十八 掴み切れなかった手
教室で授業を受けている時の樹と、図書室で難しい古典と向き合う時の樹は、雰囲気が違う。
「これ、何て読めばいいのか知ってる? 地名かな」
ページをめくっていた柚が紙面を指し示すと、樹はすぐに覗き込んで答えてくれる。「分倍河原、だろ。府中のあたりにそういう駅名があった気がする」
初めて会った時からすれば考えられないほど、樹の態度は誠実で真っ直ぐだ。それどころか時おり、こうして古典に向き合っている姿が、心なしか楽しそうに見えることがある。
もとをただせば、樹はただ柚の作業を手伝っているだけなので、その樹が楽しんでくれているのであれば、柚にとっては何より幸いだった。
(私も、楽しいし)
『續群書類從』をめくりながら、柚も時々、嬉しくなる。
学校の図書室の奥深くに眠っている本を読み解いて過去に思いを馳せる楽しみも、教室ではぶっきらぼうな横顔しか見せてくれない樹の意外な一面や本音も、たったひとり柚だけが知っている世界で。
いつか邸中学校が閉校し、柚も新たな家へと移り、離ればなれになってしまうのだとしても──いや、だからこそ、この瞬間がもっと長く、もっと先まで続いてほしい。そう願いたいけれど、春待桜を咲かせることができなければ本末転倒なのだということも、柚は忘れてはならないのだった。
そして、それはいつの間にか、じりじりと時間をかけながら危機感へと変異してゆく。
「うーん……。確かにこれ、松原家がどういう家で、どういう役割を果たしていたのかは書いてあるけど、春待桜に関してはまるで何も情報が拾えねえな」
やがてペンを放り出した樹が、天井を振り仰ぎながら呻くように言った。
うん、と柚もうつむきながら頷いた。「肝心の使者のことについても何も書いてないし……」
使者とは、室町幕府の派遣していた伝令のこと。甲斐路の途上に領地を構えていた松原家は、当時、京都と鎌倉を結ぶ秘密の使者の中継地点になっていた──。そんな旨が書いてあったのである。
「自然に考えりゃ、その使者っていうのに来栖家の侍が就いてたんじゃないかって気はするけどな」
そこでお互いの思考が途切れ、二人は沈黙してしまった。図書室の静けさが今さらのように、柚たちの座る机の周りを取り囲んだ。
樹の走り書きにあった『緑縁寺日記』というのは、永享の乱の発生時、現在の東京都府中市にあった寺の住職が執筆していたと伝わる日記である。至近で勃発した分倍河原の衝突について記述があるほか、縁者に拝島の僧がいたことから、当時の松原家の役割や働きについても本文中で触れられているという、まさにおあつらえ向きと言ってよい文献のはずだったのだ。だが、実際に読み進めてみると、松原家の立ち位置や当時の拝島の様子、そして松原親子の戦いぶりのことは分かっても、それ以上──例えば春待桜や松原柄命の用いた呪術のことについての解説は見当たらなかった。
考えてみると、桜にしても呪術にしても松原家の中で完結していた事柄であって、家の外に話が簡単に漏れるようなことはなかったに違いない。結局のところ『緑縁寺日記』は、『枩原伍代錄』の内容を補完する程度のものにしかなりえないのである。
「……どうする。これ以上の骨を折っても、この中から春待桜のことは何も分からないと思うけど」
どことなくくたびれた声で樹が尋ねた。柚も正直なところ、同感だった。
「でも、これ以外の当てがあるわけでもないし……」
「俺、思ったんだけどさ」
柚の手元から取った『續群書類從』を閉じると、樹はその表紙に目を落とした。上川原の挟んでくれた付箋たちが、ページの間で弱々しくはためいている。そのどれにも内容チェック済の×印が書き込まれていた。
「春待桜はあんだけ知られてるんだし、市の教育委員会とか歴史研究をしてる人が調査の対象にしないはずがないと思うんだよな。んで、普通はその研究成果って発表されるだろ。じいさん──校長でさえ咲かせ方を知らないってのは、きっと何人もの研究者が束になってかかっても春待桜の真実を突き止められなかったってことなんじゃないのか」
