四 サクラとユメ
柚にとって天敵とも呼べる教科がある。体育である。
理由は言うまでもなく、喘息のせいで体力が弱いから。
体育の先生は教師歴二年目の新米女性教諭、栗沢梓だ。『まだ寒さの残る今こそ、しっかり基礎体力をつけるわよ!』──威勢のよい口上と共に体育の授業でマラソンが始まったのは、不幸にも柚が転校してくる直前のことであった。
転校初日、柚が窓の外に見ていたのも、どうやら体育授業中の二年A組の生徒たちだったらしい。梢にそれを聞かされた柚の顔が引きつったのは、言うまでもない。
視界が揺らぐ。歪む。制御を失った焦点が不安定に遠くなり、左手に見えていた桜の木の影がぼうと膨らんだ。
呼吸をするだけで、喉が引っ掛かれたように痛む。
「はぁ……はぁ……もう無理……っ」
規定の距離を走り切ることも叶わず、柚はふらふらとコースの脇に避けていった。息が苦しい。脇腹が痛い。おまけに意識も朦朧とする。
横を通り過ぎようとした梢が、駆け寄ってきて支えてくれた。「わ、柚ちゃん苦しいの? 休む?」
「休み……たい……」
柚は息も絶え絶えに、掠れきった声で答えた。
今日の授業はランニングで校庭十五周だ。桜の大木を避けるように、校庭には石灰の白いコースが描かれている。もともと校庭そのものが広くないので、距離としては大したことはないのだが、体力の乏しい柚が途中でバテるのは初めから目に見えていた。
「中神さん、大丈夫?」
梢と同じようなことを口にしながら、栗沢もホイッスルを手に歩いてきた。柚はうなずく。うなずくだけで首と喉に痛みが走る。
「大丈夫……じゃない、です」
「上川原先生から事情は伺ってるよ。あんまりきついようなら、無理はしないでいいからね。休む?」
「そうしたいです……っ」
迷わず柚は答えた。息をするたび、喉をひゅうひゅうと風が切る音が不気味に響いて、喘息の発作を思い出してしまって怖い。一昨日の夜、拝島に来て初めて発作を起こした。咳の痛みが背骨にまで届いた感覚を、まだ当分は忘れられそうになかった。
栗沢の駆け付けたのを見て、梢は「じゃ、あたし行くから」と走り出していった。栗沢に促されるままに、校庭の隅の花壇に座り込む。
すう、はぁ。すう、はぁ。
深呼吸を懸命に心掛けていたら、壊れそうなほどに激しくなっていた胸の動悸も、少しは落ち着いてきたように思えた。
クラスメートたちの靴が蹴り上げる砂が、煙のように校庭を漂っている。あんな空気を延々と吸い込んでいたんだから、調子崩しちゃうのも無理ないかな──。そんな自分向けの言い訳を組み立ててみる。
じっと座り込んでいると、走りながらみんなの交わす会話が途切れ途切れに聞き取れる。林を交えた男子数人のグループが、笑い合いながら桜の前を走り過ぎた。
「あーもう疲れちゃったよ、オレ! 止まりたい!」
「だよなー。あーあ、そこの桜が羨ましいなー」
「ハルマチザクラは走らないでいいんだもんなぁ」
どくん。
せっかく落ち着いてきた柚の心臓が、大きく高鳴った。しゃべらないで走りなさいと栗沢が檄を飛ばす。はーい、と返事を残して、男子たちはカーブを曲がっていった。
校庭の真ん中に立つ大樹のことを、ハルマチザクラと呼ぶ。……梅の話が思い出された。
(本当に、そういう名前の桜なんだ)
ハルマチザクラを見上げた。柚の腕では抱えられそうにないほどの太い幹に支えられ、無数の枝が空いっぱいに手を広げている。漢字で表記すれば『春を待つ桜』とでもなるのだろうか。その雄姿は与えられた名前を裏切らず、まだ見ぬ季節の到来を広げた手で待っているようにも見える。
「春待桜、かぁ」
名前を口に含んでみた。お洒落な響きだな、と思った。
校庭のど真ん中に独りぼっちで立たされ、周囲を生徒たちに取り巻かれて、気軽に名前を呼ばれて……。あの桜はいつも、どんな心持ちでいるのだろう。
