二十七 霹靂
初めのうちこそ、あちらこちらで雑談が花開いていた教室にも、いつしか静寂が訪れていた。
誰もが黙々と目の前のものに取り組んでいる。何とも言えない居心地の悪さを感じたのか、しばらくして梢が変な声を上げた。
「け、けっこうできてきたね。いま幾つくらいだろ?」
ペーパーフラワー全部できたよ、と返事があった。ちょうど柚も段ボールカッターを手に、足元に積み上げた段ボールから文字を切り抜こうとしていたところだ。
そうでなくとも桜色成分の多い教室が、大量のペーパーフラワーと花びらのおかげでいっそう桜色に染まっている。花畑みたいだね、と誰かが言い出した。
「あー、確かに花畑っぽい!」
「花畑っていうか芝桜みたいじゃない?」
「春待桜が咲いたら地面がこんな感じになったりしてなー。ほら、黄葉シーズンが過ぎたあとのイチョウ並木みたいにさぁ」
「バカ、あんな臭いのと一緒に例えんなよ」
「春待桜も桜なんだし、やっぱサクランボとか出来たりするのかなぁ。どんな味なんだろ?」
賑わいが戻ってきたが、それも一時だけだった。天井に逃れていた沈黙がそっと舞い降りてきて、教室は再び、静けさに包まれる。
春待桜は咲かない。
誰もがそのことを分かっているのだ。そして今年、あの桜がついに伐り倒され、開花のチャンスを永遠に失ってしまうことも。
「……そう言えば、見た?」
林がつぶやいた。「一階の職員室前の廊下に、【来年度の生徒の転学先について】って紙が貼ってあったよ。オレたち、住所ごとに別々の学校に割り振られるんだって」
梢が掠れた声で応じた。「あたしも、見た」
クラス別ではなく、住所別。住所の境目はクラスも仲の良し悪しも関係なく、数百名の生徒たちを市内の方々の中学校へ分断していく。その中には隣の福生市や立川市の中学校へ、わざわざ越境通学することになる生徒までいる。
「三年の先輩はいいよな……。みんなで一緒に、この学校を卒業していけるんだもんな」
「帰る場所がなくなっちゃうのは、あたしたちだっておんなじなのに……」
林と梢の言葉はしばらく宙を漂い続け、教室の空気はさらに重くなっていった。ぐすっ、と誰かが鼻を啜る音が響いたかと思うと、その波紋はやがて幾重にも重なり、広がった。
柚だけは無言で段ボールを切り続けていた。
みんなの手が止まっているのは、最後列の柚からはよく見えた。だからこそ、今は私が頑張るしかないんだ、と思った。
別れを惜しめるほどの時間と経験を、このクラスの中で柚だけは積んでいない。柚がどれだけ頑張っても、きっと梢たちの悲しみの領域に辿り着くことは叶わない。
(だったらせめて、みんなで過ごす最後の閉校式くらい、精いっぱい華やかにしてあげたい。笑って邸中学校を立ち去れるような舞台、作ってあげたいもの)
今の柚を衝き動かしていたのは、ただ、その一心だけなのだった。誰かが調べてきてくれた作り方のプリントを見、慣れない手付きで段ボールを裁いていく。
樹が不意に、柚の脇に積み上げられていた段ボールを手に取った。そうかと思うとペンケースの中から自前のカッターを出し、柚にならって切り抜き始めた。
「……宮沢くん?」
「気分、変わった」
樹は柚の言葉を小声で遮りながら、てきぱきとカッターを段ボールに宛がってゆく。
樹も何かしら、教室の雰囲気を前にして思うところがあったのかもしれない。
柚は手を止めて、そっと吐息を漏らした。いつも無愛想だけど実は優しい、樹らしいな──。そう感じられたことが、嬉しくて。
今日も春待桜は風に逆らわない。枝と枝の合間に風を潜らせながら、くすぐったそうに、可笑しそうに、ざわめいている。
◆
昼休みに会いに行くと、上川原の顔は紅潮していた。
「いや、驚いた……。お前たちの持ってきた家系図を読んでみたんだがな」
はい、と柚が応じると、上川原は先に樹を見る。
「宮沢、家で親御さんから昔のこと、聞かされていないのか」
「昔のこと?」
「お前さんの家……、あの松原氏の末裔だぞ」
訝しげに問い掛けた表情のまま、樹が固まった。柚もそれは同じだったかもしれない。
「どうも明治期の初頭に苗字を変更した形跡がある。松原氏がこの学校の土地を寄進したのも明治の話だから、当時なんらかの変化が家に起こっていたんだろう。代が替わる時によくある話だ。──だが、ここを見てみろ。『柄命』『柘命』の文字がある。恐らく松原氏で間違いない」
「……だからうちは地主だったのか」
呻くように口にした樹が、柚を見て何かを付け加えようとした。もう知ってるよと思いを込めて、柚は頷いて見せる。
確かに、松原氏がこの拝島を治める国衆であったなら、大地主である宮沢家のことを疑うことはもっと早くにできたはずだ。それにしても灯台下暗し、まさか樹本人が末裔だったとは思いもしなかった。
ところが、さらなる予想外は、樹の次にこそ控えていたのである。
「次に中神。いや、田中家だが」
