三十七 止まない雨
──一九四五年、四月二十七日。田中家が悲劇に見舞われる、その僅か二日前。
母親に伴われ、梅は岩手県の岩泉町へと汽車で向かっていた。
通学先の女学校で予定されていた学徒動員が、対象だった山梨県内の工場が操業を取り止めたために中止されたばかりであった。県境を跨ぐのは今ほど容易ではなく、学徒動員となれば拝島を離れて県内に住まなければならない。つまり、動員と言いながらも実態は集団疎開に近いものだったのだが、その計画は泡沫に帰してしまったのである。……そうした旨は、柾の日記にも書いてあった通りだ。
多摩地区への空襲は日増しに増えている。学徒動員の名を借りた疎開もなくなってしまった以上、どうにかして梅を田舎の安全圏へ逃がしたい──。親族の間で話し合いが持たれた末、梅は母親の実家のあった岩手県へと密かに縁故疎開することになった。
「疎開したのは学級でわたしだけだったわ。それで何となく引け目もあって、周囲の人たちにはほとんどそのことを明かさずに拝島を離れたの。せめて柾さんには伝えてあげたかったけれど、その暇さえ、なくてねぇ」
梅は苦笑いとも、嘲りともつかないような笑みを口の端に引っ掛けたまま、途切れ途切れに話し続けた。
「そうしたら三日ほど経って、拝島の役場からうちに電話がかかってきた。何発もの爆弾が拝島の家に殺到して、一家全滅ですって。先方はわたしたちが実家に逃れていたとは知らなかったみたいだけれど」
「爆弾が殺到って、何が」
「わたしも詳しくは教えてもらえなかったからねぇ……。ただ、その日、爆弾を落としに来た飛行機がずいぶん低いところを飛んでいたと聞いたし、何か普通でないことが起きたのは確かなのだろうけど」
低空飛行だった点は日記でも触れられている。その後、火を吹きながら爆撃機が墜落してゆく姿をも、当時の柾は目撃していたはずだ。
もしかすると爆弾ではなく、機体の一部でも落下して直撃したのか──。仮説で違和感を補っておいてから、樹は話の続きに耳を傾ける。
ともかく真相は不明ながらも、遺体が原型をとどめないほどの大爆発が実際に発生し、田中家の八人家族は全滅したものと見なされた。爆撃機も少し先の場所へ墜落した上、脱出に失敗した搭乗員もろとも爆発炎上。火の手が上がった。
かつて柾が夜空に見た火焔の正体は、それら二ヶ所で発生した爆炎のものだったのだ。
辛うじてパラシュートで脱出した米軍人たちは、間もなく駆け付けた憲兵隊によって確保、連行された。墜落地は封鎖され、すみやかに残骸の撤去が始まった。梅と母親が思わぬ場所で生存していたことで、田中家が全滅を免れたことも確認された。
ところが、それで一件落着とはならなかった。それらの事情の一切は、最後まで柾には知らされなかったのである。
「結局、戦争が終わっても帰る家がないというので、そのまま実家での暮らしは続いたのよ。初めて拝島に帰ったのはいつだったかねぇ……。三年くらい経ってからかしら、ね」
「三年……ですか」
「色んなものが、変わってしまっていたねぇ」
梅は湯飲みを啜る。瞳の反射する光が、ふっと曇った。
「春待桜の無事なのを見つけた時は、嬉しくて仕方なくてね。でも、じきに柾さんを見かけた途端、嬉しさなんてみんな他所へ吹っ飛んでいったのよ。柾さんはわたしが死んだとばかり思って、他の女の子と仲良くしていた」
樹は咄嗟に、息を飲み込んでいた。自分への警告のように思えたからだった。
そして同時に、樹の立場でも慮れるような気がした。梅の無念さと、悲しさが。
「それっきり……ね」
梅が静かに続けた。
