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桜の雨、ふたたび  作者: 蒼原悠
肆 ブロッサム・プロミス
46/69

四十 見えたミライへ





「──もういいだろ」

 梢と同じ方向から声がしたのである。早口なその声の持ち主は、林だった。

「オレたちだって宮沢のこと、遠巻きにしてるっていうか仲間外れにしてたんだよ。宮沢を責める資格なんか、オレたちだって持ってないだろ」

 首が固まってしまって、元の姿勢に上手く戻れない。それでも視界を引き揚げた樹の目に、小さく頷いてみせるいくつもの姿が反射する。

 林の言葉を継ぐように、誰かがつぶやいた。

「……そりゃ、やりすぎかなって思う気持ち、なかったわけじゃないしさ……」

「オレもだよ」

 だからさ、と林は訴える。「宮沢も勇気出して謝ったじゃん。みんな聞いてたでしょ、今の。だからオレたちも(こた)えようよ。あとたったの二日しかないけどさ、ギスギスした空気の教室を作るの、やめようよ」

 いつしか泣き声が止んでいた。梢は真っ赤に充血した瞳で、樹と林を交互に見比べている。どちらの姿も今は奇異に見えているのかもしれない。自覚は、あった。

「こういう場で引き合いに出すのが良いことかどうか分からないけどさ。もしも中神がこの場にいたなら、きっと和解することを望んだと思う。……中神は、そういう(やつ)だと思う」

 林は静かに続けた。その言葉がだめ押しのように効いたのか、次々にクラスメートたちが顔を上げ始めた。

 誰もが樹のことを見ている。

 樹を拒む冷え切った空気が、ゆっくりと融解してゆくのを感じる。

「……だけど今のはあくまで、オレの意見だからさ。みんなの考えも、知りたいな」

 林が言い終えると、疎らに反応が上がり始めた。私も、俺も、僕もという声があった。許したわけじゃないけど、という声もあった。

 梢も涙を拭って、

「そんなこと言ったら、あたしだって……」

「聞いた?」

 意を得たりとばかりに、林は樹を見て笑った。「よかったじゃん、宮沢!」

 まだ最後まで言ってないのにと梢が林を睨み付ける。

 とっさに、築地らしいな、と思った。ろくに関わろうともしてこなかったのに『らしい』などと思えてしまうのは、良くも悪くも樹がみんなのことを観察できる席にいたからか。樹はクラスメートたちのことを観察していた。クラスメートたちもまた、樹のことを監視していた。

(それも、もう、終わるのか)

 実感を抱くことができないまま、それでも何か言わなければと感じて、樹は唇をこじ開けた。開いた口から流れ込んだ空気が温かくて、膨らんだ熱は目元を少し、押し上げて。

 にわかにそこを抜け出した一滴(ひとしずく)が、撫でるように頬を滑って落ちていった。


「……ありがとう」


 樹と他のクラスメートたちの間に横たわる溝は、深すぎた。急に和解が成ったからといって、すぐに解消されるような代物ではなかろう。

 だから今はただ、前に進めるだけでいい。閉校式というゴールのテープを、隣り合って見ることができれば、それでいい。

 きっとそれこそが、柚のやろうとしていた大きな仕事のひとつだと思うから。

 そしてそれこそが、樹が心のどこかで待ち望んでいたことなのだと思うから。

──『ついでに仲直りしてほしいな、とも思ってる』

 いたずらっぽく笑う柚の顔が、今は空っぽな樹の隣の席でふわりと浮かんで、虚空へ溶けていった。


 所在なげに立っていた上川原が、もう戻れ、と言わんばかりに口角を上げた。そしてその足で、樹のいる場所へと歩いてくる。そこに自分の役割が生まれる予感を覚えたように。

「ねー、先生」

 声が上がった。「やっぱうちらでやりたいです、飾り付け。……ダメですか」

「あと二日で何とかするから!」

「他所のクラスなんかに任せたくないです! せっかく大事な時間を割いてきたんだしっ」

 樹が並ぶ席の隙間を通り抜けていく間、至るところから声が上がり続けた。引き締めていた筋を(ほぐ)し、本物の笑顔を取り戻した林が、大きな声で「オレもオレも! 同感です!」と怒鳴っている。その目尻に一粒の煌めきを見取って、樹は思わず目を背けていた。

