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桜の雨、ふたたび  作者: 蒼原悠
参 アクセプト・プレイア
34/69

幕間 ──永享の松原── 上





 日ノ本──。

 誰によってかそう呼ばれたこの地に、人が住み、共同体(ムラ)を作り、国家を形成し文化の醸成が進むようになってから、どれほどの年月が流れていったことだろうか。

 時間遡行の技術がない以上、途方もなく積み上げられてきた過去の履歴を、現代を生きる人間がその目で確かめることは叶わない。今となっては人々はただ、先人の残した文献や記録や遺構によってのみ過去を知り、歴史の流れを読み解くことができる。

 けれども、数千年に渡る大いなる歴史の中へと飲み込まれ、(ちり)となって消えていった人々の営みの全てまでも、現代人が知る(すべ)はない。

 多くの人々が生き、争い、傷付け傷付き、血を流し涙を流してきた。だが、歴史の『表舞台』に登場することのない過去はやがて忘れ去られ、消え去り、人々の魂そのものと同じようにして、この世を離れてゆく──。




 時は一四二○年。

 足利氏による室町幕府の政治体制が徐々に確立を見始め、南北朝の動乱の終結によって世が一時の安寧を()んでいた頃。

 武蔵国拝島の国衆・松原(まつばら)柘命(つげのり)の第一子として、柄命(もとのり)はこの世に生を授かった。

 生まれた折、なかなか産声を上げなかったために、産婆をひどく焦らせたという逸話がある。病弱であったと伝えられる柄命の特徴は、生まれて早々にそうしたところへ表れていたのかもしれない。ともあれ松原家にとって、待望の一子であることに違いはなかった。跡取りを授かった両親の喜びは言い表せたものではなく、農民たちもまた誕生の喜びに湧いたという。

 多摩川沿いに位置する拝島は水利に恵まれており、土地は豊かで農民たちも富んでいた。府中の武蔵国府と甲斐国を結ぶルートの付近にあったため、かねてから拝島を行き交う旅人は多く、松原の家はそれらの旅人に宿場を提供する寺院を庇護の下に置いていた。一帯を治める鎌倉の公方足利(あしかが)持氏(もちうじ)との関係は良好であり、柄命の育った環境は当時としては格段に安定していたと言えよう。

 柄命は心の優しい若者に育った。よく学問を嗜み、詩歌に親しみ、農民には懇ろに接することを忘れなかった。鎌倉時代に北条(ほうじょう)実時(さねとき)が設置したと云われ、関東における私設図書館の興りとして名高い神奈川の金沢文庫(かねさわぶんこ)へも足を運んでいたことが、往時の金沢文庫を管理していた称名寺の記録から判明している。

 戦に出ることができなくとも、柄命の領主としての素質は十分なものであっただろう。上に立つものに必要とされるのは力ばかりではない。民の信頼を勝ち取り得るだけの人間性もまた、不可欠なのである。

 生まれていたのが二百年ほど遅かったならば、或いは柄命の人生も大きく違ったものになっていたかもしれない。




 柄命に遅れること半月。華やぐ京の都の一角で、一人の娘が誕生した。幕府将軍直属の家臣・御供衆(おともしゅう)の一角を占める来栖(くるす)家の長女、(よう)である。

 杳はすぐれた容貌の持ち主であったという。美形が好まれるのは今も昔も変わらず、彼女を我が妻にと狙いを定めていた男は、広大な京の都にどれほどいたことか知れない。

 将軍の出行に供奉し、最も近い場所から将軍の政務を支える御供衆は、幕府の家来たちの中でも指折りの名誉職と言ってよかった。その御供衆の一員たる来栖家は、まさに幕府からの信頼の厚い家柄。美貌だけではならぬ、その仙姿に相応しい徳を与えねばならない──。そうした考え方の両親の下に生まれ落ちたのが、杳の幸運であった。

 先端の文化の溢れる京の都で、杳は気品の高い美しい娘に育った。礼節をわきまえていたのは言うに及ばず、和漢の学にも秀で、(こと)に和歌を詠むことは格別の関心を寄せていたという。かといって、その才をひけらかすような真似をすることはなく、如何なる男性を相手にしても(しと)やかに接することを常に心がけていた。

 容姿端麗にして器用。かくして誰のもとへ出しても申し分のない娘となった杳だったのだが、父の来栖樂久(よしひさ)はなかなか彼女を手放そうとしなかった。手塩にかけて育てた娘に見合うだけの良人(おっと)が、今度は見つからなくなってしまったのである。




 現在の栃木県中部に、足利という市が存在する。清和源氏・源義家を先祖とする源姓足利氏は、この栃木の地を発祥に持つ武家である。

 先祖の勃興した地である関東の平野一帯を、鎌倉公方は支配下に置いていた。このため歴代の鎌倉公方たちには『自分たちこそが主流』として、同じ足利氏の治める幕府にコンプレックスを持つ者が少なくなく、また関東の統治者たる意識も強かったと考えられている。

