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桜の雨、ふたたび  作者: 蒼原悠
肆 ブロッサム・プロミス
51/69

四十四 穏やかに





 最後の卒業生が式場を出ていった。『では、これにて解散いたします』──高い天井にこだました司会の声に、残っていた進級生たちもばらばらと立ち上がる。穏やかに始まった喧騒の中に埋もれながら、築地(ついじ)(りん)は後ろを振り返った。

 すでに席を立っていた樹と、ちょうど目が合った。

「行ってくる」

 ああ、と林は答えた。「こっちは任せとけよな。メールでも何でもいいから、進捗連絡、よろしくな」

 承知したとばかりに頷いた樹は、急ぎ足で最寄りの出口に向かってゆく。誰よりも早く体育館を出ていったその背中を見届け、うーん、と伸びをひとつ。

 武道で鍛えた林の身体には、並べられた仮設のパイプ椅子はどうにも狭い。教室の机にしたって体育館の武道場にしたって、同じように狭い。設備が何かと古いせいである。

 でも、本当はこの狭さがずっと、好きだった。

「林も戻ろうぜ!」

「宮沢の言ってたあれ、やるんだろ?」

 歩み寄ってきた男子たちが肩を叩く。胸元で輝く桜のブローチに目を取られて、そっと秘かに嘆息した林は、

「もうちょっと感慨に浸ってたいんだけどなー」

 わざと声のトーンを跳ね上げて、一緒に立ち上がった。




 『春待桜を咲かせるために、柚の祖母(おばあさん)と俺の祖父(じいさん)を引き合わせる』──そのプランの委細を、すでに林たちは昨日、樹の口から説明を受けていた。

 まず、卒業生退場直後の喧騒に紛れて樹が学校を抜け出し、校門前で待機していた宮沢家の家政婦・朝日(あさひ)(あけみ)に車を回してもらって中神家へ。その間、校長室が無人になるタイミングを見計らって、林は樹の用意した封筒を校長室の机の上に置きにいく。車がふたたび校門まで戻って来たら、今度は梢たちが適当な口実をつけて校長を部屋から引っ張り出し、春待桜の下へ連れていく。

──『お前、校長先生の孫だったのかよ!』

 周囲から驚嘆の声を浴びて、なんだか樹は居心地が悪そうだった。地域最大の地主の息子で、家には家政婦が雇われている。おまけに祖父は邸中の校長。どのエピソードにも、樹の異質さが濃く滲んでいる。

 その樹から、林は封筒を受け取った。

──『中身は何なんだよ』

 尋ねると、樹は苦笑いのような顔つきになった。

──『それを見れば多少なりとも、じいさんの心境に揺さぶりをかけられるだろって思って』

 心境に揺さぶりをかけられるものなんて言われても、さっぱり想像がつかない──。けれどその時は、樹が笑ったところを初めて見たことの方にばかり気を取られていて、林は特にそれ以上の考察を深めることもなく、机に封筒を突っ込んでしまったのだった。


 廊下は往来する人でいっぱいだった。友達に支えられ、啜り泣きながら通り過ぎていく生徒がいる。丸めた式次第を片手に握りしめ、壁に寄り掛かって寂しそうに笑っている生徒たちがいる。大型のカメラでそれらの様子を撮りながら、満足げな表情をたたえている先生がいる。

「なー、こんなに人目あんのに、本当に校長室になんて入れんのかな」

 普段と変わりのない暢気な声を背中に受け、林はため息を隠さなかった。「そりゃ、こんな大挙して押し寄せたら難易度上がるに決まってるって……」

 封筒を抱えて歩く林の後ろを、三人もの友達がぞろぞろとついてきている。こんなにギャラリーがいるだなんて思わなかった。原則として校長室に生徒はみだりに立ち入ってはいけないのだが、これでは隠密行動も何もあったものではない。

 とはいえ、これだけの仲間が周りにいたならば、かえって林自身は目立たなくなっているかもしれない。

「てか、ほんとに校長室に封筒置くだけだけど?」

 振り向いて確認を取る。そんなの知ってるよと、みんなは笑った。

「何となく面白そうだからついてきてるだけだもん、俺ら」

 それなら、いいのだ。

 林はまた前を向いて、左手に降りてゆく階段を見やった。一つ下のフロアの、職員室の隣。そこに校長室は配置されている。


 樹には、こんなことは言えないけれど。

(嬉しかったんだよ、オレ)

 握りしめた封筒に微かな温もりを感じて、思う。

 この封筒を樹に託されたことが嬉しかったのではない。樹が自分を頼ってくれた──心を開いてくれたことこそが、嬉しかったのだと。

 階段を降りきってしまうと、廊下に出た。ふと眺めた職員室の窓に、歩く自分たちの姿が映っている。林とそう違わない背丈で、細く締まった体格をした樹の幻影が、不意にそこに重なった。

 林と樹とは小学校の学区が違ったので、出会ったのは邸中学校に入学した時のことになる。そう長い付き合いではないとも言えるが、いちばん多感な時期を共にしてきたとも言えそうだった。同じ学級での生活を共にする中で、樹の色々な振る舞いを目にしてきたと思っているし、そしてそれは樹もまた、林のことを観察する機会を持っていたということ。

