一 雨霞の向こうに
「──今でも覚えてるわ」
梅はため息をつくように言うと、曲がった背筋を少し伸ばして、目の前にそびえる桜の木に目をやった。
「最後に咲いたのは、終戦前の昭和二十年。あの時のわたしはまだ女学生で──この桜が咲いたのを、この目で見たの」
「えっ」
中神柚は本能的に聞き返していた。つい今しがた、この場所で、並ぶ二人の眼前に屹立している桜の木が、もう長いこと花を開いていないことを聞かされたばかりだった。
「じゃあ、咲かないわけじゃないんだ」
「そうとも言えないねぇ。記録が録られ始めてから桜が咲くまで、百年以上も空白期間があったらしいからね」
「ひゃくねん……」
途方もない大きさの時間に、思わず吐息が漏れた。二つ結びの紙が襟足に擦れて、なんだか妙にくすぐったい。
「どうしてわたしたちが咲いた姿を見られたのか、未だにわたしたちは誰も知らないの。でも、あの桜が咲くとどんなに綺麗なのかは、わたしたちはよくよく、知っている」
梅は、うっとりと目を閉じた。三月の少し強い風に煽られて、桜はざわざわと震えていた。
柚と梅はまるで、風の川の中に浮かんでいるようだった。
「あの大きく広げられた枝に、びっしり淡い色の花がつくの。そうして、風に吹かれて優雅に空に舞い上がって、やがてゆっくりと街の中に降り注ぐのよ。何かに例えるとするなら、そうね……」
一拍を置いて、梅は深呼吸をした。「桜の雨、かねぇ」
柚にできたのは、想像の及ばぬ景色に目を細めて、へぇ、と小声でつぶやくことだけだった。
大きな手をいっぱいに広げたような姿の『春待桜』は、うららかな夕刻の春風に吹き寄せられ、心地良さそうに揺られていた。
◆
二つ結びの少女──中神柚のこの街での記憶は、だいたい三週間ほど前から始まる。
それは二月の上旬、寒さばかりを置いたまま冬が立ち去り、けれど春の訪れにはまだ早い頃のことだった。
あの日は家を出て車に乗ったあたりから、ぐっすりと後部座席で眠りに落ちてしまっていた。気がついた時には見知らぬ風景に囲まれていて、瞬間移動でもしたのかと驚いたものだった。
雨が降っている。フロントガラスを叩くリズミカルな水の音に、寝惚けかけていた意識を揺り動かされて、柚はようやくぱっちりと目を見開いた。
「……道、混んでるわねぇ。まだかかりそうね」
「仕方ないよ、もう少し南に行かないと幹線道路もないからな。道路事情と鉄道の運行本数がもう少し増えたら、この辺りももう少し発展の余地がありそうな気がするけど」
「ちょっと、やめてよね。私たち、せっかく静かな街を頼ってここに来たのに、あんまり発展されて空気が悪くなったら何のために移動してきたのか分からないじゃないの」
「そりゃそうだけどさ。どうせ今回の話だって一時的なものだし、一ヶ月後にはきっともっといい引っ越し先が見つかるだろ」
「すんなり見つかるといいわよね……」
「そこは、僕らの頑張りどころだな」
前の席に座る父と母は、濡れた車窓を眺めながらそんな会話を交わしていた。カーナビに映るのは『緑街道』の文字。いま、その道は緑色ではなく、渋滞を示す赤い線にずっと先まで彩られている。
柚は起き上がって、あくびをした。二つ結びの髪が揺れて、肌にちくちくと刺さった。
そうとう長い時間、こうして走り続けていたのだろう。身体中がばきばきだ。地図を見ると、この道路のすぐ横を青梅線という鉄道が並走している。
(どうせならしょっちゅう揺れる車より、電車でここまで来たかったな……)
仕方のない後悔に思いを馳せ、柚はため息をついた。車は酔うから好きではないのだった。
立ち往生と発進を繰り返しながらも、柚たちを乗せた車は一路、緑街道を西へ向かい続けていた。
目的地の名前は、昭島市という。東京都の西郊に位置する衛星都市である。人口は十一万人。隣接する立川市との間には自衛隊の広域防災基地や国営昭和記念公園があって、二つの市を合わせて西多摩の中核を為している。
中央を貫くJR青梅線は市内に四つの駅を持っていて、中でも北端の拝島駅は五日市線や八高線、それに西武鉄道が交わるターミナルだ。市域には由緒正しい神社仏閣やそれなりの規模の緑が残っており、南部の多摩川沿いには遊歩道も整備されている。学校や病院などの施設も充実し、住環境の質は高い。
──というのが、柚の持つ事前知識の全てであった。
おまけに典拠はことごとくネット情報ときている。致し方のないことではあった。何せ、柚がこの街と関わったことは、今まで一度たりともなかったのだ。
そんな昭島に柚たち中神家が引っ越しを決めたのは、わずか二週間前のことであった。引越業者は雇っていないし、挨拶回りの準備もしていない。引っ越すのは、一人娘の柚だけだった。父の実母が住む家が拝島にあって、今度から柚がそこで生活する運びになったのである。
柚は十四歳。二月の頭にあたる今はまだ、中学二年生だ。
渋滞の原因は交通事故だったらしい。大きなスーパーマーケットの付近で警戒線が張られ、警察の設置したブルーシートの先に横転した乗用車が垣間見えた。
ひどい事故だな、と父がつぶやいた。「このへんはどこも道が細いからな……。柚、通学の時は車に気を付けるんだぞ。以前の月島とは事情が違う」
「ちょっと、不安かも」
柚は正直な気持ちを告げた。二つくらいの意味を加味したつもりだった。
