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桜の雨、ふたたび  作者: 蒼原悠
弐 アトラクテッド・ガール
19/69

十六 隣席




 一階の会議室を出た上川原は、うーん、と大きく唸って腕を天に突き上げた。

 脇を通った同僚──栗沢が、危ないですよと苦笑する。

「会議の間、眠そうでしたね」

「そういう栗沢先生も大概だろう」

「し、仕方ないじゃないですか……。閉校まであとわずかになって、緊迫した議題もなくなってきましたし」

 ジャージ姿の栗沢は肩をすくめながら、今しがた出てきたばかりの会議室を振り返った。その動きに釣られ、上川原も同じように、正面から光の差す部屋の中に目をやる。

 邸中学校の職員会議は毎週一回の頻度で、この会議室を使って行われてきた。今日の議題は、今月半ばに卒業式と同時に予定されている閉校記念式典の進行に関するものだ。卒業式と閉校記念式典をセットにして、邸中学校では『閉校式』と称している。

 南に向かって大窓の開いているこの部屋からは、真正面に校庭と春待桜を拝むことができる。──あの長閑(のどか)な光景とも、もう、別れの時が近付いている。

「淋しくなるな……」

 独り口にした上川原に、栗沢は聞いてきた。「上川原先生は、どちらへ異動されるんでしたっけ」

「私は立川だな。拝島駅の向こう側の生徒たちとセットだ。栗沢先生は?」

福生(ふっさ)です。校長先生は今年で退職なさいますし……なんだか本当に、バラバラですね」

校長(あのひと)は仕方ないさ。臨時再任用だからな」

 とうの昔に定年を迎えているはずの宮沢校長がこの学校に勤務しているのは、かつて教頭だった時の経験を買われて定年後に再任用されたからだ。昭島市の学校では昨今、管理職のなり手が不足しているらしいと聞く。

「また、この昭島(まち)に戻ってくる機会があるといいんですけど」

 栗沢は朗らかに笑った。

 新人教員としてここへ赴任して二年、いきなり転任とは栗沢も不憫だと思う。それが実現したらどんなにいいだろうなと、上川原も心の中だけでそっと頷いた。

(狭い古いと言われるが、この学校は雰囲気がいい。解体してしまうには、勿体ない)

 上川原は常々そう感じていたのだった。校舎のみならず、生徒たちも、教師たちも。

 されど理想が校舎の耐震補強を済ませてくれるわけではない。現実はどこまでいっても、現実なのだ。


 栗沢とは職員室の前で別れた。市の教育委員会に提出する書類を書きかけのまま、会議に来てしまったらしい。

 特に思うところもなく、上川原の足は図書室へ向かっていた。仕事がない時は生徒のいる教室へ赴くか、図書室に行くことにしている。邸中学校に赴任して十年来の、上川原の習慣だ。

 今日はさすがの図書室も混んでいるだろうな、と考えた。仮初(かりそ)めにも今は期末試験直前である。

(ま、端の方は空いているだろう)

 久しぶりにゆっくり読書にでも励んでみたい。邸中学校の蔵書は面積の割には充実していて、国語教師の上川原が読んでもなかなか読み応えがある。

 今日は何に手を伸ばそうか、早くも妄想を(もてあそ)びながら上川原は図書室のドアを開いた。予想外に生徒が少なかった。晴れ渡った窓の外から遊ぶ声が聞こえてきて、やれやれと嘆息しそうになって。

 代わりに窓際の閲覧席に珍しい組み合わせを見つけたのは、その直後だった。

 他ならぬ、柚と樹である。

 担任クラスの生徒たちを見間違えるはずがなかった。二人して同じ本を覗き込みながら、樹の手にしたノートと見比べながら、何やら議論をしている。

 これにはさしもの上川原も驚かされた。

(おいおい。あの二人、勉強を教え合う仲だったのか)

 他人との関わりをあれだけ()ね付ける樹が、柚と当たり前のように会話している。授業の中でこんな風景を見たことがあっただろうか。いや、ない。

 とは言え、せっかくの場面に声をかけて水を差してしまうのは(はばか)られたので、本棚へ向かった上川原は適当に面白そうな本を引っつかみ、二人からは離れた席についた。そうして少しばかり、二人の様子を観察することに努めることにした。

