三十八 サクラのユメ
──『つき。たつき』
樹の名前を呼ぶ、柔らかい声がする。
どうにか重たい目蓋をこじ開けると、そこに懐かしい彼女の姿があった。血にまみれていない、桜色の洒落た邸中の制服。二つ結びの似合う顔立ち。
──『樹』
またも、名を呼ばれた。反射的に動きそうになった肩が、動かすまいと強く押さえ付けようとする力の働きを感じた。
真っ白な空間。建物も、地面も、ほかの動物も見当たらない眩しい世界の真ん中で、彼女はにこにこと隙のない笑顔を放っていた。その小柄な身体に、教科書で眺めたことのある昔の武者の姿がホログラムのように重なる。
武者には思い当たる名前があった。だが、今度は口が開けない。金縛りにも似た感覚に囚われて、四肢が言うことを聞こうとしない。
(お前は────)
問いかけを込めた目を差し向ける。彼女と武者は同時に、かつ同じように、表情を少しだけ変化させた。
少しだけ、寂しそうであった。
──『無理、しないでもいいんだよ。樹が真面目で、時には頑張りすぎちゃう性格だってこと、私、知ってるもん』
武者の幻影が、僅かに強くなった。聞き覚えのない低い声が、重たさを持って耳に響いた。
──『主は最早、この世には居らぬ。そして今は某もまた、彼岸へ渡る順番を待つ身。そなたの心意気は有り難い。されど命に限りがあるように、何事にも限りというものがあるようじゃ』
待てよと叫びたくて仕方がなかった。勝手に決めるな、まだ諦めたわけじゃない、諦めるタイミングじゃないだろ、と。
せめて挽回のチャンスくらいあってもいいじゃないか──と。
彼女と武者の影がずれた。
互いを見交わし、その意思を確認するように頷き合った二人は、再び元のようにぴたりと重なる。彼女の口だけが、開いた。
──『でもね。私たちにもちゃんと見えてたよ。樹が私や桜やみんなのために、どんなことをしてくれたか。必死に介抱しようとしてくれた。誰からも忘れられてた桜の役割を、無茶だって知っていたのに一緒に探してくれた。それに、私が倒れても、それを実現させようと奔走してくれた』
──『左様。その恩義を忘れることはせぬ。せめてそなたに報いることが出来ぬかと、某も案じて御座った』
冗談じゃない、こんな中間点にピリオドを打たれてたまるか。手も足も動かない苦しさに喘ぎながら、それでも決して視線を離すまいと樹は目に力を込めた。彼女と武者の瞳から、浮き上がるようにして負の色合いが蒸発したのは、その時だ。
──『然らば、そなたの歩むであろう道を告げんとぞ思う』
武者は言った。仁王のごとき佇まいに、およそ揺るぎはなかった。
──『案ずるには及ばぬ。明日のそなたは必ずや、笑みをたたえていることで御座ろう』
視界が裂け、夜の色をした天井が映る。
「…………!」
樹は目を醒ましていた。泡を食って起き上がり、手元の時計を見る。自室のアナログ目覚まし時計が示す時刻は、午前二時。
夢で魘されていたのか──。背中をうっすらと濡らす汗の存在に気付いた刹那、目覚まし時計の横を何かの影が通り過ぎた。見上げるような人影だった。腰のあたりに二振りの棒が見え、唖然として反応できない樹の前をあっという間に駆け抜けた。
樹の他に、この部屋に住人はいない。
樹は影を目で追った。花粉症対策のつもりで部屋の片隅に設置した空気清浄器の作動ランプが、部屋の中へと緑色の光を幕のように放っている。その中を足早に駆け、影はドアの向こうへと消えていく。
「待てよっ!」
樹は怒鳴っていた。怒鳴った瞬間に、金縛りが解けた。
廊下に出る。彼方をゆく影が見える。すぐさま樹も追い掛けて、足音が鳴り響くのも構わず廊下を走った。影は突き当たりを左に曲がり、樹も滑りそうになるのを耐えて左に走り込む。
(太刀と脇差しが見えた)
閉じた扉を開放しながら、影の姿を思い返した。下弦の形に反っていたところを見ると、太刀で間違いない。戦国時代以降に好んで使われた打刀ではない。
(だとしたら、あいつはやっぱり……!)
