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桜の雨、ふたたび  作者: 蒼原悠
弐 アトラクテッド・ガール
23/69

幕間 ──春夜の劫火──





 一九四五年四月二十九日、午前零時半。現在の東京都昭島市東部に当たる旧昭和村に、一機の重爆撃機が墜落した。

 被災範囲は数百メートルほどになり、衝撃で流出した航空燃料が炎上。一帯には機体の残骸が粉々になって散らばった。

 さらにほぼ同時刻、旧拝島村で大量の航空爆弾が一軒の民家に集中的に落下、一斉に起爆して大爆発を起こし、この家に住んでいた家族がことごとく死亡するという事件が発生した。


 ──これは、近年になって市内の民家の倉から発見された警防団の資料によって新たに明るみに出た、先の大戦中における昭島市内の空襲被害のひとつである。

 爆撃機の名前はB29。どうして、アメリカ軍の爆撃機がこの町に墜落したのか。爆弾が一軒の民家に殺到したのはなぜか────。

 それらの真相が明らかになるまでには、さらに長い時間をかけた調査の完了を待たねばならなかった。



     ◆



 第一次世界大戦で初めて展開された『総力戦』という概念は、戦争は軍人だけが行うもの、という有史以来の常識を丸ごと(くつがえ)した。

 戦争が始まれば大量の物資が必要になる。技術提供、食料供給、人材登用──あらゆる分野で一般人の協力が不可欠になる。かくして戦争は、軍人だけのものではなくなった。

 そして、その究極の体現とも言えるのが、一九四四年以降にアメリカ軍によって活発に行われるようになった、日本本土への無差別な空襲であった。

 戦略爆撃という考え方がある。これは、最優先の攻撃目標である軍事関連施設に爆弾を一気に投下して徹底的に叩く『精密爆撃』と、軍関係者ではない一般市民をも攻撃の対象に加えた『都市爆撃』を統合したもので、敵国からあらゆる戦力を奪い、戦意を奪うことを目的にしている。これを率先して行ったものの一つが米軍による日本本土空襲で、特に米軍は木造中心という日本家屋特有の傾向を利用して専用の焼夷弾を開発し、都市の家屋密集地域に集中投下。その一例として、四十五年三月十日には東京下町が都市爆撃を受け、十万人もの死者を出す東京大空襲を引き起こした。

 時に『火の雨』とも形容され、都市を丸ごと焼き尽くした焼夷弾攻撃。数百キロもの重量に達する航空爆弾を、一度に大量に浴びせた通常の爆撃。そして、艦上戦闘機による熾烈な機銃掃射。米軍による日本本土空襲は、これら三つの攻撃方法によって遂行されていた。

 東京大空襲を皮切りに、日本各地は次々に都市爆撃の対象となっていった。多摩地区とてその例外ではなかった。現・武蔵野市北部に立地していた中島飛行機武蔵製作所は、零式艦上戦闘機をはじめとする軍用機のエンジンを製造する一大メーカーであったために、爆弾による大規模な精密爆撃を複数回にわたって受けた。中島飛行機の寮や関連工場のあった現在の西東京市一帯、日立航空機の拠点であった現・東大和市などが、同様の被害を受けている。多摩の中心都市・八王子市に至っては、東京都心同様の焼夷弾による無差別な爆撃を受け、機銃掃射の被害も相俟(あいま)って多摩地区最大の犠牲者数を記録している。

 一方の現・昭島市域には、軍用機の機体製造会社であった昭和飛行機工業が立地していた。航空機工場としては珍しく自前の飛行場を持ち、米国ダグラス社の設計した輸送機のカスタムモデル・零式輸送機を中心に製造していた昭和飛行機は、他の工場とは異なりほとんど大規模な空襲を受けていない。その真相は不明だが、最重要の存在であるエンジンを製造していなかったこと、ライセンス生産の契約を結んでいた米国ダグラス社との関係を無視できなかったこと、占領後の米軍が飛行場を再利用することを画策していた可能性があったことなど、様々な要因の存在が窺われている。

