十五 共同作業
樹の所属するテニス部は、毎週火曜日に全員揃っての活動があるらしい。土日は自分の勉強で忙しいから、それ以外の平日四日なら充てられる──。
次の日の昼休み、樹は柚にそう説明した。お互い期末試験を五日後に控える身だが、樹のことは心配無用らしい。
柚も普段の積み重ねがあるので大丈夫だと答えた。それよりも、
「四日も私のために費やしちゃうの、なんか申し訳ないな……」
ため息をつくと、何言ってんだよ、と樹は変な顔になった。「その、もともと悪かったの、俺の方だし」
昨日も同じようなやり取りをしていたことを思い出して、柚もそれ以上は言葉を返さなかった。妙なところで意地を張ってしまう、柚と樹は似ている気がする。
話題を変えたくなったのか、樹は柚の机に目線を向けた。
「昨日の本は?」
「カバンの中に持ってるよ。……あ、場所、どこにしよう」
「学校の図書室でいいだろ。『邸中學校史』だってここの図書室の──」
樹が不意に黙って柚から顔を背けてしまった。振り向くと、何やら紙の束の収まったクリアファイルを手にした梢が、ちょうど柚の隣を通り過ぎたところだった。樹が黙った理由を、瞬間的に柚も察知する。
鼻唄を奏でている梢に、柚は尋ねた。「あれ、どこ行ってたの?」
「音楽の小荷田先生のところー」
楽しそうな表情で前の席についた梢は、ねぇねぇ、と柚に向かって身を乗り出す。
「カラオケ行こうよカラオケ! 昭島駅の南口に新しいのが開店したんだって!」
「そ、そうなの?」
「開店セールで室料半額だって棗が教えてくれたんだよー。ね、いいでしょいいでしょ?」
顔の前の空間が狭い。思わず視線を横にずらしてしまった柚は、黙ったまま文庫本を読んでいるふりをする樹の横顔を目にした。
ダメだ。今日は──いや当分は、樹との約束がある。だいたい今は期末試験直前である。
「お金もあんまりないし、やめとくよ」
眉を下げて柚は苦笑いを作った。我ながらわざとらしいと感じたが、そっかぁ、と梢は残念そうに返して、前を向いてしまった。
今度は罪悪感に肩を押されて、ちらりと樹を窺ってみる。横顔は変わっていなかったが、頬の色が少し、揺れているように感じて。
樹の考えていることは分かる。柚と意思疎通を図っている姿を、他のクラスメートになるべく見られたくないのだろう。ここまで徹底しているといっそ清々しさすら覚える。
(そりゃ、宮沢くんの立場は分かるけど)
柚は膝の上に置いた手のひらを、そっと握りしめた。
これでは教室でまともに打ち合わせをすることもできない。図書室という空間は、これから特別なものになりそうだ。
心地よく晴れ渡った窓の外で、春待桜は暢気に風を浴びていた。
四階建ての校舎の最上階、一番西の隅に位置している邸中学校の図書室は、日中は読書の場を求めて、放課後は暇潰しや勉強の場を求めて、多くの生徒の訪れる場になっている。しかし運が良かったのか、その日の放課後は館内の人数も疎らだった。
ここでいいか、と樹が指差した窓際の席に、二人は向かい合って座る。
「人が少ない時の方が好きなんだ、ここ」
つぶやいた樹は、机に頬杖をついた。教室にいない間の大半は、こうして図書室にいるという。
「それにしても中神、『邸中學校史』なんか持ち出して、いったい何を調べる気なんだよ」
「えっとね……」
素直に説明しようとした柚だったが、はっとして口を閉じた。春待桜のことを調べると言ったら、樹はどんな反応を示すだろう。前に春待桜の話題で盛り上がっていた時、樹が不愉快そうな反応を示していたことが思い出されて。
でも、正直に言わなければ何も始まらない。唾をごくんと飲み込んで──登りかけていた痰も飲み込んで、柚は答える。
「……あの校庭の、春待桜のこと」
樹の眉がぴくりとした。気にしないようにして、柚は続けた。
「あの桜、何十年も咲いてないんだって聞いたんだけど、その理由が気になって……。私、この学校が閉校するのに合わせて拝島を離れちゃうから、その前に何かしら知りたいなって思って。で、古い文献なら何かヒントがあったりするかもしれないなって」
「だからか」
