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桜の雨、ふたたび  作者: 蒼原悠
壱 エンカウント・チェリー
3/69

二 出会い





 時計の針が十時半を回った。三時間目、いよいよ柚の初めての授業がやって来る。


 教室前の廊下に立った柚は、持て余した緊張を深呼吸でほぐそうとした。背伸びをしてみたり、腕を回してみたり、何をしても身体のどこかしらが固まっているように思えて。

 ドアの脇に架かった札には、『中二A』の文字がある。テストの時など、うっかり前のクラスの名前を書かないようにしなければ。今からしなくてもよさそうな不安を(もてあそ)びながら、柚はまたも大きめに深呼吸をした。

 こんな中途半端な時期の転校生を、生徒たちはどう思うだろう。

(みんなと仲良くできるかな。……今度こそは)

 胸に渦巻く不穏な思いを()き止めきれなくて、誰もいない廊下の床にひっそりとこぼした。すると、柚のクラスの先生が教室のドアを開け、顔を覗かせた。おいでと手招きしている。

 覚悟を決めなきゃ、私──。柚は口をぎゅっと結んだ。

「はいっ」

 返事の声までもが緊張で固まっていた。絡繰(からく)り人形のような気分で、柚はドアの内側に足を踏み入れる。そして、ろくすっぽ教室の中を見ることもできないまま、直進して黒板の前に立った。名前を書こうと思ってチョークを取ったが、そこには既にやや雑な文字で『中神柚』と書いてあった。慌てて元の場所に戻すとチョークが甲高い音を立てて、身体が跳ねそうになる。

「中神柚さんだ。あと少しの間とは言え、みんな仲良くするんだぞ」

 担任の教師──上川原(じょうがわら)(ただし)が、低い響きのある声で教室中に呼び掛けた。専門は日本史なのだそうで、古文と歴史の授業を担当するらしい。ちなみにこれから始まる授業も、古文である。

 その声でようやく柚は、(きびす)を返して教室を見回すことができた。

 ずらりと並ぶ三十前後の顔が、同じ形の机に腰掛けて柚を凝視していた。ダメだ、余計に緊張が増してしまった……。焦るばかりの柚の背中を上川原がそっと押して、小声で告げる。

「簡単で構わないから、自己紹介を頼むぞ」

「は、はいっ!」

 口にした返事が派手に裏返った。

 くすくす笑いが柚の耳に飛び込んでくる。柚の耳元で何かが吹っ切れたような感覚がした。そうだよ、今さら失敗したって笑われるのは同じだもん──。開いた口をそのままに、思い切って。

「な、中神と言います! 下の名前は『ゆず』って読みます! 前は中央区の月島っていう町に住んでました! ……その、あと一ヶ月間ですけど、よ、よろしくお願いします!」

 何とか言い終えられた。

 拍手のざわめきが柚を包み込んで、柚は安堵で倒れそうだった。安堵はしたものの、まだ、不安そのものが消えたわけではない。

 席はどうするかな、と隣で上川原が(うな)った。「……ま、空いている席がベターか。中神、あの席に座ってくれ。最後尾の列の窓寄りから二番目に、誰も座ってないのがあるだろう」

 言われて見ると、確かに空きがある。隣の席は男子生徒らしいが、調子が悪いのか今は机に突っ伏しているようだ。

「お前たち、分からないことがあったらどんどん教えてやるんだぞ」

 上川原の言葉に、はーいという返事が幾重にも重なる。その中を、柚は緊張を抱えたまま通り過ぎた。引いて座った椅子はひどく冷えていて、固かった。

 これから一ヶ月間、本当に大丈夫だろうか。椅子に座ってもちっともゆったりできず、柚は小さく肩を縮こまらせながら、鞄から取り出したシャープペンシルを握り締めた。


 しかし結果的には、柚の不安はほとんどどれを取っても杞憂であった。四限の授業が終了した瞬間、新しいクラスメートたちが柚の席に大挙して押し寄せて来たからだ。

「ね、こんなタイミングで転校って、どうしたの?」

 案の定と言うべきか、真っ先にそんな質問が飛んできた。答えようとした柚だったが、間髪を入れずに横から別の声がかかってきた。

「前の中学はどんな感じのところだったの?」

「ねぇねぇ勉強できる? 成績どのくらいー?」

「呼び名は柚ちゃんでいいよね? あ、それとも他に何か呼び名、あったりする?」

「えっと、あの、ええと……」

 柚は困惑するほかなかった。そんなにいっぺんに問いかけられても、聖徳太子ではないので聞き分けることすら叶わない。誰か、この無秩序な状況を交通整理してほしい──。そう思った時、すっと横に出てきた別の女子生徒が声を張り上げた。

