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桜の雨、ふたたび  作者: 蒼原悠
壱 エンカウント・チェリー
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六 ひとりぼっちの木






「──あの、ね」


 決心するより先に、声が出てしまっていた。

 梢たちが柚を見た。梅も、見た。どうしよう、言いかけちゃった──。泣きそうな気持ちになった柚だったが、こうなったらもう、腹をくくるしかなかった。これで壊れるような関係なら、元々、その程度のものだったのかもしれない。

「本当は私、勉強なんて、そんなにしてないよ。宿題をやって、ちょっと予習もしてるだけ。試験勉強になんて手をつけてないし、不必要なくらい時間をかけてやってるだけだよ」

 スカートを握りしめ、うつむきながら柚は白状を始めた。何かを破壊してゆく快感と、築き上げてきたものが崩れてゆく絶望が、同時に柚を包み込んだ。

「え、待って」梢が聞き返した。「それじゃあたしたち、遊べるの!」

「ううん。私、外遊びはできないの」

「え……、なんで」

「私、気管支喘息の持病があって。昔からちっとも体力がなくて、小学生の頃から外遊びのたびにバテたり倒れ込んじゃって、友達に迷惑、たくさんかけてきたから」

「…………」

「邸中のみんなにまで、迷惑かけたく、なくって」

 柚は梢たちの靴先を見つめた。スーパーの館内放送や賑わいが、遥か遠くの方に漂っている。柚の身体はどの空間に浮かんでいるのだろうか。悪寒が走って、顔を上げた。

 気管支喘息がどういう病か知っていたようだ。梢たちの表情には、一筋の影が差していた。そっか、と梢がつぶやいて、柚は小さく小さく、頷いた。

「だから柚ちゃん、いつも体育の時に……」

「今まで黙っていて、ごめんなさい」

 か細い声だった。

 本当のことを言わずにいた梢たちにも、それから自分にも。目元が緩みそうになるのを感じながら、柚は頭を下げた。おろおろとした様子の梅の横顔が視界に入って、泣きたい気持ちがさらに加速した。

 ああ、やってしまった。

 ここにいたくない。ここで、梢たちの様子の変わるのを目にしていたくない。

 どこか別の場所へ行こう──。心の中で勝った逃げ出したい欲が、うつむいたままの柚に踵を返させる。

「柚ちゃん」

 梅の声が柚の背中を押してしまった。柚は噛んだ唇を解いて、かすれた声で言った。

「すぐ戻ってくるから」

 そのまま、駆け出した。夕方の食品売り場は混雑している。人波の間を掻き分け、掻き分け、柚はフロアの端にある出入り口を目指して走った。何でもいいから今はとにかく、梅と梢たちから遠ざかりたくて。

 ばたばたと通路にこだまする足音が、二つに増えた。

「柚ちゃん待って!」

 梢の声だった。

 とっさに、怖い、と思った。

(追いかけてこないで……っ)

 柚は歯を食い縛って、梢を振り切りにかかった。体力のない柚でも、人混みの中に紛れ込めば梢を巻ける。身を屈めながら駆け足で通路を蹴り続けているうちに、いつしか梢の声も聞こえなくなった。

 どこでもいい。柚に気持ちの整理の猶予を与えてくれる場所があれば、それでいいのに──。

 食品売り場を抜け、フードコートもかすめ、入り口付近の自転車売り場も通過する。柚を認識したガラス戸が自動で開いて、そのままスーパーを飛び出してしまった。いつしか小雨が降りだして、拝島の町は静かな雨の霧の中にたたずんでいる。

 涙が膨らんで目をおおったせいで、前に何があるのかもよく分からない。分からなくても遠くには行ける。足の向くままに右へ針路を変えて、息が上がってしまうまで柚は走り続けた。


 肩を大きく上下させて、呼吸を整える。

「ふぅ……、はぁ……」

 額に汗が滲んでいる。汗はすぐに雨のしずくに混じって消え、それから目元の邪魔な涙を拭ってしまうと、柚の視界はようやく晴れた。

 立ち止まった交差点の向こう岸に、邸中の校門があった。

 スーパーと中学の間はそう遠くない。校庭十五周に比べれば遥かに楽な距離だ。意外と走れちゃったな、などと感慨に浸ってから、柚はうなだれた。そう遠くないとはいえ、走って移動するほどの距離を逃げてきてしまったということだった。

 霧雨が肌寒い。

(明日、学校、来たくない)

 傍らの電柱に寄り掛かって、柚は腕を目に押し当てた。疲れのせいでこらえられなくなったのか、涙が一滴、二滴、こぼれ落ちそうになった。

 梢はクラス中のみんなと仲のいい子だ。林の警告の言葉が、ここでも(よみがえ)って。

(みんなの顔、見たくないよ)

 慟哭の衝動が、さらに強くなった。

 あんなにもはっきりと拒否の意思を伝えてしまったのだ。おまけに気管支喘息という事情まで明かしてしまった。明日からはきっと、柚も樹のように敬遠されるに違いないと思った。『柚ちゃんは誘っても仕方ないから』──などと思われたに決まっている。

