二十三 うわ言のように
その晩、久々に柚の夢の中に、春待桜が姿を現した。
──『久方振りで御座るが、息災か』
緑の霧の中に立つ影の武者は、同じように立ち尽くす柚に向かって言葉をかけた。直垂に袴、腰には太刀。武者の格好が中世の国衆たちの一般的なそれと同じであることを、すでに柚は歴史の教科書で突き止めてある。
発作を起こしていない間に武者と話すのは初めてだったかもしれない。おかげできちんと声が出せるし、昔よりも格段に言葉が解せる。柚は口を尖らせた。
『私は元気ですけど……。それよりどうして長いこと、姿を見せてくれなかったんですか』
知りたいことも聞きたいことも、山のようにあったのに。相すまぬ、と桜は頭を下げた。
──『某はあくまでも、春待桜の銘を司ったものに過ぎぬので御座る。人にも非ず、また八百万の神々にもあらぬ身にて、枕元に参るのみに於いても多大なる力を使ってしまうのじゃ。それに桜のもとを離れられぬゆえ、世間がどのようであるのか、とんと見当がつかぬ』
『でも、桜が伐り倒されることは知っていたじゃないですか』
──『“樹木医“とやらと見えし折、その旨を耳に挟んだのじゃ』
なるほど、と思った。考えてみると、室町時代に生み出されたはずの春待桜が現代語を把握しているのも不思議な話だが、それはその傍らでたくさんの人々が話しているのを聞いてきたからなのだろう。
以前よりも遥かに落ち着いた気持ちで、この武者と接することができている。
柚は深呼吸をした。
せっかく久しぶりの再会を果たしたのだ。おまけに、次の邂逅がいつになるのかも分からない。春待桜の求めているのは自分に関する情報のはず。ならば、今までに柚たちの得られた情報をここで伝えた方がいいのではないか。
『あれから私たち、色々とあなたのことを調べたんです』
樹と交わした話の数々を整理しつつ、尋ねた。『すっごく基本的なことなんですけど……。あなたを植えたのは、松原柄命という方ですよね』
武者の影が揺らいだ。おお、と重たい声が響いた。
──『左様、その名じゃ。某が主の名は、松原柄命殿と申した。如何なる手立てにて突き止めたか』
『その人の子孫が、家の歴史を書き残していたんです』
感心したように武者は頷く。もどかしいが、こうして少しずつ思い出してもらうほかあるまい。次に触れるべき点を、柚は思い浮かべる。林の語ってくれた『春待桜伝説』の委細、そして来栖家の存在。
『あなたが松原柄命からどんな命を授かったのか──。このあたりの伝説だと、あなたを植えた人は愛する人と別れてしまって、その心の傷を癒すために植えたと言われてるんです。調べてみると確かに、松原柄命の代まで付き合いのあった家が見つかりました。来栖っていう名前なんですけど、心当たり、ありませんか』
これもしばらく逡巡してから、武者は小首をもたげた。肯定したのだ。
──『ある。そうじゃ、来栖、そのような名で御座った。……おお、だんだんと思い出して参ったぞ』
『本当ですか!』
柚が声を弾ませたのは言うまでもなかった。
武者が己に課せられた命を思い出してくれれば、真相への距離は一気に縮まるはずだ。もっとヒントにできる事柄はないか──。樹とともに蓄積してきた知を、必死にかき集める。
『来栖の人たちとの縁は、永享の乱っていう戦争を境にして途絶えてしまっているんです。あなたを植えた松原柄命もその戦で傷付いて、ちょうど桜の木の下で亡くなってる……』
──『然り。懐かしや……。あれは途方に暮れたもので御座った』
『それは、どうして!』
──『主、松原柄命殿と、京の都におわす来栖の娘君とが再び出会いし時、花を咲かせよ──。さような銘であったほどに』
武者の言葉は細部まで鮮明に聞こえた。柚は思わず、目を見張った。
ついに求めていた話が出てきた。
武者の語りはそこで打ち止めではなかった。自らも記憶が戻ってゆく快さに震えているのか、何度も息を呑みながら武者は口を開き続ける。
──『されども主亡き後では、その銘も遂げることは叶わぬ。かような折、娘君に新たなる銘を奉ぜ────』
刹那、どんと轟いた地響きのような音が、武者もろとも夢の世界を吹き飛ばしてしまった。
「────うぅ……」
叩き起こされる形になった柚は、布団の中で目を醒ました。目をこする。視界が落ち着かないのか、天井が揺らいで見える。
まさか、発作か。恐怖と疑念が一気に押し寄せたが、どうやら息苦しさはないようで、柚はほっと安心した。それよりもせっかくの好機を逃してしまったことが残念で、また目を閉じようとした。今から寝直せば、もしかすると再び春待桜の武者と話せるかもしれない──。
隣から寝息が聞こえてこないことに気付いたのは、その時だった。
見ると、梅の姿がない。
(……おばあちゃん?)
