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桜の雨、ふたたび  作者: 蒼原悠
参 アクセプト・プレイア
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二十五 掘り出された歴史




 『時房日録』とは、室町時代中期の公卿・万里小路(までのこうじ)時房(ときふさ)の手によるものと伝わる手記である。

 万里小路時房の代表的な日記として、幕府内部の政治的動向や職務内容などの資料として珍重される『建内記』がある。その建内記の執筆と並行して書かれていたものと考えられているのが『時房日録』だが、近年になり発見されたばかりの書物であるために、正確なことはほとんど不明で、『時房日録』という名称自体が研究者たちの間で仮称として用いられているものだという。おまけに内容に関しても、時房の体験や感想を綴ったいわば随筆のようなもので、どちらかというと一次資料というよりは当時の幕府内の空気感を知るための資料として捉えられている。

 その『時房日録』のうち、一四四二年──永享の乱から三年後の日本の出来事を記した部分に、時の来栖(くるす)家の当主であった集久(ためひさ)のことが載っている。

 前年、幕府を揺るがす大事件が発生した。足利義教の恐怖政治に畏れをなした臣下の赤松(あかまつ)満祐(みつすけ)が、一族を率いて酒宴の最中の義教を襲撃・殺害した『嘉吉の乱』である。この反乱は赤松一族が守護大名たちの猛攻を受けて亡んだことで終結したが、来栖集久はその戦で大きな戦功を挙げ、動乱が収まってから改めて恩賞に(あずか)った。『時房日録』ではそのことに触れ、同時に恩賞を受けた人々と併せて集久のことを紹介しているのだ。


「集久は来栖樂久(よしひさ)っていう人の息子なんだ。樂久は京都に住む幕府の家来で、鎌倉と京を結ぶ使者を担っていたとも書いてある」

「つまり京都に住んでいながら、関東に何度も来ていたってことだよね」

「そう。しかもこいつ、集久とは別に娘がいるみたいなんだよ」

 ページをめくりながら、樹は来栖家の系譜を図示した一角を指差した。告白への返事のあった、次の日。ここは樹が本を探り当てた市立市民図書館東分館の閲覧室である。

 樂久から伸びる線は二つに別れ、一方の先には集久、そしてもう一方の先には『(よう)』の名前がある。東京の国立大学が編纂に携わっているこの本では、読み下し文や振り仮名が丁寧に添えてあるおかげで、今まで当たってきた書物と比べると何倍も理解が早い。

「この人が、松原柄命と仲のよかった来栖の娘君の可能性が高いってことだね」

 柚もすぐにピンと来た。うんと頷いた樹が、付箋の貼られた『武相叢書』を差し出してきた。

「ほぼ間違いないと思う。こっちの方、読んでみろよ」

 言われた通りのページに目を移す。『武相叢書』は、武蔵国と相模国に関する平安末期から江戸中期までの書物を、大正元年に当時の東京都府中町の住民有志が編纂して発行したもので、南関東一帯の歴史研究では欠かすことのできない資料なのだそうである。

 その中に『足利将軍御内書留』がある。鎌倉の関東管領と幕府との間で交わされた文書が、その使いに携わった者と一緒にまとめられている。

 こちらは隅から隅まで容赦なく漢文で、まともにぶつかったら読めそうにない。柚は目がちらちらするのをこらえながら、懸命に見覚えのある文字列を探した。

「来栖樂久、来栖……あった。中身は読めないけど、宛名が『上杉安房守』になってる」

 安房守、つまり上杉憲実は、永享の乱当時の関東管領に他ならない。来栖樂久が使者として京と鎌倉を往復していたのは、事実と見て間違いなさそうであった。しかもその期間は、松原柄命の生きた時期と一致する。

「つまり、枩原伍代録に書いてあった『来栖の者』っていうのは……」

「来栖樂久と杳のことだろうな。しかも文脈から言って、杳の方がこっちに来てたんだ」

 二人は大きく大きく、ため息をついた。狭い閲覧室の片隅で夢中になって粘っていたせいか、我に返ったとたんに疲れが体の隅々へ浸潤した。

 ペットボトルの水を含みながら、樹が今までに判明してきたことを纏めたメモ書きを取り上げた。飲食禁止の注意が壁に貼ってあるのが見えたが、柚はわざと見逃したことにする。