(寂しくないのかな。きっとないんだろうな。……私なんかと、違って)
柚は膝を抱え込んだ。
『柚ちゃん苦しいの? 休む?』──つい先ほどの梢の声が槍と化して、押し当てた膝もろとも柚の胸を貫通していた。
体育の授業も、外遊びも、柚にとっては大差のないことだった。
体育の授業中に息切れが来てしまうように、外遊びをしていると柚はいつも呆気なく体力の限界を振り切って、へとへとに疲れて座り込んでしまった。鬼ごっこだろうとドロケイだろうと、それがどんなに楽しくて夢中になれることだったとしても。
肩で息をする柚を、みんなはいつも案じてくれた。
『柚ちゃん、また体調崩したの? 大丈夫?』『お前ってほんと、身体弱いよなぁ』『ちょっと休もっか。あ、ほら、あそこに木陰があるから……』──という具合に。
当然ながらその都度、そこで遊びは中断され、ひどい場合にはそのまま流れ解散になってしまうこともあった。柚を思ってくれている気持ちは痛いほど理解できた。できてしまったからこそ、柚は段々と、みんなの遊びに加わるのが怖くなっていった。
私が参加すれば、みんなの楽しい時間を削って私のために気を遣ってしまう。
私のせいで、みんなが我慢を強いられる──。
そんなのは嫌だし、悲しい。どちらにせよ胸を締め付けられるような思いをするのなら、それが自分独りだけで済む道を選びたかった。前の中学では外遊びの誘いにとうとう一度も乗ることなく、やがて誘ってくるような子も姿を消していった。夜間に発作を起こすようになったことはついに誰にも暴露しなかったし、そもそもできるような相手もいなかった。
試験勉強なんて嘘に決まっている。両親の意向は事実だが、たまたま方向性が同じだっただけ。
梢たちの遊びの誘いの手を断り続けているのは、ひとえに柚のそんな敬遠のためなのだ。
「──早いね、宮沢くん。もう終わったの?」
栗沢の驚いたような声に、荒い呼吸がそっと重なる。
汗だくになりながらコースを外れてきた樹が、柚の腰掛ける花壇の方へと歩いてきた。柚と違って足取りはしっかりしている。柚は慌てて座る位置をずらして、スペースを空けた。
邸中は体育着にまで桜色を使っている。褪せた桜色の裾を持ち上げて汗を拭った樹は、その姿を凝視していた柚を、じっと睨んだ。
「は、走り終わったの?」
言い訳を求められたような気分になって、柚は曖昧に笑いかけた。「早いんだね」
「栗沢と同じこと、聞くなよ。……お前は?」
樹の返しは素っ気ない。
柚は首を振った。勘違いさせてしまったのか。
「ううん……。これ以上、走れなくなっちゃって」
ふん、と値踏みするような鼻息を残し、樹は柚から距離を取るようにして花壇の端に座った。
こういう時、普段から口数の少ない隣人の心情を読み取るのはとても難しい。柚が両膝を見つめて黙っていると、独り言のような樹の声が耳に刺さった。
「情けねーの……」
言い返す言葉の思い付かない虚しさと、言い返したところで何も生まない虚しさに包まれて、柚は黙って頬の汗に指を押し当てた。
どこかから遠雷が響いている。夕方から夜にかけて天気が崩れるらしいと、今朝の気象予報で聞いた。
砂混じりの風を枝の間に受け流しながら、春待桜は懸命に周回する二年A組の生徒たちを静かに見下ろしていた。
◆
拝島生活で二度目の発作は、まさにその夜に柚を襲った。
「──けほっ」
布団の中で咳をしたかと思うと、柚はもぞもぞと起き出した。直後、喉が詰まるような感覚に押され、何度も強く咳き込んだ。
予報は見事に的中したようで、窓の外からはしとしとと雨の降る音が響いている。乾燥が原因の咳ではない。夜間の発作が、またも再発したのだ。
喉が痛い、苦しい──。しばらく背中を曲げて縮こまり、症状の減速を黙って待つと。
「う、……」
苦しい喉をおさえながら、柚は立ち上がった。
