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桜の雨、ふたたび  作者: 蒼原悠
肆 ブロッサム・プロミス
57/69

五十 焦り





──『二年A組の生徒に連絡します。進級証書の受け渡しを行うので、至急、教室に集合してください』


 職員室備え付けのマイクから手を離して、ふぅ、とため息をつく。まだ渡していなかったんですかと背後で同僚たちが笑った。

「ええ、色々とありまして」

 放送設備の電源を切った上川原は、苦笑いして進級証書の束を手に取った。

 花びらがいくつも貼り付いた窓の向こうに、生徒たちが昇降口に向かっているのが見える。もちろん校庭に出ているのは林や梢たちだけではない。保護者たちや教師、よその学年の生徒たち、そして開放された校門から物珍しさに入ってきた地域の住民たちで、邸中学校の校庭はいっぱいになっている。

 それに比べれば職員室は長閑(のどか)なものだった。誰かの()れてくれた茶を啜りながら、すでにクラスを解散させた教師たちはのんびりと桜を眺めている。

「しかし、すごいことになりましたな」

「よりによって閉校式の当日に咲くとはって感じですよね」

「宮沢校長の努力が実ったんじゃないか。きっとあの御仁(ごじん)が一番喜んでいますよ」

「熱心でしたしねぇ。……それにしても本当に、こんな景色が見られるなんて」

 流れてくる会話に耳を傾けていると、いつしか放送の終了から二分が経っていた。そろそろ、いいか──。束をしっかりと持って、上川原は職員室の扉を開いた。

 二年A組の教室へ向かう廊下のあちらこちらに、桜の花びらが持ち込まれている。

(こりゃ、掃除も大変だ)

 点々と続く桜の道案内を辿りながら、そんなことを考えた。そんなことくらいしか考えるべき問題がない幸せに、せめて今は(つか)っていたい。

 が、階段を上がると間もなく、教室に着いてしまった。


 ごほん、と咳払いをして調子を整える。生徒たちと向き合う、最後の時間である。

 ドアを開けると、そこには花びらまみれの生徒たちが勢揃いしていた。

「おいおい、揃いも揃ってなんだその格好は……」

 呆れた声を上げた上川原に、すぐさま生徒たちは口々に報告を始めた。「ね、先生見てよ! こんなきれいな写真撮れたんですよ!」「いま鬼ごっこやると最高なんだよ! マジで前、見えないから!」「せっかく咲いたんだし、外に出て楽しむなんて当たり前じゃん!」

 つい二日前、教卓の前の樹ともども通夜のような空気を作り出していたのが、同じ面々だとはとうてい思えない。本当に仲が良いんだな──。上川原の胸を、羨望がちくりと(つつ)く。

 傾いていたブローチを直して、大声を張り上げた。

「分かった分かった。お前たち、いつまでも騒いでいると進級できないぞ」

 それは困るとばかりに生徒たちは静まり返った。

 手元の束には、クラス名簿に載っている生徒たち全員の進級証書がある。柚が不在なのはもう仕方がないとして、人数は大丈夫だろうか。集まった生徒たちの頭の数を、上川原は素早く指で数えてみる。

 足りない。

 もう一度、試みた。やはり一人が足りない。

「全員いるか?」

 尋ねると、生徒たちは互いの顔を見交わして確認を始めた。林が立ち上がって申告した。

「宮沢がいません」

 柚の席の隣が無人になっている。本当だった。

「築地、居場所を知らないか」

「いや……。あいつ、さっきまで教室にいたはずですけど」

 林は頭の後ろを掻いた。だよね、と声が方々から上がる。以前ならばきっと上がることのなかった声だが、それを一番に喜ぶべき者の姿がなかった。


 進級証書をまだ渡されていないことを、よもや失念しているはずはない。樹はどこに消えたのだろう。

 桜の降る雨の音が、ずいぶん静かに響いていた。



     ◆



 扇形の廊下は見通しが悪い。手すりに掴まり、柚はあたりを見回した。

「……看護師さん、いないや」

 病室のドアに貼ってあった地図で、館内の配置はある程度、確認できたつもりだ。廊下をしばらく行った先で曲がると、スタッフステーションがある。トイレはその手前に設置されている。

 みんな、春待桜の開花に見とれているのだろうか。

 上のフロアへ向かう階段があった。最上階の九階には、外の空気を浴びられるテラスがあるらしい。段に足をかけてみる。胸が少しばかり、ずきんと痛む。

 この身体の中に恐ろしい病を抱えているだなんて、信じられなかったし、信じたくなかった。そんなことに心のメモリを消費するくらいなら、昇れるところまで昇ってみよう。そう思って、階段の行く手を見上げた。