「お前が見たっていう夢の中で、そいつ言ったんだろ。松原柄命と杳が出逢う時、桜は咲くって」

 樹が問うた。うん、と柚は答えた。柚がそういう夢を見たことは、実は昨日のうちに思い切って樹に話してしまってある。

「でもそのあと、娘に新たな命を授かった、みたいなことも言ってたんだ。最後まで聞き取ることはできなかったんだけど」

「だよな。そうじゃなきゃ、二人ともとっくに死んだ後の戦時中に咲くわけがないもんな」

 問題は、その『新たな命』の正体が明らかでないということ。樹はメモ書きを見ながら、柚は机に目を落としたまま、しばらく頭を悩ませていた。柚が先に、(ひらめ)いた。

「子孫の人なら何か知ってるかもしれないよ。二つの家の末裔を探せばいいんじゃないかな」

 樹が目を大きく開いた。「確かにそれ、名案だ。ルーツは分かってるんだもんな」

 樹に褒められたのは初めてかもしれない。柚の心はふわりと浮かびかけたが、樹が「けど」と口にするのを見て、また大人しく元の席に戻ってしまった。

「どうやって調べればいいんだろう、それ」

 それももっともな疑問である。家系図を見てみればいいので、現在(いま)から過去(むかし)(さかのぼ)るのは容易い。しかし、その逆となると、同じように簡単にというわけにはいかないように思える。

 二人はまたしても、考え込んでしまった。

 今日は十三日。閉校式までのタイムリミットは、わずか残り八日間──。時計の針が午後四時を告げる音が高らかに響いて、樹が立ち上がった。

「……ダメだ。ここでだらだら考え込んでても(らち)が明かねぇよ。家に帰って、手段を探そう」

 同じ考えに傾きつつあった柚も、うんと応じた。「私も、おばあちゃんに聞いてみる」

 そうと決まれば、善は急ぐに越したことはない。机の上の資料を集めてファイルに仕舞い込むと、柚と樹は連れ立って閲覧室を出た。


 恋仲にはなったけれど、今は力を貸し合うパートナー。中途半端な関係かもしれない。でも、今はまだ、ほんの少しだけこのままでいてもいい。

 自転車の鍵が見つからないと樹が焦っている。柚は見えないように、そっと微笑んだ。

 それから鍵を外した自転車と一緒に、樹のところに駆け寄った。



     ◆



 梅も首を捻るばかりだった。

「ご先祖様を辿ることはできても、ご先祖様から子孫を探すというのは難しそうだねぇ……。徳川家だとか織田家みたいに、よほど有名なお家ならできるかもしれないけどねぇ」

 だよね、と柚もうなだれた。テレビで似たような企画を見かけることは多いものの、そのほとんどは子孫ではなく先祖を探すことに終始していて、しかも専門の探偵に依頼して調査させている場合がほとんどだ。柚のような素人に、プロの探偵の真似事ができるとは思えない。

「ごめんなさいね、力になれなくて……」

 梅が情けなさそうに眉を伏せたのが、こたつの天板に映る。とんでもないと柚は首を振って、天板の真ん中の籠からミカンを取った。「おばあちゃんが悪いんじゃないもん。気にしないで」

 そうかねぇ、と小さな返事が転がってきた。

 階段から落下して、二日。その間、湿布をきちんと貼り続け、大半の家事を柚が肩代わりした効果があったのか、梅は直後に比べればスムーズに歩けるようになっていた。月曜日になったら念のために病院に行って()てもらうという。

 だが、あの日以来、柚には梅がすっかり弱ってしまっているように思えてならない時がある。

 あ、と声が出た。ミカンの籠の中が空っぽになった。

「私、追加してくる。新しい袋ってどこだったっけ?」

 柚は立ち上がった。古い家なので隙間風が吹き込んでくるのか、こたつの外はどうにも寒い。週刊誌のクロスワードパズルを解く手を止めて、ええとね、と梅が指差した。

「玄関にあったと思うわ。冷蔵庫がいっぱいで、向こうに出しちゃっていたはずだから」

「はーい」

 柚は籠を手に取り、廊下に出た。

 扉を閉めてしまうと、居間のテレビの音が聞こえなくなる。しん、と響き渡った静寂の中で、ポケットからスマホを引っ張り出した。樹からのメッセージの通知がないのを確認して、戻す。

