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桜の雨、ふたたび  作者: 蒼原悠
肆 ブロッサム・プロミス
40/69

三十四 たとえ、前が見えなくても





 気付くと、樹は柾に向かって声を投げ掛けていた。

「もう、やめろよ」

 柾が驚いたように振り向いた。桜の根本を目掛けて、樹は真っ直ぐに歩いてゆく。

「樹じゃないか。まだ、残っていたのか」

「諦めろっての」

 柾が近くなって、なぜか声まで大きくなった。一メートルほどのところまで近付くと、樹は立ち止まる。同時に、保全業者の男たちの乗ったであろうバンの発進する音が、校庭の片隅に轟いた。

「桜の話かね」

 見上げた柾の顔が、困惑したように歪む。樹の苛立ちは少し加速した。

「他の何だよ。だいたい、いつまでそんなことにこだわってるつもりなんだ。じいさんだってもう、とっくの昔に分かってるんだろ。こいつの寿命が目の前に来てるんだってことくらい」

 樹は柾の目を逃すまいと、懸命に睨み付けた。「もう、やめろよ。意味のないことに労力を費やしたって、どうせ一週間もすればこの学校、閉校になるんだろ」

 言葉を紡いでは口にするたび、柚と過ごした一昨日までの日々が脳裡を照らしていく。図書室で頭を悩ませ、心を悩ませ、時には対立し、紆余曲折の末に辿り着いた『自分たちこそが桜を咲かせる鍵』という真相。今となっては無駄になってしまった、儚すぎる真相。

 春待桜などに夢中にならなければ、柚は樹と心を通わせることはなかったのかもしれない。そうすれば樹も今、苦しまずに済んでいたのかもしれない。柚があんな形で病を発症し、昏睡状態に陥ってしまうことも、もしかするとなかったかもしれないのだ。

 そうだとすれば柚もまた、春待桜の犠牲者なのか。犠牲者だと言い切ってしまえたら、樹の心の痛みも少しは和らぐのか。

「何か、言えよ」

 唾を飛ばすと、柾の頬が少しばかり、緩んだ。

「……すまないね」

 どうして柾が頬を緩ませたのか、樹にはさっぱり分からなかった。

「なんだか久しぶりのような気がして、言葉が浮かばなくてな」

「何が」

「樹が話し掛けてきてくれたことだよ。家にいても、校内ですれ違っても、いつも不機嫌な顔で無視されるばかりだったじゃないか。昔はもっと無邪気に、じいちゃん、じいちゃんって呼んでくれたものだがな……」

 柾の目付きは優しかった。話をはぐらかそうとしているのではない、この人は本心から懐かしさを覚えている──。樹にもそのくらいの察しはついた。

 だが、爆発した怒りがそれを易々と追い越した。

「人の話を聞き流すなよっ!」

 樹は飛び掛からんばかりの勢いで詰め寄った。柾の瞳に鈍い色が光り、一歩、後退する。

 その足元に一瞬、血まみれで倒れ臥す柚の姿が見えた気がした。苦痛に耐えているかのように固く閉じられた目、必死に呼吸を試みたのであろう口、何かを掴みたくて伸ばされた腕──。

 柚をこんな姿にしたのは、誰だ?

「お前のことなんか今でも嫌いだよ! ついでに言えばこの桜も嫌いだ! 前は邪魔だって感じるくらいだったけど、今は骨の髄から大ッ嫌いだ!」

 自然と動いた腕が、柾の胸ぐらを強く掴み上げる。どん、と重たい音がして、樹はいつしか柾を桜の幹にまで追い詰めていた。

 射殺(いころ)してしまいそうなほどの憤りを視線に込め、柾を睨んだ。

「やめ……なさい、樹……っ」

「やめるのはじいさんの方だっつってんだよ!」

 腕に力を込める。喉を絞められた柾が喘ぐ。そうだ、そのままやめてしまえと思った。こんな悲劇の元凶を守ってやる必要などない。桜のせいで柚は危篤に追い込まれたのだ。柚を返せ。穏やかで幸せだった、あの時間を返せ。孤独にも耐えていられた、あの頃の自分を、返せ!

「目を醒ませよっ! 春待桜(こいつ)はもう、二度と、永遠に、咲かないんだよっ!」

 怒鳴り付けた勢いで、手の力が弛んでしまった。樹の拘束を逃れた柾が、春待桜の幹に背中を打つ。燃料を爆発させ切ってしまった樹は、一瞬、枯れ木のように意識を失ってその場に突っ立った。

 すっかり荒くなってしまった息を落ち着けようと、肩で大きな深呼吸をひとつした。

 その僅かな脱力の瞬間に、目元をそっと脱け出した一筋の涙が、樹の頬を勢いよく駆け降りていった。


 もう、分からない。

 柚と積み重ねてきた真実だけを手にして、自分はいったい、何をすればいい?

