安らかな寝息が聞こえてくる。耳元までかぶせた布団の生地越しにそのリズムを聴きながら、柚は暗闇の中で目を開いていた。

 深夜、十一時。夕刻の雨雲は流れ去って、外は今ごろ星空に変わっている頃合いだろうか。

 夕方にあんなに夢中で走ったにも関わらず、風呂に浸かっていたら不思議と疲れも癒えてしまって、柚はさっきからちっとも寝付けずにいた。梅の寝息を聴いていると、子守唄を聴かされているような気持ちになる。このまま沈むようにして、眠りの世界に入り込めないだろうか。

 けれどあぶくのように浮かんでくる考え事が、すぐに柚を眠気から遠ざけてしまう。


(おばあちゃんにも悪いことしたな、私)

 梅の背中を見つめ、柚は布団をちょっぴりずり上げた。

 梢に連れられてスーパーに帰ってきた柚を、梅は今にも泣きそうな表情で出迎えた。どこに行ってたの、怪我はなかったのと問い詰められ、柚は黙っていることしかできなかった。答えたくなかったのではなくて、答えられなかった。

 柚の帰りを待つ間、走り去った方向を呆然と眺め、梅は放心してしまったように佇んでいたのだという。

──『柚ちゃんがそんなに悩んでいたなんて、おばあちゃん知らなかったよ。ごめんねぇ……。今まで気付いてあげられなくて、ごめんねぇ』

 何度もそう言われては、頭を下げられた。柚がいつも学校からまっすぐに帰宅していた理由を、柚の叫びで梅は初めて知ったのである。

 柚はいったいどれほどの人たちに、心を配られ、気を揉まれながら生きているのだろうか。

(おばあちゃんにも、梢ちゃんにも、クラスのみんなにも上川原先生にも、お父さんとお母さんにも……。もしかしたら、隣の席の子にも)

 数え上げようとして出した手を、柚は布団の中へと引っ込めた。数を知ることに意味があるようには、どうしても思えなかった。

 邸中が今学期限りで閉校してしまうこと、梢が柚をしきりに遊びに誘ってきた理由──。今日一日で柚の知った事柄など、他にいくらでも思い当たるというのに。


 立川断層は青梅市から府中市にかけて、多摩地域を斜めに横断するように存在する断層だ。昭島市のホームページには、耐震基準を満たしていない邸中の校舎は直下型地震で大被害を出す可能性が高いこと、築年数が経ちすぎていて補修では間に合いそうもないこと、仮校舎を建設できるスペースが周辺に確保できなかったことなどが列挙され、建て替えのために最低数年間は閉校になる(むね)が書かれてあった。少子化の動向次第では、もう着工されることすらない可能性もあるようだ。

 柚とて、来年度からは別の学校に移る身。だから両親は、あえてわざわざ閉校のことを教えようとしたりはしなかったのだろう。

 あの時、驚きはしたけれど、今になってみるとどこか安堵も覚えている自分がいた。あと一ヶ月で離ればなれになってしまうのは、柚だけではないということだからだ。同じ運命を共有する、柚は確かに仲間外れ(・・・・)ではない。

(『春待桜のある校庭で一緒に走り回った人のことは、誰だって仲間』──か)

 梢の言葉を少し、実感できた気がした。喜んでいいようには思えなかったけれど。

 布団を目元まで引き上げてみる。顔の下半分が温もりに包まれて、これなら少し、眠りに落ちることができそうに思える。意識が飛んでしまう前に、柚は胸の中で固めたかった決心を振り返った。

 残されている時間はたったの一ヶ月のみなのだ。明日からは怖がらないで、みんなともう少し、接してみよう。

 梅や先生や、仲良くしてくれている友達に、悲しい思いだけはさせないように振る舞おう。

(私はまだ、ひとりぼっちじゃないんだから)

 昼間、春待桜の孤高さに心を寄せてしまったのを思い返して、ごめんねと心の中で謝った。一人でいるといつも弱気になってしまうけれど、柚はまだ、諦めたくないのだ。

 それから今度こそ夢の中に溺れにいこうと、布団を元の位置に戻す。

 喘息対策のためにと思い、近頃は発作の前兆がなくとも空気清浄機を作動させるようにしている。作動ランプの緑色の光が照らす壁掛け時計の針が、午後十一時半を示していた。星が沈めば、また明日がやって来る。

