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桜の雨、ふたたび  作者: 蒼原悠
肆 ブロッサム・プロミス
37/69

三十一 119





 樹は顔を上げていた。

 どうして今の今まで忘れていたのだろう。昨日の夜から今日にかけ、柚の家には保護者が不在だったはずだ。たった一人の同居者である祖母が、何かの治療で急に入院することになったとかで。

 そうなると、体調を崩していても連絡ができないかもしれない。連絡のない事情はそれで説明できてしまう。問題は、その体調不良の度合いか。柚は喘息の発作を頻繁に起こすと言っていた。樹の目の前で重症に陥り、血を吐いたこともあった。

 ──胸騒ぎがする。

 樹は時計を見上げた。

 真南からの陽光を浴びて、時計の針は十二時半を指している。昼休みが終わるまで、残り四十分というところか。柚の家までは十分に往復できる時間だ。

 行動に移すなら早い方がいい。樹は席を立った。何かの時に使うかもしれないし、身の回りの品は持っておいた方がいいな──。机の上のものを仕舞い込み、カバンを手にして、そのまま席を離れようとする。

 聞きたくなかった声が、背中に飛んできて衝突した。

「帰んの?」

 梢だった。答える気もなかったが、樹は適当に返事を考えた。柚ならばこういう時、声をかけてきた人をぞんざいにしないと思った。

「様子見してくる。ゆ……中神の家」

 危ない、下の名前で呼び合う関係だというのが発覚してしまうところだった。返答を待たずに早足で教室を出ようとしたが、梢の声がついてきた。

「あたしも行く」

「なんでだよ」

「気になるからに決まってんでしょ」

 そんなことを言って、実際は樹を監視するつもりなのではないだろうか。膨らみかけた疑念に、まさか、と樹は針を刺して割った。梢が自分なんかにそんなに興味を持っているはずもない。

 もともと待つ気もなかったので、梢の言葉を聞き流して樹は廊下に出た。「だから待ちなさいってば!」と叫びながら、梢が後ろに駆けてきた。


 学校から柚の家までの道のりは、柚の祖母の足でおよそ十分。中学生の足ならせいぜい七分前後だ。南へ穏やかに下ってゆく道を、梢と二人、歩く。

 ふと振り返ると、坂の上に春待桜が見えた。どっしりとした存在感を発するあの立ち姿を、柚はいつも登下校時に眺めていたのだろう。

 だからこそ桜にも好かれて、頼られたのかもしれない。

 自分らしくもない考えに浸っていると、ぽつりと梢が尋ねてきた。

「らしくないね。宮沢、こういうこと一番に嫌うタイプだと思ってたけど」

 どきりとした。連絡のないクラスメートを訪ねることが、だろうか。

「まぁ」

 手短に答えて、ポケットに両手を突っ込んだ。普段の自分っぽい姿を繕った方がいいような気がして。

 背中に当たる梢の声が、不自然に低い。

「あのさ。宮沢と柚ちゃんってどういう関係なの、今」

「…………」

「あたし柚ちゃんから聞いたんだよね。柚ちゃんが宮沢に告白したって。そうなんでしょ」

「……そうだよ」

 そこから先は聞く勇気が出なかったらしい。梢は再び、沈黙した。樹も黙って前を見据えた。

 柚以外のクラスメートとこんなに長い会話を交わしたのも、思えばかなり久しぶりのことになる。しかもその相手は、樹を不倶戴天(ふぐたいてん)の仇とでも思っていそうな梢だ。以前の樹なら応じようとすらしなかったに違いない。柚が邸中に来て以来、それまで琥珀のように凝固していた自分の中の色々な部分が、やっぱり少しずつ変わってきているのかもしれない。

 もしもそれが事実なら、喜びたいところだけれど。


 中神家はひっそりと静まり返っていた。郵便受けを見た梢が、突っ込まれたままの新聞を取り上げた。

「……今日のやつ回収されてない」

 その脇を通り抜け、樹は玄関に近寄る。

 昨日の夕方、柚と『また明日』の挨拶を交わした玄関。今、その扉はぴたりと閉じられ、樹がいくらドアノブを回そうとしてもびくともしない。お前はこの家に入る資格はない──。無慈悲に拒絶しようとするかのようなドアノブの冷たさに、当たり前かと樹は目を細めた。