「やがてわたしもこの町に戻ってきて、あの人とは違う人のところへ嫁に行って、苗字も中神になったわ。柾さんが教頭先生に就任して以来、回覧板やコミュニティ誌で名前を見かけるようにはなったけれど、それまでは本当にすっかり忘れていたというか……。意図的に忘れようとしていたのかもしれないねぇ」
「…………」
「あの人は、元気?」
質問が自分に向けられていることに気付くまで時間が必要だった。つい一昨日、間近で見た時のことを思い浮かべ、樹は答えた。
「……あんまり、元気ではないと思います」
「そうでしょうね……。この歳にもなって、校長を勤めているんだものねぇ」
ゆったりと首を動かした梅が、やにわに立ち上がる。危なっかしい足取りを樹が見守っていると、梅は高いところの戸棚を引き開けて、小さな缶を引っ張り出した。
縁に広がった赤い錆が年代を感じさせる。これはと目で問う樹の前に、梅は中身をそっと置いた。
一枚の手紙だった。
「これ、どうしようかと思っていてね」
樹は言われるがまま手紙を拾い上げた。文面を追うと、柾から梅へ宛てたラブレターのようだ。日記と同じ不器用で無骨な文章の中には、不必要に飾り立てることのない素直な想いが綴られている。
梅が、目を細く引いた。
「今でも思い出せるわ。あの人が想いを告げてくれた日、いっぱいに膨らんだ春待桜の香り、それに頬の温かさも……。おかげでなかなか、棄てられなくてねぇ」
「そんな、棄ててしまうなんて」
「本当はもっと早く棄てるべきだったのよね。こんな手紙を家に残していると……あの人との思い出を、未練がましく思い出してしまいそうになるね」
梅の声にまた、微かな震えを感じる。震えの正体は何だろうか。
樹の胸の内を、段々と不吉な予感が照らし始めた。
(もしかして)
梅の穏やかな面構えを前に、思った。梅は柾との思い出に、決着をつけようとしてしまっているのではないか。
柚が目を醒まさない現状、花を咲かせるためには、梅と柾に再会してもらうしかない。そしてそのためには、梅が柾に会う動機が必要なのだ。だが──。
手紙を缶の中へと戻して、樹は言った。焦燥感は懸命に胸の奥へ隠したまま、
「失礼かとは思うんですけど……。そんなに忘れようとしなきゃ、いけませんか」
「忘れようと?」
「うちの祖父が今でもよく、当時の話をするんです。あの頃は好きな人がいた、離ればなれになってしまったが……って。きっと祖父はまだ、梅さんのことを覚えています」
梅の目が、きょとんとしたように丸くなる。
嘘は口にしていないつもりだ。樹は言葉を重ねた。焦りが、着実に加速してゆく。
「一度、会ってみませんか。祖父も年だし、梅さんもこれから身体が──」
「……遠慮しておくわ」
梅はさほど逡巡しなかった。「わたしにも、あの人にも、今は大切にしなければならない家庭があるでしょう。それに、命を落としたと思っていた人がいきなり現れれば、あの人も混乱してしまうだろうからねぇ」
「…………」
樹に答える言葉は思い付かなかった。
精算の済んだ記憶を掻き回したくはない、梅の願いに少しもおかしなところはないのである。
「覚えていてくれるのは、本当に嬉しいんだけどねぇ」
湯飲みを手に取り、その湯気を口元に感じながら、梅は何度も頷いていた。幸福そうな梅の顔付きを前にして、樹は説得が不可能であることを何となく感じ取った。
閉校式のタイミングにこだわっているわけではない。ただ、梅と柾が春待桜の下で再会を果たしてくれれば──そんな機会を樹が作ることができたなら、春待桜は必ず開花し、柚の悲願も達成できるはず。それだけが唯一の解決策のはずだったのに。
(梅さんの気持ち、どうにか変えられないか……。明日にでもじいさんをここへ連れてきて、開花前に引き合わせてしまうとか)