樹は意外にもあっさりした反応を見せた。拍子抜けした柚を前に、淡々とした様子で『邸中學校史』を開く。
「確かにあの桜、この学校に生えてるんだもんな。こういうのを見たら載ってるのかも」
やはり選択は悪くなかったらしい。ほっと、安心する。
「宮沢くんは知りたいと思ったことはないの?」
「ねえよ。あそこにあるのも咲かないのも、当たり前だったし」
「そ、そっか」
柚はそう答えるに留めた。
春待桜に真相究明を頼まれたというのが実際の動機であることは、当面の間は秘密にしておいた方がよさそうだ。樹のためにも、柚のためにも。──何となくそう感じて。
目次を読む限り、『邸中學校史』は主として全三章と前文に分かれている。
前文から手をつけようとした二人の前には、いきなり大きな壁が立ちはだかった。ひとまずと開いた冒頭の文章が、すでに読解困難だったのだ。
【抑本校由塾舎枩原家建天明八年。此塾舎称開明軒。家長見人之多斃於天明飢饉、故欲以学問救済世人】
「漢文だ、これ……」
樹が絶望的な声を上げた。
「何て書いてあるのか分かる?」
「分かるかよ……。俺たち、まだ漢文なんてほとんど習ってないだろ」
「だよね……」
柚と樹は、揃ってため息をついた。古典をやっと読めるようになったばかりの中学二年の国語の進度では、先生の助言なしで漢文を読むことなど叶うはずがないのだ。最初に取り付いた資料からこの有り様では、先が思いやられる。
でも、ここで諦めては本当に前に進まない。漢字の羅列に目がチラチラするのを感じながら、柚は本を手元に引き寄せた。
「分かんのか」
樹が尋ねてきた。とんでもない、と柚は首を振る。
「分からないけど、ところどころに読める部分があるような気がする。『天明』とか『飢饉』とか……」
興味が出てきたのか、樹は身を乗り出した。ちょっと貸してみろ、と本を柚の手から取って、経文のような文章に指を這わせていく。
「確かに、読めるな。本校──この学校は、天明八年にナントカ原の家が建てた、って書いてあるっぽい」
柚にも樹にも、ほのかな光明が見えた気がした。スムーズに読解することはできなくとも、単語の一つ一つから読み取れることはある。それを繋ぎ合わせていけば、内容を掴むことはできるかもしれないのだ。
二人は同じ部分を覗き込み、気合いの解析に取りかかった。
「そのナントカって漢字、何だろう。見覚えがないけど」
「電子辞書、使おう。手書き検索で調べられる」
「へぇ、これって『松』と同じ字なんだ……」
額を付き合わせている間は、目の前のものに夢中になれる。段々と楽しくなってきた。
昔、この場所には松原家という豪族の屋敷があった。
それが明治十九年に小學校令が発布された後、当時の拝島村に寄付され、高等小学校の敷地に転用された。『邸中學校』という校名は、のちに新学制への移行で中学校となったこの学び舎が、かつて屋敷だった名残を刻むために命名されたものなのである。
松原家の屋敷は移転し、校庭の大桜だけが往時を偲ぶことのできる遺物となった。桜は一般に『春待桜』と呼ばれており、これは室町時代に松原柄命という人物によって植えられたもの。苗字を持っているところからして、この男は武士の身分なのだろうか。
──それが、およそ二時間を費やして、柚と樹が『邸中學校史』から読み取ることのできた情報のすべてだった。
肝心要の春待桜の開花理由については、『然其理由、全不明』──何も分からないと記されているのみだった。途方に暮れかけた柚に、樹が提案した。
「その松原柄命ってやつのことが分かればいいわけだろ。だったら図書検索してみようぜ。名前入れて探したら、もしかしたら何か書いてある本が見つかるかもしれない」
「それじゃ、急がなきゃ」
時計を見上げた柚は、閉館時間まで残り十分しかないのを確認して席を立った。検索用のパソコンの前に樹が座り、松、原、柄、命、と入力する。
二冊の本がヒットした。一冊は邸中學校史で、もう一冊の名は『枩原伍代錄』。
「ほら、見つかった」
「本当だ……。慣れてるんだね、こういうの」
「まぁな」
少し誇らしげに言った樹は、配架番号をメモに書き取ると、郷土資料の棚へと足早に入っていく。その背中にちょっぴり頼もしさを感じた柚は、今日はもう無理かな、と思いながら邸中學校史をカバンに仕舞い込んだ。