 本に顔を埋めていれば、存在感など簡単に消してしまえる。図書室という空間は不思議なものなのだ。




 上川原に覗かれているとはつゆとも知らぬまま、樹は柚の前に『枩原伍代錄』を広げていた。

「昨日の夜に読み通してみたんだよ。どうもこれ、松原(まつばら)柄命(もとのり)の先祖から子孫にかけての経緯とか、それぞれがどんな人生を送ったかが書いてあるらしい」

「そんなにすんなりと読めるなんて……」

 柚は絶句した。どのページを開いてみても、漢字やカタカナばかりの目を通しにくい紙面ばかりが並んでいる。樹はうなじを掻きながら、「まあな」とつぶやく。

「先取りってやつの効果かも」

 柚は微笑んだ。

「うん。すごいと思う、それ」

 自分で勉強するのも、それをきちんと役立てられるのも、そのことを誇り過ぎないのも。

 いいから、と樹が本を少し手前に引き寄せた。

「読めた部分、説明してくぞ」


 鎌倉時代の地頭より派生し、南北朝時代の少し後に勃興した松原氏は、拝島の一帯を領有支配する地方豪族──国衆(くにしゅう)のひとつであった。国衆とは、惣領を中心に在地の農民を支配していた武士のことで、言わば領主である。多摩地域には松原氏の他にも立河(たてかわ)氏や村山(むらやま)氏などといった国衆が、個々に武士団を形成しながら発達していた。

 当時、この近隣にはまだ甲州街道が通っておらず、拝島は甲斐の山々を越えてきた旅人が最初に訪れる町で、拝島には彼らをもてなす宿場のような役割を果たしている寺がいくつもあった。そうした寺を松原の家は保護し、交流を持っていたのだという。

 その松原家の一代目当主・栃命(とちのり)から見て、柄命(もとのり)は三代目に当たる。父親は柘命(つげのり)と言って、年の離れた桐命(きりのり)という弟がいた。

 柄命は心優しい人柄で、困っている人を憐れみ、貧しい人に力を与えたといい、村人からは大変に慕われていたのだそうである。分野を問わず学問を好み、『晃拝道(こうはいどう)』なる呪術への造詣も深かったという。また、たびたび松原家を訪れていた来栖(くるす)という家の人々とも仲が良く、とりわけその娘君との関係は親密だった──。


 影の武者は己のことを『春待桜の盟を(つかさど)る者』と呼んでいた。陰陽師の使役する低級の神のことを式神と呼ぶと、昔どこかで見聞きした覚えがある。松原柄命には呪術の嗜みがあったというなら、あの武者も松原柄命によって使役されている神のようなものなのだろうか。

「来栖?」

 初めて耳にする名前に、柚は眉を潜めた。「邸中學校史には載ってなかった名前だ」

「この本にも詳しいことは書いてなかったけどな。なんか、永享(えいきょう)の乱とかいう戦が起こって以来、関係は途絶えたみたい」

 樹がペン先で本をつつく。そこには潰れた字で『此戦拠リ後、来栖者トハ疎遠二為リヌ』とある。

「永享の乱って、応仁の乱の仲間みたいな……?」

 乏しい歴史知識を懸命に捻り出しながら柚が応じると、多分な、と樹は頷いた。

「ここにもその乱のこと、書いてある」


 永享十年八月、柄命は公方持氏(もちうじ)に加勢するため、柘命と共に出陣した。戦においては太刀を振るい、弓矢を使いこなし、まさに鬼神のような戦い様であったというが、柘命は矢を浴びて()えなく戦死。柄命も肩に深い刀傷を負ってしまった。

 柄命の軍勢は総崩れになり、ついに敗走する。柄命も命からがら屋敷に逃げ帰ったが、すでに屋敷は敵によって火がかけられ、焼け落ちていた。その後、柄命は庭の桜の木の下で果てたと伝わる。