 鼻の奥が詰まって、柚は何度か、しゃくり上げた。人通りがほとんどないのが幸いだった。それも済んでしまうと、宛がっていた腕を目元から外して下ろして、眼前いっぱいに横たわる邸中の姿を茫然と眺めていた。


 小雨が、止んだ。無人の校庭の真ん中に、今日も春待桜が黙って根を下ろしている。

 ざわり、ざわり。校庭を渡ってくる枝たちの唄に、小さな冷たさが混じっている。きっと何百年もの時を越えてきたのだろう、太くて立派な幹の向こうに、誰かの胸の内にも似た闇色の雲が覗いていた。

 校庭の隅を見れば木々はいくらでも生えているのに、春待桜は孤独だ。

 あんなところになぜ一本だけ生えているのだろう。端に移動させて、仲間に入れてあげればいいのにと感じるのは、今が初めてではないが。

 ぽつんと屹立する桜の大樹を見つめていると、ひどく羨ましくなる。

 可哀想だなと思うわけではない。校庭の中央で孤独に立つあの桜と、柚とは、よく似た境涯を持ち合わせている仲間なのだと思いたくなるけれど、自分が惨めで仕方ない今は、桜の方が羨ましく感じられてしまうのだ。

(あなたはきっと、もう長い間、ここにいるんだね)

 柚は唇を結んだ。

(もうずっとずうっと、ひとりぼっちで花を咲かせてきたんだよね)

 それから目を伏せた。直視し続けられるほどに、心が持つとは思えなくて。

(あなたって強いんだね。私、羨ましいよ。ひとりぼっちでも寂しくなんてない、(わら)っていられる心の強さ、私もほしい……)

 春待桜は答えない。

 ただ、柚の無言の叫びにだけは黙って耳を傾けようとするように、その一瞬だけ、枝のさざめきを止めてくれた。


 静寂を破壊したのは梢の声だった。

「柚ちゃん……いた……っ」

 吐息が背中にぶつかって、柚は跳ね上がりそうになった。振り返ると、膝に両手を押し当て、肩で息を繰り返しながら柚を上目遣いに見つめる、梢の姿があった。

 見つかってしまった。

「梢ちゃん──」

「これでもけっこう探したんだからね、あたし」

 へへへ、と梢は危なっかしい顔付きで微笑んだ。彼女の足の早さは体育の授業でよく知っている。その梢が、息切れするまで走り回って、探してくれたということか。

 柚はなんだかまた、泣きたくなった。

「……ごめん、なさい」

 頭を下げた。やめてよ、と梢は手を差し延べ、柚の肩を押して元に戻してしまった。

「あたしの方こそ、謝ろうって思ってたとこだもん」

「梢ちゃんが……?」

「うん。……あたしたち、今までちょっと無理に誘おうとしすぎちゃってたのかな、って思ってさ」

 まだ息苦しいのだろう。柚の寄り掛かっていた電柱に手をついて、梢は柚を見つめた。激しい運動を急にやめたせいか、目が潤んでいる。

「喘息だったんだね、柚ちゃんって。確かにそれじゃあ、外遊びはきついよね……。あたしたち、何かっていうと公園とか屋外で遊ぶことばっかり考えてたけど、柚ちゃんの事情を知ろうなんて少しも考えてなかった気がする」

 とんでもない。柚は息を詰まらせた。「喘息であることを言わずにいたの、私の方なのに」

「でもそれってさ、自分の持病をカミングアウトするってことでしょ。そういうことするのって勇気、()るもんね」

 柚に返す言葉は思い付かなかった。

 カミングアウトは勇気の要ること。そんな風に考えたことなど、今まで一度もなかった。ただ、みんなと自分との間には隔たりがあるからという、諦観の広がりに身を任せるばかりで。

 あたしね、とだけ口にしてから、梢が電柱から手を離す。そしてそのまま、柚の隣に立った。

 視界の先で、春待桜が揺れている。

「寂しがり屋だから、さ」

 そう続けた。

「クラスのみんなと、あと一ヶ月が経てば離ればなれになっちゃうって思うと、やっぱ寂しくてたまらなくなるんだよね。柚ちゃんなんか知り合ってまだ二週間しか経ってないのに、もう別れはすぐそこなんだなって感じたら、なんか、やりきれなくて」

 ……梢の目付きがひどく遠くなっているのに気付きながら、柚は少し、怪訝な顔になった。離ればなれになるというのはどういう意味だろう。

 もしかして、と思った。柚と同じように、

「梢ちゃん()四月になったら転校するの?」

「あたし()っていうか、みんなだよ」

 梢は何気ない声色で尋ね返した。「あれ、柚ちゃん聞かされてないの? 邸中(ここ)、今年の三月末に閉校しちゃうんだよ」

 聞かされていない。

 全身に悪寒が走った。

 『もっとも、ほとんど何も残ってはいないのですが』──いつか校長の口にしていた言葉の意味を、柚はようやく思い知った。学年末だからという意味ではなかったのだ。この学校そのものが消滅してしまうから、という意味だったのである。

