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桜の雨、ふたたび  作者: 蒼原悠
弐 アトラクテッド・ガール
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十四 夕刻の雪解け






 柚は、夢を見ていた。

 自分の喉が割け、胸が裂け、赤黒い何かが飛び出す。──そんな夢を見ていた。

 痛みと苦しみに柚は絶叫を試みたが、吹き飛んだ声帯から声が発せられることはなかった。酸素が供給されなければ、人は動くことができない。もがいて空をつかもうとした指が暴れ、鉄の臭いのする液体の海に柚は倒れ込んだ。その勢いで、血はさらに周囲に跳ねて散った。

 その様はまるで、強い風に煽られ(はかな)く地に散った、桜の花びらのようだった。


(私、こんな風に死んじゃうのかな)

 刻一刻と削られてゆく温もりとは対照的に冴え、明晰になってゆく頭で、柚は思った。根拠など何もないはずなのに、時を追うごとに実感ばかりが鮮明になっていった。

 どうしてこんな目に遭わなければならないのだ。たかが気管支喘息持ちで、軽い貧血気味なだけなのに。──思考は冷静になっていっても、一度抱いた直感は消えてくれない。ほうら、これがお前の憐れな末路さ。どこかからそう告げて、高笑いしているような気がして。

 不意に、どろりとした眠気が猛攻をかけてきた。血溜まりの中に身を埋めた柚の身体から、意識がゆっくりと剥離を始める。

(……ああ、もう──)

 混濁した意識は、ぷつん、と弾けるように消えた。




「あ」


 眩しい光が、頭上で柚を照らしている。

 柚は細い声を上げた。その声がカーテンで柔らかに跳ね返って、自分が教室にいないことに気づいた。自分の身体は、どこも裂けてはいなかった。

 昨夜由来の既視感が頭の中でガンガンと自己主張している。また、私、倒れたんだ──。ベッドから起き上がった柚は、仄かに薬品の香りのする保健室の中を見回した。窓際のカーテンの隙間から、目映いオレンジの輝きが差し込んで床を染めている。誰が柚をここへ連れてきてくれたのだろう。

 と、部屋の隅の椅子に、見覚えのある人が腰掛けて、居眠りをしているのが見えた。

 樹であった。

「宮沢……くん?」

 柚の呼び掛けが聞こえたのか、樹は薄く目を開き、膝に置いて枕にしていたカバンから顔を上げて、ぶんぶんと横に振る。それから改めて、柚を見直した。

「……もう、大丈夫かよ」

 ぶっきらぼうな言葉遣いは健在だった。

「うん……。さっきみたいに喉に痰が絡まってる感じもないし、息も普通にできてる」

 喉が焼けるような感覚を思い出しながら、柚は首に手をやって答えた。

 昨夜の状況と似ていたことを今にして思うと、あれは急性の発作のようなものだったのかもしれない。もしも学校でなく、市街地で起こしていたら……。そう思うと、背筋が冷えた。

「今は、いつ? 放課後?」

 うん、と樹は頷いた。

「保健室に運び込んだ時にはかなり落ち着いてたんだけど、お前をベッドに寝かせたら意識がまた沈んじまったみたいで。養護の先生に寝かせとけって言われたから任せて、授業には出てきた。今は先生、職員会議に行ってる」

