十七 光を掴んで
樹は、教師が嫌いだ。
なぜって、教師はいつだって、進みすぎるのを良しと思ってくれないから。小学校六年生だった時、先取りして覚えた方程式を授業で得意気に使ったら、「教えていないことはやるな」と怒られた。
教師は平等が好きなんだと、樹は思う。みんながみんな平等に、同じような環境で過ごせるように。そんなことを樹は望んではいないのに、余計なお節介を焼こうとする。特に担任の教師など、樹にとっては天敵にも等しい存在だ。
(その俺が、進んで担任のところに足を運ぶなんて……)
内心ではイヤイヤなのを分かっていながら、樹はその気持ちをぐっと圧し殺していた。別に関わり合いになりたいのではない。聞きたいことを質問しているだけなのだ、と。
「永享の乱? そりゃまた、妙にマイナーなことに興味を持つんだな」
昼下がりの職員室の片隅で、並んで立つ柚と樹を前に、上川原はすっとんきょうな声を上げた。
「歴史の先生なら詳しく知っているかもしれないって、宮沢くんが言ったんです」
柚が正直に答えて、バカ、と樹は柚を睨んだ。それでは樹が率先して教師を頼ろうとしたみたいに聞こえてしまう。そんなのは断固、お断りだ。
足組みをした上川原は、ふぅん、と唸りながらあごのひげを弄った。
「一四三八年に関東で起きた、あの『永享の乱』のことなら、ある程度は把握しているがな……」
「それ以外にあるんですか」
「正長二年に大和国で『大和永享の乱』というのが勃発しているが、そんなもんだろう。永享の乱は歴史研究の上ではかなり重要なものだし、『永享』という元号は十二年で箝げ替わってしまったから、全く同じ名称の戦乱が他所で起きたとは考えにくい。一説によれば大和永享と永享の乱は連動していたとも言われるしな」
有名であることすら知らなかった樹と柚は、顔を見合わせた。それなら先に百科辞典を当たってみればよかったね──困ったような柚の目が、無言のうちにそう語っている。
上川原は何かを言いかけたように口を開いたが、すぐに閉じて、それからもう一度開いた。
「あまり詳しいことまでは私も知らん。室町史の本筋からは外れているから、おそらく教科書にも載っていないだろう。どうせなら二人して、『永享記』を読んでみたらどうだ。永享の乱で何が起こったのか、その前後関係も含めて記述されているはずだぞ」
さすがの樹も呆れた。教師のくせに、自分たちで調べろと言うなんて。しかもそのタイトルからして、
「まさか俺たちに原典を読めってんですか」
「でも昨日、図書室で古書を読んでいただろう」
「見てたんですか⁉」
声を跳ね上げたのは隣の柚である。ああ、と上川原は首を振る。
(くそ、最悪……)
本人を目の前にしているのでなければ、樹は舌打ちでもしてやりたい気分だった。上川原に変な誤解をされたらたまらない。実は他人と仲良くできる奴だ、なんて思われたくもないのに。
だが、当の上川原にその意図はないようだった。
「表紙で分かった。読んでたのは『枩原伍代錄』だろう。あれが読めるなら、同じ年代に書かれた『永享記』も読めるはずだぞ。私が保証するから自信を持っていい」
そんな自信は要らないと言い返そうとしたが、『枩原伍代錄』を読み込めたのが少しだけ嬉しかったのも事実なので、樹は黙ってしまった。上川原は樹と柚を交互に見て、それから立ち上がった。
「ちょっと待っていろ。今、社会科の資料室から取ってくるからな」
「あ……ありがとうございます」
柚が頭を下げた。樹も釣られて、一緒に頭を下げてしまった。
南に向かって開いた大窓からは、校庭の喧騒に混じってぽかぽかとした昼の陽気が流れ込んできている。
ふっと気を緩めた瞬間、意識がどこかへ吹き飛びそうになる。授業中の睡魔は教師よりも強大な敵かもしれない。