 この戦を含む一連の戦乱を、後に『永享の乱』と呼ぶようになったというのである。

 これより先、『枩原伍代錄』は生き延びた子孫のことについて書かれるばかりで、戦の理由や敵については記述がない。


 柚と樹の結論は、一致していた。二人は顔を見合わせた。

「その『永享の乱』のこと、もっと知りたいね」

「だよな。そしたら、来栖って家のことも分かるかもしれない」

「誰に聞いたら教えてくれるかな。有名な戦なのかどうかも分からないし……」

「餅は餅屋、だよ。明日にでも上川原に聞いてみようぜ」

 樹の言葉に、なるほどと柚は頷いた。確かに歴史教師の上川原ならば、詳しいことを知っている可能性は高いはずだ。無論、その上川原に背後から観察されていることを、二人は何も知らない。

「上川原先生、って呼ばなきゃだめだよ」

 柚がたしなめると、うるさいな、と樹はつぶやいた。

「俺、あいつのこと嫌いなんだよ。何かとお節介焼きだから」

 そんなところだろうと思った。つきかけたため息を少しだけ振り分けて、柚はちょっぴり笑った。



     ◆



 家に帰ってからも、柚は居間のこたつに潜り込んで『枩原伍代錄』を読みふけった。読めない漢字は辞書で、分からない動詞や名詞は授業で使っている古文単語帳で、カタカナは平仮名に置き換えて読めば、意外と読めるもんだよ──。帰り際に樹からそんなアドバイスをもらっていた。

 樹のアドバイスは的確だ。古典や歴史の総じて苦手な柚でも、このやり方ならば少しは読み進めることができる。二日連続で古典に当たっているせいか、見慣れない文体に対する抵抗感も今は少し、薄れてきている。

(結局は意欲の問題なのかもしれないな。こんなに読む気になって古典に向き合ったこと、たぶん初めてだもの)

 新しいページをめくりながら、柚はそんなことを思った。

 数百年という膨大な時間を飛び越えて、この本は懸命に誰かに何かを伝えようとしている。私は、その受け取り手なんだ。そう考えてみたら、じわりと手に汗が滲む。


「あら、むつかしそうな本を読んでるのね」

 いつものように制服のほこりを落とし終えた梅が、柚の背後から顔を覗かせた。「宿題なの?」

 柚は思わず無意識に、本を脇にどけようとしてしまった。

「う、ううん。何でもない。ただ読んでるだけ」

 答えながら、別に悪事を働いていたわけでもないのに、言い訳を探しているような気持ちになった。梅は興味を持ったのか、柚の退()けた本を手に取る。

「『枩原伍代錄』……何だか古そうな本ねぇ」

「昔このあたりを治めていた武士の、伝記みたいな本なんだよ」

 柚は解説した。聞いたことあるわ、と梅は頷いた。

「わたしも郷土史の授業で習ったもの。最初の領主様は、確か……松原栃命って言ったかしらねぇ」

 柚が驚いたのは言うまでもない。梅にとって、それを習ったのは遥か昔のことだったはずだ。

 ふと、梅にもこの本を読んでみてもらおうかと考えた。長い間、この町で生きてきた梅だからこそ理解できる部分が、もしかするとあるかもしれない。

「読んでみる?」

 柚は『枩原伍代錄』を指差して、尋ねた。

 果たして梅は、そうね、と言った。

「柚ちゃんがいいなら、ちょっぴり読んでみましょうか」


 時折、紙をめくる音が、静かに居間の壁に反響する。

 梅が本を読んでいる間、柚は隣で宿題のワークに取り組んでいた。数学は得意教科だから、その気になりさえすれば一瞬で片付いてしまう。シャーペンを指先で器用に回しながら、柚は思考力の半分をワークに、残りを考えごとに費やした。

(枩原伍代錄には、来栖のほかに仲良くしていた家は登場してなかった。だとすると来栖っていう家は、それだけ特別な存在だったのかも)

 図書室で樹と一緒に解読した部分のことに、ふと考えが及ぶ。

 その来栖家と特に縁が深かったのは、三代目に当たる松原柄命の代だという。松原柄命と言えば、春待桜を植えた人物だ。当時の世俗事情に柚は明るくないけれど、娘君(むすめぎみ)と仲が良かったことを思うと、或いは結婚なんかも考えていたのかもしれない。