 私、普通に寝ちゃっただけだったのか──。

 少し驚いた柚だったが、寝不足だったのかもと思い直した。発作の騒ぎのせいで、昨日は深夜まで起きていたのである。

 放課後、ということは。

「……もしかして私のために、わざわざ居残ってくれてたの?」

「一応だよ」

 髪をがりがりと掻いた樹は、部屋の奥のかごの中から柚のカバンを取り出して、ベッドのそばに歩いてきた。南に大きく開いた窓からの光が、眩しそうだった。

「先生には大丈夫だって言われたけど、もしも大事に至ったら大変だし……。お前がちゃんと復帰して帰るまでは、様子を気にしてようって思ったんだ」

 そっか、と柚はうつむいた。あんなに心の奥を焼いた憤りの炎は、もうどこにも見えなくて、代わりにいつもの臆病な自分が姿を現しつつある。

「心配かけてごめんね。……私、今日、こんなこと言ってばっかりだ」

 うつむいたまま謝ると、

「俺の方こそ、ごめん」

 樹は(かぶ)せるように言った。その声に湿り気の混じっているのに気付いて、柚は顔を上げた。

 え、と答えた柚から、樹は目をそらした。

「……知らなかったんだ。お前が喘息患者だったって。事情を聞かれたとき、上川原に言われて初めて知った。知ってたら、教室でケンカした時に襟つかんで喉を圧迫したりなんて、しなかったのに」

 そうか、と柚も思った。言われてみれば柚は樹に、喘息のことをカミングアウトしていない。それに樹に限って、梢を経由して伝わることもないはずだ。

 樹の落ち込んだ声を聞くのは初めてだった。樹は表情はこちらに向けたまま、視線の先だけは柚から外している。こんな顔をするんだ、と思った。

 不思議だ。その顔を見ていると、胸の中にほんの僅かに残っていたわだかまりが、陽の光を浴びた氷のように融けていく。

 樹の両手は太ももに押し当てられている。柚も布団の中で太ももを抱えて、スカートの裾をぎゅっと握りしめた。

「……しょうがないよ。ケンカって、そういうものだし」

「でも」

「私だって、偉そうに宮沢くんにあれこれ言えた立場じゃなかったもん」

「お前は悪くないだろ。ケンカの原因を作ったのも、お前を結果的に痛め付けたのも、俺だし」

「ううん、私が──」

「違う、俺が──」

 こうなってしまうとお互い引くに引けなくなる。なんだかかえって気まずくなってしまって、二人はしばらく、黙り込んだ。




 ……樹は真面目すぎる性分なのかもしれない。抱えた膝の温もりに、そんな考えが浮かんでいた。

 息を詰まらせ意識を失う前は、そんなことは思いもしなかった。


 つかみあった時、初めて樹の本音を聞いた。「独りで頑張るのがどうしてそんなにいけないんだ」「少しでも努力してマシな未来をつかまなきゃ」──と。

 思い返せば樹はいつも一人でいるとき、何かしらの努力に身を捧げていた。参考書を読んでいるとき、然り。テニスの壁打ち、然り。どんな理由があるのかは分からないけれど、樹はきっと孤独な努力家なのだ。頑張っているところに水を差されれば、誰だって快くは思わないだろう。まして生真面目な性格なら、自分のやり方を全否定されたとでも思うのかもしれない。

 そして、真面目だからこそ、こうして律儀に柚の様子を見守ってくれているわけで。

 そのことの是非を問える立場に柚は立っていないし、それくらい柚だってわきまえている。ただ、ずっと、知りたかったのだ。

(私にも、宮沢くんにも誤解がなかったら、こんなことにはならなかったのかも)

 柚は淡い息をもらして、窓の外へそっと目を向けた。こうやっていると、自分の心境のベクトルがどこを向いているのか、ちょっぴり分かりやすくなるように思えて。

 (かな)しさもある。でも、代わりに花開いた少しばかりの温かな感情が、体温をほんのりと上げてくれた。

 今まではまるで分からなかった樹の思考回路にも、ようやく理解が及ぶようになったのだ。仲が良くなれなくてもいい。そんな高望みなんてしない。それだけで、せめて少しでも隣人との関係を改善できたなら。

(でも、無理、だよね)

