三十三 ユーレイの嘆き
この三日間、じっと黙って授業を受け続けながら、気付けばいつも物思いに耽っていた。
──『……ごめんね、また負担、増やしちゃって』
柚の姿が見えなくなって、残された本当の樹には、友達も、意中の人も、誰一人としていなかった。樹を親しく思う人や、わざわざ話し掛けてこようとする人など、この街には誰もいなかった。
柚と何気なく接していたせいで、忘れてしまっていたのかもしれない。ともかく隣の席から柚が消えて、なんだか一気に現実へと引き戻されてしまったような気がする。いや、きっと、そうなのである。
──『えへへ。何だかもう、昔のことみたいだね』
柚と同じ道をたどるのは校門までだった。柚は南に、樹は東へ、それぞれの家路を下ってゆく。
そう考えると、樹と柚が会っていられる時間なんて、本当は微々たるものだった。デートに行ったためしもないし、家に呼ばれたのだって一度だけ。あまつさえ、二人が心を結んでから三日も経たないうちに、柚は目を醒まさなくなってしまった。
校門は二人の出会う場所で、別れる場所。そこから視界いっぱいに見える春待桜の佇まいに、柚はどんな思いを抱いていたのだろう。
今となっては、尋ねることもできない。
──『──また、明日ね』
誰とも会話を交わさないまま、登校して、授業を受けて、帰宅して、自分の部屋に閉じこもる。昔は当たり前だった日常が、今はひどく味気なく感じるようになってしまった。
柚の席を見たくなかった。柚の名前を聞きたくなかった。校門を出る時、柚の家のある南の方角を眺めたくなかった。勉強机の上には、二人で懸命に読み進めた資料たちが乱雑に積まれていた。手書きのメモさえ視界に入れたくなかったが、握り潰すことも、捨ててしまうこともできなかった。
(俺、あいつのこと、助けてあげられなかった)
上川原は言っていた。目覚める見込みが立たないのだと。
(あいつがいなきゃ、あの桜だって咲かせられない)
邸中学校に通っていれば、嫌でも春待桜は目にする羽目になる。つぼみばかりをつけた桜の枝々を見上げるたび、樹はどうしようもなく無気力になった。勉強もテニスもしたいと思えない。そんなものが何になるっていうんだ。柚に『すごい』と言ってもらえないなら、いったい何のために我を張ればいいんだ──。
昔だったらそんなこと、考えもしなかったのに。
放課後になって、生徒たちが疎らに帰途につく時間がきても、その日の樹はなかなか席から腰を上げることができなかった。
(帰りたくない)
無性に思った。この二日間、誰にも見送られることなく校門をくぐるのが、ひどく苦痛で仕方なかったのだ。もちろんそれにしたって、かつては味わうことのなかった感覚だった。
クラスメートたちは相変わらず、意識的に樹を視線から外そうとする。扱いは幽霊同然だ。もっともこちらは孤独と違って、今に始まったことではない。
(……ユーレイが校舎内を彷徨いたって、誰も気付かないよな)
思い立った樹は、湿ったように重たい腰を持ち上げた。
テニス部がそうであったように、閉校が目前に迫ってきて部活も次々と解散しているらしい。生徒の少なくなった校舎内は、二年A組の教室だけが不気味に静かだ。西陽の差し込む廊下に出て、目の前の階段を上ってみる。
振り向いた教室の景色の中に、自分と対峙する柚の幻影を見かけたような気がした。
口喧嘩が、懐かしい。
樹は口角を上げて笑ってみた。あの日の自分を今なら素直に、客観的に評価できるように思えた。笑っているのも変だと感じて、すぐに真顔に戻した。
四階の廊下の果てには図書室がある。試験シーズンでもない限り、普段の図書室にはほとんど利用者がいない。無人の廊下を歩きながら、ここも柚と一緒に通ったっけな、なんて考えてみる。春待桜の真相に一歩でも迫ろうと、たくさんの重たい本を抱えながら。
(俺、けっこう頑張ってたよな。柚より少しでも読めるように、あいつに追い越されないようにって、毎晩のように古典や漢文にかじりついてた)
先取り学習のつもりで取り組んでいた古文漢文の知識が、まさかあんな形で役に立つなんて思ってもみなかった。あの時、初めて感じたものだ。自分のためだけじゃない、他人のためにする勉強っていうのもあるんだ、と。
そう気付かせてくれた柚も、もう本を読むことはない。目を醒まさない限り、文字は読めない。
「…………」
図書室に入る気力が出ず、入り口の前で引き返した。
ちょうど正面に階段があった。屋上への出入口のある塔屋へ続く、唯一の階段だ。
引き寄せられるように階段を昇った。以前、ここに来たのはいつのことだっただろう。日付は思い出せないが、何が起きたのかは今も克明に記憶している。一段飛ばしで駆け上って、屋上に飛び出したのだ。
(ここで俺、あいつに告白されたんだった)
鍵が開いていた。屋上の扉を少し開けて、中をそっと覗きながら、樹は無意識に嘆息していた。高い建物の見当たらない屋上からの景色は、嘆息しても受け流せないほどの無邪気な美しさを孕んでいた。
二人きりの屋上で告白だなんて、ありがちな青春系の物語じゃあるまいし──。柚も柚で、よくもあの状況で『好き』だなんて言えたものだったと思う。あんなに大きな声で、あんなに澄んだ声で、あんなに真剣な声で。