樹は暗に、もう無理なんだよ、と伝えたがっているような気がする。
「でも、もうチャンスは今だけなんだよ」
柚も反論した。今この時を逃してしまえば、春待桜は今年も咲かないままに伐採され、謎は永遠に解き明かされなくなってしまう。柚と桜の約束も、叶わなくなってしまうのだ。
「ここで諦めたら、今まで私たちが何をやって来たのか分からなくなるよ……。そりゃ、他に術が思い付いてるわけじゃないけど、それでもまだ私、諦めたくない」
「前から聞きたかったんだけどさ、中神はなんでそんなにあの桜にこだわってんだ?」
樹がさりげない口調で尋ね返した。「いくら『理由が気になって』ても、普通ここまで追求を続けようとしたりしないだろ」
柚は返答に困ってしまった。夢で会った桜の武者に頼まれたなどとは、まさか答えられない。
代わりの答えを記憶の中に探すと、ふと、梅の優しい笑顔が脳裡に浮かんだ。
「──私のおばあちゃんに聞いたの。春待桜が咲くと、どんな風になるのかっていう話を」
柚は言った。へぇ、と樹が応じた。「見たことあったんだ」
「うん。記録に残る限り、咲いたのは一度だけ。おばあちゃんが十四歳の時だったみたい」
梅から伝え聞いた春待桜の様子を、柚は語って聞かせた。
「……あのじいさんも、十四歳の時に見たって言ってたな」
樹はつぶやいた。その視線がゆっくりと手元を離れ、窓の向こうの春待桜へ向かっていった。
柚もその話は知っている。校長と梅、縁のない二人の人間が同じ証言をしている以上、桜が開花したのは恐らく事実なのだろう。『やっぱりどこか、わたしたちの時と似てるのねぇ』──静寂に梅の声が重なった。
あの時、梅には想い人がいた。空襲でたびたび爆弾が投下され、このあたりにも被害が及んだ。梅はついに想い人と結ばれることはなく、別の人と結婚して暮らしている。それらのどの事実が該当するのか柚には判別がつかないが、いつか梅の口にしていた言葉が、今に至るまで柚の心には引っ掛かったまま、離れようとしないのである。
「咲かない理由が分かれば、咲かせられるかもしれないじゃない。おばあちゃんだって長くないだろうし、せっかくだからもう一度くらい、見せてあげたい。そのためにも、七十年前に春待桜が咲いた理由を突き止めてあげたいよ」
柚は懸命に訴えた。「私も古典の読解には慣れてきたし、宮沢くんにばっかり負担かけないようにするから……」
けれど樹は困惑するような表情のまま、ついに「分かった」と言ってくれることはなかった。
◆
真実を探るのを投げ出したくない一心で、柚は次の日の昼休みも、今まで当たってきた資料を読み返していた。もしかするとどこかに読み落としがあって、そこに春待桜の記述があるかもしれない。そんな僅かな希望を捨てられなくて。
樹は今日は部活にも行かず、隣の席で眠っている。そっとしておこうと柚は思っていた。
その柚の肩を、誰かの指がつついた。
「柚ちゃん。ちょっと」
見上げると、声の主は梢であった。難しそうな顔をした梢は、立ち上がった柚の腕を引いて教室の隅まで連れていく。そこには林もいる。柚とよく一緒に遊ぶ子たちの顔がある。
「最近、どうしたの? 放課後もぜんぜん遊んでくれないし、昼休みも本読んでばっかだし」
そう尋ねられて初めて、柚は梢の表情の意味を悟った。梢は困惑していたのである。
「ごめんね。ちょっと色々、調べものとかがあって」
柚は小さな声で答えた。同じく隅に集まっていたクラスメートたちの視線が、どうにも気になる。みんなは柚と樹とを見比べているようだった。控え目な声色で、梢が聞いてきた。
「その“調べもの”、あいつも関わらなきゃならないわけ?」
聞かれていることの意味が分からなかった。樹が関わることは禁則事項とでも言いたげなその言葉に、柚は思わず眉をひそめた。「……関わっちゃ、いけないの?」
「そういうわけじゃ──」見かねたように林が口を挟みかけたが、前に出た梢はそれを遮って、