 時間を確認した柚は、そっと目にふたをしようとした。


 あの影が視界を横切ったように見えたのは、気のせいに過ぎないはずだった。


 リビングに通じる扉の(おもて)に、あの人影が立っていた。

「あ……っ」

 反射的に声が出てしまった。

 数日前の深夜の記憶が甦る。また、だ。せっかく閉じかけた目が開いてしまい、()えた意識と視界で柚は部屋の中を見回した。

 まだ、いる。見間違いではなかったらしい。起き上がりかけの姿勢のまま、柚は固まった。全身が総毛立つのを感じる。布団の外の世界は、寒い。

 影は仁王立ちの姿のまま、柚のことを一直線に見つめている。視線の身体に刺さる感覚が、ぴりぴりと痛い。かと思うと、激しい緊張のせいか、それは本物の痛みとなって左胸の上に膨れ上がった。

 落ち着いて、落ち着いてよ私、こんなの夢に決まってるよ、だって──。

 ずきんと痛みを放つ胸に手を当てて、何度も深呼吸を試みた。けれど冷静になればなるほど、眼前の光景は『異常』にしか見えなくて。

 影は微動だにしない。

 心なしか息苦しくなってきた。人影を見上げ、柚は懸命に問いかけた。

(誰? あなたは、誰?)

 刹那、影は火が吹き消されるように、ふっとその姿を失ってしまった。

 痛みが、消えた。空気清浄機の作動音が、急にけたたましくなる。

「戻っ……ちゃった」

 つぶやいたら全身の力が抜けて、柚はへなへなと布団に両手をついてしまった。かと思うと息苦しさが一気に本物に変わり、背中を丸めながら立て続けに咳が飛び出した。どうにか鎮静化するまでの数秒間、柚は必死に空咳を押し殺し続けた。

 これで、二度目。

(何なんだろう。前の時も、それから今のも……)

 咳は体力を消耗する。身体を中途半端に起こした状態のまま、それからも柚は布団の端を握り締めながら、しばらく動くことができなかった。それから静かに、ため息をついた。

 布団を隣に並べる梅は、とうとう最後まで気付かなかった様子だった。



     ◆



 柚が思っていたよりも、『喘息カミングアウト』の影響が大きく生じることはなかった。

 柚は配慮の必要な喘息患者なのだと、梢がそれとなくクラスメートたちに広めてくれたおかげだった。その結果が具体的にどう出たかというと、

──『柚ちゃん外遊びはきついんでしょ? うちら今度、棗の(うち)でゲームしようと思ってるんだけどさー』

──『ねーねー、次の日曜日にさ、モリスクエアに映画観に行こうよ!』

 そんな“柚向け”の勧誘を受ける頻度が、以前よりも格段に増えた。

 もちろん、そのすべてに乗ることはできない。期末試験までのタイムリミットがいよいよ二週間をも切ってしまい、今までとは違って本当に試験勉強に取り組まなければいけなくなってきた。

 けれど、

──『うん。いいよ』

 誘いの言葉にそう答えた時の、梢たちの顔に花開く笑みを目にするたび、柚もなんだか自分まで幸せな気分にさせられたように感じてしまうのだ。

 息切れのせいで迷惑をかけてしまうのが恐ろしいのは、今でも変わらない。そんな柚の背中を押してくれたものがあるとすれば、それはやっぱり梢の『仲間』という言葉だったのだと思う。


 そんなこんなでクラスメートたちとの溝が浅くなり始めると、相変わらず冷淡で無愛想な隣人との“差異”はますます浮き彫りになる。梢たちに頼れば解決するので、もう授業中に樹に無理に声をかける必要はない。なので、樹の態度がいくら余所余所(よそよそ)しくとも柚に実害は生じないのだが。

 『一緒に走り回った人のことは、誰だって仲間』──梢の言葉を思い出すたび、本当は樹とも仲良くしてみたいんだけどな、と考えてしまう。どんなに無愛想な隣人だとしたって、柚も樹も同じように、今は桜色をした離別の運命を着ているのだから。

(でも、焦っても仕方ないし、宮沢くんの心証をこれ以上悪くしたくはないし)

 声をかけて無視を食らうたび、苛立ちや疲れをそっと脇に置いてそんな風に考えられるようになってきたのは、柚の進歩と言えるのだろうか。

 授業の間の短い休み時間にもなると、隣席にはぶすっと黙ったまま窓の外を眺める樹の横顔がある。時たま、気付かれないように同じ方向を眺めてみると、視線は大抵の場合、校庭の中央を占拠する春待桜の巨樹にぶつかって止まる。

 こうすれば少しは樹の思考回路を理解できるような気がして、ついつい柚はそれを繰り返してしまうのだった。


(春待桜には伝説がある……。そういえばおばあちゃん、そんなことを前に言ってたなぁ)


 凛と空に手を広げる春待桜の姿を見つめながら、時々、思い出したようにそんな疑問を抱くようにもなった。







「おいでなさい。あの桜を見ながら話した方が、きっと伝わりやすいからねぇ」


▶▶▶次回 『八 誰も知らない』

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