 閉校式まで残り五日しかない。たったの五日間で、樹ひとりにいったい何ができる?

 (かたわ)らの柚を失って、味方のいなくなってしまった樹に、誰が答えを教えてくれる?


 感情を()き出しにした樹の姿に、柾はどれほどの困惑を覚えていたことだろう。

 五秒、十秒と間が空いて、柾はようやく己の足で立ち上がった。樹を見つめる瞳の光が怯えから戸惑いへと移り変わり、やがて緩やかに落ち着いてゆく。

「……樹」

 樹の掴んだ襟元のネクタイが、激しく()れていた。

「そんなに、嫌だったのか」

「嫌だったよ」

 桜のことも、他のことも。頬を力いっぱい拭いながら、樹は言い返す。柾は力なく、うなだれた。

「そうか……。そうだろうな。すまなかった」

「謝れなんて言ってねぇし」

「いや。私が悪かったんだ。この桜を守ることにあんまり注力しすぎて、周りが見えなくなっていたのかもしれん……」

 柾は深々と頭を下げた。

 吹き上がった風が枝を揺らした。春待桜が笑っている。(こころよ)さそうな笑い声には聞こえなくて、樹は思わず肩を小さくした。柾の肩も、丸かった。

「私もよく、他の先生方から言われていてな……。春待桜のことを構いすぎではないかと。先生方ですらそう感じるのなら、生徒たちだって、同じだろう」

 そこで言葉を切った柾は、少しばかり、顔を上げる。

「きちんと話さなかった私に(とが)がある。不愉快に思うだろうが、どうか聞いてくれんか。私はどうしても、どうしても、この春待桜(さくら)を守ってやりたい。咲かなくていいから、守り続けてやりたいんだ」

 樹は、答えなかった。

 怒りが燃え尽き、その底が見えてしまうと、生じた真空を埋めるようにどっと疲れが押し寄せてきた。これ以上の反発を続ける気には、なれなかった。

 滅多に感情を顕にしたりしなかったのに、桜を見るたびに悲しみに、それから憤りにまみれて……もう、くたびれた。

「…………」

 支えを欠いた首が、がくんと頷いて同意を示した。

 柾は襟元に手をやる。ワイシャツを直すでも、ネクタイを直すでもなく、胸ポケットに付けられた名札を手に取った。『邸中学校長 宮沢柾』と書かれたそれを、そっと、外す。

「私は市の臨時再任用として、ここの校長を勤めていた。そして、この中学校が閉校するのを機に、私の再任用も終了することになっている。だから数年後に邸中が復活する日が来るとしても、私はもう、関わることはない。思い出深いこの学舎に関わっていられるのも、気づけば残りわずかを数えるばかりになってしまった」

「だからって──」

「以前、二年の中神という子に話したことがあってな」

 樹は反論の言葉を詰まらせた。その反応を見てか見ずか、柾は目を細めながら、背後の校舎へと目を移した。

「私は春待桜こそが、この学校の、それからこの地域の、芯をなす存在だと思う。確かに花は咲かん。美しい姿は見せてはくれん。だが、ここに通う生徒たちも、地域に住まう人々もみな、通りかかるたびにこの桜を見上げてゆく……。そういう存在を新しく創るというのは、とてつもなく大変なことだろうと思うんだ」

 一拍の間を取って、今度は春待桜へと視線を結ぶ。

「幼い頃の私も、この桜を()り所にしようとした。何かを素直に慕うことのできた、あの頃の透明な心持ちの在り方を、私は忘れてしまいたくないんだ。樹もいつか分かってくれると思う。……私にとって春待桜は、初めて他人のことを愛しいと思えた、その証しのような木だった」

 俺だってそのくらい分かるよと叫びたくなるのを、樹はぐっと堪えた。柚と自分が心を結ぶ関係であったこと、そしてきっかけになったのが春待桜だったことを、目の前の祖父は知らない。

 樹に思い付く反応と言えば、悪態くらいのものだった。

「……結局それじゃ、自分のためなんだろ。こいつは確かにシンボルみたいな存在かもしれないけど、そんなのはじいさんが勝手に思ってるだけだ。みんなが同じことを考えてる保証なんか、どこにもない」