「単刀直入に言うよ。柚ちゃんはあいつとはあんまり、関わってほしくない」
「どうして?」
「柚ちゃんは知らないかもしれないけど、あたしたちクラス全員、あいつとは色々あって仲違いしてるの。このままだと柚ちゃんまで村八分にされるかもしれないんだよ」
さすがの柚も、呆れた。梢は柚に脅しでもかけるつもりなのだろうか。
樹の風評や中傷など、耳にたこができるほど聞かされてきた。それでも隣で授業を受けて、同じ疑問に悩んで、会話を交わす中で、それが必ずしも真実ではないと柚は知っている。
「村八分にされるって、そんな、いじめじゃないんだし……」
柚はつぶやいた。「そこまでして宮沢くんを仲間はずれにする理由、私には分からないよ」
梢の眉間が、ぴくりと動いた気がした。
「理由なんて分かんなくていいよ。あたしたちの側に戻ってきてよ、柚ちゃん」
口調に静かな迫力、いや圧力が加わってきている。それを感じていながら、柚はあえて真っ直ぐに梢を見つめ返した。
そんな理屈の通っていない理由で、今まで春待桜の調査を手伝ってくれた樹への感謝の気持ちを拭い去れるはずがないのである。
「ごめん。それには私、従えない」
柚は答えた。内心では怖くてたまらなかったけれど、それでも毅然と梢を見据えて。
「みんなとは違って私、宮沢くんの隣で授業を受けてるんだよ。仲が悪いままでなんていたくないよ。それに宮沢くんはみんなが言うほど──」
「いいから!」
梢が叫んだ。柚は一瞬、心臓が止まったかと思った。
「別に話すななんて言ってないじゃん、だけどあいつと関わらないで。あいつのことはひとりぼっちにしてやりたいの。みんなでそうやって制裁してるの!」
言葉を失った柚の両肩を、梢は強くつかんだ。顔と勢いが一気に近付いた。
「柚ちゃんが加わってくれなきゃ意味ないんだよ! お願いだから分かってよ!」
「理由もないのにそんなことできない!」
柚の声も大きくなった。食い込んだ指圧の強さに、顔が歪んだ。
こういう時に決まって「まぁまぁ」と間に入ってきてくれる林が、今は動かない。誰もが柚と梢の様子を冷ややかに見守っている。その冷ややかな感情の矛先は、間違いなく柚だ。
「理由がなかったら納得できないよ! そんなのいじめと何も変わらないじゃん!」
「いじめなんかと一緒にしないでッ! あたしは、あたしたちは、あいつに──!」
梢の怒鳴り声が、不意に跡絶えた。
怒りに爛々と燃えていたその目から、光が消えていく。柚は背後を振り返った。真っ暗な顔の樹が、そこに立っていた。
いつの間に、そこに。寝ていたのではなかったのか。驚いて声の出なくなった柚を一瞥し、樹は低い声で告げた。
「中神。もう、俺に話しかけないでいいから」
つばが喉に落ちる音が、静寂の中へ大きく響いた。
それっきり樹は黙ってみんなの横を通り抜け、教室の扉を開け放った。ばたんと音が跳ねた時には、樹の姿は廊下へと消え去っていた。
柚は咄嗟に、梢の腕を振り払った。あっと梢が声を上げたが、構わずに廊下に飛び出した。上の階へ向かおうとしている樹の背中が、階段の中頃に見えた。柚は叫んだ。
「待って!」
「待たねぇよ!」
怒鳴り返した樹は、駆け出した。待って、私の話を聞いて──。柚も必死に追いかけた。階段の滑り止めに何度も足を取られそうになったが、それでも懸命に走り続けた。
いつか同じように梢たちから逃げ出した自分の姿が、先を行く樹の背中に重なって見えていた。心境を理解されないことに絶望して逃げ出した、あの日の柚と今の樹の胸の内が同じなら、なおさら追いかけなければならないと思った。そのまま樹に独りぼっちになってほしくなかった。
屋上に出るドアが開いて、目映い真昼の光が塔屋に差し込んでいる。視界が白く霞むのを感じながら柚がドアを抜けると、屋上の中央にぽつんと立つ樹が、すぐに目に入った。
「私は宮沢くんのこと────」
▶▶▶次回 『十九 淋しい痛み』




