四十七 ありがとう
初めて、その景色を目にした日。
目の奥がじんと痛んで、このまま失明してしまえばいいのにと思った。
『家のあった場所だ』と言われ案内された、草いきれの残滓の漂う広大な荒れ地。寺の敷地の片隅に置かれていた、冷たく、重たい色をした『田中家』の墓石。すがる思いで向かった約束の校庭で、じっと花を咲かせず沈黙していた春待桜。その姿を見上げ、自分の知らない誰かと仲良さげに話していた、愛しの人。
わたしの世界はみんな失われたんだ──。途方に暮れるあまり、頬を伝った一滴を拭う力さえ出せなかった。走って、走って、息が切れるまで走って、人気のないところでついに涙の堰も切れた。
終戦から二年後の春。三年に及んだ疎開生活の末、ようやく故郷の拝島に帰りついた田中梅が直面したのは、数多の想いが粉々に打ち砕かれる痛みと、絶望だった。
──『そんなに忘れようとしなきゃ、いけませんか』
訪ねてきた樹は、そう言って校長との再会を促した。
柾さんはわたしのことを覚えている──。そう聞かされて、どんなに嬉しかっただろう。けれど、嬉しさよりも前に出てしまったのは、拒否の意思だった。樹が真剣な思いで提案してくれていたのは分かっていて、それでも梅は口にしたのだ。遠慮しておくわ、と。
(あの日、わたしの恋は終わったんだもの。今さら掻き回そうとするなんて、自分の道を進んだ柾さんに申し訳ない)
それは、この七十数年間にわたって、校長のことを思い浮かべるたびに自分への戒めとしてきた言葉でもあって。
彼が教員として邸中学校に赴任していたことは、たまたま通りかかった校庭に姿を見つけたことで知った。二人目の相手はお見合いで知り合った人であること、子供が生まれたこと、奥さんが亡くなったこと、教頭に就任したこと。井戸端の話や回覧板でそれらの事実を知りながら、梅も結婚し、子供を産み、その巣立ちを見送り、夫を亡くした。同じ地面の上で生きながら、あの人は自分の未来をちゃんと辿っている──。彼の動向を知るたび、そうやって安心を覚えたものだった。
宮沢柾に向ける、この想いの正体は何なのだろうか。
少なくとも恋ではないはずであった。愛とも言い切れる自信がなかった。もしもこれが愛ならば、梅だってもっと距離を縮めることをためらわなかったに違いない。恐れなかったに違いない。
では、何なのか。
そう詰問されたなら、梅には明確な回答を用意することはできそうになかった。
樹が肩を落として帰っていった夜、まだ血の臭いの色濃く残る居間の真ん中に座って、月を見上げながらぼんやりと考え込んだ。大切なものを失ってしまった──その意味では七十年前も、今も、心境に大差はないように思えたから。
その時、ふと思い立って、いつか柾に贈られたあの手紙に手を伸ばしたのだ。
受け取った時の手の温もりが、じんわりと身体中に広がった。当時の感動をまだ忘れ去っていなかったのだと、この歳にもなって初めて気付かされた。ただ、どこまでも純粋に、永遠の契りを結べるものと信じ願っていた、幼かった頃の自分がむやみに思い出されて。
気付けば、樹の前でこらえ続けていた涙が膨らんでいた。
居間を覆い尽くしてしまうほどの淋しさに耐えきれず、便箋を閉じていた。
半世紀以上の時を経てもなお、柾の顔はそれと判別できる。年老いて骨が当てにならなくなっても、記憶は案外、当てになるものらしい。
柾は目を見開いたまま、立ち尽くしていた。
「──生きて、いたのか」
「あなたのかわいいお孫さんの友達が、あの日の手紙を届けてくれたでしょう?」
にっこりと笑みを作ってみる。以前、柚から笑顔を褒められたことはあったけれど、柾にも褒めてもらうことはできるのだろうか。
杖に身体の重さを乗せ、梅は柾に向かって一歩、近付いた。風を浴びた春待桜が、頭上で爽やかに笑っている。あの日と同じ笑い声がする。
「家に爆弾の落ちてきた日、わたし、母と一緒にこっそり逃れていたのよ。あなたには知らされていなかったと思うけれど、無事だったの」
そう言うと、柾はおろおろした表情のまま駆け寄ってきた。お互い高齢なので、足元は覚束ない。
「そんな……。もっと早く知りたかった。今、どこに住んでいるんだね」
「五鉄通りを下ったところよ。今の苗字は、中神」
柾の目の色が変わった。二年の柚さんと同じだ、と彼はつぶやいた。
その程よい勘の鈍さが好きなところのひとつだったことを、春待桜のさざめきの下で梅は思い出した。
「あなたのお孫さん──樹くんと言ったかしら。うちの孫とあの子が同級生でねぇ。何度も会いに来て、話をしてくれたわ」
柾を見上げ、目を細める。
「それでね、あの子が言うには、わたしとあなたが春待桜の下で出会うことで、この桜は咲くんですって」
