三 新天地の日常
柚は、気管支喘息という病の患者だ。
そしてそれが、柚がこの街で暮らすことになった唯一の、しかし重大な理由でもあった。
柚の家は、中央区の月島というところにある。今でもそこには両親が住んでいるので、実家とでも表現する方が近いのかもしれない。
中央区と言えば『都心五区』に数えられる東京二十三区の中枢、立地的にはまさしく大都会である。家の近所には幹線道路がいくつも通っていて、昼夜を問わずトラックやトレーラーが無数に往来する環境だった。そのせいか──一ヶ月ほど前から、喘息の発作に似た症状が頻発するようになったのだ。
具体的には、夜間に突然息苦しくなる。からからに乾いた喉で何度も咳き込んで、それがしばらく止まらない。日によっては左胸の謎の痛みが加わることもある。もちろん昼間であっても、激しい運動をするとすぐに息切れしてしまう。
喘息を疑ったのは、過去に柚が気管支喘息と診断されたことがあったからだ。ただ、最初に診断されたのは三歳頃と古く、当時は発作らしき発作もほとんど起こしてこなかったので、今まで薬による治療を受けようとはしてこなかった。ひるがえって近頃の柚は、数日に一度の高頻度で発作を起こすほどに、病状が悪化している。
排ガス公害にかつて悩まされていた東京都には、認定した喘息患者の治療薬の費用を負担する『大気汚染医療費助成制度』がある。柚ほどの症状の患者なら、大半がその助成を受けているはずだ。ところが柚は患者認定を受けていなかったので、薬の費用が必然的に高くついてしまう。そのうえ最近になって近所の内科医が廃業し、相談できるような相手がいなくなってしまった。
悩んだ両親の下した決断は、転居だった。喘息の主因は空気の悪い空間に留まることで、それさえなければ病状は回復に向かうのが一般的とされているのだ。空気の綺麗な場所を探して、中学三年の進級のタイミングで別の場所に引っ越そう──。柚たちの相談はそこで妥結し、両親は今、懸命に新たな住まいを探している。
とはいえ、病状の悪化は新居の準備を待ってはくれない。そこでそれまでの間、一時的に柚を預かろうかと梅が提案してくれ、柚はその言葉に甘えることにしたのだった。
都心から西に三十キロ。多摩川の清流に空気を洗われ、緑の豊かな多摩の昭島ならば、多少なりとも生活環境の改善を期待できるだろうと考えたのである。
翌朝から、柚の新たな『日常』が始まりを告げた。
梅の起床は午前四時だ。到底そんな時刻に起きられない柚は、遅れて六時に目を醒ます。始業時刻は八時なので時間の余裕は多すぎるくらいなのだが、早々と家事に励む梅の小さな背中を見つめると、なぜだかいつも焦ってしまう。
梅の作るご飯は、どれも純和風だ。柚ちゃんはそんなに洋風が好みでもないみたいだけど、お父さんがいた頃は文句が多くてねぇ──。白味噌や蕪や青ネギをふんだんに使った汁を啜りながら、梅は目を細めて懐かしげに語っていた。ふとした生活の合間に、父の口からは語られなかったいつかの昔話が飛び出した。
梅に見送られながら、学校へ。あのピンク色仕立ての制服を着た柚の姿に梅は毎度のように魅入るので、そのたびに柚も恥ずかしくて足を早めてしまう。梅に言わせれば、制服のピンクは『桜色』らしい。
五鉄通りは北へ向かうにつれて、少しばかり上り坂になる。徒歩八分の道のりを経て校門をくぐれば、校庭の大木と古びた校舎が、朝から息の上がった柚を出迎えてくれる。
「あ、おはよー!」
決まって登校時間の早い梢が、開口一番に挨拶をしてくれる。それまでは問題集を開いていることが多いが、柚が来るとそれをぱたんと閉じて、着席した柚を振り向いてくるのだ。
その後に続く疑問文は、数日も経つと定型文と化した。「放課後空いてる?」である。
「大丈夫だけど……」
柚の返答も決まっていた。どうせ一ヶ月しかないのだからと、柚は部活には入っていない。一方の梢は部活ではなく生徒会に入っているようで、放課後にはたいてい暇ができるのだそうだ。
柚の返答を聞くや、梢は嬉々として身を乗り出す。
「あのさー。今日、棗とか杏たちと昭和公園に行かないかって話してたんだけど、柚ちゃんも来ない?」
上ノ台棗と下林杏は、梢とともにいつも仲良くしてくれるクラスメートである。
「昭和公園って、あの陸上競技場とか球場がある公園だっけ……?」
「そうそれ! ね、いいでしょー」
地図でしか見たことのない場所を当てられたことに安堵する柚に、梢は目をきらきらさせながらせがむのだ。一緒に遊ぼうよ、と。
しかし、その問いかけに柚が応じたことは、実のところ一度もなかった。
「ううん、いいや……。三月に入ったら期末試験もあるし、私、勉強しなきゃ」