(逆に言えば、戸締まりはきちんとしているってことだもんな。犯罪に巻き込まれた可能性は低いかな)

 それだけでも今は、不安解消の材料に加えるしかない。

 見てよ、と梢が磨りガラスの嵌まった窓を指差した。中の光景は判別できないが、照明が灯っているのが確認できる。

「リビングのだ」

 つぶやくと、梢がまた声を低くした。「なんで知ってんのよ」

「入ったこと、あるから」

 あっそ、と梢は素っ気なく答えた。声が少し震えていたようにも聞こえて、あまりいい心地がしなかった。

 ともあれ、リビングに誰かしらがいる可能性は高いだろう。そうだとすればなぜ、休みの連絡が入っていないのか。

「チャイム押しても出ないや……」

 玄関に立った梢が声を上げた。「寝てるのかもしれないけど、やっぱ変だなぁ」

 『変』だという認識の一致が、今は樹と梢の間を辛うじて繋いでいる。そうだ、そしてその『変』の正体を確かめたい。案内されたリビングの光景を、樹は懸命に頭の中で再生する。中央には大きなこたつ、入って左側の壁際には大きなテレビ、正面には大きな窓。縁側に接したその窓の先には、庭の景色が広がっていたはずだ。

 家のすぐ脇に、庭に抜けられそうな道がある。一瞬の迷いを挟んで、樹はその小道に踏み込んだ。

「ちょ、ちょっと?」

「確かめるだけだから」

 梢の言葉を遮りながら、行く手を遮る室外機を乗り越える。梢はそれからもぶつぶつと何事かを口にしていたが、すぐ背後で足音が響いているところを見ると、どうやら樹についてきているらしい。

 そう、確かめるだけ。何もなかったならそれで構わない。庭に出るほんの直前まで、樹も、それからおそらく梢も、そのくらいの意識だったのだ。

 振り向いて見た縁側の向こう、天井いっぱいまで達する大型のガラス戸に、深紅の手形が飛び散っているのを発見するまでは。


 息を呑む音が、頭蓋骨を通して世界中に響き渡ったかと思った。

「……あれ、……」

 梢が怯えたような口調になった。樹も足がすくんで、動けなかった。

 叩き付けられたような赤い飛沫が、掌の形に()り抜かれていた。ガラスにぽっかりと浮かび上がっているのはそれだけではない。赤黒い液体がそこかしこに跳ね、長い跡を作っていた。昼下がりの陽光を 煌々と反射しているせいで、室内の様子は窺えない。そのことがかえって恐ろしい。

 消え去っていたはずの事件の可能性が、ふたたび首を持ち上げ始めた。掠れた声で、樹はつぶやいた。

「……何が起きてんだよ」

「み、見に行きなさいよ。ここへ連れてきたの、宮沢でしょ」

 梢はすでに半泣きだ。樹だって泣けるなら泣きたい。逃げられるなら逃げたい。窓の中の景色を見たくない。恐怖ですくむ足を、それでも一歩、二歩、前に進める。

 ふっ──。

 刹那、太陽が雲に隠れ、光の反射が弱まった。

 樹に目を覆う暇は与えられなかった。目映(まばゆ)い光の幕に隠されていた居間の現実が、たちまち姿を現した。


 広いリビングの中央からはこたつが除去され、天井の照明は灯ったまま。

 その明かりの真下に、柚がうつぶせで倒れていた。

 (おびただ)しい量の血に全身を濡らし、ぴくりとも動かない柚の身体が、そこに落ちていた。

 全身の血液が沸騰するというのは、こういう感覚を言うのだろう──。テニスの試合中も、誰かと(いが)み合っている間にさえ感じたことのない衝動が、樹の口から声を爆発させていた。

「柚⁉」

 地面を蹴って縁側に飛び乗り、ガラス戸をガンガンと殴った。何度も名前を呼んだ。柚の反応はない。こちらに向かって足を放り出し、何かを掴もうとした姿勢のまま、柚は少しも動かない。