 肺がんという病気がどういうものなのかは、よく知らない。

 ただ何となく、“(ガン)”という響きからして、それが大変な重病であることくらいの察しはついた。そのせいか、息苦しくなって咳をするたび、

(私、死ぬのかな)

 そんなことを考えてしまった。いつか夢に見た、喉から吹いた血に溺れて死ぬ自分の姿が、目に映る景色に重なる。何度も、何度も。

 呼吸をすると胸が痛む。得も言われぬ乾きが喉を這い上がってきて、段を上るごとに息切れしてしまう。まるで喘息の発作を常に起こしているみたいだった。

 私の予感、近かったんだな──。柚は眉を下げた。階段の中腹に開いた大窓から、雪ならぬ桜景色と化した拝島の街を望んで、表情を微笑みに切り替えた。

(でも、樹はちゃんと約束を守ってくれたし。どのみち四月になればまた、引っ越すことになってたし)

 何よりも、春待桜の開花をこの目に焼き付けることができた。

 窓から顔を背け、また階段を昇り始める。──急に吐き気が喉を駆け上がってきた。こらえられずに吐き出した。背筋が凍るような色の赤が、病院服の裾を派手に汚した。それでも喉の引っ掛かりが取れずに、その場にうずくまって咳を連発した。背骨がぎしぎしと不気味に鳴った。

「はぁ……は……っ……」

 涙目になりながら、それでも前を向いた。

 苦しい。

 痛い。

 気持ちが悪い。

 それでも病室にいたくない。あの桜の雨に、少しでいいから触れてみたい。

 今はそれより他に、前を向くための動機が見当たらなかった。



     ◆



 晴れ渡った空に突如として舞い上がった、見上げるほどの花びらの雲を前に、拝島の街は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。

 家や店やオフィスを飛び出した多くの人々が、空を呆然と見つめたまま立ち尽くしていた。突っ立ったままの母親を置いて、小さな子どもたちは見たこともない景観に大はしゃぎだった。祭の日かと見紛うほどの人出で道は溢れ、慌てて交通整理に追われた警察官でさえ、どこか上の空で。

 春待桜の開花の引き起こした衝撃は、それほどまでに大きかったのだ。


 その人波を掻き分け、突っ切り、樹は緑街道を走っていた。

 降り注ぐ花びらのおかげで視界が悪い。行き交う車はみな、霧の中を走るような徐行運転だ。フォグランプのカラフルな光を足先に繰り返し浴びながら、ふと、背後を振り返った。高空へ立ち上る花びらの雲が笠をいっぱいに広げ、まるで春待桜の足元に立っているかのような景色が形作られていた。

 花びらは街を覆い尽くす。

 現在も過去も、喜劇も悲劇も、すべてを覆い尽くして埋めてゆく。

(くそ……。あの病院、こんなに遠かったっけ……っ)

 信号が青に変わる。これから縁日にでも(おもむ)くかのような雰囲気の人々を睨み、樹はふたたび、走り始めた。


 春待桜の植えられた六百年前。来栖(くるす)家の娘・(よう)は、永享の乱で松原(まつばら)柄命(もとのり)を失った。

 そして初めて春待桜の咲いた、七十年前。戦争で宮沢柾と田中梅は離ればなれになり、別々の人生を歩まざるを得なくなった。

 今度、何も起こらないなどと、いったい誰が言い切れるだろう。──そう考えた時に真っ先に頭に浮かんだのは、病で意識を失い入院している柚のことだった。

 根拠もない不安なのは承知で、けれど怖くてたまらなかったのだ。たまらずに教室を飛び出した。今すぐにこの目で、柚の無事を確かめずにはいられなかった。

(何してんだよ(バカ))

 走りながら叫んだ。

(まだ進級証書だって受け取っていないってのに。校庭でクラスのやつら、待たせてるかもしれないのに)

 それでも、花びらが目に入りそうになって閉じるたび、まぶたの裏側に、いつかのように血だらけで倒れ伏す柚の姿が燃えて。

 そうだ。

 柚はとうの昔に、本当に失われるその一歩手前に立っているのである。

(また──俺──)

 樹は歯をぎしりと噛んだ。

 柚の眠る(やかた)、拝島松原玉州会病院の巨躯が、桜の雨景色(あまげしき)の向こうにぼんやりと姿を現しつつあった。







「明日が来れば、他人になってしまうんですから」


▶▶▶次回 『五十一 桜色の絶望』

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