 別れてから四時間が経つ。樹の方でも、探す手段は未だ見つかっていないようだ。

(……だからって、諦めたりするもんか)

 柚は籠を持っていない方の手を、強く握り締めた。まだ抗う(すべ)はある。インターネットでもっと詳しく探せば、どこかに手法が載っているかもしれない。歴史に詳しい上川原なら、子孫を探す手筈(てはず)に心当たりがあるかもしれない。せっかくここまで辿り着いた以上は、何がなんでも二人の子孫を引き合わせて春待桜を咲かせてあげたい。かつて杳が願ったことをこの手で叶えてあげたいのだ。

 その意志を確かめたくてこたつから出てきたのだと、柚は改めて思い直した。


 居間に戻った柚が目にしたのは、椅子の上に立って天井近くの戸棚に手を伸ばしている梅の姿だった。

「おばあちゃん⁉ 何してるの⁉」

 慌てて駆け寄った。足腰を痛めているというのに、そんな無茶をしたら危ないではないか!

「確か、このあたりにうちの家系図があったような気がするんだけどねぇ……」

 梅は懸命に戸棚の中を漁っている。かと思うと、ほこりまみれの箱を奥から引っ張り出した。

 梅が落ちないかとはらはらする気持ちを抑えて、柚はその箱を受け取った。柚の手を借りながら、梅が椅子の上から地べたに降りる。ひとまず、無事に済んでよかった。

「……この家にも家系図、ちゃんとあったんだ」

 受け取った箱を、柚はまじまじと眺めた。『田中家』と書いてある。これは梅の旧姓なのだろうか。案の定、梅は家名に落とした目を細めて、言った。

「この家と言うより、おばあちゃんの方の血筋の家系図だよ。柚ちゃんの話を聞いていて思い出したの。何しろ、もう長い間、ちっとも中身を確認したことがなかったからねぇ」

 中、見てもいいの? ──目で問いかける。いいよと答えた梅の目に、いつかの懐かしい優しさと柔らかさが戻ってきている。

 ティッシュでほこりを拭った柚は紐を解き、丁寧に箱を開けてみた。巻物が収められている。

「うわ、長い!」

 驚いた。巻物はほとんど全てが筆で書かれていて、文字が小さいにも関わらず四メートルほどの長さがある。居間いっぱいに広げてみて、やっとスペースが足りたほどだ。

 おまけに、書かれた文字はどれも蛇のようにのたくっていて、まるで判読できない。

「あらら、こんなに長かったかしらねぇ……。びっくりした」

 隣で唖然としていた梅が、不意にその末端に目を向けた。「ここ、『(すなお)』って書いてあるね。おばあちゃんのお父さん、こういう名前だったのよ」

「子どもはおばあちゃんだけだったの?」

「いいえ、もっといっぱいいたわ。兄も三人いたしねぇ」

 梅の視線が、ふっと焦点を失ったように遠くなる。

「戦時中、このあたりでも空襲があったことは前に話したでしょう? 柚ちゃんと同じ中学二年生の時、わたしとわたしのお母さんを遺して、家族はみんな死んでしまってね」

 柚は絶句した。梅がこれまで家系図を見たことがなかった理由を、無言のうちに察してしまった。

「柚ちゃんみたいないい子が育って、きっとご先祖様も喜んでいるだろうねぇ」

 ミカンに手を伸ばしながら、梅がぽつりと言う。不意討ちのタイミングで照れるようなこと言うの、勘弁してよ──。柚は赤らみかけた顔を必死に隠した。家族をみんな失った話をされた後で、照れ笑いなんて浮かべていたくなかったのに。

 うつむくと、家系図が目に入った。

 上川原なら、これくらい余裕で解読できたりするのだろうか。

 せっかくだからついでに見てもらおうかな。延々と視界の先まで続く家系図を前にして、ふと、そう思い立った。







「俺みたいなのでも中神となら……なんて。やっぱり、らしくなかったかな」


▶▶▶次回 『二十六 つぼみは春を待つ』

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