樹の頑なな心にも、否応なしに届いてしまうではないか。
あの日、柚の身体を蝕む病の本当の正体を知っていたなら、樹には何か手を打てたのか。
たぶん、打てなかっただろう。
そうだとしても、こんなに後悔の思いで胸が満たされる事態だけは防げたんじゃないかと感じられて、そんなの自分勝手だよなと唇を噛んで。
自分勝手ついでに、色んな欲が吹き出した。もっと真摯に──いや、もっと素直に、柚と向き合えばよかった。自分を評価してくれる柚の気持ちと、そんな柚に理解者となってもらうことを期待してしまう自分の本心と、きちんと向き合えばよかった。
この三日間、隣に柚のいない日々を送る中で、何度となく思い知らされた。
何だかんだと言いながらも、柚のことを忘れられない。樹はやっぱり柚が好きだったのだ。
いつも隣で話しかけてくれる柚の存在に、樹はいつしか心を許してしまっていたのだと。
結局、一度も言えなかったな──。樹はうつむいた。
(本当は寂しかったんだ。お前に話し掛けられるようになって、俺、ちょっと嬉しかったんだ……って)
やりきれない気持ちが胸を埋め尽くした刹那、不意に身体から力が抜けそうになって、慌てて樹はドアノブを握って身体を支えた。扉の隙間から見える景色は、柔らかなオレンジ色に輝いている。夕方になってしまったらしい。
あんなにも明るく美しい世界の中に、自分の居場所はきっと存在しない。
もう、帰ろう。
そう思った。
時おり目眩で転びそうになりながら、階段を降り、昇降口に出る。靴を履き替えて校庭に踏み出すと、やはり生徒はどこにも残っていなかった。ぼうっと意識を飛ばしていた間に、かなり時間が経ってしまっていたのか。
代わりに、見慣れない男たちが数人、桜を取り囲んで何事かを話し合っているのが見えた。
──「根は枯死寸前なわけでしょう。であれば、記念樹木としてモニュメントにするのはどうですかね。防腐処理を施した上で心棒を入れて、生きた姿のままの像にするわけです」
──「しかし、それでは咲かないことに変わりないですからな……。予算もそれなりに掛かることになる」
──「開花の姿にこだわるのであれば、複製した花びらを大量に用意してくっつける、というのもありでは?」
──「そうは言ってもこれだけの大きさの樹木ですと、植物活力剤で生存期間を伸ばすのもなかなか厳しいですし……」
なんだあいつら、と不審に思ったのも一瞬。聞こえてくる会話の意味を樹はすぐに理解した。今日もまた、校長の柾が樹木保全の業者を呼んで、春待桜の延命の可否を診断させているのだ。
その証拠に、作業服の男たちに混じって、白髪の姿が見え隠れしている。……かと思うと、柾だけを置き去りにして、男たちは校門前に止まっているバンの方へと歩き始めた。
──「保存の方向で検討はさせて頂きますが、厳しいと思いますよ」
柾はぺこぺこと頭を下げている。今度の交渉も、成果は上がらなかったらしい。
(飽きねぇな)
ふん、と鼻息がこぼれた。
樹は知っている。柾がこの場所に業者を呼ぶのは一度目や二度目ではないのを。そして、そのたびに同じ結論を突き付けられている様子なのも。
いったい同じことを何べん繰り返せば、柾も諦めるのだろう。
樹はひどく白けたような心持ちで、その光景を眺めていた。
──失意の表情で桜の足元に立ち尽くす柾の姿に、前触れもなく柚の立ち姿が重なったのは、ただの偶然ではないはずだった。
──『せっかくだからもう一度くらい、見せてあげたい』
柚は困ったような、哀しいような、そんな表情のまま笑っていた。
そうかと思うと、しゃがみ込んだ。ふわり、桜の根がスカートの陰に隠れて、
──『七十年前に春待桜が咲いた理由を、突き止めてあげたいよ』
その根をそっと撫でながら、柚はまた、言った。
刹那、一陣の風が樹の脇を吹き抜けた。ぐらりと揺れた柚の身体が、少しずつバランスを崩すように倒れてゆく。あの困ったような顔でこちらを窺う柚の目元から、口元から、粘り気のある赤い液体が流れ出した。
──『見せて……あげたい……』
からからに喉が乾いている。深呼吸をすることも、まばたきをすることもできず、樹はその光景を見つめていた。
また、強い風が吹き寄せた。激しく舞った砂ぼこりに思わず目を閉じ、そして開けたとき、膝をつく寸前だったはずの柚の姿は風に飛ばされたように掻き消え、そこには柾が立っていた。
──『見られるんだね。私たち』
違う。
見られない。
もう、見られないのだ。
桜を咲かせる術はまだ、あるのかもしれない。否──きっとどこかにはあるのだろうけれど。
(でも、お前は、もう……)
樹は拳を握りしめた。
どうにかして咲かせられたとしたって、柚が目を醒まさないのでは何の意味もない。まぶたを開かなければ桜も楽しめないではないか。
祖母のため、誰かのためと言っていたけれど、春待桜の開花をいちばん楽しみにしていたのは他でもない、柚じゃないか──。
「幼い頃の私も、この桜を拠り所にしようとした。何かを素直に慕うことのできた、あの頃の透明な心持ちの在り方を、私は忘れてしまいたくないんだ」
▶▶▶次回 『三十四 たとえ、前が見えなくても』