今度は上川原は柚を見た。「これもなかなか興味深いぞ。中神は家のルーツを聞かされたことはあるか」
「な、ないですけど」
「京都だ。おそらく知らんだろうが、室町時代初期に興隆した来栖という──」
「私がですか⁉」
思わず柚は叫んでいた。叫ばずにはいられなかった。職員室中の教師が振り返り、慌てて上川原が人差し指を口の前に立てる。
樹も早口で言った。「中神、これってつまり……」
宮沢樹と中神柚は、そのまま松原柄命と杳の血筋の末裔に他ならないということになる。
上川原によれば、梅の先祖である田中家が来栖氏から苗字を変えたのは、だいたい戦国時代晩期のことであったと推定される。正確に管理された戸籍制度のなかった当時、武家が好き勝手に苗字や家紋や官命を変更することは、さして珍しいことではなかったのだという。
「それほど有力な家柄でもなかったはずだが、よくも現代まで命を繋いで来たものだ……。それにしてもお前たち、どうしてそんなに驚いてるんだ?」
上川原は最後まで事情が分からず戸惑っている様子だったが、そんなことに構ってはいられない。ありがとうございましたと叩き付けるようにお礼を言い、家系図の巻物を手に二人は廊下へ飛び出した。この興奮をどう表現し、発散すればいいものか分からなかった。
互いを見つめること、およそ五秒。先に口を開いたのは樹だった。
「夢じゃないよな」
「自信、持てないよ」
柚も言った。喉がからからに乾燥していて、痛かった。
帰宅する道すがら、情報を整理した。
樹の先祖に当たる松原柄命と、柚のルーツである来栖氏の娘・杳は、およそ六百年前にこの地で出会い、別れの折に春待桜を植えている。『春待桜』と命名したのは、松原柄命である。
「漢和辞典を引いたら、『杳』の字に『はる』っていう読み方が載ってた。あの漢字には“遥か”と同じ意味があるみたいだ」
樹は校庭の砂利を踏み締めながら、噛み締めるように言った。「今まで何の疑問も持たずに“春”の字を当ててたけど、春待桜の名前には『杳を待つ桜』っていう第二の意味が備わっているのかもしれない。そうしたら、春待桜の役割とぴったり一致するだろ」
柚は立ち止まって、背後にそびえ立つ春待桜を見上げた。空が凪いでいる。どっしりと微動だにせずに立っている春待桜は、今は心なしか、普段よりも一回りほど大きく見える。
戦争が終わって平和になれば、あの桜の木の下で杳を待ち、元のような日々を営もう──。春待桜は再会のシンボルであり、目印だったのだ。
「私が末裔なんだから、私のおばあちゃんも来栖の血を引いてることになるわけだよね」
桜を見つめながら、柚は考えを巡らせていく。
「宮沢くんのお祖父さん──つまり校長先生も、同じように松原の血を引いてる。そんな二人が二人とも、戦時中にこの学校の校庭で春待桜の開花を見ているってことは……」
「俺も、偶然にしては出来すぎだと思うな」
柚と樹は、頷き合って互いの考えを確かめた。
梅に話を聞く必要がある。
梅はかつて柚に、『あの頃は私にも好きな人がいた』と語っていたのだ。その相手の人とは、もしや。
南へ向かう下り坂を、二人は急ぎ足で下りていった。ブロック塀に二人分の足音が反響する。遥か彼方に思われた春待桜の真実が、予測できなかったほどの早さで眼前に迫ってきている。
鍵を回して家の中を覗き込むと、梅はまだ病院から帰宅していないようだった。どこの明かりも灯っていない。
「もう四時になるのに」
柚は腕時計を見ながらつぶやいた。いないのか、と樹が尋ねる。
「このあいだ階段から落ちちゃった時に怪我しなかったか、病院に見てもらいに行ってるはずなんだけど」
「連絡は?」
スマホを取り出して、柚は画面を点灯した。来ていない。
足腰の悪い梅のことだ、家まで来るのにも時間がかかるのだろう。とりあえず靴を脱ぎながら、柚は玄関の外に突っ立っている樹に声をかけた。「入らないの?」
樹は少し目を見開いた。
「……お、俺はいいよ。だってお祖母さん、帰ってきてないんだろ」
「うん。今は誰もいないから、気兼ねなんてしなくてもいいよ。外、寒いし」
「そうじゃねえって」
樹の目が、困ったように下を向く。「い、異性と一緒に同じ部屋に入るのなんか、馴れてねぇし……」
「あ…………」
柚もようやく樹の言わんとすることの意味を捉えた。
言われてみれば柚だって初めてだ。恥ずかしい。緊張する。心臓から吹き上がった熱が、じわりじわりと首を伝って頭に這い上がってくる。頭を強く振って熱を追い出すと、いいから、と柚は樹の腕を掴んだ。
「……だって私たち、一応そういう仲でしょ。気にする間柄じゃ、ないじゃん」
そうだよと自分にも言い聞かせる。私は樹の恋人なんだもん、何も咎められることなんかない──。
大人しくなった樹を引っ張って、柚は家に上がり込んだ。火照りの収まらない顔は見られないように、前ばかり向きながら。
「見られるんだ、私たち」
▶▶▶次回 『二十八 また、明日。』




