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桜の雨、ふたたび  作者: 蒼原悠
参 アクセプト・プレイア
32/69

二十八 また、明日。




 とりあえず急いで出してきたお茶を湯呑みに注いで、こたつに座った樹の前に差し出してみたものの、それから三十分近くが経過してもなお、梅は帰って来なかった。

 こんなに遅いのは初めてだ。暇潰(ひまつぶ)しに点けたテレビも、そわそわしているせいで内容が全く頭に入って来ない。柚も樹も、しんと沈黙を保ったままだった。

「あ」

 樹が先に声を上げた。柚のスマホが光ったのである。

 画面を見る。梅の携帯電話の番号が表示されているのを確認した柚は、すぐに通話に切り替えた。

「もしもし、おばあちゃん?」

──『柚ちゃん? ごめんねぇ、おばあちゃん今まだ、病院にいるんだけどね』

 ひとまず無事なようで、柚はほっと胸を撫で下ろした。しかしそれも束の間だった。梅が続けたのだ。

──『おばあちゃん、足の骨を痛めちゃったみたいで、今夜だけ入院することになっちゃったのよ……』

「えっ! 大丈夫なの?」

 柚の声色にただならぬ事態を察したのか、樹が腰を浮かせた。梅の声は、ひどく沈んでいた。

──『ごめんねぇ、本当におばあちゃん、柚ちゃんに迷惑をかけてばっかりで……。独りで過ごすのは厳しいかしら。お金は出してあげるから、月島のお家に帰ってもいいんだよ』

 今夜、独り。

 一瞬の静寂に怯んでしまった柚だったが、ううん、と答えた。一晩くらいなら平気だ。家事も食事作りも、柚は土日のうちに鍛えてある。

「私は構わないよ。……それより、おばあちゃんの容態の方が心配だよ」

 見えていないのは分かっているけれど少しだけ胸を張って、それから肩を落として、答えた。

──『そう……。ありがとうね、柚ちゃん』

 梅も今度は、謝罪の言葉を口にはしなかった。

 梅の説明では、骨粗鬆症(こつそしょうしょう)──歳を取って骨の構造が弱ってきていたのが祟り、落下の衝撃で大腿骨の一部を骨折してしまった可能性が高いのだという。診察の結果、無理に動くのは危険という判断が下り、ひとまず簡単な処置が済むまでは入院することになったのだった。

 明日はお見舞いに行ってあげよう。

 病院までの経路を思い浮かべながら思った。こういう時、柚はとりあえず前向きに考えるように心掛けている。


 電話でのやり取りを聞いていて、大体の事情を理解したのだろう。電話を切ると、樹が語り掛けてきた。

「……お祖母さんの昔の体験のこと、聞き出すのは今度になりそうだな」

「うん。ごめん、間が悪かったよね」

「お前が謝ることじゃないだろ」

 そりゃそうだけど、と柚はうなだれる。梅の動向がはっきりしたのは良かったが、これで本当に樹の立ち寄った意味がなくなってしまった。

 告白して、受け入れられて、恋人にはなったけれど、思い返せば返すほど今の柚と樹は恋人らしくない。互いに交わす話と言えば、もっぱら春待桜の話題ばかり。元々はそういう話をするための関係だったのだから、これでいいのかもしれないが。

「お前が電話してる間に、俺、考えてたんだけどさ」

 案の定、樹は早くもあのルーズリーフのメモ書きを取り出していた。「春待桜の下で再会を願った人の末裔が、二人とも同時に春待桜の開花を見てるんだ。普通に考えたら、順序が逆だろ。『松原柄命と杳の縁者が揃ったから花が咲いた』」

「……だよね」

 柚も渋々、頷いた。松原柄命は永享の乱の時に死亡している。資料を読む限り、杳との再会という第一の約束はとうとう果たされなかったはずなのだ。であれば、春待桜が負った第二の命が『子孫として再会』であっても、おかしくはないわけで。