 反動で梢と目が合った。

「……何よ」

 まだ腫れぼったい目を、梢は咄嗟に隠してしまう。

 かける言葉を二択に絞った樹は、涙の跡を誤魔化すつもりで頬を指で掻いて、言った。

「ありがとう。許してくれて」

 梢は樹を見ようとしない。しないまま、返事だけは怠らなかった。

「柚ちゃん居ないんだから、今度こそ戦力になってよね」

「ああ」

「宮沢が作ってた『桜』の文字、なまじ出来がいいからムカつく」

 梢なりの誉め言葉に、今の二人の距離感が滲んでいる。そっか、と小声で付け加えて、樹は席へ戻った。ちょうど上川原が多数決を採ろうとしているところだった。

「あと二日でやれると思う者、手を挙げてくれ」

 全員の手が揃った。呆れたような、感心したような半笑いを浮かべた上川原は、ふとしたように出欠簿を取り上げて、考え込むように(あご)へ拳を寄せる。

「……今日の六時間目は私の歴史か」

 そして、教室を見回した。「五時間も授業を受けたあとで疲れている(・・・・・)だろうからな。最後の授業だが自習にする」

 飄々としたその口ぶりに、歓喜の声よりも先にくすくす笑いが教室を包み込んだ。

 樹も思わず笑ってしまった。笑ってから、はっとしたように窓の外を見た。曇天の空がところどころ綻びて、青々と輝く晴れ間がまだらのように覗いている。

 校庭の中央にぽつんと佇む春待桜は、雲の隙間から漏れ出た光をいっぱいに浴びて、揺れていた。



     ◆



 市の中央、新奥多摩街道のやや北に位置する昭島市役所は、邸中のある拝島駅前の地区からではかなりの距離がある。

 六時間目からぶっ通しで続いていた装飾作業も五時で終了になり、そこから自転車でダッシュすること十分。上がった息を落ち着かせながら樹が自動ドアをくぐったのは、閉庁時刻のわずか五分前のことであった。受付で企画政策課の場所を訪ね、エレベーターで三階へ昇った。

 戦時中の昭島市内の空襲記録をまとめた本が、ここで手に入るらしいと聞いてきたのだった。


「こちらでございますね」

 差し出された黄色い表紙の本を、樹は確認する。『昭島と空襲』。全部で百五十ページほどの、詳細な空襲記録を記載した貴重な資料である。

(確かにいい本だけど……。五百円って高すぎだろ、これ)

 財布を取り出しながら、樹はばれないように生温(なまぬる)い息をこぼした。市が発行しているので無料かと思いきや、この本は五百円の有償販売ときている。企画政策課自体、市長室をはじめとした執務区域の一番奥という入りにくい場所にあるので、これでは購入していく人もほとんどいないのではないかと感じてしまう。

 受け取って、ぱらぱらとめくる。改訂版と書いてある。

「これ、いつ編纂されたんですか」

 尋ねると、職員の男性は手元の資料をぱらぱらとめくって答えた。「ちょうど一ヶ月前のことですよ。近年になって新たな発見がいくらかあったもので、内容の修正の必要が生じまして、昨年あたりから改訂に入っていたんです」

「新たな発見?」

「ご覧になっていただければ分かるんですが、四月二十九日の深夜に大きな墜落事故があったことが記述されていると思うんです。以前はそれがなかったんですよ。最近になって防空記録が発見されたとのことで、修正が入ったと」

 四月二十九日と言えば、梅の家族が被災した日に当たる。柾が最も知りたがっていた内容が、つい一ヶ月前に改訂されて掲載された──。柾はまだ、内容も知らない可能性がある。

 ありがとうございましたと告げて樹は机を離れた。市役所を出たところにベンチがあるのを見つけ、腰掛けて本を開いた。

 柾の日記からも梅の話からも、本当に何が起きたのかを読み取ることはできなかった。市の出している空襲記録集ならば、少しは正確で詳しいことが知れると思ったのだ。




 大戦当時のアメリカ陸軍航空軍の主力爆撃機B29、通称『超空の要塞(スーパーフォートレス)』は、大量の爆弾を抱えて高高度を飛行する能力を持つ飛行機であった。高い高度を飛んでいれば、地上からの対空砲火を浴びて墜落するリスクはなくなる。日本軍の迎撃戦闘機の多くはB29ほどの高空を飛べなかったので、高高度爆撃ほど安全に爆弾を落とす手段はほかになかった。

 ところがそこには同時に、狙った場所に爆弾の命中する確率が著しく低いという欠点があった。当時の自由落下爆弾には軌道修正能力がなく、一説によれば着弾地点のずれは数百メートルほどもあったといい、これでは正確に目標を狙い撃ちすることは到底できない。