「な……なんで?」

 困惑を抑えられずに聞き返す。梢の視線が、ひびの目立つ足元のアスファルトに落ちた。

「なんか、このへんの地下に立川断層っていうのがあって、それがいずれ直下型地震を起こすかもしれないらしいんだよね。んで、邸中の校舎はそれに耐えられないから、いったん学校を閉校にして建て替えるんだって」

 そんなの、校庭のどこかに仮設校舎を作って、学校の機能を維持しながら建て替えればいいんじゃ──。とっさに代案を思い付いた柚だったが、校庭のど真ん中にそびえ立つ春待桜が目に入って、そんな考えもすぐに吹き飛んでしまった。狭くて桜の邪魔な邸中の校庭に、仮設校舎の設置場所を用意することは不可能なのだろう。

「そ、そしたら、みんなはどうなるの」

「全員を引き取れる学校なんてないから、みんなバラバラにあちこちの学校に転校させられるんだって」

「そんな……」

「そうなったらもう、きっと今のみんなで仲良くする機会も、なくなっちゃうんだろうなって、さ」

 梢の目線が春待桜に戻った。かと思うと、柚の方を向いて、制服の胸元で桜色を放つクレストリボンに手を伸ばした。

 むかしは派手で苦手だった、桜色の目立つこの制服。

「あたし、この制服のデザイン好きなんだ。これ着てればいつ、どこにいようとも、邸中の仲間だって分かるから」

 梢は目を細めた。リボンを触られている柚は、どぎまぎして身動ぎもできなかった。

「だから、みんなでこの格好をしていられる間に、せめていっぱい思い出を作りたくて……。あたしのわがままなんだけどね、こんなの」

 リボンから手を離して、梢は空へと視線を放り上げた。応じるように春待桜が揺れた。ざわり、ざわり。優しい笑い声が、辺りいっぱいに響き渡った。

 そんな顔、しないでほしい。

 柚は思わず声を上げていた。

「わがままなんかじゃないよ。みんなきっと、同じ気持ちだよ」

 梢が柚を見た。なるべく予防線は張らないように、柚は懸命に思い付いた言葉を繋げてゆく。

「もう二年間、同じ景色を眺め続けてきた仲間なんだもん。離れたくないって思うに決まってるよ。ちゃんとその気持ちをアピールしてる梢ちゃんは偉いと思う。……そんな風に思える存在なんて私にはなかったし、梢ちゃんのこと、羨ましい」

 言いながら、そうでしょと自分の胸にも確かめる。前の中学にも、小学校にも、愛着なんて湧きはしなかった。そんなものを抱けるほど楽しい時間を過ごせた自覚はなかった。

 寂しがり屋なのはむしろ、柚の方だと思う。迷惑をかけたくない、不必要な心配をかけたくないといって、距離を縮めようとしてこなかったのは、他でもない──柚自身だった。

 情けない気持ちで、今は胸の中がいっぱいだった。


 うつむいてしまった柚のひどく小さな姿に、梢は何を思ったのだろう。十秒、二十秒と時間が経ったところで、そっとため息を漏らした梢は、言った。

「ね。これからも柚ちゃんのこと、遊びに誘い続けてもいいかな」

 いいよと素直に応じることはできそうになくて、柚は小声で答えた。

「これからも私、断り続けることになっちゃうかも、しれないけど」

「誰だって断る時は断るもん。たとえ柚ちゃんがそう思ってくれていなくても、あたしは柚ちゃんのこと仲間だって思ってる。だからせめて、仲良くさせてよ」

「…………」

「春待桜のある校庭で一緒に走り回った人のことは、誰だって仲間だと思いたいんだ。少なくともあたしは、ね」

 『仲間』の語が、今はいつもよりも重たく響く。柚は顔を上げて、寂しげに微笑む梢の顔を見つめた。

 春が大地を覆い尽くしてしまえば、みんなが離ればなれになってしまうことを、梢たちは知っていた。誰もが柚の持病のことを知らなかったように、柚の知らないところで梢たちも葛藤していたのかもしれない。……いや、きっと、そうなのだ。

 このまま我を張るのと、誘いに応じて迷惑をかけるのと、どちらがより梢たちを傷付けてしまうのだろう。それは分からないけれど、

(梢ちゃんの感じている思い、私にも感じられるようになりたいな)

 柚は汗ばんだ手を、きゅっと握りしめた。


 目の前の路上での出来事など何も知らないと言わんばかりに、桜は黙って身体を風にくぐらせては、くすぐったそうに笑っている。

「スーパー、戻ろうよ」

 梢が優しい声色で、告げた。

「みんな、向こうで柚ちゃんのこと、待ってるよ」







「何なんだろう。前の時も、それから今のも……」


▶▶▶次回 『七 リスタート』

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