「私のおばあちゃんと、宮沢くんのお祖父さん──校長先生が仲のいい関係だったんだとしたら、ますます間違いないよね」

「だとすれば、どうして付き合ったり結婚しなかったのかってところが気になるけど」

 樹はメモ書きを睨み続けている。ふと、柚は疑問を口にした。

「宮沢くんがお祖父さんに尋ねることはできないの?」

 樹は即答した。「あれ(・・)とはあんまり口をききたくない」

「家の中でもそんな感じなんだね、宮沢くんって……」

 春待桜とは関係なしに、これでは先が思いやられる。やれやれと柚が嘆息したのと、「あと」と樹がメモ書きから目を離さずに切り出したのは、全く同時だった。

「その『宮沢くん』って呼び名、どうにかならないのかよ。……何て言うか、それ、あんまり恋人っぽくないし」

 柚は顔を上げた。樹がそんなことを思っていたなどとは考えもしなかった。

「……私だって、本当は名前呼びに変えたいよ」

 ちょっぴり憤りを込めて、そう答える。「宮沢くんだって『お前』か『中神』としか呼んでくれないじゃん。下の名前で呼んだら嫌がるかなって、私、ずっと配慮してきたつもりだったのに」

「……確かにそうだな。ごめん」

 樹がしおらしげに頭を下げた。

 教室でも校庭でも我を貫く樹のこんな姿を梢に見せたら、いったい何と言うだろう。唖然とするだろうか。少し込み上げた可笑しさを飲み込んで、じゃあ、と柚は言った。

「私のことは柚でいいよ。だから私も宮沢くんのこと、樹って呼んでも、いい?」

「分かった」

 樹も答えた。声が不自然に揺れている。

「それじゃ……ゆ、柚」

「……たつ、樹」

 変に照れないでほしい。柚だって恥ずかしくなる。樹の視線がまたもメモ書きに落ちているのを見て、今まで樹がメモ書きばかりを睨んでいた理由に柚はようやく思い当たった気がした。

 樹に釣られて柚まで噛んでしまったが、

(うん。この方がずっと、いいな)

 柚はこたつの中で、両の手を握った。こたつの温もりよりも、胸の奥の方が今は温かかった。そうそれで、と樹が思い出したように話を再開した。

「その……柚は、最終的に春待桜を咲かせられればいいわけだろ」

「うん。それができなかったら、今までの努力も報われなくなっちゃうし」

「でもさ、もしも本当に春待桜の開花の条件が『末裔が桜の下で出逢うこと』なら、それって解決したようなもんだろ。だって俺とお前、もう出逢ってるんだから」

「──そうか」柚は唾を飲んだ。「私と樹が春待桜の下にいるだけで、条件クリアなんだ」

 そうだとするならば、柚と樹は今や春待桜の開花に王手をかけるところまで至っていることになる。いや、必ずや、そうなのだ。

「集合写真を撮った時には咲かなかったから、まだ開花には早いのかもしれないけどさ。どうせ俺たちは明日も明後日もあの学校に通い続けるんだし、きっとその時が来れば(おの)ずと咲くんだろ」

 手間かけさせやがって──。樹の続けた言葉に滲んだ深い感慨が、柚を包み込んだ。

 ここまでの道のりは長かった。本当に、長かった。

「見られるんだ、私たち」

 興奮が指先まで染み渡っていくのを感じながら、柚は樹を見つめた。「何十年も花開かなかったあの春待桜を、みんなに見せてあげられるんだね」

 くす、と樹が笑った。普段の樹が滅多に見せてくれない笑みが、確かにその顔に浮かんでいた。

「必死だったよな、柚。俺のノートを勝手に見ようとしてまで、読めもしない昔の本に食い付こうとしてさ……」

「なんかもう、昔のことみたいだね」

 柚も照れ笑いした。目と目が合うとどうしようもなく笑いたくなって、口角を上げていないと落ち着かなくなるのは、なぜだろう。

 春待桜の過去を知ろうとしたことが、こうして柚と樹の心を繋いだ。それは結果論かもしれないけれど、同時に疑うことのできない事実でもあって。

「──前に、私が樹のことを好きになる理由が分からないって言ってたじゃない」

 柚は樹を見据えて、言った。うん、と樹が応じた。

「実はね、私もあんまり理由が思い浮かばなくって」

「なんでだよ。自分のことだろ」

「強いて挙げるなら、樹の強さと優しさだったのかな、って思うな」

 こたつの中で指を交差させながら、柚は思いついた順にひとつひとつ言葉を紡いでゆく。

「私、知ってる。樹が本当はすっごく頑張り屋さんで、みんなからは見えないところでいつも努力してて、それなのにその努力を絶対に(おご)らない人なんだってこと。何だかんだ言いながらも、こんな私の無謀な挑戦に手を差し伸べてくれて、分からないことは丁寧に教えてくれる優しさを持ってること。……自分では気付かないかもしれないけど、私はそういう樹の姿、すごくかっこいいって思ったよ」

