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桜の雨、ふたたび  作者: 蒼原悠
肆 ブロッサム・プロミス
62/69

五十五 雨はいつまでも





「──そうか。あの子が、無事に」


 栗沢からの報告を受けた柾は、無自覚のうちに何度も、何度も、繰り返し(うなず)いていた。

 栗沢は柾の耳にだけ囁いていったので、梅にはまだ、柚の意識回復は伝わっていない。梅は黙って風を感じている。その頬に、ひとつ、ふたつ、貼り付いた花びらが、今はいくぶん梅の身体に宿る生気を(かさ)増ししているように見えた。

 校庭は数多の人出で賑わっている。体育祭の時も、文化祭の時も、邸中の校庭がこんなに人の足音で(うるお)ったことがあっただろうか。

「──私もそろそろ、仕事に戻らないといかん」

 少し躊躇(ためら)ったが、そう声をかけた。梅が(まぶた)を開けて、小さく首を縦に振った。

「わたしも帰らなければいけないねぇ」

「うちの者をもう一度、ここへ呼ぼう。この視界の中、その杖をついて一人で()くのは危ないだろう」

「そうねぇ……。そうしてもらえると、わたしも楽でいいわ」

 決まりだね、と柾は携帯電話を取り出した。朝日を呼んだら、梅には何も告げずに病院へ向かうよう伝えておこう──。芽生えた悪戯心が妙に心地好くて、懐かしくて、舞い散る花びらのひとつにそっと、手を差し伸べた。

 それから、捕まえたそれを、梅の手のひらに乗せた。

 梅が、どうしたの、と言いたげに首を傾げる。

 七十年前の梅も同じ顔をしていた。『どうして、泣いているの?』──あの時はそう問われて初めて、嬉し涙に暮れているのを自覚したものだった。想いが届いた嬉しさに。満開の春待桜を共に拝むことのできる、喜びに。

 いま、自分はどんな顔をしているだろう。

 きちんと梅の前で、笑顔を浮かべることができているだろうか。

「再会の証だよ」

 乗せた花びらごと梅の手を包み、柾は口角を上げた。それから──少しだけ、表情を繕うのをやめた。

「また、会えるかね」

「会えますよ」

 梅の声は優しかった。

「あなたも、わたしも、お互いのいる場所を知っているのだから。もしも分からなくなったなら、春待桜(ここ)を目印にしましょう。そうすればもう、見失ったりしないで済むわ」

「……そうだね。その通りだ」

「心配かしら」

 否定はできなくて、けれど肯定したくもなくて、柾は返事をしなかった。──その目印となるべき春待桜は、まもなくこの世から消え失せてしまうのである。

 大丈夫よ、と梅は微笑んだ。

 不意にそこへ、花びらの雨をいっぱいに受けた幼い頃の彼女の姿が重なって。二人は柾の手を握り返し、言った。

「わたしとあなたが覚えてさえいれば、春待桜はいつでも、いつまでも、ここで咲いているから」


 どんな桜も、どんな人も、永遠の命を持ってはいない。いつかは魂が尽き、その在処(ありか)(しがらみ)を離れて空へ上ってゆく。

 いつまでも続く誓いは、互いが互いを信じることでしか保つことができないのだ。

 梅はそのことを分かっているのだろう。柾が何も知らぬまま過ごしてきた七十年もの間、梅は柾を信じ続けてくれた。春待桜が咲かなくとも、声が届かなくとも。

 ならば次は、柾の番なのかもしれない。


 まだ朝日への電話も済ませていない。このまま時間を浪費していたいけれど、そうもいかないのが学舎(まなびや)(あるじ)たる校長である。

「そろそろ、行くよ」

 柾は梅の手を離した。

 そうして、梅の顔が曇ってしまう前に、続きを口にした。

「近いうちにまた連絡を取る。今度はもっと、ゆったりと(くつろ)げる場所で会おう」

「ふふ。約束、かしらね」

 くすぐったそうに梅は笑った。

 そうだ、約束だよ──。柾も釣られて、笑った。こんな歳になってもなお、格好の悪い約束しかできないけれど。今度はきっと、必ず。

 笑顔のまま別れた。

 花びらの降る校庭を、一歩一歩を踏みしめながら歩いた。

 振り返りはしなかった。そんな必要はない、きっとあの場所で立ってくれている。そう信じることが、今は梅に(ささ)ぐ何よりの想いになると、信じて。


 梅の息遣いが遠くなっても、風に揺られて(わら)う春待桜の息吹はいつまでも、いつまでも、柾の耳に響き続けていた。






 春待桜の奇跡の開花は、それからおよそ十四日間の間にわたって持続した。


 七十年間の沈黙を破り、しかもその開花は類を見ないほどの大規模な『桜の雨』。拝島の街を飲み込む開花の様子、そして春待桜の名は、SNSを通じて瞬く間に全国に知れ渡った。たちまち事の次第を聞き付けたテレビ局や新聞社が大挙して押し寄せ、その模様を邸中学校の閉校と(あわ)せて一斉に報道したことで、拝島には翌日から(さば)ききれないほどの花見客が溢れ返る事態となった。

 この未曽有の騒動に、昭島市は迅速に対応した。閉校したばかりの邸中学校の解体工事着工を延期、校庭と校舎を花見客に開放したのだ。一帯には商機と読んだ出店や模擬店が乱立し、邸中の周囲は本物の祭と大差ないほどの賑わいに包まれた。

 街中に花びらが雨のように降る──。普通ならば考えられないような光景を、人は『奇跡だ』と持て(はや)す。しかし、その奇跡が誰の手によってなし得たものなのかが明かされることは、ついになかった。新聞社の中には自力で調査を開始し、春待桜が室町時代の国衆に由来するところまで突き止めたものもあったが、そこから先については全くのお手上げであったのだ。

 正体不明、原因不明の『桜の雨』は、いっそうミステリアスな存在として東京中の人々を惹き付け続けた。拝島の知名度は全国レベルにまで跳ね上がり、花見客たちは莫大な経済効果を拝島にもたらしていった。さらには桜の雨を撮影した多数の写真家たちが、自慢の一枚を持ち寄って写真集を制作。春待桜の雄姿は鮮明な画像となって、後世に遺される見込みが立った。




 そして、開花から二週間後の四月四日、深夜。

 春待桜はついに最後の花びらを散らし、沈黙した。


 もう、葉が繁ることも、新たな枝を伸ばすこともなかった。

 推定樹齢、約五百九十年。その枝いっぱいに数奇な運命を背負い、わずか二度の開花の中にすべてを注ぎ込んだ山桜の大樹は、土気色に馴染んでゆく無数の花びらたちに囲まれて、永久(とわ)に続く眠りの奥深くへと沈んでいったのだった。











『幕間 ──永遠の約束──』に続きます。

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