柾は完全に言葉を失っていた。命を落としたとばかり思っていた人が現れ、その孫と自分の孫とが知り合っていたことを聞かされ、おまけに春待桜のことまで……。是非もないと思う。それでもしばらく待ってみると、柾は絞り出すような声で問い返した。
「うちの樹が、そう、言ったのか」
「ええ。うちの柚ちゃんと一緒になって、たくさんの文献を調べてみたら、そういう結論に至ったそうなのよ」
「だ、だが……」
またも柾は言い淀んでしまった。
春待桜は現に咲いていない。そう言いたいのだろう。
困惑している時の様は、柾も樹もそっくりだ。唇を噛み、自分の足に視線を落としてしまう。やっぱり血は争えないのかしらねぇ──。ここまで自分を連れてきてくれた樹のことを思い浮かべて、そうしたら少しは自然な流れで笑えた気になれた。
樹が二度目に家を訪れたのは、つい昨日のことだった。
──『お願いします。祖父に、会ってやってください』
土下座するような勢いで頭を下げた樹は、それでも梅が応じないと見るや、春待桜の話を切り出した。過去六百年間で春待桜が開花したのが、梅と柾の出会いのタイミングのみであったこと。あの時、梅と柾を結んでいた関係には、実はもうひとつの重大な意味があったのだということ。
おまけに樹と柚が恋仲だったことまで聞かされた。
──『本当は、俺と柚が桜の下に立つだけでよかったんです。でも、あいつはもう、目を覚ましてくれないから……』
唇を噛み、何かをこらえるように下を睨んだ樹は、すぐに目を上げて懇願した。
──『だから梅さんが必要なんです。お願いです、じいさんに会ってやってください。春待桜の開花するのを、じいさんは心待ちにし続けていました。これが、最後のチャンスなんです!』
つい今しがた、樹に迎えに来てもらって、家政婦の女性の運転する車で邸中へ着いた。隣の席で前を見つめる樹の真剣な横顔に、昔の柾の面影を見たように思った。
その上で今、柚や樹にかけてあげる言葉があるとすれば、『ごめんなさい』だと思う。
(わたしは柾さんに想いを届けに行くのではないの。わたしの中でくすぶり続けていた感情に終止符を打つために、柾さんに会わせてもらうわね)
その決意を、こうして本人を前にしても忘れないでいられていそうだ。
何度も春待桜を見上げては、不安そうに眉を曇らせる柾に、
「──咲かなくても、いいのよ。あなたがこうして元気に生きていて、校長先生なんていう大役を全うして。その姿をこうして間近で見られただけで、わたしは幸せだわ」
梅は微笑んだ。
「あれから色々と考えたの。わたしにとって柾さんは今、どういう存在なのだろうってねぇ……。恋でもないし、愛でもないし、わたしだって違う人と結ばれたもの。それでもわたし、気付くといつも、あなたの背中を探していた」
「ちっとも、知らなかったよ」
「当たり前じゃないの。あなたの中でわたしは死者だったんだもの」
「……すまない。すまんかった」
「謝らないで。わたしも、あなたに伝えるのをためらい続けてきたんだから」
だから頭を上げて。また一歩、近寄って、柾も少しばかり前に進み出た。
手が届くほどの距離に、かつてあんなに愛した人がいる。戦争が終わり、町も学校も姿を変えてしまっても、契りを交わしたこの場所は昔のままだ。春待桜の枝々は優しく手を広げ、約束の場所に立つ二人を包み込んでくれる。
やっと顔を上げてくれた柾の手を、梅はやんわりと両手で握った。
「離れてしまって淋しかったし、哀しかった。でもね、あなたがどこかで元気で生きているって確かめられるたびに、わたしも生きる意欲をもらえたわ。そうやってこの七十年間を暮らしてきたの。わたしにとって柾さんは、好きな人でも愛しい人でもない──生きる希望だったのよ」
柾の顔が歪んだ。
「この歳になるまで生きていてよかった。……本当に、本当に、ありがとうねぇ」
深々と頭を下げると、かぶせた手を柾が握り返した。微かに震えが伝わってきて、見ると柾は目尻に涙を浮かべていた。
風が吹き寄せる。春待桜の歌声が、高らかに校庭の真ん中を彩ってゆく。
「お礼なんか、言わんでくれ」
柾は一言、一言を噛みしめるように言いながら、梅の手を固く握りしめた。
「君が生きていたことを知れただけでも、今日の私は十分すぎるほどに幸せだ……」
もう何も返す言葉が思い付かず、梅は黙って頷くばかりだった。繰り返すたびに頷きの意味が変わっていくように思えた。だが、そんなものは何でもよかった。
何も言わなくとも、互いの交わした手のひらに滲む確かな温度と血流の触感が、感動の大きさを向こうに伝えてくれる。
七十数年という遠大な時を超え、距離を隔てながらも違う形で育ち続けていた、田中梅と宮沢柾の想いが。
今、春待桜の木の下で、繋がった。
「……あの日と同じ景色だね」
▶▶▶次回 『四十八 解かれた封印』