「そ、そっか……」
「ごめんね、いつもいつも断っちゃって」
上目遣いに柚が謝ると、梢は大概いつも、ううん、と苦笑する。
「仕方ないよ。勉強は大事だし」
その笑みを見るたび、胸に鈍い痛みが走った。悟られないように柚も微笑で顔を塗り潰した。
そうこうしているうちに他の生徒たちも登校してくる。樹が椅子に着くと梢は嫌そうな顔で前を向いてしまい、さらに朝の会の開始寸前になって息急ききって林が駆け込んでくる。
そうして、授業が始まるのである。
転校前の中学と比べても、授業の進度は悪くはなかった。
自宅学習の習慣をしっかり持続しているのが、柚の数少ない自慢だ。おかげで授業への遅れを感じたことは、今に至るまでほとんどない。担任の上川原から話が行き渡っているのか、どの教科の先生──体育も含めて──も、柚に対してはきちんとついてきているかを確認してくれる。
ただし、それと苦手科目の有無はもちろん別である。
日本や世界の歴史、それに古文。故きを学ぶ科目は柚にはどうにも弱く、話についていけなくなるたび、授業中に何度も前の席の梢に質問をした。もっとも、梢も勉強が得意ではないようで、しまいには二人で首を捻るばかりだったけれど。
「上川原の話が分かりにくいわけじゃないんだけどなぁ」
かく宣う梢の得意教科は現代国語らしい。理系科目はもっぱらダメで、逆にいつも柚が質問を受ける側になる。
対称的なのが樹だった。樹は勉強も運動も限りなく多才で、一度ボールを保持すれば確実にゴールに叩き込むし、先生に当てられて誤った答えを口にしたことはない。
とはいえ、それほどの超人でありながら友達がいないことに、段々と柚も疑問を覚えることはなくなっていった。
放課後になると、クラスメートの多くは教室を飛び出して、部活や遊びに行ってしまう。
柚は授業が終わるといつも、窓のそばに寄ってあくびを空に逃がした。南向きの大きな窓からは穏やかな風がそよそよと吹いてきて、そこにいると不思議と、意識が冴えた。
「明日は遊ぼうね!」
梢たちは律儀にそう声をかけてくれる。小さく頷いて返すと、柚はまだ、窓際に立っていた。
眼下のグラウンドには白線が何本も引かれ、サッカー部や陸上部の生徒たちが駆け回っている。舞い上がる砂ぼこりが、中央にどっしりとそびえる大樹を包んでいる。
樹の姿はすぐに確認できた。グラウンドの隣のテニスコートで、独りで壁打ちをしていた。強烈なスマッシュがラケットから打ち出されるたび、甲高い音がグラウンドに弾けた。テニス部だと聞いたことがあるが、他の部員たちと交流をしているのを見たことはない。
スポーツもできるし、勉強もできる。それは本当なら大きなアドバンテージのはずなのに、ひとえにその立ち回りのせいで樹は孤独なのだろう。
もったいないなぁ──。
柚はいつもそう思うのだ。羨ましさと怨めしさを、呆れの中にちょっぴり混ぜ込んで。
家に帰っても、当然ながら両親の姿はない。代わりにそこには、梅がいる。
寄り道をしないので、帰宅時間はいつも四時台だ。梅は日によっては洗濯物を畳んでいたり、夕食の仕込みをしていたり、あるいは新聞を読み耽っていたりする。
「おかえりんさい。今日も早かったねぇ」
「うん」
「調子はどう?」
「今日も大丈夫だったよ。行き帰りでも息苦しくなったりはしなかったし」
良かったねぇと微笑む時の梅の表情の穏やかさは、菩薩と比べても遜色がない。と、すら思える。おばあちゃんの笑顔に元気をもらえるのはなぜだろう。含んだ裏を感じさせないからだろうか。
柚が何もせずに帰ってくる理由を、梅が尋ねたことはない。もしかしたら本当は分かってたりして、などと内心では思いながら、柚は制服を着替えて自分の部屋に向かうか、もしくは居間のこたつに座り込むのだった。
もちろん、宿題をやるために。
もしくは梢についた嘘を、真実にするために。
勉強をしていると、気が楽になる。
思い出さなくて済むから。きれいさっぱり、忘れ去っていられるから。
──『柚ちゃん、また体調崩したの? 大丈夫?』
──『お前ってほんと、身体弱いよなぁ』
──『ちょっと休もっか。あ、ほら、あそこに木陰があるから……』
いつか自分にかけられた、かつての友人たちの言葉の数々を。
柚は喘息患者だ。梅に負担をかけてまで昭島に移住したのは、柚の病を少しでも快方に向かわせるため。
だから間違っても、遊びすぎて喘息を悪化させたなどということがあってはならないのだ。そんなことになっては、ここへ来た意味がなくなってしまう。昭島に行くと決まった日、父からも、母からも、口々に釘を打たれてきた。
都合よく、期末試験も迫ってきている。勉強という口実は誘いを払うには最適だった。涙が出るほど便利な文句だった。