知らない景色の連続は見ていて飽きないけれど、これからそこが当たり前の風景と化してゆくのだとは、柚にはまだ思えそうにない。現実味が追い付いてきていないのだ。
(ここが私の、新しい町になるんだな……)
改めてそう思い直した柚は、あ、と車窓を流れる景色に声を上げた。白い雨霞のカーテンの向こう、車の曲がろうとした角の奥に、見覚えのある外見の建物が建っていた。
「ここ、私が通う学校だよね」
お、と父がルームミラーの中で頷いた。雨音が少し弱くなった。
「そうだな、あれだ。昭島市立邸中学校だ」
「ふぅん……」
柚は少し体勢を変えて、学校の様子をもう少しよく眺めてみた。建設されてからどれほど経っているのだろう。横長の三階建て校舎は壁の色が剥げ気味で、年季の入った建造物独特の貫禄を感じさせる。石造らしき校門もレトロさを醸し出していて、あの中ではまるで空気がゆっくりと流れていそうだ。校庭の真ん中には、巨大な木も生えている。
「明日は僕たちも揃って、挨拶に行かなきゃだな」
ハンドルを切りながら父が笑って、柚はこくんと首を垂れた。あれが、明日から通う学校なんだ──。不安よりもちょっぴり優った期待のために、胸がわずかに、ときめいた。
市立邸中学校は、昭島市の松原という地域に立地する小さな中学だという。生徒数は合計で三百もおらず、校庭も校舎も狭隘で、おまけに設備の老朽化も進んでおり、ネットを見る限りではあまり人気の高くない学校のようだった。
もっとも柚にとって、学校の人気などは何でも構わなかった。中学二年をやり過ごせさえすればいいからだ。四月が来て新学期になれば、柚はふたたびこの街を離れ、さらに別の場所へ引っ越すことが決まっていた。
明日は晴れるといいな。
窓を這う雫に指をそっと当てて、思いを込めた。
◆
「それにしても、この時期に転校とは、なかなか珍しい話もあったものですな」
邸中学校校長の宮沢柾は、にこやかに微笑みながら応接室の扉を開けてくれた。事前に受け取っていた制服を着た柚と、そして両親とが、校長とは反対の側に腰かけた。
白い髭に薄くなった髪、深いしわの何本も走る顔。この古びた校舎に負けず劣らず、校長もかなりの老齢に見える。
「転校の事情は伺っておりますが、その、そんなにお悪いんですかな。素人目にはさほど、顔色が悪いようにはお見受けできんのですが……」
眼鏡を小さく動かしながら尋ねた校長の視線が、柚の周りを不安定に漂う。柚は柚で、さっきから何だか落ち着かなくて、気づかれない程度の範囲でもぞもぞと身体を動かしていた。
制服のブレザーがとにかく派手なのだ。胸元に付けたリボン、縁取り、ボタン。着色しても違和感のない部分がことごとくピンク色をしていて、どうにもこそばゆくてならない。
私、派手なのは苦手なのに──。密かに嘆息した柚の横で、母が口を開いた。
「病の重さは何とも言いがたいんですが、一週間のうち一、二度は発作を起こしているんです。家が都心にあったものですから排気ガス公害が不安で、昭島なら多少はましになるかと思いまして」
「気管支喘息というのは大変ですな」
校長は苦笑した。柔和な人だと思いつつ、柚は会釈しようとして、代わりに小声で噎せた。
では──と、校長は資料の束をめくった。
「今日はこのあとの四限の授業から参加していただこうと思います。学校行事には原則すべて参加、ということですな。……もっとも、ほとんど何も残ってはいないのですが」
「はい」
すでに説明を受けているのか、父と母はすんなりと頷いた。それはつまり、卒業式だけということか。そう柚が切り出そうとした途端に、校長は席を立ってしまった。
「では今日から、よろしくお願いしますな。中神柚さん」
「は、はい」
柚は慌てて校長にならって、深くお辞儀をした。
暫し席を外しますと言い残して校長は応接室を出ていった。柚たち三人だけが、ところどころ色褪せの目立つ応接室に残された。
「歓迎ムードで良かったじゃないか」
父の言葉に、柚も心なしかほっとして相好を崩した。
同感だった。たった一ヶ月間だけの転校など、きっとほとんど前例のない出来事に違いないのに。
とはいえ、無事にクラスに馴染めるまでは、気を抜くことはできない。
手持ち無沙汰の柚は、窓の外を見た。前評判の通り、お世辞にも広いとは言えない校庭では、引かれた白線の上でどこかのクラスがマラソンを走っているようだった。息苦しそうな掛け声が、さっきから途切れ途切れにこちらの方へ流れてきている。
柚は体育のマラソンが嫌いだ。前の中学でも走らされたが、何が悲しくて校庭をぐるぐると何周もしなければならないのか分からない。おまけに息はすぐ切れるし、最近は左胸にも小さな痛みが走る。
柚の内心をどう察知したのか、母がそっと言葉を添えた。
「無理はしないことよ、柚。何か不都合があったら、先生にきちんと言いなさいね」
「……うん。分かってる」
校庭のど真ん中に突っ立つ大樹を眺めながら、柚はそう返した。
大きな木だ、と思った。周りを走る生徒と比べても際立って大きいが、その種類までは判別がつかない。あの木陰で休んだならきっと心地いいだろうな、なんて想像してみる。
「立派な木だろう」
父が隣で、笑った。
「な、中神と言います! 下の名前は『ゆず』って読みます! 前は中央区の月島っていう町に住んでました! ……その、あと一ヶ月間ですけど、よ、よろしくお願いします!」
▶▶▶次回 『二 出会い』