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桜の雨、ふたたび  作者: 蒼原悠
壱 エンカウント・チェリー
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五 嘘は笑顔の下に





 期末試験の日程は、三月五日と六日の二日間。残り二週間ほどに迫ってきた試験までの日々を、柚は相変わらず黙々と机に向かいながら過ごし続けていた。

 体育は毎回のように途中で抜け、あまりにも息が苦しい時にはそのまま保健室へ送られることもあった。それ以外の教科は、ただ順調の一言に尽きた。苦手な歴史の授業も古文の授業も、分からないなりに真面目に聞いていれば最低限の知識は身に付いた。

 学校が終われば誰と遊ぶこともなく、ひとり家路を辿(たど)ってまた机に向かう。それから梅の相手をする。

 その平坦な日常に、柚が疑問を抱く余地などありはしなかった。




 昼休みに突入して早々、遊びの誘いを控えめに断った柚の頭上には、その日も失望の言葉が降り注いだ。

「えー、今日もダメなの?」

「期末の勉強なんか徹夜でいいじゃんー。柚ちゃん勤勉すぎない?」

 さすがの柚も、徹夜はダメだよと眉をひそめた。「そんなことしたら身体に悪いよ?」

「柚ちゃんってお堅いなぁ」

 返答が机の上にどんと落ちてきた。行こー、と声がして、みんなは柚の席を離れていく。めり込んだ返答の重たさにしばらく耐えてから、柚は声をひそめて嘆息した。

 今日もまた、断ってしまった。

(仕方ないもん)

 机の下に隠した手が、いつしかスカートの裾を強く握りしめていた。これでいい。これでみんな、私に遠慮しないで遊べるんだから。そう言い聞かせて、両手をスカートから解放する。

 一ヶ月後にこの拝島を出て、柚はいったいどの町へ向かうのだろう。

 そこでも拝島(ここ)と同じように、月島(むかし)と少しも変わらず、友達との交流を諦め続けるのだろうか。考え始めると目の前が暗くなりそうだった。


 よっ、と声がした。斜め前の席の主──林が戻ってきた。トイレに行っていたらしい。

「なんか女子、ごっそりいなくなってんな」

 辺りを見回した林が、首を傾げてつぶやく。柚も顔を上げた。

「遊ぶ仲間を集めに行ってるみたいだよ」

「へぇ、いいなぁ」

 林は笑った。合気道部の練習が毎日のようにあるそうで、林はあまり友達と放課後には遊べないらしい。

「中神は参加しないの?」

 不意に尋ねられて、柚は言葉を喉に詰まらせかけた。

「……うん。勉強とか、あるから」

「まだ二週間くらい猶予あるのに?」

 今度は黙って、頷いた。うんと言えるだけの自信が持てなかった。

 唇をそっと噛む柚の表情に、何かしら思うところがあったのか、林は腕を組んで柚の顔を覗き込んできた。繕われていた笑みが、いつしか姿を消している。

「オレも前から気になってたんだけどさ、その……何か事情でも抱えてるの?」

「な……ないよ、そんな」

「そうかなぁ。いや、オレが詮索しちゃいけないことだってあるのは、分かってるんだけど」

 その時になってようやく柚は、林の顔付きの意味を理解した。案じられているのだと。

 果たして、林は続けた。

「でも、中神まで宮沢みたいな存在になってほしくないなーって、オレなんかは思っちゃったりするんだよね。あいつの隣で過ごしてれば、宮沢が誰からも相手にされない存在になってること、分かるでしょ?」

 柚は隣席に目を落とした。樹は昼休みにはいつも校庭に出ていって、ボールを相手にラケットを振り回している。

 私、警告されてるんだ──。血の気が少し引いたのが感じられた。

 怯えさせてしまったと思ったのだろう。慌てたように林も話題を切り替えにかかる。「そ、そういやこの席に座るようになってけっこう経つだろうけど、宮沢(あいつ)の隣、どう? 慣れた?」