 この問題を打破したのが、一九四五年一月に第二十一爆撃集団司令官に就任したカーチス・ルメイ少将だったと言われる。彼はB29の得意な高高度爆撃をやめさせ、二千メートル前後の進入高度で爆撃を行うように指示したのだ。これにはエンジンの負荷軽減やジェット気流の回避という目的もあったが、攻撃目標への命中精度向上が大きな目的であったこともまた、疑いようがない。

 しかしながら低空では日本軍の苛烈な迎撃を受け、米軍機にも大損害が発生しかねない。この時、すでに敗戦色の濃くなっていた日本には迎撃機があまり多くなかったが、それでも空襲のたびに数機のB29が撃墜され、大小の損傷を負う機体も少なくない有様であった。

 結果、低空飛行でも迎撃を受けにくいと考えられ、夜間空襲が活発に行われるようになった。やがて日本軍も夜間空襲への迎撃体制を整えていったので、結局のところB29の損害が大きく減ることはなかったのだが、それでも夜間空襲は日本各地に大被害をもたらし続け、やがてはそれがのちの日本の降伏へと繋がってゆく。


(じいさんの日記には、午前一時頃って書いてあったな。燃えながら墜落していく飛行機のシルエットを見た……って)

 日記の内容を思い返しつつ、樹はページを先に進めてゆく。近年になって見つかった防空記録によれば、その日の午前零時五十分頃、警戒警報が発令されるのと同時に西からB29の編隊が飛来してきたという。

 その数は四機。大空襲の規模を考えれば大したことはないように思えるが、それだけの数がいれば拝島を灰の山にするのは難しいことではない。

 そして、そのうち一機が多摩川の対岸に設置されていた対空砲台の迎撃を受け、墜落しながら拝島上空に進入したのだ。

 大量の爆弾を抱えた飛行機は重たくなり、飛行に必要な揚力も大きくなる──。そこで、航続距離を延ばして逃れようとした墜落機は爆弾倉を解放し、邪魔な爆弾をすべて落としてしまった。

 田中家の家屋を一斉に直撃し、起爆して、梅とその母を除いた人々をことごとく吹き飛ばしてしまったのは、このとき投下された爆弾に他ならなかったのである。

(だから、あんなに大きな被害が出たんだ)

 大きく息を吸って、吐いて、樹は空を見上げた。東の方角を目指すようにして、一筋の飛行機雲が空に描かれていた。

 結局、爆弾を落としても滞空時間が伸びることはなく、数人がパラシュートで脱出したところでB29は畑の真ん中に墜落、これも爆発炎上した。ここから先は樹も聞いている通りである。この時、脱出に成功して憲兵に確保された搭乗員の一人が、今も米国で存命中であることが最近になって判明し、調査は一気に進展を見た。彼が生き延びたことで、田中家の悲劇の真相は明かされた──。犠牲者の冥福を祈る言葉に添えて、章末にはその旨が付け加えられていた。

 墜ちたくなかったから爆弾を棄てた。それがたまたま民家に落ちた。その判断をいったい誰が責めることができるだろう。……戦争では誰もが、生きることに必死になる。

 時代は違えど、永享の乱でもそれは同じはずだ。




(これで全部、揃った)


 本を閉じ、樹は立ち上がった。

 四百年前、どのようにして春待桜は生まれ、どのようにして咲かない宿命を背負ったのか。その春待桜がなぜ、七十年前の一度きり、開花しているのか。

 拝島を襲った二つの戦争と、それによって引き裂かれた二つの世代の恋が、それらすべての引き金であったこと。

 昼前まで空を満たしていた雲も今は消え、(たたず)む樹を夕焼け色の電信柱が見下ろしている。樹は閉じた本を胸に抱え、ゆったりと漂う風の中で深呼吸をした。身体を内側から(うず)かせようとする、この感慨は何だろう。達成感だろうか。まだ何も達成はしていないのに。

 ともあれ、閉校式まで残り二日。

 ぎりぎりではあったが、まだ手を打つ猶予はありそうだ。


 切り倒しの運命と寿命を目前にして、切り札になるはずだった柚が病に倒れ、春待桜は最期の開花のチャンスを失おうとしている。そうはさせない。ここまで桜のことを追い掛け続けてきた努力の軌跡を、柚の息吹(いぶき)を、無駄にするわけにはいかないのだ。

 春待桜を咲かせてみせる。

(俺に前を向かせてくれた、柚のためにも)

 冷えた空気に満たされた胸の前で、樹は決意の形を再確認した。

 それから本をカバンに仕舞い込み、自転車置き場へ向かって駆け出した。




 宮沢樹の最後の賭けと奔走が、始まった。











『【昭島市立邸中学校閉校式 式次第】』に続きます。

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