 しかし不幸にして、昭島の隣には立川市があった。民間工場の立川飛行機や陸軍航空厰、航空工厰を有していた立川市は、多摩地区でも最も激しい空襲を受けた市町村のひとつであった。

 高度八千メートル以上という超高高度からの爆撃を可能とする、米軍の主力長距離重爆撃機・ボーイング(ボマー)29スーパーフォートレスは、高射砲や戦闘機による日本軍の迎撃を回避するため、その持ち前の能力を以て高高度爆撃を幾度となく実施した。当時、爆撃で使用されていた爆弾には誘導能力がなく、高高度から落下する途中で風の影響を多大に受け、予定外の場所に命中することが珍しくなかった。かくして現在の昭島市を構成する昭和村・拝島村は、立川を狙った空襲の余波をたびたび受け、さらに無差別攻撃の的としての被害も積み重ねてゆくこととなる。


 四十五年二月十七日、午前十一時前の機銃掃射による攻撃が、昭島初の空襲である。

 攻撃を行ったのは米軍の主力陸上戦闘機、ノースアメリカンP51ムスタング。B29の護衛機として本土空襲に頻繁に随伴した他、編隊を組んで飛来し機銃掃射攻撃をたびたび加えることとなる。国民学校などが標的となったものの、幸いにも犠牲者は記録されていない。

 以降、のべ十三回に渡って昭島は空襲に見舞われる。それらの空襲はおおむね『立川を目標とする精密爆撃の失敗による被弾』か『機銃掃射や焼夷弾による無差別攻撃』の二つに分類でき、そのうち犠牲者が出ている空襲は四回あったことが確認されている。

 四月四日午前三時、昭島最大の空襲が行われている。三機のB29によって多数の爆弾が投下され、焼夷弾や機銃掃射による被害も確認された。今日判明しているだけでも、二十人の犠牲者があったと見られる。

 七月八日には昭和飛行機工業も攻撃を受けた。艦上戦闘機・グラマンF6Fヘルキャットによる機銃掃射で、国分寺からの動員学徒一名が死亡、新造機や修理中の機体が全損するなど大きな被害を出した。

 四月十九日にはやや特殊な被害も発生している。試験飛行のため陸軍立川飛行場を離陸した航空技研製の飛行機が、四機のP51に空中で迎撃されて奥多摩街道沿いに墜落し、搭乗員二名、附近の防空壕に退避していた二名の計四名が死亡したのである。飛行機の命中弾は二十四発、まさに蜂の巣にされたと言える。現場への慰霊の献花は、一ヶ月間にわたり絶えることがなかったと伝わっている。


 唯一、例外的と言える空襲が、四月二十九日の正午過ぎのものである。

 B29単機が襲来し、少なくとも四個以上の爆弾を投下したことが確認されており、この空襲で四名が犠牲になっている。通常は複数機で編隊を組むB29が単機襲来していることも特徴的だが、なぜ昭島が狙われたのかは現在も判然としていない。というのもこの時間帯、多摩地区で昭島のほかに空襲被害を受けた場所はなく、命中地点も軍需工場とはおよそ関係のない地点なのである。かといって無差別爆撃にしては、投下された爆弾が少なすぎた。

 経緯も理由も不明な爆撃はなぜ行われたのか。──そこに『報復攻撃』という可能性が急浮上したのは、まさにほんの最近の出来事だったのだ。




 数年前、防空記録には記載されていなかった被害が存在することが判明した。

 四月二十九日午前零時半前、五機のB29が多摩地区上空に襲来。目標は立川の陸軍航空厰であった。夜間だったのは奇襲のためだが、当日の天気は曇天であり、高高度からの爆撃には不向きな状況下であった。そもそも夜間であれば、日本軍の反撃が当たるリスクも小さい。そこでB29編隊は低空飛行で上空に侵入、より正確な爆撃を試みた。