柚は身を起こして、空っぽの布団を見遣った。こんな夜中に出掛けたというのか。そんなはずはない。常に柚の容態を気にしてくれていた梅が、そのような行為に及ぶとは思えない。
トイレに立っているのかもしれない。いずれにしても、柚を夢の中から連れ去ったあの音の正体が気になる。覚醒し切っていない身体を叱咤しつつ、柚は廊下へ向かう襖に手を掛けた。
廊下の先に、梅が倒れていた。
「おばあちゃん⁉」
叫んだとたん、血が沸き立つようにして全身の眠気を消し去った。柚はすぐさま駆け寄り、梅の息があるのを確かめる。よかった、脈もある。出血もしていない。梅が掠れた声で言った。
「ああ、柚ちゃん……。ごめんねぇ……。おばあちゃん、ちょっとお二階に行こうとしていたんだけど、足を滑らせちゃったみたいでね……」
二階へと続く急な階段が、見上げた先の天井にぽっかりと漆黒の口を開いている。夢の中で聴いた轟音が蘇った。あれは床を介して伝わってきた、梅の落下音だったのだ。
こうしてはおれない。踞る梅の身体に寄り添い、柚は懸命に呼び掛けた。「どこを打ったか教えて! いま、湿布持ってくるから!」
「膝と……背中かしら……っ」
聞き届けるや否や、柚は寝室の中へ引き返した。深夜に発作を起こした柚を介抱しやすいようにと、梅は薬箱一式を寝室に置くようにしてくれていたのである。
八十代を数える年老いた梅の身体が、階段からの落下で傷まないはずはない。下手をしたら寝たきりになりかねない。そんなの、嫌だ──。柚は薬箱を抱える腕に力を込めた。春待桜のことを考える余裕など、とうの昔になくなっていた。
「湿布、ここでいい? それとも氷の方がいい?」
「ああ……氷の方が嬉しいかしら……」
「分かった。待ってて、ビニール袋に氷入れてくる! タオルにくるんだ方がいいよね?」
「ごめんね……。ごめんねぇ、柚ちゃん……」
柚の不慣れな看護を受けている間、梅はうわ言のように、『ごめんね』と口にし続けた。
柚が小さく縮こまって眠っているのを見、寒そうだと感じた梅が、二階の押入れに長らく仕舞われていた毛布を取り出しに行こうとしたのが、深夜に階段を登っていた理由だったのだという。
翌朝、起き上がるのが苦しそうだった梅に代わって、柚は早くから起き出して家事に追われた。もっとも、いざ取り組むと分からないことが多すぎて、方々で梅の指南を求めることになった。今日は土曜日。 平日でなくてよかったと胸を撫で下ろしたのは、言うまでもない。
「あら、美味しい」
それが、柚が見よう見真似で作った味噌汁を口に含んだ梅の一言目だった。
白味噌のさじ加減はどうにも難しい。エプロン姿の柚は、もじもじしながら言い訳を口にする。
「ちょっと味噌、少なすぎちゃったかなって思ったんだけど……」
「そんなことないわ、おばあちゃん本当は薄味の方が好みなのよ。美味しいねぇ」
そんなことを言われると、ますますお盆に顔を埋めたくなる。
樹のことを思い浮かべる時の自分と、この感情は少し似ている気がする。こういうのに慣れるのを花嫁修業っていうのかな──。余計なことに思いが巡って、さらにお盆を手放せなくなってしまう。
でも、足腰や膝に湿布を貼った梅の姿を見ていると、柚はもっと早く手伝ってあげればよかったと申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
(朝早く起きて、洗濯物を干して新聞を取って、朝ご飯の準備もして……家事って、大変だ)
そんな感慨に浸りつつ、それからも洗い物や掃除に奔走して、ようやく落ち着いた頃には時計の針は午前十時を指していた。
居間のこたつに潜り込んだとたん、疲れがどっと溢れ出して、柚は天板にもたれかかった。
大窓の向こうの空が晴れている。
「今日、どうしよう……」
独り言が口をついた。
学校はない。宿題もテスト勉強もない。梢たちと遊ぶ約束を交わしてもいない。春待桜のことを追究しようにも、すでに手に入る限りの資料はどれも当たってしまったし、肝心の樹とは微妙な距離が開いてしまったばかりだ。昨日の夢の成果はせいぜい、松原柄命が春待桜にかけた命が『来栖家の娘君と出逢った時に咲く』であったことくらいか。
──いや、梅の看病にてんてこ舞いで気付かなかったが、それはもしかすると思っていたより大きな成果かもしれない。
柚はスマホを手にした。樹とは通話アプリの友だち登録を交わしてある。
(せめて宮沢くんには伝えておこう。私だけじゃ、その情報を活かせないかもしれないし)
アプリのアイコンに指が伸びる。待って、と指が引っ込んでしまう。そもそもあの屋上での騒動だって落着していないのに、普通に連絡を取っていいものか。そのまま一分ほど目を閉じて悩み続けたが、ついに柚は指をアイコンに押し当ててしまった。
すると、すでに樹の方から一件のメッセージが送られてきていた。
「……急がなきゃ!」
メッセージを読み終えた時には、柚は慌てて立ち上がっていた。
「これで、いいのかな」
▶▶▶次回 『二十四 ぬくもり』