すぐ隣で眠りにつく梅を起こさないように、そっと部屋の隅の空気清浄機ににじり寄った。以前、月島で発作を起こした時、試しに空気清浄機を作動させたら症状が落ち着いたことがある。きれいな空気であることが重要なのだから、きっと一定の効能があるに違いなかった。
暗くてよく見えない。またも何度か噎せ込みつつ、柚は暗がりに手をかざしてスイッチを発見した。あった、とつぶやいてそれを押すと、緑色の起動ランプが前面部から目映い光を放った。
「まぶしい……」
思わず、つぶやいた。いつまでもこんな光を浴びていると、目が覚めてしまいそうだ。
ランプから顔を背け、柚は薬を飲もうと居間の方へ向かおうとした。寝室と居間とは、障子一枚で繋がっている。
咳をまた一つ転がした、その時。
──ゆらり。
ほのかに薄暗い部屋の奥で、何かの影が揺らめいた。
「え」
柚は反射的に、声を出してしまっていた。
見間違いではなかった。おまけに柚とは格好も違った。驚いて息を詰まらせた拍子に、またも呼吸が苦しくなる。気管の太さが瞬時に半分ほどになってしまったみたいだ。
「けほっ──」
連発しかかった咳をどうにか飲み込む。息がつらいのと恐怖とで、柚は後ろは見ずに急いでふすまを開け、居間に移った。
が、居間とダイニングを隔てるガラス戸の向こうにまたしてもあの人影が見え、瞬間的に目を閉じてしまった。
(まただ……!)
喉が掠れて、まともに声も出せなかった。
この部屋に柚以外の人間はいない。ならばいったい、あの人影は何者なのか。
ともかく正体が分からないことには何も始まらない──。怖いのを何とかぐっと我慢して、柚は閉じた目を少しずつ開いた。
緑色の儚い光の中に、人の姿のような影が、意思を持たない案山子のように揺れている。歴史の教科書に出てくるような、ゆったりとした服、腰に吊った太刀。陰翳から判別する限り、その姿格好は昔の貴族や武士のものに似ているようだった。
だが、そんな影を作り出すような要素は、この家にはどこにもない。
「なん……なの……けほごほっ」
柚はまたしても勢いよく噎せた。口を覆った手に、何かが散ったような感覚が残ったのも一瞬。
──『……待ち侘びた。漸く、時は来たり』
低い声が耳元で響いたかと思うと、正体不明の影はふっと消え失せてしまった。
「あ」
空を掴まされたような気分で、柚はつぶやいた。そのくらい呆気なく消えてしまったのだった。
雨音が止んでいた。夜の涼しさがしんと澄む居間には、寝室の空気清浄機の動作音と作動ランプの光だけが満ちている。ぱちんと蛍光灯を点けると、柚はダイニングに踏み込んだ。やはり何も、誰もいない。
ますます訳が分からない。
「どうしたの、柚ちゃん」
眩しかったのか、梅が起きてきた。柚は答える代わりに薬を飲み、水で一気に喉の奥へと流し込んだ。
その手のひらを見た梅が、あ、と声を上げる。「血じゃないの、それ」
言われて柚が手のひらを見ると、赤い液体がべたりと貼り付いている。手にしたコップにも赤色がこびりついてしまった。
「……ほんとだ」
大きな驚きはなかったので、小声で独り言ちた。喘息を患っていると、咳のしすぎで口内の血管が切れて出血することがある。痰に交じって排出されるそれを、『血痰』と呼ぶらしい。
つい先刻の手のひらの感覚を思い返しながら、柚はティッシュペーパーで拭き取って梅に言った。
「大丈夫みたい。もう、おさまった」
「なら、良かったけど」
額のしわを深くした梅だったが、うん、と柚が微笑んだのを見て安心したのか、寝室に戻っていく。蛍光灯をぱちんと消すと、柚も寝室へと足を踏み入れた。
とりあえずさっきの出来事は、気の迷いだと思っておこう──。そう、心に言い聞かせた。
手のひらに少し残った血の跡が、緑の光を浴びて桜色に見えた。
「困ったことがあったらオレたちにも気軽に声をかけてよ。せっかくあと一月だけのクラスメートなんだからさ」
▶▶▶次回 『五 嘘は笑顔の下に』