 そこに図らずも火を吹いたのが、八王子市高月町──拝島対岸の滝山城跡地に配置されていた陸軍の高射砲陣地だった。爆撃機の編隊は西からやって来ることが多く、その西を防衛する滝山城陣地はまさに首都防空の要。空襲を事前に知り得た兵士たちは、B29が高射砲の実用射程圏内を飛行する好機を逃さなかったのだ。照空灯(サーチライト)の照射で機体が煌々と照らし出される中、四門の九九式八厘高射砲による激しい迎撃を受けて一機が損壊、制御能力を失って昭和村内に墜落し、爆発。墜落箇所が田畑だったこともあって民間人の犠牲者は発生しなかったものの、搭乗員十一名のうち四名が落下傘での脱出に失敗し、爆炎に飲まれて死亡する惨事となった。

 機体の愛称は【Fallen(フォーレン) Angel(エンジェル)Ⅱ】、テニアン島ウエストフィールド飛行場の所属機であった。のちに、この【フォーレンエンジェルⅡ】が墜落した際、少しでも機体重量を減らして飛行距離を伸ばすために、搭載していた多数の爆弾をいっぺんに空中に放出していたことが判明した。昭島市による調査の結果、生還し帰国した当時の搭乗員が米国で発見され、老齢の彼が証言したのである。

 最悪なことに、放出した先には偶然にも民家があった。多数の爆弾の命中を受けたこの家は、たちまち起きた大爆発によって文字通り跡形もなく吹き飛ばされ、巨大なすり鉢状の穴が残るばかりだったという。

 記録によれば、この家に住んでいたのは昭和飛行機工業の職員であった田中(すなお)を始めとする八人家族であった。多大な人的被害があったことが予想されるものの、当時も情報が錯綜していたらしく、『全滅トノ報アルモ確認取レズ』の一文が残るのみとなっている。発生した爆発の規模を考えれば、遺体が発見不能な状態になってしまう可能性も否定できず、従って犠牲者数の特定が難しいのは想像の及ぶところである。

 家長の朴を筆頭に、田中家の人間が本当に一名残らず命を落としたのか、発見された警防団の記録から窺い知ることはできなかった。

 結局この日、立川への空襲は行われなかった。墜落した【フォーレンエンジェルⅡ】が大破炎上するのを横目に、対空砲火を潜り抜けた僚機のB29が急激に高度を上げていくのが、立川その他の各所で確認されている。深夜に叩き起こされた群衆の見守る中、墜落現場には警防団や警察が大急ぎで駆け付け、脱出した【フォーレンエンジェルⅡ】の搭乗員たちを確保、憲兵隊の到着する夜明けを待って引き渡した。現場一帯は警察によって封鎖され、拝島・昭和の村役場は被害状況の把握に追われた。

 敵軍の爆撃機の墜落という未曾有の事態を前にしては、はっきりしない情報が入り乱れていたのも致し方なかったのかもしれない。

 同日正午過ぎにB29単機によって爆撃された場所は、滝山城から直線距離にして約二キロメートルほどの地点であった。高高度爆撃においては着弾地点のずれは最大数百メートル以上にもなる。状況から考えて、この日の未明に僚機を撃墜した滝山城の高射砲陣地を、高高度から狙った可能性がないとは言えない。その証拠に、あらかじめ決められた目標に爆撃を行えなかった場合、B29各機には『臨機目標ターゲット・オブ・オポチュニティ』として適当に設定した箇所を爆撃することが認められていたのだ。

 誰が云ったか、戦争では誰もが必死になる──。四月二十九日未明の拝島村の悲劇は、その必死さが思わぬ場所で交差した結果として生じてしまったものなのかもしれない。


 現在、昭島市内に米軍機墜落の被害を示すものは遺されていない。

 被害の全容は未だ、黒々と開いた歴史の闇の内側に包まれている。











探し当てた先人たちの足跡の中には、見つかった事実、新たに生まれた謎。

ねじれてしまった梢たちへの感情、見えなくなった樹への感情──。

それでももがくことを諦めない柚に、春待桜の真実は果たして顔を覗かせるのか。

その顛末は、次章へ。



次回『二十 準備』に続きます。

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