十九 淋しい痛み
高い建物の少ない昭島の空は、どこまでも透き通って青い。その青さに照らされながら、ち、と樹は不愉快そうに舌打ちをした。
「なんで来たんだよ。せっかく俺の側から教室を出てってやったのに……」
急いで追いかけたせいで、まだ呼吸が落ち着かない。肩で息をしながら柚は答えた。
「宮沢くんこそ、どうして、逃げ出したりしたの」
「俺だって知ってんだよ。俺が、あいつらから遠ざけられてることくらい」
樹は大袈裟にため息をついてみせる。それから柚と距離を取るように、一歩、引いた。
「あいつらの言う通りだよ。もう俺と関わるのはやめろ、中神」
柚は、悲しくなった。樹を目の敵にしている梢たちがそう言うならばともかく、どうして樹本人までもが柚を遠ざけようとするのか。柚は何も無理をしているわけではないのに。
黙っている柚を見た樹が、うつむいた。
「俺、前にあいつらと大喧嘩して、福島のこと殴って泣かせたんだよ。どう考えたって俺が悪かったんだけど、俺、謝らなかった。それでクラス全員から嫌われた」
確かに宮沢くんなら、謝るのを嫌がりそう──。悔しいけれど納得してしまう自分がいる。
「いいんだよ、俺は。ひとりの方が性に合ってるから。協調性なんて、クソ喰らえだ」
吐き捨てた樹は、でも、と続けた。「お前はそうじゃないだろ、中神。あいつらのところに戻れよ。もう『永享記』だって『枩原伍代錄』だって、俺の助けがなくても読めるだろ」
「そんな……!」
柚は悲痛な声を上げた。樹が無理やり柚のことを突き離そうと、引き剥がそうとしているように思えた。
樹はもう、柚のことを見てはくれない。固く唇を噛み、行き場のない鋭い眼差しを床に突き刺している。
(違う)
胸の中で柚は訴えた。柚にとっての樹は、そんな非道な存在ではない。もっと親切で、もっと繊細で、もっと真面目で、柚の無茶な調べものに文句も言わずに付き合ってくれたのに。
思いが自然と声になった。
「……みんなと同じ風になんて、私、思ってないよ」
「じゃあどう思ってたんだよ!」
屋上を駆け抜けた早春の風に柚の言葉は弾かれて、代わりに風に乗った樹の声が胸に刺さる。
柚も負けじと、声を張り上げた。樹に聞いてほしい一心で、
「私は宮沢くんのこと────」
その瞬間、自分が何を言ってしまったのか、細かいところまでよく思い出すことができない。
ただ、樹が勢いよく顔を上げて柚を凝視した。全身が燃えるように熱くなって、その熱に一気に突き動かされ、きびすを返した足が走り出してしまった。
「待てよ! おい、中神──!」
背中に殴りかかった声で、柚は階段から転げ落ちそうになった。手すりをつかんで身体を支えながら、走った。とにかく一歩でも遠くに逃げてしまいたかった。
(バカ! 私の、バカっ)
めったやたらに走りながら、柚は固く目をつぶった。どうして柚が逃げてしまっているのだ。樹を追いかけて、その手をつかむために、ここまで来たんじゃなかったのか──。
今すぐどこかへ消えてしまいたい。自分を知る人のいない世界へ消え去ってしまいたい。
けれど慣れは恐ろしいもので、気がついた時には柚は自分の教室の前に辿り着いていた。
黙って、ドアを開けた。たむろしていた梢たちが一斉に柚を見て、何だか泣きたくなった。
「帰ってきた……」
ささやく声に取り囲まれながら自分の席について、柚は組んだ両腕に顔を埋めた。
好きだよと叫んだなんて、白状できるわけがなかった。
そう口にしてしまった理由さえ、今は頭がいっぱいいっぱいで、見当もつかなかったのだから。
◆
その夜、柚は久々に発作を起こした。
布団の中で息が詰まり、意識がぐるぐると回転を始めた。無言の叫びを上げた柚に、飛び起きた梅がすぐさま寄り添った。
「柚ちゃん⁉ 柚ちゃん、しっかりなさい! おばあちゃんがおるから大丈夫よ!」
「うぇっ、げほごほごほ……っ!」