 テニスコートの壁で愚直に壁打ちを繰り返していた樹。その成果を試合で存分に発揮する樹。古文の苦手な柚のために、わざわざ内容を逐語訳した要約文まで作ってきてくれる樹──。一番近い場所からその姿を見てきた柚だからこそ、自信を持って伝えられる。

 樹は、うつむいている。その口から不意に、言葉が転げ落ちた。

「……柚だって、優しいし、強いと思う」

「そんなことないよ。いつも樹のこと、当てにしてばっかりだったし」

 自嘲気味に微笑んでから、──ふと、柚も聞きたくなった。「樹はどうして私の告白、受け入れてくれようって思ったの?」

 樹の顔が少し赤くなった。例によってその視線が、メモ書きを貫いている。

「今度、話すよ。今はあんまり」

「……うん。楽しみにしてるね」

 樹が胸の中で羞恥心と闘っているのは手に取るように分かる。柚はそう答えて、浮かべた微笑みをちょっとだけ修正した。ちゃんと理由があることを確かめられただけで、幸せだ。

 気付くと、テレビのニュースが天気予報に切り替わっていた。今年も気象庁が桜前線の予想を発表しましたと、アナウンサーが笑顔で画面を指し示している。振り返った樹と柚とで、テレビを凝視した。比較的温暖な気候の東京都西部は、全国に先駆けて三月二十一日──閉校式の前後に開花の時期がやって来るらしい。

「準備、間に合うといいけど」

 ぼそっと樹がつぶやいた。「柚、一番難しい『桜』の文字を引き受けてたよな。手伝った方がいいかな、俺」

 柚の背後には、学校から持ち帰ってきた段ボールの束とカッターが放り出されている。実は段ボール文字の制作がなかなか進まず、何人かが家に持ち帰って制作を進めて来ようと話し合いで決まったのである。この字は私に任せてと、柚が名乗り出て引き受けてきた仕事だ。重要な漢字なだけに責任は重い。

「大丈夫だよ。それよりも私、樹には他のみんなを手伝ってあげてほしいけどな」

「俺があのクラスでどういう立ち位置にいるか、知ってる上で言ってんだよな」

「知ってるよ。ついでに仲直りしてほしいな、とも思ってる」

 ため息を()いた樹が、壁の時計に目をやった。柚も一緒に見上げると、いつしかその針は午後六時を示していた。

 ニュースを放送しているだけのことはある。話し込んだり黙っている間に、ずいぶん時間が経っていたのだ。

「……俺、そろそろ帰らなきゃ」

 立ち上がった樹は身仕度を始めた。柚は壁際に置かれた樹のカバンを取りに行く。新婚の奥さんのようだと何気なく感じて、また少し、胸が鳴る。

「外も真っ暗だ……。帰り道、気を付けてね」

「大丈夫だよ。どうせ家、すぐ近くだから」

 玄関で靴を履いてしまうと、樹は見送りに出てきた柚に答えた。

 それから、ふと表情の端を崩して、微笑んだ。

「ありがとな。家に入れてくれて」

 うんと柚も頷いた。私も嬉しかったよと言おうとして、やめた。樹への思いを伝えるのに、もっと向いている言葉を思い付いたから。

「──また、明日ね」


 当たり前の日常が明日も訪れることを願って、当たり前のように想い合えることを祈って。頷き合って、笑って。

 それきりきびすを返した樹は、暗闇の中へと姿を消していったのだった。








「今は、堂々と言える気がするよ。こんな私でも春待桜に手が伸ばせるって。樹のことが、好きだって」


▶▶▶次回 『二十九 桜染め』

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