「もうちょっと親切だったらいいのになって思うかな」

 柚は苦笑いした。本当は、『ちょっと』どころではなく親切になってほしい。

 だよなー、と林も柚と同じ顔になった。

 額の不自然なしわが消えていた。柚の事情を探るのはやめにしたらしい。

「ま、困ったことがあったらオレたちにも気軽に声をかけてよ。せっかくあと一月だけ(・・・・・・)のクラスメートなんだからさ」

 瞬間的に口元の笑みの形が変わるのを感じながら、うん、と柚も首を振った。

 こういう時に自分を(いつわ)るのばかり、得意になってゆく自分がいる。




──『中神まで宮沢みたいな存在になってほしくないなーって、オレなんかは思っちゃったりするんだよね』


 その言葉ばかりが、家に帰ってもむやみに思い出されて。

 制服を脱ぎかけのまま、柚はじっと唇を噛んでいた。やめよう、考えても仕方ないもん──。声を払って、制服の襟に手を掛け直したとき、こたつの向かいで梅が不意につぶやいた。

「──あらいけない。買い物、忘れてた」

 梅の手元にはスーパーの広告がある。柚は手の動きを止めて、尋ねた。「あれ、行ってなかったの?」

「銀行に寄ったついでに行くつもりだったのに。どうするかねぇ、今日は特売日だし……」

 地元民であるとは言え、仮初めにも梅は高齢者だ。ほいほいと出歩けるほど足腰はしっかりしていない。だから行動範囲には限界があって、通う銀行といえば拝島駅前の支店、買い物といえば緑街道沿いの大型スーパーマーケットと相場が決まっている。

 少し思案の時間を取ったあと、行ってくるかねぇ、と梅は重そうに腰を上げた。柚は思わず、その曲がった背中に声を掛けた。

「私も行こっか」

「ええよ、柚ちゃんは。勉強あるでしょう?」

 梢たちを前にした時と同じ自己嫌悪が柚の身体を貫いて、柚は首を振ってそれを掃き出した。

「一日くらいやんなくたっていいよ。それに、勉強なんて暇潰しみたいなものだもん」

 それが正直な本音だった。

 梅は一瞬の間を空けて、そうかね、と頷いた。


 昭島(あきしま)という市名は、『昭和(しょうわ)』『拝島(はいじま)』という二つの町が合併したために生まれたものだ。このあたりの都市の勃興は、遠く戦国の世に由来するという。もともとは純農村地帯だったのが、およそ五百年前、多摩川を挟んだ反対側に城郭が築かれ拝島に城下町が形成されたことで、この地の発展は始まったとされている。

 その後、奥多摩や埼玉方面からの街道が次々に整備された結果、拝島周辺は徐々に宿場町化。さらに近代化以降は鉄道路線の接続が行われるようになり、拝島は一時、中継地点としての発展を見た。とはいえ、本格的な市街化をもたらしたのは昭和期以降の軍需産業の発達だ。昭和町に巨大な軍用機工場が立地して以来、その関連産業によって二つの町はともに大きく栄えた。多くの工員が移り住んだことから人口も増加、その影響で戦後はもっぱらベッドタウンとしての特徴を備えた開発が進み、今もなお、住宅が建ち並ぶ衛星都市として、昭島は青梅線の沿線に座している。

 有史以来、昭島という町の在り方は変遷を繰り返してきた。二つの町が合併して生まれたという経緯もあってか、近隣の立川や八王子と違って、昭島は明確な中心街がなく、商業の集積も小さい。つまり商店街の発達が弱いわけで、この拝島においても買い物を緑街道沿いの大型スーパーマーケットで済ませる人は決して少なくないのが現状だ。