小さなあくびを制服の袖で隠した柚が、樹の顔を一瞥して、くすりと笑みを溢した。
「本当に嫌いなんだね、先生のこと」
「当たり前だろ」
何を今さら。樹はやり場の見当たらない両手を、ポケットに突っ込んだ。上川原の前ではこんなことはできない。
「嫌いなんだよ、どいつもこいつも。変に俺のことを目にかけようとするから」
「じゃあ、校長先生のことは?」
「あれはもっと嫌い」
即答すると、柚は妙な顔付きになった。直接関与することのない校長のことまで嫌う理由が、柚には分からないのだろう。
あまり詮索されるのは嫌だったので、樹はさっさと教えてしまうことにした。その前に一応、尋ねた。
「お前、口固い?」
柚は頷いた。それを見計らって、樹は言った。
「あの校長、俺のじいさんなんだよ」
えっ、と柚が驚いたように口を開けた。「知らなかった……」
そりゃ、誰にも教えてないからな──。樹は後頭部を掻きながら、ほら、と空を指差した。
「俺と苗字、同じだろ。宮沢なんてこのへんじゃ珍しくない苗字だから、みんな気付かないんだ」
知りたくもねえだろうけど、と付け加えかけて、やっぱり引っ込める。
柚もようやく、からくりを理解したようだった。
「言われてみれば……。でも、それってそんなに秘密にしておきたいこと?」
「色々あるんだよ。あんまり勘繰られたくなかったから、言わなかった」
お前も勘繰るなよと思いを込めて、樹は柚を睨んだ。柚の眉毛が、申し訳なさそうに傾いた。
「もしかして、春待桜のことが好きじゃなかったのも……」
「じいさんがあの桜、好きだから」
それから、上川原の立ち去って行ったドアに目をやった。あんまりこの件について語っていると、自分が駄々っ子みたいに思えてきて癪に障った。
柚も自然と空気を読んだのか、追及を諦めたように黙り込んだ。
(早く戻って来いよ、上川原)
目立たないように貧乏揺すりをする樹と、その横で心なしか縮こまっている柚と。昼下がりの生暖かな空気に、二人は上川原が来るまでじっと黙って浸かっていた。
『永享記』は、室町時代中期に関東地方で発生した二つの内乱を、双方の立場から詳細に描いた軍記だ。
執筆した人物も、書かれた年代も判明していないために、今では江戸時代に編纂された叢書『續群書類從』に収録されている中でしか読むことができない。ただ、描写が正確であることや視点の平等性から、歴史資料としての価値が高いと言われている──。
そのような説明を加えた上川原が二人に手渡したのは、国語辞典と見紛うほどに分厚い黒表紙の本だった。『續群書類從』である。
「『永享記』のページには付箋を貼っておいた。なに、永享記そのものの分量はそんなにないから気にするな。ついでに参考になりそうな他の書もチェックしてある」
絶句した柚と樹に、上川原は含みのありそうな笑みを見せた。
「分からないことは教科書や百科辞典で補うといい。宮沢、電子辞書を持っていただろう」
「持ってますけど」
「中神にも見せてやるんだぞ」
分かってますよと樹はぼやいた。便利な道具を独占しようとするほど、樹も子供ではない。
「きっと勉強になる。読解、頑張れよ」
なんだか狐につままれたような気分を払拭できないまま、上川原のそんな励ましを背に、二人は職員室を後にしたのだった。
◆
武士による中央集権的な支配が一般化した、室町時代。時の幕府は京都にあって、遠く離れた関東地方を統治するためにはどうしても専門の部署を設置する必要があった。