「ちょっとみんな、柚ちゃん混乱させちゃダメでしょ! はい質問は順番に順番に!」

 さっそく、呼び名を使われた。柚が彼女を見上げると、その子はニッと笑いかける。柚とは違って活動的な雰囲気の漂う、さっぱりとした髪型の少女である。

「あ、あたし、梢って言うの。福島(ふくじま)(こずえ)。よろしくね」

 うんと柚は頷いた。着席した時、ひとつ前の席に座っていた子だった。当たり前だが柚と同じ、ピンクのあしらわれたブレザーを着ている。もっともそれは男子の制服も同じだが。

「ずるいぞー、お前だけ先なんてー」

 取り巻きの先頭に立つ大柄の男子生徒が、口を尖らせて文句を垂れる。梢は苦笑した。

「はいはい、みんな順番にどうぞ」

 彼は目を輝かせて、柚の前にずいっと身を乗り出してきた。……否、梢以外の全員が乗り出した。びっくりして思わず引き気味になった柚は、この人は梢の隣の席の人だなと、記憶を頼りに思い出す。こうやって知り合いが増えていったなら、どんなに楽だろう。

 柚の秘めた悩みになど気付く素振りもなく、彼は大層大きな声で自己紹介を始める。

「オレ、築地(ついじ)(りん)って言うんだ。よろしくな! もし良かったら下の名前で呼んでくれても──」

「──うっせえなぁ」

 柚の左から飛んできた棘のある言葉が、林の言葉を強引に遮った。

 林の表情が固まる。柚が思わず声の主を振り返ると、ちょうど飛んできた二言目が顔に直撃した。

「話すんなら廊下でやれよな」

 声の主は柚の左隣の男子だった。あれからずっと眠っていたのか、組んだ腕から顔を上げて柚の方を睨んでいる。額が少し、赤い。

 話すんならと言われても、ほとんど会話らしい会話をしているわけではなかったのだが、しんとしてしまった空間に包まれて、柚は何だか自分が謝らなければいけないような気がしてきた。確かに安眠妨害になっていたかもしれない。

「その……ごめん、なさい」

 頭を下げると、ふん、と彼は不機嫌そうに鼻を小さく鳴らした。ばつの悪くなった柚の肩を梢がトントンと叩いて、耳に囁いた。

「あいつのこと、そんなに気にしなくていいからね」

「……そうなの?」

「うん。宮沢(みやざわ)(たつき)って言うんだけどさ、始終あんなカンジだから。協調性ないし自己中だし」

「聞こえてんぞ」

 机上に目を向けたまま樹が(うな)って、梢は軽く舌打ちをした。そして、まだ事情を読み込みきれていない柚の腕を取った。「あっち、行こう?」

「……うん」

 言われるがまま、というよりも()されるがまま、柚は立ち上がって梢の後ろをついて歩いた。少し賑わいを取り戻した他のクラスメートたちが、三々五々、後に続く。隣席の少年──宮沢樹は、再び孤独な空間へと戻っていったようだった。

(あんな無愛想な人が、私の隣だなんて……。何だかなぁ)

 小さく芽生えた嫌な気持ちと、好奇心とがごちゃごちゃに混ざりあって、柚はそれまで思ってもみなかった別の不安が、胸の中に形作られていくのを感じていた。

 苗字に既視感を覚えたのは、気のせいか。



     ◆



 柚の祖母──中神(なかがみ)(うめ)の家は、学校の前から南に延びる五鉄通りを十分ほど下ったところにある。この道路はかつて立川と武蔵五日市を結んでいた私鉄、五日市鉄道の廃線跡らしい。

 少し歩けば公園や内科医院やバス停もあり、最寄りの拝島駅までの距離もさほどなく、大型スーパーや大病院も十分に徒歩圏内。さらに南へ足を伸ばせば主要幹線道路の新奥多摩街道や、国道十六号東京環状もそう遠くはない。あらゆるものからほどほどの距離を保つ木造二階建の一軒家、それが柚の新たな生活環境だ。


 その日、新たな家に帰った柚が一通りの出来事を話すと、梅は嬉しそうに笑った。

「楽しそうで、良かったねぇ」

「楽しくないよ……」

 柚は少しむっとして、そう言い返した。梅の隣では両親もニコニコと笑っている。初日から柚の舐めさせられた辛酸を、この人たちが理解してくれることはきっとないだろうと思う。