駆け込んだのは居間だった。西向きに開いた大きな窓の向こう側は、下弦の月に照らされて居間の中よりも明るい。敷地の中を影が逃げてゆく。
「くそ……っ!」
邪魔なガラス戸を無理やり引き開け、樹は縁側に飛び出した。
影は忽然と、消えていた。
追い付けなかった──。途端に疲労の汗が吹き出し、ぐったりとその場に座り込んだ樹は、何も知らないよとばかりに漂う夜風に、しばらく肌を撫でさせていた。
影が消えていった、生け垣の先。かつて宮沢家の敷地であった一帯の向こうには、柚の眠る拝島松原玉洲会病院の巨大な外観が、蜃気楼のように闇夜に浮かび上がっていた。
失意は不思議と、湧かなかった。
◆
上川原の第一声は厳しかった。
「……準備が終わっていない。このクラスだけだ」
濁音が壁に吸い込まれて消えた。ホームルームの時間を迎えたA組の教室は、しんと水を打ったように静まり返っていた。柚を除いた全員が集まり、揃って下を向いている。
上川原が大袈裟にため息をつく。樹は教室の最後列で、身体を小さくしながら次の台詞を待った。
「お前たちの準備が進まない理由は、私も分かっているつもりだ。……だが、泣いても笑っても、もう閉校式は明後日なんだ」
机の下で拳を握り締めている梢の背中を、この場所からはよく眺めることができる。
土日ともにA組の生徒たちが出入りしていたことは、すでに事務員の口から上川原に伝えられていたようだ。学校に来ていたのに進んでいないのはなぜだ、さすがに勘弁してほしい──。上川原は話をしている間、何度も髪を乱雑に掻き回した。
梢たちも、上川原も、焦っている気持ちは同じなのだと樹は思う。樹だって焦燥感に包まれてはいる。だが、今の樹にとって最も大きい感情は、それではない。
どんな風に振る舞えばいいのかが、分からない。
暗い視線を机へ差し向けるクラスメートたちを見回しては、樹はその場から蒸発したい気分に駆られていた。上川原の言葉でみんなが奮起したところで、樹との対立が解消されるわけではない。樹の居場所がないことに、変わりはないのだ。かと言って、ここで教室を飛び出して、これから後の授業を受けずに済ませるわけにもいかない。
(何が『笑みをたたえている』だよ)
樹は横目で校庭を一瞥した。
素知らぬ振りで春待桜は風にそよいでいた。昨日の天気を引き継いだような曇り空の下では、その姿はどことなく、寒々しい。我を張っている誰かのようで、樹は春待桜からも目を背けた。
「どうするんだ。今日と明日だけで何とかできるのか、お前たち」
無反応に苛立ち始めたのか、上川原の声がやや大きくなった。「どうしても無理なようなら、他所のクラスや先生方に頼むしかなくなる。それでいいと言うなら、私は、何も言わん。どちらを選ぶのもお前たちの自由だ」
「そんな……!」
慌てたように立ち上がった遠くの方の生徒が、言葉を接ぐことができずにそのまま椅子へ座り込んだ。
上川原の目線が頭上を通過するたび、誰もが亀のように萎縮して肩を小さくする。誰かがまともな反論をするのを待っている。上川原が端の樹を睨み、樹も同じように身を屈めようとした。
だが、上川原の方が早かった。
「宮沢。言いたいことがありそうな顔をしてるぞ」
名指しで声を飛ばされ、樹は無視するという逃げ道を失った。教室中の視線のいくつかが、反射的に樹の方を向いたのを感じる。残りは皆、意図的に見ないようにしているのだろうと思う。
背筋を伸ばしかけた樹だったが、すぐに「……いえ」と言葉を濁した。
「ありません」
「そうか。じゃあ、今の気持ちを聞かせてくれ」
上川原がとんでもない質問を口にした。今の気持ち──? 樹は思わず、白目を剥きかけた。
「宮沢は一年間ずっと、一番後ろの席からこのクラスを観察してきただろう。今の話を聞いてどう思う。お前は、どうしたい」
「俺は……」
言いかけて、そこで言葉が止まった。深呼吸をしながら教室を見渡した。確かにそうだ。樹の座るこの席からは、どの生徒の顔も窺うことができる。格好の観察席だ。
樹を見つめる視線のほとんどが、冷たい。
自分は今、どんな表情でいるのだろう。真っ白の無表情だろうか。白は白でも、蒼白くなっているだろうか。
その答えが出る前に、無言の感情に圧されるように樹は口を開いていた。
「……分かりません」
そうか、と上川原はつぶやいた。
「宮沢でさえ、そう言うんだな……」
今の問答が上川原の最後通牒だったのだと、瞬間的に樹は気付いた。上川原は乱れた髪を強引に撫で付けて直しながら、教室中に目を向ける。誰からの反応もないのを確認して、また、大きなため息をひとつした。
「分かった。他の先生方に話をつけてくる。……お前たちは自習していてくれ」
落胆の感覚が樹を包み込んだ。
教室の空気が脱力してゆく。それきり上川原は側面のドアへ向かって、大股の一歩を踏み出そうとした。
「──待ってください!」
「あの時、素直に謝ってくれてたら、あたしだってこんな気持ちになってない!」
▶▶▶次回 『三十九 望み』