西陽を浴びる鉛筆の影が、いつしか机の端まで届いていた。
オレンジ色の暖気が、ずっと向こうの太陽の方からゆっくりと対流してきている。
カラフルに染まったアスファルトの道を、校門を出た柚と樹はじっと見ていた。カラスの隊列が二人を冷やかすように、間抜けな声を上げて頭上の信号機から飛び去っていく。
「どっちなんだ、お前ん家って」
ふと、何気ない口調で樹が尋ねてきて、柚は少し焦ってしまった。『五鉄通り』の標識が見え、ようやく家路の方向を思い出す。
「あ、えっと、南に延びる道が正面にあるじゃない? ここをしばらく南に下っていくの。お祖母ちゃんの足で、だいたい十分くらい」
「基準はお祖母さんなのかよ。一緒に住んでんのか」
「うん。お祖母ちゃんと、二人きり」
樹が柚を振り向いてきた。「ご両親は?」
律儀に“ご”を付けるのか──。ふっと笑いを漏らしそうになりながら、柚は答える。
「両親はまだ都心で暮らしてるの。月島っていうところなんだ。私も一ヶ月前、月島にいた」
「じゃあ、お祖母さんは昔からここにいたんだ」
興味が出てきたらしく、樹は少し早口になってきた。
「そうだよ。都心にいたとき、喘息がひどくてね。少しでも空気が綺麗な場所に住みたいなって、両親はいま新居を探してるの。私だけはその間、お祖母ちゃんに引き取られて、拝島に住んでる」
「喘息、今もひどいのか」
「うん」
柚は少し、目を伏せた。
この町に来て症状は良くなったかと聞かれると、何とも言い難い。発作を起こす回数こそ減ってきたけれど、一回あたりの苦しみはむしろ、増大さえしている。
「あんまり変わってはいないよ。空咳も出るし、痰も喉に絡んだりするし」
ただ──。喉に手を宛がって、付け加えた。
「時々、咳とか痰に血が混じってることがあって、怖くなる。……血の色って怖いよ。ただの赤なのに、深く深くまで真っ赤な色をしてるから」
そっか、と樹は応じた。
引っ越しの経緯を梢に話してから、もう十日ばかり経っただろうか。内容は大して変わっていないはずなのに、樹に話した中身の方がずっと本当のことに近いように柚には感じられた。本当のことって、何だろう。感じたあとで不思議に思う。
新居はどこになるのか。せっかく出来てしまった昭島の友達との関係は、これからどうしよう。この病気は治るのか。春待桜は本当に咲かせられるのか。──不安と心配の種は、当分の間は尽きそうにない。
「……私も、聞いていい? 宮沢くんはどうして、みんなとか桜のことをあんなに疎んじてるの?」
流れる空気にそっと乗せるように、柚は問いかけを発した。
すぐに眼前を軽トラックが通過し、ほんわかと暖められていた空気は吹き飛ばされてしまう。だが、その直前に樹は柚の言葉を受け取ってくれていた。
「……あんまり、話したくない」
樹もまた、うつむいていた。
「話せない理由?」
「そんな感じ。話したら絶対、お前……」
「引かないよ」
「引くよ」
少しは信用してくれてもいいのに。同じくうつむいたまま、柚はちょっとだけ頬を膨らませる。
車の停止音がいくつも響いて、二人は信号を見た。歩行者信号が青く光っていた。柚が一歩を踏み出そうとすると、
「じゃあ俺、あっちだから」
吐き捨てるように告げて、樹は左に向かって駆け足で行ってしまった。
「あ」
呼び止める言葉も、だったら教えてくれれば良かったのにと詰る言葉もかけられぬまま、柚は樹の背中を見送った。肩からかけたカバンが、樹の背中で何度も跳ねて揺れていた。
樹の向こうにスーパーやマンションの影がぼうと滲んでいる。こうして見る背中は、やっぱりただのありふれた男子中学生でしかなくて。性格さえ良ければ──いつか抱いた印象が、胸をそっと撫でて通り過ぎた。
(……宮沢くんは嫌がるだろうけど)
柚は無言のまま、そっと、微笑みを作ってみた。
(私、頼りにしてるよ。宮沢くんのこと)
それからきびすを返して、自らの家路を見据えたのだった。
「知らなかったわ。……それじゃ、あの桜は、昔も戦火に飲まれたのね」
▶▶▶次回 『十六 隣席』