考えてから、そんなの駄目だと案を蹴り飛ばした。いくらなんでも強引すぎる。
部屋の掛け時計が鐘を鳴らした。はっとして顔を上げると、すでに時刻が六時を過ぎている。既視感を覚えそうになった樹に、梅が声をかけた。
「もう時間も遅いけど、あなたの用件、ちゃんと済んだかしら」
急かされている──。樹は反射的に答えてしまった。
「済みました。……ありがとう、ございます」
反射的だったが、それ以外の答えなど浮かばなかった。
雨はまだ、止まない。傘の膜が奏でる心地よいリズムとは裏腹に、春先の雨天ならではの冷たさが肌を鷲掴みにしようとする。
樹はその中を、とぼとぼと歩いていった。
朧に浮かぶ景色の先に、春待桜が見えた。雨中の桜が晒す寒々としたシルエットに、もがいて腕を伸ばし、必死に足掻こうとする人間の姿が思い起こされる。
(何もできなかったな。今日の、俺)
悲嘆が胸を過り、樹の歩く速度はさらに落ちた。水溜まりを蹴る元気さえ、今は足からすっぽりと抜けてしまっていた。
梅の心境は予想外だった。予想外だったが、その理由に樹は納得できてしまっている。かつての恋の相手との再会と聞けば喜んでくれるだろうという樹の想定は、どう考えても、甘かったのだ。
そして見込みが甘かったのは、邸中での一件に関しても同じこと。樹はそっと、傘の持ち手を握る力を強くする。
(当たり前だな……。一日や二日で普通に接することができるようになるなら、人間関係で苦労することなんてないんだよな)
梢たちの気持ちを考えれば、どんな態度を向けられたところで樹に物を言う権利はない。樹はここでも、甘かったのだろう。
だからと言って、どうすればいいのか。
閉校式は三日後にまで接近してきている。
今なら柚が焦っていたのも無理はないと思えそうだ。その気になれば数日程度の時間など、あっという間に消し飛んでいってしまう。
そして、いくら時間が使えたところで、どうしようもないこともあるのである。
(なんで俺じゃなくて、柚だったんだよ)
樹は地面を睨み付けた。
(倒れたのが柚じゃなくて俺だったら、あいつなら何とかできたのかもしれないのに。閉校式も円満に迎えられただろうし、梅さんだって孫の説得を受ければ少しくらい気持ちが動いたかもしれないじゃないか……。なのになんで、俺なんだよ)
水溜まりの中に春待桜が映っている。傘を持ち上げて、桜に目を向けた。縁で跳ねた水滴が目元に当たって、樹の頬を落ちていく。その筋を頬に感じながら、樹は底知れない無力感に包まれた。
明日は月曜日。嫌でも樹は、あの教室に足を踏み入れねばならない。いっそ樹が姿を晦ませてしまった方が、閉校式の準備も進むだろうか。
明日は閉校式の前々日。閉校式が過ぎれば校舎は閉鎖され、春待桜の下へ行くことはできなくなる。説得のチャンスはもはや、二日間しか残されていない。
果たしてそこに、樹にできることはあるのか。
あの桜には案外、しっかり見抜かれているのかもしれない。閉校式の準備を手伝っているのも、柾の過去を掘り返すのも、樹がそれをやりたいからではないのだと。
不意に可笑しくなって、樹は口の隙間から笑みをこぼした。すぐにその笑みも流れ去ってゆき、後には悲観のみが置き去りにされた。
(柚、ごめん……。役に立たない俺で、ごめん)
傘を引き寄せ、そっと唇を噛んだ。
そのままきびすを返し、樹は自分の家を目指した。日の落ちた東の空がひどく暗くて、雨の降り頻る行く手の景色もまた、ちっとも見えなかった。
「宮沢でさえ、そう言うんだな……」
▶▶▶次回 『三十八 サクラのユメ』