そこで二つの役職が生まれた。かつて鎌倉幕府のあった相模国の鎌倉に居座り、関東一帯を管理する鎌倉公方。そして、その補佐をする関東管領。『関東を留守にする将軍の代わり』だった鎌倉公方の役職は、代々将軍足利家の血を引く者が受け継ぎ、関東管領には地域の有力な武家が選出され、やがて足利家との姻戚に当たる上杉家が関東管領の職を世襲するようになった。
一四三八年に発生した永享の乱は、その鎌倉公方と関東管領との仲違いが原因となり、幕府が当時の鎌倉公方であった足利持氏を討伐しようとした戦乱なのだった。
あれから四日間の時間が空いてしまった。土日を挟んだ三月五日と六日、いよいよ二年生最後の期末試験がやってきたのである。
国、数、英、理、社、それから体育や音楽や家庭科……。日頃の勉強が生きたおかげか、分からなかった問題はそんなに多くはなかった印象がある。樹の心配をする必要は、ないか。むしろ目の下に隈を作りながら本番に臨んでいた林や梢たちの方が、柚には心配だったが。
「目、めっちゃ疲れた」
翌日の水曜日、滑り込みで教室にやって来た樹は、『續群書類從』とともに一枚のプリントを柚に差し出した。テスト明けの狭い教室には、以前のような賑わいがようやく戻ってきている。
「こんな感じに内容をまとめてみた。放課後にそいつ読むのに、予備知識がないときついだろ」
「あ、ありがとう……」
文字でびっしり埋められたルーズリーフのプリントを、柚は手に取った。樹がどれだけ苦労したのか、一目見ただけで明らかであった。
「すごいね。なんか、手間かけさせちゃった」
「放課後のうちに読み終わらなかったら、今夜はお前の番だから」
樹は相変わらず、素っ気ない。どさっと机にカバンを放り出すと、それを枕にして居眠りを始めた。このまま朝のホームルームをやり過ごして、数学の授業で指されるまで寝るつもりだろう。
柚は目の前の『續群書類從』とプリントとを、何度も見比べた。放課後に一緒に読むのに、柚だけが知識で遅れを取って樹に迷惑をかけるわけにはいかなかった。
「よし!」
読むぞ、私──。気合いを入れた柚は、樹の整った文字を追い始めた。
教室の入口で梢がその様子を眺めていたことには、気付かずに。
かねてから幕府と対立関係にあった鎌倉公方・足利持氏は、幕府が新しい将軍をくじ引きで決めることになった時、縁者であるにも関わらず候補にすら入れてもらうことができなかった。怒った持氏は京都に攻め入ろうとして、関東管領の上杉安房守憲実に止められる。
以来、憲実と持氏との関係がギクシャクしたまま、持氏は幕府に反抗的な態度を取り続けるようになった。しかし憲実は自分の役職上、持氏の暴挙を諌めなければならず、持氏との関係は悪くなる一方だった。
持氏とて憲実との仲を険悪にしようとしていたわけではなく、何度も和解の使者を送っては危うい関係を辛うじて保とうとした。だが、憲実に対する部下の中傷や讒言が止むことはなく、このままでは持氏が自分を討つと危惧した憲実は、自分の所領のあった関東地方の北部まで逃げてしまう。
これに持氏も堪忍袋の緒をついに切らして兵を差し向け、憲実を本当に討とうとしてしまった。以前から持氏をよく思っていなかった六代将軍・足利義教は、これは好機とばかりに大軍勢を振り向けて憲実に加勢し、持氏らの軍を返り討ちにした挙げ句、滅ぼしてしまった。
──この戦を、永享の乱と言う。
『枩原伍代錄』には、松原柄命は公方持氏方について戦ったとあった。すなわち柄命は、敗軍の侍だったのである。
【上川原の貼ってた付箋の3枚目の『緑縁寺日記』──ここに松原家の記述あり?】
プリントの末尾には、そんな走り書きが残されていた。
いよいよ核心に迫ってきたのだ。柚の胸は、いやが上にも高鳴った。
「その“調べもの”、あいつも関わらなきゃならないわけ?」
▶▶▶次回 『十八 掴み切れなかった手』