気を抜けば視界が暗転しそうになる絶望の中で、梅の声が時々、途切れ途切れに聞こえる。閉じた瞼の端から、咳の反動で涙が膨らむ。
ただ怖くて、恐くて、柚は喘ぐように咳をしながら梅のパジャマの袖を必死につかむばかりだった。
「落ち着いたら内科、行こうねぇ」
梅は背中をさすりさすり、緊張を圧し殺したような声でそう言った。
内科までの道のりは三百メートルほどだったか。暗い夜道を梅に支えられながら歩くたび、街灯に照らされた路面に武者の姿が油染みのように浮かんでは、消える。けれど声はちっとも聞こえてこなかった。
(今日はこのまま会えないのかな……。聞きたいこと、いっぱいあったのにな……)
柚は身体を震わせた。寒さのためか、寂しさのためか、どちらともつかなかった。
結局、内科に着く頃には発作も沈静化して、柚はまたも発作用の薬を処方されただけだった。受付で梅が処方箋を受け取っている間、柚は待合室のベンチにひとり、腰掛けていた。
放課後になるなり、樹は柚には目もくれないまま部活に向かっていってしまった。その後、日直の仕事のために教室に残っていた林から、柚は樹が関与した喧嘩の委細を聞かされた。
ことが起きたのは体育の練習中だったという。樹が誰とも一緒に取り組まないせいで、チームワークの取れなかった樹たちのチームは四連敗。ついにチームメートたちが怒りの声を上げ、樹と激しく対立し、樹はチームメートだった梢に本気の拳を叩き込んでしまったのだ。
『マジで痛そうだったな……。あれからずっとみんな、樹のことを敵視してるんだよね』
きれいになった黒板消しを並べながら、林は終始、苦しそうな笑いを浮かべていた。『中神の思いは分からないではないけどさ、尊重してあげてほしいな。梢の気持ちも、さ』
梢はどれほどの痛みに苦しんだのだろう。待合室で膝を抱え込みながら、柚は目を閉じた。
(きっと、痛いだけじゃなくて、悲しかったんだろうな。分かり合えなかったんだもん)
胸の奥が、ずきんと痛んだ。梢ちゃんに向かってあんなこと、言わなきゃよかった──。今頃になってしても仕方のない後悔に身を沈めながら、それでも、と思う。
樹はクラスのみんなの言うような、非情で怒りっぽい人ではない。本当は誰よりも真っ直ぐな芯を持っていて、ただ、ちょっとばかり他人との距離を整えるのが苦手なだけなのだ。
問題を解いている時の真剣な眼差しも、冷たい壁に向かってラケットを振りかざし黙々と練習する直向きな姿も、誰よりも近い距離で見てきた柚だからこそ、言えること。
(嫌いになんて、なれないよ)
柚は抱えた膝に顔を押し付けた。目頭に熱が走ったかと思うと、涙が一滴、流れ落ちていった。
(嫌いになんてなれないけど、嫌わなかったら今度はみんながつらい思いをするんだな……。でも、せっかく宮沢くんの隣で本を読めるような関係になれて、私、嬉しかったのに……)
そのまま黙って、少し、泣いてみた。こぼれた涙に熱を吸われて、高まりすぎた淋しさが少し癒えた。
一緒にいられて嬉しい。その感情にどんな名前をつければいいのか分からなくなった柚は、樹の目の前で『好き』という名称を与えてしまった。間違いだと言われればそれまでなのかもしれない。好きという感情の本当の在り方など、柚は知らない。けれどこれだけは事実だった。『好き』という言葉は、あれほど複雑だった柚の想いをいとも簡単に整頓して、落ち着かせてしまったのだ。
誰かに教えてほしかった。誰のことも傷付けず、自分の想いを裏切ることもなく、春待桜の真実に辿り着いて全てをハッピーエンドに導く方法を、教えてほしかった。
会計を終えた梅が、スリッパを鳴らしながら駆け寄ってきた。「さ、帰りましょう」
うんと頷いて、柚も立ち上がった。
涙の跡がばれないように、そっと袖で拭ってから。
『幕間 ──春夜の劫火──』に続きます。