 すぐさま梢が飛んできた。血まみれの柚がその瞳に反射した瞬間には、梢は半狂乱で叫んでいた。

「柚ちゃん⁉ うそ、何してんの⁉ 起きてよっ!」

 柚の反応は、ない。

 リビングに照明が灯っている理由、無断で学校を休んだ理由、新聞が回収されていない理由。すべてが一瞬のうちに繋がって、肌に浸透した悪寒が凄まじい勢いで身体を包み込んでゆく。樹は歯軋(はぎし)りした。もっと早く気付きたかった、もっと早く駆け付けたかった──。今さら嘆いていても仕方ないことなんて、誰に言われなくても分かっていた。

「どうしよう宮沢、柚ちゃんが、柚ちゃんが……っ!」

 ガラス戸にすがった梢が、涙をいっぱいに溜めた目で樹を睨む。戸が施錠されているのを確認して、樹は庭に飛び出した。陽当たりのいい庭の真ん中に、金属製の物干し竿が所在なげに置かれている。(やり)さながらのそれを両手で握るや、大声を張った。

「福島、そこ下がれ!」

 目を見開いたまま、梢が後ずさった。樹は縁側に勢いよく駆け上がり、渾身の力で竿の先端をガラス戸に叩き込む。甲高い音が炸裂し、鍵の周囲のガラスが木っ端微塵に砕け散った。

 すぐさま竿を放り出し、鍵を開けてガラス戸に手を掛けた。呆気ないほど簡単に戸は開き、鉄の臭いが樹の鼻をつく。怯む足を叱咤して、リビングに踏み込んだ。

 柚の手を伸ばす先に、血飛沫のついたスマホがぽつんと落ちている。

(通報しようとしてたんだ──)

 樹も、梢も、声を詰まらせた。

 戸惑うな。戸惑うな、俺──。唇を強く噛んで、樹は柚の身体に触れた。肩を抱いて揺り動かす。反応しない。口元を見る。口の中まで鮮血に染まっている。思い切って胸に手を当てる。

 僅かな拍動がある。

 樹は息を呑んだ。すぐに我に返り、呑んだ息を隣の梢に叩き付けた。

「救急車呼んでくれ! 息はある! すごい量の血を吐いてる! そう伝えて!」

 柚に近寄る勇気がなかったのか、梢は樹の数歩後ろで立ち止まっていた。声を震わせ、梢は首を横に振ろうとした。

「で、でも、あたし……あたしが……!」

 それでも樹の必死な目付きに、覚悟を決めたらしい。真っ青な顔のままポケットからスマホを取り出し、しゃくり上げながら緊急通報番号を押してゆく。

 樹は柚に目を戻した。

 着替える暇がなかったのか、昨日の制服のままだ。喘息の発作って、こんな姿になっちまう病気だったっけ──。疑問が脳裏を掠めて(またた)いたが、柚を、床を、樹の制服を汚した深紅の血が、そんなことに思考を割く余裕さえ奪っていく。

 血の色に染まった『桜』の段ボール文字が、柚の周囲に無惨に散らばっている。

(何があったんだよ、柚)

 肩を掴みながら、樹は顔をぐしゃりと歪めた。

(何が『また明日ね』だよ……。こんなことになるなら俺、何の役にも立たなくても、お前とまともに会話が続かなくても、お前を独りになんてしなかったのに……っ)

 泣きながら電話口に救急を訴える梢の声が、樹を眼前の事態へと引き戻した。今、すべきことは、後悔ではない。

 気道確保が必要だ。横向きに倒れる柚の口の中へ、樹は交叉させた指を差し入れた。柚の呼吸が弱いのは、中に溜まった血が呼吸を妨げているせいかもしれない。玄関先で父が嘔吐して倒れた時、いつも朝日は真っ先に気道確保を行っていた。それが済んだら、次は身体を横に傾けて──。

 汗か、他の何かか、とにかく塩水が目元に染みて痛い。腕が血に濡れているのを知っていながら、樹はそれを宛がって強引に目元を拭い去った。

「二分以内に、着く、って」

 電話を終えた梢が、崩れるように隣へ座り込んだ。








「こんなことを言っては無責任に感じるかもしれないが、ありがとうと言わせてくれ」


▶▶▶『三十二 波紋』

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