 象徴的な存在に人間は惹かれやすい。巨大スーパーという空間は、地域の人々の集まる場所。それは拝島に関しても少なからず当てはまる法則と言えそうだった。

 ──もっとも、拝島のシンボルは何かと問われれば、実はそこには別の答えがあって。




 買い物カートを押しながら、柚と梅は食料品売り場を歩き回っていた。

「ええと、卵は……」

「あ、さっき向こうにあったよ。特設コーナーだったかな」

「ああ、そっちに移動してたんだね。行ったり来たりだねぇ」

 梅が方向転換を試みる。柚もくるりと方向転換する。梅の歩行速度に合わせる必要があるので、柚は意図的にゆっくりと歩くようにしていた。

 制服で来なきゃよかったな──。周りを見回しつつ、柚は早くも後悔を始めていた。さして激しい運動はしていないにしても、制服はほこりっぽい。試供品にでもほこりを落としてしまったら大変だ。

(それに、これ着てたら邸中学校の生徒なんだって一発でバレちゃうし……)

 考えたら思わず肩が小さくなった。ゆっくりというよりもこそこそと歩いているのは、そんな気持ちのせいかもしれなかった。普通の市民に見つかるのが嫌なのではない。クラスメートに見付かりたくなかったのだ。見回す目を足元に落とし、制服の端を柚はそっと掴む。

 それがいけなかったのか。直後、背後から聞き覚えのある声がして、柚の(うれ)いは現実のものになってしまった。

「あれ、柚ちゃんじゃない?」

 よりにもよって梢の声だった。頭を抱えたくなりながら振り返ると、そこでは梢たちクラスの女子数人が、特設売り場に並べられたお菓子を漁る体勢のまま柚のことを凝視している。

 あらあら、と梅が笑った。「お友達?」

「え、えっと──」

 柚は曖昧に笑った。目眩(めまい)がしそうだった。試験に向けて勉強をしているはずの中神柚が、スーパーに出歩いているところを見つかってしまったのである。どうやって言い訳をしよう。

(こ、これはお手伝いだもん。おばあちゃんは足が悪いから、その手助けだもん……)

 必死に理論武装を組み立てる柚のところに、梢たちは駆け寄ってきて問いかける。

「買い物してるの?」

「うん……」

「それじゃ勉強、一段落したんだね! あたしたちもお菓子買いに来てたとこだったんだー」

 無邪気な声が柚の心臓を深々と突き刺した。それでも柚には、うんと答える他はなかった。もはや理論武装など何の役にも立っていなかった。

 そんなこととは露ほども知らないであろう梢たちは、仲良さげに喋り続ける。

「てかさー、前から思ってたけど柚ちゃんマジで偉くない? わたしなんてまだ勉強のべの字も始めてないんだけど」

「うちなんて来週から始めるつもりだったけどなー」

「えっ⁉ 棗、それはさすがにやばいでしょ! それってもう試験一週間前だよ?」

「いいのー、うち勉強は中三から頑張るから! 考えてみなよ、あんなの受験に間に合いさえすれば十分でしょ!」

 楽しそうに繰り広げられる会話に、柚はちっとも入っていくことができない。隣の梅が柚を見上げ、首を傾げている。なぜ話そうとしないのか疑問なのだろう、と思った。

 それでも、できない。できないのだ。

 柚と梢たちの間には透明な、途方もなく巨大な壁が(そび)え立っている。柚の積み上げてきた嘘と拒絶が築いた壁だ。うっかり口を滑らせてしまえば壁は崩れ、きっと柚の方に向かって倒れてくる。『柚ちゃん、あたしたちがそんなに嫌だったの?』──などという詰問に姿を変えて。

(それに、私は……)

 唇を噛んだ瞬間、柚はひどく切ない気持ちに襲われた。

 いつまでこうやって我慢して、自分に嘘をつき続ければいいのだろう。

 なんだかいっそ、みんなの前で、梅の前で、本当のことを言ってしまいたくなった。考えてみれば柚はまだ、喘息の存在すら周囲に明かしたことがない。前の中学でも明かさず(じま)いだった。

 でも、今さらそんなことを口にしたところで、素直に信じて受け入れてくれるとも、思えなくて。









「この制服のデザイン好きなんだ。これ着てればいつ、どこにいようとも、邸中の仲間だって分かるから」


▶▶▶次回 『六 ひとりぼっちの木』

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