「そうだな。……そうなのかもしれん」

 柾は淋しげに、微笑んだ。またも風が耳元を流れて、春待桜が共感するように笑い声を上げた。

 校庭に落ちた長い影の顔が、少しずつ、少しずつ、下を向く。だがな、と柾が言葉を続ける。

「そうだとしても信じたいんだよ。この桜を大切に想い、いつか花が咲くのを楽しみにしてくれる人が一人でもいるのだと、信じたいんだ」

「…………」

「中神柚さんは樹のクラスの子だっただろう。あの子と以前、この場所で、春待桜のことを話したことがあった。『私も、見てみたいです』──お世辞だったのかもしれないが、確かに、そう言ってくれた」

「……柚が、それを」

「あの子は病気で倒れているそうだね。意識が戻っていない、戻る可能性すら低いと、上川原先生から報告を受けた」

 デリケートな話題であるのを認識しているのだろう。柾の口調が、心なしか丁寧になる。

 樹は唇を噛んだ。そんな優しい声で話しかけてほしくなかった。ついうっかり下の名前で呼んでしまったことにも、気付けなかった。

「残念と感じるのは簡単だ。ならばこそ春待桜を守らねばならない──、私はそう考えたいと思っておる。こんなことを言っては独り()がりだと叱責されるかもしれんが、彼女がいつか目覚めた時、春待桜が開花する瞬間を目にする可能性を少しでいいから残してやりたい。間違いなく楽しみにしている人がいるのだから、せめてその人のために、桜の命を繋いでやりたくてな……」

 柾の話は、そこで途切れた。

 葛藤をすべて吐き出してしまったのかもしれない。返事をしない樹を前に、乱れた襟元を直すこともなく、柾は黙って佇んでいた。

 樹とて、同じだった。

 話の中に柚が出てくるだけで、心がこんなにも乱れてしまう自分がいた。やめろ、それ以上その名前を言うなと、口に出して抵抗できたならよかったのに。

──『私も、見てみたいです』

 樹の知らないところで柚の口にしたであろう言葉が、何度も、何度も、耳の奥でリフレインする。

 柾の語った言葉は、悔しさを覚えるほどすんなりと樹の胸の奥へ落ちてきた。だからこそ何も言葉が思い付かなかった。反論も、反抗も、拒絶の声さえも。


 春待桜が、頭上で揺れている。夕陽を全身に浴びた春待桜の太い幹は、爪先からてっぺんまで黄金(こがね)色に燃えている。

 それをしばらく見上げていたら、自然と台詞が転げ落ちた。

「…………ごめん」

 そのまま、返事を聞き遂げることなく、樹はカバンを手にして春待桜の前を離れた。柾からの呼び止める言葉は、ついに聞こえてこなかった。

 とぼとぼと歩む長い影が、視界の先へと伸びては揺れた。

 今はただ、落ち着いて気持ちを整理することのできる場が欲しかった。




 スライド式の扉を開くと、眩しい夕方の陽光が樹を出迎えた。

「わ…………」

 思わず、目を閉じてしまう。肌に感じる熱射の温かさに、ほっと息を吐いてまぶたを開くと、日光に(あぶ)られて不鮮明だった部屋の中の光景が、はっきりと見えるようになった。

 人工呼吸器で口元を覆った柚が、真っ白なベッドの中で眠りについていた。

「今は、落ち着いている方なんですよ」

 ついてきてくれた看護師が、樹の隣で説明してくれた。「お帰りになる際は、またフロントに声をかけてくださいね」

「……ありがとうございます」

 いえ、と一礼した看護師がドアをくぐってスタッフステーションへと戻ってゆくのが、スクリーンと化した窓に映っていた。

 樹はその窓へ、一歩、一歩、近寄った。

 昭島市内でも有数の規模を誇る総合病院、拝島松原玉洲会(ぎょくしゅうかい)病院(びょういん)。その六階、呼吸器疾患の患者に対応するフロアに柚のベッドは置かれている。つい今朝方に対処の目処がついて、集中治療室から移されたばかりなのだと聞いた。

 呼吸に混じって血が噴出することを、喀血(かっけつ)という。左右一つずつの肺の奥には、吸い込んだ酸素を血液とやり取りするための『肺胞』という器官が無数にあって、そこに悪性腫瘍(ガン)ができてしまうと浸潤を起こし、出血する。その腫瘍が肺に沿って大きく成長してしまったことで、柚は大量喀血を起こしたのだと考えられている。