 思えば、樹は梢を筆頭にたくさんのクラスメートに嫌悪されていたけれど、足掛け二年の付き合いの中で樹が林に手を出したことは、一度もない。そもそも手を出したことそのものが、あの体育の時の梢に対しての一件だけであった。声を荒げるまでもなく、ぶすっとして寡黙を保つのが樹の(つね)で、そういう意味では樹はむしろ穏健派ですらあって。

(本当は見境なく暴力を振るうようなやつでも、対立を好むようなやつでもないんだよな、あいつ)

 封筒を握る手に、少し力がこもった。

 そのことを林に思い出させてくれたのは、いつか梢と(いが)み合っていた時に柚の発した言葉だった。樹が勝手に独りぼっちを選んだのか、それともみんなが樹を独りぼっちにしてしまったのか。梢を真っ直ぐな視線で射る柚の横顔に、忘れかけていた昔のことを気付かされたあの時から、林には未だにその区別がつけられずにいる。

 林は争い事が嫌いだ。『和合』の心を尊重する合気道に励んでいる手前もあるし、なるべく他人(ひと)とは対立したくない。みんな違う人間なのだから相容(あいい)れない部分は色々とあるだろうが、それでも何となく楽しい空気を作って、その中に浸って生きていく方が、最終的には幸せな日々を送れるのだと思う。そして、樹に対してそれを期待するのは不可能なのだと、いつしか林は決め付けてしまっていたのかもしれない。

 あの日を境に、林の樹への考え方は変わった。変えたのは他でもない、柚だった。閉校の二ヶ月前、花びらのようにこの学舎へ舞い降りたあの少女は、樹を、林を、二年A組の空気を、何もかも根底から優しく作り直してしまった。

 その柚も今は、ここにはいない。

 校長室の前に来た。こんこん、とドアをノックしてみたが、返事は聞こえてこない。上川原の調べてくれた通りである。

「僕らで外は見張っとくから」

「行ってこい!」

 素早く左右に広がった仲間たちが、特殊部隊さながらにサインを決める。思わずにやけてしまった林だったが、無言で頷いてドアを引き開ける。

 初めて校長室の中に立ち入った。一人にしては広い執務空間の奥に、大きな机が置かれている。

(あそこでいいんだな)

 机に近寄った林は、整頓の行き届いた机の真ん中に封筒を置いた。ふぅ、とため息がこぼれた。大したことはしていないのに、()も言われぬ達成感と疲労感で汗が滲む。

 結局、この封筒の中身は分からず(じま)いだったけれど。何かしら意味のあるものなんだと、今は自分を納得させておくことにした。樹が無駄な動きをあえて選ぶような人間には思えないから。

 林は樹や柚の何を知っていて、何を知らないでいるのだろう。

 いずれにしても。

(な、宮沢)

 林は目を細めて、笑った。

(宮沢ともずっと、こういうことしてみたかったんだからな)

 今は、せめて穏やかな感慨に浸っていたかった。


 背後で響いたドアの開閉音に林の心臓が凍り付いたのは、その時である。

「おや、生徒か?」

 林の授業を受け持ったことのない、副校長の教師だった。

 泡を食って振り向いた林に、彼は(いぶか)しげな眼差しを浴びせる。「こんなところで何してるんだ」

「あ、えっと、あはは……」

 林は冷や汗を誤魔化せなかった。不覚だった──。校長室への出入り口は二つあることをすっかり忘れていたのだ。

 こういうことをしてみたかったのは事実だが、校長室への生徒の立ち入りが禁則であることくらい林も知っている。どうしよう。せめて封筒だけは取られないようにしたい。が、職員室に繋がる扉から入ってきた副校長の顔には、まだ不審感の色が濃く残っている。

 一歩も動けない林を前に、彼は口を開いた。

「何か用事でも──」

「私の用事です」

 上川原の声が割り込んだ。

 林の肩はまたしても跳ねた。副校長の出てきた扉から、上川原が顔を覗かせていた。

 副校長の様子が変わった。「上川原先生の、ですかな」

「ちょっと手が離せなくてですね、たまたま生徒がいたので用事を頼んだんです。──きちんと済ませてくれたか」

 そんな用事を頼まれた覚えはもちろんない。が、林はがくがくと首を縦に振った。

「済ませました!」

「ならいいんだ。先生、勘違いさせて申し訳ありません」

 すぐさま上川原が続ける。追及の理由を失った副校長は、一歩、二歩と後ずさって、それから校長室を出ていった。

「あの…………」

 扉の陰に残っていた上川原に、林はおずおずと声をかけた。ありがとうと伝えたかったが、みなまで言うなと手を振った上川原は、口角を上げて。

「ほどほどにしておくんだぞ」

 その言葉を残し、引っ込んでしまった。

 ばたんと扉が閉まる音が、肖像画の並ぶ校長室の壁に大きく反響した。しばらく足に力が入らなくて、そのままぼんやりと部屋の中を見回していた林は、我に返るとすぐに深呼吸をした。

 ほこりっぽい校長室の空気に、噴出した危機感が馴染んで溶けていく。

「…………よし」

 それを待った林は、ようやく校長室の出口を目指して歩き出した。








「中途半端なのが、お似合いか」


▶▶▶次回 『四十五 テガミ』

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