 鎌倉公方と幕府との対立の発端になったのは、一四一七年──家臣の相続問題で鎌倉府と対立した上杉禅秀の起こした反乱であった。反乱軍に敗北して鎌倉を追われ、幕府軍の支援を受けてようやく奪還を果たした公方・足利持氏は、自身を鎌倉から放逐したことを許容できず、反乱に関わった諸大名をことごとく重罰に処してしまう。この戦後処理が関東の多くの大名や武家の心証を悪化させた上、親幕派の武家までも処罰したために幕府の怒りを買ってしまったのだ。

 一四二三年には、持氏が親幕派を関東から一掃せんとして京都扶持衆の武家を幾つも攻め滅ぼし、対する将軍足利義持(よしもち)は持氏討伐の準備を始め、持氏が謝罪して和睦を結ぶ事態にまで発展した。幕府と鎌倉府の決定的な対立はどうにか回避されていたものの、一色触発といっても過言ではない両者の危険な状態は、すでに松原柄命の出生する前から形作られつつあったのである。


 ことが動いたのは、一四三五年であった。

 六代将軍足利義教は、関東管領の上杉(うえすぎ)安房守(あわのかみ)憲実(のりざね)と秘密裏に連絡を取り、鎌倉府──とりわけ事ある(ごと)に幕府との対立を深めていた鎌倉公方・足利持氏の不穏な動きを逐一把握しようと企む。そして、その密使を引き受ける者として、数ある御供衆のうちから来栖樂久が選ばれたのである。

 樂久は危険をなるべく避けるため、鎌倉府の力の及ばない領域を通過することを検討した。

 京から関東方面へ向かう道として東山道が存在したが、これは関東の北部から東北地方に抜けてしまう道であり、支路の武蔵路を通って鎌倉へ行こうとしても遠回りになってしまう。ことは急がねばならない──。そこでなるべく短絡ルートを選ぼうとした結果、樂久は長野県の諏訪湖付近で東山道を折れ、当時幕府方であった武田の領内である甲斐国を通過、小仏峠を越えて関東に出る道を選択することとなった。これは、のちの江戸時代に整備された甲州道中、現在の甲州街道におおむね近似するものである。

 その道中は過酷になることが予想された。律令制時代の駅家システムがすでに崩壊していた室町当時、街道沿いで宿泊の手配を受けるためには安い木賃宿や寺院を頼るほかなかったのだ。おまけに諏訪湖以東の区間は街道ですらなく、そのような手配を受けられる見込みは全く立たない。

 そんな時、小仏峠を越えた先に拝島があり、そこで松原氏の庇護下にある寺が旅人をもてなしていることを、樂久は京の僧から聞き付ける。

 そして、まさにこれこそが松原家と来栖家、両者の縁の始まりであったのだ。


 その年の中頃、来栖樂久は松原家を訪問している。宿にした寺で松原家の評判を聞きつけたためだった。

 松原家は公方に与する家ではあったが、当主柘命は樂久を歓待した。その際、息子の姿を披露目している。当時十五歳の長男・柄命、そして遥か年下の一歳次男・桐命(きりのり)である。

 樂久はたちまち柄命の人柄に惹かれた。柄命は物腰も柔らかく知的で、顔色が良いとは言えないものの美男子であったからだ。この人柄こそ、まさに我が娘に相応しい存在。確信を得た樂久は京に戻ったのち、一族の者にそう語ったという。

 その後も密使の役割は続いた。京と鎌倉の間を往復するたび、来栖樂久は決まって拝島を訪れ、柄命を気に入っていった。樂久もまた松原柘命に杳の話を語って聞かせ、柘命も杳にいたく興味を持つに至る。かくして、病弱な柄命に代わり杳が拝島を訪れ面会してみようと、両者の間で合意が交わされた。距離にして五百キロ以上、馬を使わぬ徒歩では二十日以上もかかる道のりであったが、杳は気丈にも『参ります』と申し出たと伝わる。

 ここに杳と柄命は、拝島の地で互いを見初めることとなったのだ。

 時に一四三六年、春。上杉憲実の懸命の尽力により、不気味な緊張を孕みながらも辛うじて勢力の均衡が保たれていた関東の一角での、ささやかな出来事であった。




 柄命、そして杳が互いへの恋に落ちるのに、そう長い時間は必要なかった。

 そのきっかけの一端は技芸にあった。二人は共に管弦に励み、得意の詩歌を交わし、そうした中で相手の人柄を掴んでいったのである。柄命も杳も、争いを好まぬ穏やかな心の持ち主であり、またそうした性格を相手にも求めていた。

 柄命はまた時折、呪術をもって杳を驚かせた。草花に『司者(つかさ)』と呼ばれる式神を宿し、想いのままに動かす、さらにはつぼみを瞬時に開花させるなどの術を披露していた様子が、言い伝えとして残っている。

 その正体は、朝廷に代わって武士の政権が国を掌握して以降、次第に民間への流布・俗信化を見せていた陰陽道が、関東地方で広く行われていた星辰信仰──星や月を対象物とした自然崇拝(アニミズム)の一種と合流して生じたものであったと考えられている。『晃拝道(こうはいどう)』と称されたこの呪術は、江戸時代を境に完全に廃れ、その教義を示し継ぐものも現存しない。ともあれ、杳は柄命の使う不可思議な呪術に顔を綻ばせて喜び、柄命への尊敬を深めたといわれる。さらには一緒になって印を結び、その秀でた頭で呪術の方法などを身に付けようとまでしたという。