 梢に教えられた樹という男子の評判が現実とそう乖離(かいり)していないことは、五、六時間目を受けただけでもすぐに分かった。彼は教室の一番隅の窓際席で、柚はその隣。なので二人組を作る時は否応(いやおう)なしに樹と組むしかないのだが、二人で何かしろと先生が指示すると、樹は自分の分をさっさと片付けて押し黙ってしまう。

──『ね、ねぇ、前回の授業ってどこまで進んだの?』

 なんて、挑戦のつもりで柚の方から何度か話しかけてはみたものの、つんと窓の外を眺めるばかりでまともに反応も返ってこない。おかげで分からないことも迂闊(うかつ)に聞けず、新参者にとっては困難の多い滑り出しの一日だったのだ。

「柚ちゃんなら大丈夫よ。一週間もすれば、きっと慣れるからねぇ」

 梅はしわしわの手で柚の頬を撫でて、そう諭した。「慌てる必要なんてないんだよ。柚ちゃんは柚ちゃんのペースで、ゆっくりクラスに馴染んでいきんさい」

「うん……」

 本当にそうなればいいのにと、柚は心から願う。せめて文字通り“窓際”に飛ばされている現状からは、脱してみたい。

 しかし、柚の胸の中にあるのは不安ばかりでもなかった。梢や林のように積極的に関わってきてくれる子もいるし、孤立する危険性は低くなったと見てよさそうだからだ。

 どうせ、残り一ヶ月の辛抱なのである。それだけの期間を安心して過ごすことのできる空間を保てられれば、それでいい。目の前の両親に相談したなら、そんな答えが返ってくるんだろうなと思った。

 すると、黙って柚や梅の話に耳を傾けていた父が、重そうな腰を上げた。

「──それじゃ、柚も帰ってきたところだし、そろそろ僕たちはお(いとま)しようかな」

 父と母は昨日の一晩だけ泊まって、今日は月島にある元の家に戻ることになっていた。そのことは事前に知っていたので、柚はただ、小さく首を縦に振った。

「何かあったらすぐに来るからな。おばあちゃんの手伝いもして、ちゃんと過ごすんだぞ」

「……大丈夫だよ、言われなくても」

 子供扱いが気に食わなかった柚は、口を尖らせて答えた。笑った父の頭が、梅に向かって小さく(かし)ぐ。

「悪いね、母さん。柚のこと、四月までお願いするよ」

「構いませんよ」梅はにこやかに言い返した。「かわいい孫の顔を毎日拝めるのに、誰が嫌がるもんですか。あんたこそ怪我のないようにやりなさいな」

 柚はこっそりと、安堵のため息を傍らへこぼした。邪魔者には思われていないらしい。

 梅のことはよく知っている仲ではあるけれど、他人の家に居候するとなればやっぱり不安になってしまうのだ。今までも、仕事の忙しい父はあまり柚を拝島には連れて行ってくれず、会う時はいつも梅の方が都心に出てきていた。

 父は頷いて、玄関へ向かう。柚たちが外まで見送りに出てくると、ちょうど目の前に車が後ろ向きに姿を現したところだった。窓を開けて二言三言の会話を交わすと、車は発進した。

 やがて車は角を曲がり、並ぶ塀の先に尾灯が消えていった。おぼろに排気ガスの臭いが残る道の上に、柚と梅だけが、ぽつんと取り残された。

「──さ。晩ご飯の準備、始めようかね」

 独り言のように梅が言った。時刻は午後五時半、空はすでに夕食時の色へと移り変わっている。

 うん、と柚も答えた。

 二人並んで軒下に立つ。屋根の下の人数の減った家のドアが、渇いた音を立てて開く。

 刹那、爽やかな風に吹かれて、結んだ髪がふわりと膨らんだ。風に引かれるように足を止めた柚は、たった今、車が消えていったばかりの道に、もう一度だけ目を落とした。

 この五鉄通りは通学路でもある。この道の景色が、町並みが、空気が、柚の新たな日常になる。

「……よろしくね」

 柚は改めて、つぶやいた。








「柚ちゃんが制服着ている姿を見るとね、懐かしくなるの。わたしも幼かった頃、あんな風に笑いあいながら学校に通っていたなって思い出すからねぇ」


▶▶▶次回 『三 新天地の日常』

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