 春待桜と松原柄命、そして来栖家が、まるで無縁だとは思えない。そこには何かの因果が潜んでいるのではないか。根拠こそないけれど、柚はそう感じるのだ。

(それに、永享の乱のことも……)

 明日の待ち遠しさに、シャーペンを回す速度がつい速くなる。危ない、と柚がペン回しをやめた時、ちょうど梅が本をこたつの天板に置いて、そっとため息をもらした。

「知らなかったわ。……それじゃ、あの桜は、昔も戦火に飲まれたのね」

「昔も?」

 柚は尋ね返した。少なくとも、一度目は永享の乱のはずだが──。

 梅は本を閉じる。ぱたん、という乾いた音が、部屋の空気をほんのりと潤した。

「そうよ、昔も。先の大戦も経験しているからねぇ。それでも今日まで生き残って、威風堂々と枝を繁らせて……。あの桜は、立派ねぇ」

 うっかりしていた。言われてみれば七十年前、この国は大きな戦争に巻き込まれているのだ。恐らく永享の乱とは比べ物にならないほど、大きな戦争に。

「このあたりもけっこう、被害があったんだ」

 聞くと、梅は首肯した。

「隣の立川市に、軍用機の工場や航空工厰があったのよ。軍用機の生産拠点だったから、爆撃の対象になってねぇ……。このあたりも巻き込まれることが多かったのよね」

 柚は地図を引っ張り出した。今、西立川駅の北には広大な自衛隊の基地と国営昭和記念公園、航空機工場、そして何もない空き地が広がっている。それら全てが名残なのだとしたら、とんでもない大きさである。

「拝島まではけっこう距離があるのに、なんで拝島まで爆弾が落とされるの?」

 柚は素朴な疑問を口にした。梅の浮かべた微笑みは、何だかひどく儚かった。

「高い高度からの空襲は精度が低かったみたいでねぇ、思ってもみないほど遠くに落としてしまうことは珍しくなかったらしいのよ。それに、ついでに民間人にも被害が出れば、日本は戦う気を無くしちゃうかもしれないでしょう?」

「……うん」

「あの頃はお互い、必死だったのねぇ」

 梅は目を細めて、閉じた『枩原伍代錄』の表紙に視線を落としていた。

 戦争になれば、誰もが生きることに必死になる。比べてしまえば永享の乱は小さな戦乱かもしれないが、命懸けの(せめ)ぎ合いが行われたことに違いはないのだ。自分の考え方をちょっぴり恥じた柚は、戦乱を二度もやり過ごした春待桜の偉大さに、改めて気付かされた思いだった。

(戦争でも焼かれなかった桜を、チェーンソーで伐っちゃうなんて……。校長先生が春待桜を惜しむ気持ち、私にも分かるような気がする)

 だからこそ、自分が、この手で。

 柚は胸の中で膨らんだ決意の熱を、ため息に乗せてそっと漏らした。

「これ、返しますよ。読ませてくれてありがとうね」

 梅が『枩原伍代錄』を差し出す。うんと頷いた柚は、古びて表紙の色褪せた本を両手で受け取った。

 せっかく取り掛かってしまった以上、まずは数学のドリルを終わらせてしまおう。そう思ってカバンを開き、本を仕舞おうとした時。台所に向かっていく梅の小さな声が、柚の耳に入ってきた。

「出会い、戦争、別れ……。やっぱりどこか、わたしたちの時と似てるのねぇ」

 柚は振り向いた。梅の背中は、丸かった。

「あの日、わたしたちの目の前で桜が咲いたのも、あながち偶然ではなかったのかしらね……」

「……おばあちゃん?」

 柚が声をかけると、梅は柚の方を見て、ああ、と笑った。

「独り言よ。気にしないで、ね」







「嫌いなんだよ、どいつもこいつも。変に俺のことを目にかけようとするから」


▶▶▶次回 『十七 光を掴んで』

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