 こうした仲睦まじい様子の二人に、樂久も柘命も安堵を覚えていたのは言うまでもない。以来、一年のうちで二度か三度ほど、杳は従者を伴って山路を越え、拝島に(おもむ)くようになった。




 だが、幸せな日々は決して長くは続かなかった。

 来栖樂久の本来の仕事は、あくまでも京の幕府と関東管領・上杉憲実との間の密使である。そしてここに来て、水面下で鳴りを潜めていた対立がついに露呈する事件が起きたのだ。

 一四三八年。足利持氏が嫡子賢王丸の元服の儀を、幕府に黙って執行した。元服に当たっては京に御使を遣わし、(いみな)の一字を頂くのが慣わしだったのだが、持氏はそれを意図的に無視したことになる。そして、これに反対の意を唱えた憲実は元服の儀を欠席し、決裂はいよいよ決定的なものになってしまったのである。

 憲実の態度を快く思わなかった持氏の配下らは持氏に口々に讒言(ざんげん)し、あげく憲実暗殺の計画までもが(ささや)かれる始末。(とが)もないのに疑われてはたまらないと憲実は諫死(かんし)を企てて家臣に止められ、やむなく所領の上野国へ下向する。ただ、幕府と鎌倉府の間を平穏に保ちたかっただけなのに──。憲実の無念はいかほどであっただろう。

 この下向を反乱の用意と見た持氏は、ついに憲実を滅ぼすべく軍勢を差し向けてしまう。それを受けた幕府方は持氏討伐の好機と捉え、周辺の他の勢力に攻撃準備を開始させた。『鎌倉公方が関東管領を不当に滅ぼそうとしている』、これ以上に都合のよい口実はなかった。時の後花園天皇(ごはなぞのてんのう)に対し、『治罰軍』となるべく治罰(ちばつ)綸旨(りんじ)と錦御旗の提供を要請していることから、その本気度を十分に伺うことができる。当時、正式な討伐軍を差し向けるためには朝廷の勅許を頂き、討伐対象を『朝敵』とする必要があったのである。

 この間の連絡を行ったのは全て、密使の任にあった来栖樂久であった。

 来栖家は幕府方、対して松原家は鎌倉方の者である。どうしようもない深い溝が、両者の間には生じてしまっていた。そして、その事情を最もよく知っていたのは、他でもなく当事者の四人だったのだ。


 戦が始まれば、松原親子は縁のある鎌倉公方の側に馳せ参じねばならない。戦の準備が始まり、杳の滞在には危険が伴うからと、樂久も駆け付けて帰京の手筈が整えられた。

 別れの日が来ると、二人は庭に出た。そこには一本の桜の木が、青々と葉を繁らせていた。二人の出逢った二年前、何か記念になるものをと考えて、多摩川の土手に自生していたのを邸内に移植したものだった。

 二人はそっと視線を交わし、桜の木を見上げた。この桜が花開くのは、来年の春。戦がそれまでに決着を見るのは明らかだった。

 柄命は霊符を貼りつけ、印を結んだ。

「何をなさるのですか」

 尋ねた杳に、柄命は厳かに答えた。

「この桜を、私たち二人の目印とするのだ。この桜が咲き乱れるのは、ただ、私たちがこの場所に共に立つ時のみ」

 杳はそれだけでわけが分かったようであった。

 来年の春、この場所で再び出会うことができれば、この桜は咲く──。柄命はそんな呪いをかけたのである。柄命と杳とが共に傍にいることができる限り、いつまでも。

 そうすれば、戦乱のうちに身体を失い、目を失い、他の何を失うことがあっても、互いの存在をそこに確認することができるから。

「いつの日か、また二人で、桜の花びらを浴びようぞ」

 柄命は告げた。はい、と杳は頷いてみせた。

「きっと、必ず。──この桜が咲き乱れるその下で、心を結びましょう」

 二人の絆は確かなものだったのであろう。別れ際、互いが互いの姿を見ることができなくなるその瞬間まで、柄命と杳は涙を見せることもなく、去りゆく愛しの相手を見つめていたといわれる。


 戦の結果など、彼我の勢力差を見れば分かりきっている。それを承知で杳を送り出した柄命の心中は、およそ察することのできないものだったに違いなかった。

 柘命は立ち尽くす息子に優しく声をかけた。立派に御奉公してみせようではないか、と。

 突き固められた覚悟の色を滲ませて、はい、と柄命は大きく返事をした。そして、名残を惜しむように桜を見上げた。桜は何も知らないかのように、可笑しそうに風に揺られていた。

 きびすを返す前に、柄命は桜に命じた。


「──桜よ。そして(うち)に眠る司者(つかさ)よ。今日からそなたは“春待桜”だ。そうとも、この場所でいつまでも待つがよい。(はる)(まつ)が再び(まみ)えるその瞬間を、待つがよい」










『幕間 ──永享の松原── 下』に続きます。

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