 こういう時、いつも弱気が強気を押しのけてしまう。が、そのチャンスは目の前から勝手に飛んできた。

「……その、さ。罪滅ぼしっつーか、何つーか」

 またも頭をがりがりと掻きむしりながら、樹は申し訳なさそうに頭を垂れたまま、柚の方を覗くように見つめたのだ。

「やっぱり俺、さっきのは俺が悪かったんだと思うんだよ。血まで吐きながら喉を押さえて苦しんでるお前の姿が、ちっとも頭、離れなくて……。自分勝手かもしれないけど、お詫びに何か、させてくれないかなって」

 律儀な性格がさっそく現れている──。咄嗟にそう感じて、なぜか可笑しくなって、柚は必死に表情を噛み砕きながらおずおずと尋ね返した。「何かするって、何を……?」

「分からないけど、勉強とか運動とかの類いなら俺、たいがい何でもできるから。それにお前さっき、俺のノート、見ようとしてただろ」

「あ、あれは本当に──」

「何か調べようとしてたんだよな」

 柚は表情を強張らせた。なぜ、それが分かったのだ。しかし問うまでもなく、樹は自分から答えを教えてくれた。カバンのチャックを開けて、一冊の本を取り出したのである。

「お前の机に、これがあった」

 『邸中學校史』だった。

「あんだけ古文とか歴史の授業中に苦しんでるお前が、調べ学習にでも取り組まない限り、こんな難しそうな本を読むわけないって思ったんだよ」

 呆気に取られている柚から再び目をそらして、樹は独り()ちるようにつぶやく。「……伊達に一ヶ月、隣で授業を受けてないから」

「で、でも、それだったらノート貸してもらうだけでも」

「ノートは見られたくない。勉強の過程を覗かれんのは嫌だ」

 そっか、と柚はつぶやいた。拒絶されたけれど、今ならそれはそれで筋が通っていると思えた。

 それよりも今は目の前に降ってきたチャンスで頭が一杯だった。樹の助力を得られるなら、これほど心強いものは他にない──。えっと、と一拍を置いて、確認の念を込めて再度聞き返す。

「え……。本当に、いいの?」

「いいよ」

 樹は即答した。感謝よりも申し訳なさが先に柚の頭を過ったのは、そのせいかもしれない。

「……ごめん、また負担、増やしちゃって」

 そっぽをぷいと向いて、樹は言葉を重ねる。

「だから、いいって言ってんだろ」

 無愛想な声に混じった険の角が、やや、取れてきていた。返す言葉が思い付かなくなって、柚は黙って頷いた。そうしたら自然と、顔が綻んだ。

 安心すると睡魔が忍び寄ってくる。いや、発作で血痰を吐いたせいか。どちらにせよ、疲れが──。




 楽しそうに放課後の時間を遊ぶ中学生たちの声が穏やかな風に乗って、校庭に向いた大窓から流れ込んできている。お互いに沈黙したまま、一分ほどの時間が二人の間を流れていく。

 耐え切れなくなったのか、ようやく樹が口を開いた。

「……で、それ、いつからやるんだよ。俺にも部活とか色々あるから、いつでもできるってわけじゃないけど」

 柚は返事をしない。

 おい、と樹が急かしたが、やはり返事をしない。その段になってようやく樹は、柚の方を見た。

「中神?」

 柚は、眠っていた。

 身体を起こしたままの姿勢で目を閉じて、静かに寝息を立てていた。焦りを覚えていたのか、樹は長い長い息を吐き出した。

「脅かすなよな……」

 ぼやきながら、背中に手を当てて肩を押す。そうして柚をベッドに寝かせると、今度は小さく、嘆息した。

 養護の先生が戻ってきたら、あとのことは任せればいい。

 柚に落とす目線の筋が、少し、和らいでいた。


 柚と言い合い、啀み合い、真正面から向き合った時間が、樹にとってどんな意味を持つものだったのか。

 その真相を柚が、そして樹自身が知ることになるのは、まだしばらく先になりそうだった。









「……私も、聞いていい? 宮沢くんはどうして、みんなとか桜のことをあんなに(うと)んじてるの?」


▶▶▶次回 『十五 共同作業』

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