 六階からの眺めは良好で、スーパーの屋上越しには邸中学校の校舎らしき建物を望むことができた。目を凝らすと、彼方で小さくなった春待桜も確認できる。葉も花もない裸同然の姿でも、ひときわ大きい春待桜の存在感は周囲の木々と比べるべくもなかった。

(あれが見えるんだから、建物の方も邸中で間違いないんだな)

 樹は思った。春待桜は邸中学校の芯──柾の言っていたことの意味が少し、分かったような気がした。

 その窓に寄り添うような位置に、柚のベッドは配置されている。

 小さな椅子があるのを見つけて、腰掛けた。床頭台というのだろうか、柚の枕元に設置された木製の台の上には、柚のスマホがぽつんと影を落としている。血はさすがに拭き取られているようだった。

 それを取り上げると、下には何枚もの手紙が重ねられていた。

「…………」

 樹は思わず辺りを見回してから、そっと手紙を手にした。後ろの席で会話を聞いていた限り、梢をはじめ柚と仲のよかった友達は皆、毎日のように見舞いに通っていたようだった。となれば書き手の察しもつく。いけないことなのは(わきま)えていても、覗いてみたかったのだ。

 果たして、そこには見覚えのある筆跡で、柚を想う数々の言葉が紡ぎ落とされていた。

 【柚ちゃんがいなくなって寂しいよ】

 【『桜』の文字もそうだったけど、私たち色んなことを柚ちゃんに負担させちゃってたね。ごめんなさい。今さらこんなことを書いても、もう遅いけど……】

 【やらなきゃいけないことがたくさんあるのは分かってるのに、何から始めたらいいのかちっとも見当がつかないよ】

 【お願いだよ。元気になってください】

 【ずっと、待ってるから】

 樹は嘆息した。息を止めながら、手紙を折り畳んで元通りの場所に戻し、文鎮代わりのスマホを置き直した。

 羨ましかった。

 そして、切なくなった。


(そうだよな)

 膝に手を押し当てて、思う。

(段ボール文字の製作を引き受けた時も、春待桜の咲かない理由を突き止めようとしたのも、ぜんぶ、自分じゃなくて他の誰かのためだったよな。根っから優しいやつだったんだよな、お前)

 柚はウソのつけない少女だ。柚自身、春待桜の開花を見てみたい気持ちがあったのは事実だろう。けれど、樹を巻き込んでまで真相究明に乗り出そうとしたのは、きっと春待桜を咲かせることがたくさんの人を幸せにするという希望があったからで。

 例えば校長の柾、然り。友達、然り。祖母の梅、然り。春待桜そのもの、然り。もしかするとそこには自分も含まれていたのかもしれない。樹の胸が、ずきんと痛んだ。

(バカかよ。お人好し過ぎるんだよ、お前。……そうでなくても体調、良くなかったってのに)

 無理しすぎなんだよ、とつぶやいてみた。樹の声は敢えなく壁に吸い込まれて、柚の穏やかな表情が変わることもなかった。

 柚の本当の表情を知っているのは樹と梢だけだ。

 苦しみの中に溺れ、ぐしゃりと歪んだ顔こそが、あの日、最後に柚の見せた本当の表情だった。

「……バカ……」

 樹はもう一度、つぶやいた。

 溢れそうになった涙をこらえようと、懸命に両手で膝を圧迫しながら。




 過去を変えることはできなくとも、未来の行き先を変えることは叶うのなら。

 柚に想いを寄せていた一人として、自分にはすべきことがあると思う。

 ──あの春待桜を咲かせ、すべての人を笑顔にする。柚が達成することのできなかったそれを、この手でやり遂げてあげたい。

(でも、こんなに味方のいない俺に、そんなこと……)

 柚の顔を見つめていると、すぐに弱気になってしまいそうになる。

 樹は椅子を立った。

 可能か不可能かを考えている時間の猶予はもう、ない。柚の志を引き継げるだけの前提知識を持っているのは、この広い世界の中で樹ただ一人のみなのだ。

 心電図が静かに脈を打つ音が、部屋に満ちている。桜の花びらが咲いて、朽ちて、地面へと舞い落ちるまでに、柚の命はどれほどの拍動を数えてくれるだろう。

(柚)

 樹は柚を睨んだ。

(見てろよ。……俺だって)

 それから鋭くきびすを返し、病室の扉へと向かった。







「そのくらいで帳消しになるとか、思わないでよね」


▶▶▶次回 『三十五 追憶と傷痕』

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