(でも、なぁ……)
机の上に取り出すのはいつだって、その日の分の宿題だけ。表紙のカバーを半分だけ開いた目で見下ろし、柚は梅には気付かれないようにため息をこぼした。
本当は、みんなと遊びたい。触れ合ってみたい。四月に正式に転居するまでの間をつなぐ、たった二ヶ月間の仲間だとしても、せっかく出会えたのだから楽しく心を通わせてみたい。
そんな柚の本音を押し隠そうとしているのは、本当は両親の言葉でも、発作を起こしやすい身体でもなくて。
◆
柚が宿題に取り組んでいる間、梅は洗濯物を畳んで、雨戸を閉めて、時間が余れば柚の隣に座って読書やクロスワードに励んでいる。
邸中に通う日々が始まって五日。そこに最近、もうひとつの習慣が加わった。それは頭を悩ませる柚の向かい側で、制服をきれいにすることだ。
何やら鼻唄を奏でながら、今日も梅ははたきで制服をぱたぱたと叩いている。
適当な私服に着替えた柚は、難解な国語の課題を前にして唸るばかりだった。ふと目を上げれば、猫じゃらしのような緑色のはたきが快さげに揺れている。あの制服になりたい、と思った。学校のみんなのことや宿題にばかり意識を振り向けていると、くたびれてしわができてしまう。
快さげに見えるのは、制服だけではなかった。
「なんか、楽しそうだね」
何気なく声をかけると、梅は頷いた。「当たり前じゃないの。来週もまた柚ちゃんが着ていくんだもの、きれいになるほうがずっといいからねぇ」
「それもあるけど、なんか作業そのものも楽しそう」
「そうかしら?」
梅は手を止めて、しわくちゃな手のひらで制服を柔らかに撫でる。それもあるかもねぇ、と口にした。
「柚ちゃんが制服着ている姿を見るとね、懐かしくなるの。わたしも幼かった頃、あんな風に笑いあいながら学校に通っていたなって思い出すからねぇ」
終戦時、梅は中学生だったと聞いたことがある。柚は七十年近く前の光景を、脳裡に描いてみた。邸中の制服の桜色は、当時のもんぺにも反映されていたのだろうか。『ぜいたくは敵だ』なんて言われた戦時中にそんな派手な物を着てて、ケンペイに怒られたりしなかったのかな──。
何となく可笑しくなってくすりと笑うと、再び動かし始めた手に視線を落としながら梅が言う。
「柚ちゃんは名前こそ黄色のイメージだけど、制服の桜色が似合うからねぇ。かわいい柚ちゃんでいてもらうためにも、きれいにしておかなくちゃ」
柚は顔を赤くした。「……そんな、似合ってないよ」
着る側はそれなりに恥ずかしいというのに。梅は照れる柚を見て、ふふ、と微笑む。
「あちこちに桜色の使われてる制服なんて、日本広しと言ってもそうそうないでしょう? 着られる時に着ておいたほうがいいんでないかしらねぇ」
梅が見たいだけではないのか、それを。
ため息をつきながら上半身をこたつの天板に投げ出した柚は、ほこりが取れて抜群にきれいになった制服を、じっと眺めていた。
考えてみると、不思議だ。どうして今まで疑問に感じてこなかったのだろう。制服のところどころに、滅多に使われることのなさそうな桜色をわざわざ用いていることに。
「ねえ、おばあちゃん。その桜色って、何か意味があるのかな」
まさかと思いながらも柚は尋ねた。予想に反して、知ってるよ、と梅は首肯した。
「新しい制服になった時に採り入れたって、けっこう前の回覧板に書いてあったの。柚ちゃんも転校してから二週間近くになるんだし、『ハルマチザクラ』のことは聞いてるでしょう?」
柚は目をしばたかせた。
『ハルマチザクラ』……いや、ない。初耳の言葉だった。
「知らない」
正直に答えると、梅は意外そうな顔をする。このあたりでは知っていて当然の名前なのだろうか。ほら、と梅は宙を指し示して、木のような輪郭を描いた。
「柚ちゃんの校庭の真ん中に、大きな木が立っているでしょう。あの木のことよ。不思議な伝説のある木でねぇ、昭島市内で知らない人はいないと思うわ」
柚の脳裏のスクリーンを、砂ぼこりに巻かれて浮かぶ校庭の大木が照らしていく。あれか、と思った。
「どんな伝説なの?」
「それは、誰かに聞いてみれば分かるんじゃないかしら」
もったいぶらないでほしい。柚は唇を尖らせた。
クラスメートはおろか先生の口からも、その名前が出たことはない。そもそも桜であるということすら、柚からすれば初耳だったというのに。
梅はまた鼻唄に興じながら、制服をきれいにする作業に戻っていった。明日、きちんと見に行ってみよう──。心に決めた柚もペンを握って、また問題に向かい合う。
「寂しくないのかな。きっとないんだろうな。……私なんかと、違って」
▶▶▶次回 『四 サクラとユメ』