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桜の雨、ふたたび  作者: 蒼原悠
弐 アトラクテッド・ガール
16/69

十三 衝突、衝撃





 図書室の閲覧机に、どんと鈍い音がこだました。


「こんな、もんかな……っ」

 大きな本を置いた柚は深呼吸をして疲労を癒しつつ、一仕事を終えたような気分に浸りながら本の表紙を眺めた。『(やしき)中學校史(ちゅうがっこうし)』とある。郷土資料コーナーを漁っていて、見つけたものだ。

 春待桜が何百年の樹齢を持つ大木である以上、この学校の歴史とも無縁では有り得ないはず。それなら『邸中學校史』を読んでみよう──。柚はそう考えたのである。それにしてもなぜ、一介の公立中学校でしかないはずの邸中学校にこんなに立派な史書があるのか。

 果たして、その中身は。期待と不安のマーブルに染まった心で、柚は最初の項を見た。そして、そこに並ぶ文章が小難しい漢字の羅列なのを目にして、いきなり読み止まってしまった。

「なに、これ……」

 柚は並ぶ漢字を前に、呆然とした。相当に古い本なのか、紙はやや黄ばみ、印字されている文字もぼやけている。何より平仮名が見当たらない。──否、ある。小さなカタカナが、漢字の下に連なっている。漢字と照らし合わせてみると、どうやら古文と同じ読み方ができそうではあるが、だとしても語順がめちゃくちゃだ。

 他は、他のページは。(わら)をもすがる思いであちこちのページをめくるが、どこもかしこも同じ調子で漢字が隊列を作っている。まるで中国語のようである。柚の手には負えない予感が、早くも漂い始めた。

 いや、まだ諦めるのには早い。柚は懸命に食い付こうとした。

(こんな立派な本が書かれるほど、この学校の歴史は長いんだ。だとしたらいつからあったんだろう。えっと、今みたいな学校の制度になったのは、戦争が終わったあとだったっけ……)

 乏しい歴史の知識をフル活用して、必死に推理する。書いてあることの中身さえ推測できたなら、それを手がかりにしてこれを読み解くことだってできるかもしれないのだ。

 しかし十分も経った頃には、柚は敗北を認め、机に突っ伏していた。

 こんなにも証拠に欠ける推理だけでは、さすがに埒が明かなかった。柚になすすべはない。せっかく見つけたのに読み方が分からないなんて──。何だか無性に、泣きたくなった。

 かくなる上は先生に頼るしかないか。目の前に立ちはだかる壁の高さを全身で感じつつ、柚は本をカウンターに持って行って、貸出手続を済ませる。そうして、図書室を後にした。

 ともかくどんな手段を使ってでも、この中身が分かりさえすればいいのだ。小さな一歩の積み重ねこそが、大きな仕事を可能にするはずだから。


 教室に戻ってきた柚は、自分の机にそっと本を置いて、椅子を引いて腰かけようとした。

 その時、ふと樹の机を盗み見た。樹はトイレにでも行っているのか、今はそこにはいない。

(ノートがある)

 裏返しになって置かれている黄色い背表紙のノートを、柚は手に取った。樹が置きっぱなしにしたものに間違いなかった。表紙の面の下部に、小さく小さく名前が刻まれていた。

 何の教科のノートだろう。軽く確認するくらいの気持ちでこっそり中を覗いてみると、国語、それも古文のノートのようだった。古文を訳す時の作法やコツや必要な単語のメモ、文法の仕組み、背景知識の確認……。目が痛くなるほどの知識が、綺麗に整った文字で丁寧に緻密に整頓されている。もちろん、つい先ほどの授業で進んだ分まで。

「これ、すごい……」

 内容が苦手でノート作りにも苦戦していた柚は、羨ましいやら感心するやらで、嘆いた。

 こんな美しいノートがあれば、柚の理解だってもっと進むだろうに。

 樹はどの教科も完璧だ。何を聞かれたって、正解を即答する。これまで純粋な感心を覚えるばかりの柚だったが、その完璧さの根拠をこうしてまざまざと見せつけられると、もはやぐうの音も出ないのだった。

(そうだ。ちょっとだけ、ノートを借りて……)

 机の隅に積み上げられていた『邸中學校史』を、柚は手にした。樹のノートという指標があれば、少しでも読み進めてられるのではないのか。そう考えたのである。

 分厚い本を再び開くと、そこには難解な漢字とカタカナの淵がぽっかりと開いて柚を待ち受けている。ノートを開いて、柚は最初から文字を追い始めようとした。

 その時である。

「……おい、中神」

 低い声に柚が顔を上げた瞬間、大きな腕が眼前を勢いよく通過した。

 ばさぁっ!

 ノートがつまみ上げられ、舞った縁が鼻の頭を掠める。痛っ、と柚はすぐに鼻を押さえたが、その様は声の主には見えていなかったに違いない。──そう、樹が戻ってきたのである。

「お前、なに勝手に他人(ひと)のノート見てんだよ」

 背後に立っていた樹は、取り上げたノートをばたんと勢いよく閉じたかと思うと、その目で柚を睨み付けた。振り返った柚と視線が鋭く交差して、冷徹な声が柚の体を深々と貫いた。

「最低だな」

 言い返せない。肩に首を(うず)めながら、ごめん、と小さな声で柚は謝った。勝手に覗き見た柚の側に非がある。

「その、私、古文は苦手だったから……。立派なノートだなぁって、つい見入っちゃっただけで、本当──」

「別に謝れなんて言ってねえから」

 柚の謝罪を樹は一撃で跳ね退()けた。そうして、叩き付けるようにノートを机に置いて、氷のような視線を柚に注いだ。

「俺に関わるなって言いたいんだよ。謝らなくていいから、俺に話しかけんな。俺の私物にも触るな。そんだけ」

 それは、今までの柚の行動の全てに対して言っているのだろうか。柚は三行半(みくだりはん)でも突きつけられたような気分になった。

 確かに、今まで何度も話しかけようとしていたのは、おおむね柚のためと言ってよかった。拝島(ここ)に来てからまだ一ヶ月、柚にはまだ知らないことがたくさんあるし、だからと言っていつも梢や林たちに質問できるわけではなかったから。

 でも、いつも孤独に過ごしている樹に対する同情だって、決してゼロではなかったのに。それがそんなに嫌がられていたなんて。

 さも不愉快そうに足音を立て、樹が椅子に座る。胸に渦を巻く粘着質な不安を破りたくて、柚は言葉を重ねようとした。

「でも、宮沢くんは──」

「人の話、聞けねえのかよ。バカ」

 わざとらしく唾を飛ばすように、樹は柚の言葉を切り捨てた。

 樹にしてみれば、それは少し強めの語気で柚を突き放した程度の認識だったのかもしれない。だが、その言葉選びが柚の中の何かをカチンと切り替えた。うつむいたままの柚の声色に、ほのかな熱がこもった。

「……バカは、言いすぎだと思う」

「何が言いすぎなんだよ。言われたことも守れないバカだろ」

「そんな言い方されたら、私だって気分悪くなるよ。宮沢くんは他人のこと、何だと思ってるの」

「知るかよ」

 初めて樹の言葉に怒りの音色が混じった。が、柚を見上げた樹の瞳に微かな揺らぎが生じたのを、柚は確かにその目で確認した。

 うなだれた姿勢のまま、柚は続ける。

「さっきだって、ちょっとノート、借りていただけじゃない。先に謝らなかった私が悪いのは分かってるけど、『最低』まで言わなくたって……いいじゃん」

「お前──」

「宮沢くん、わざと相手を敵に回したがってるみたいにしか見えないよ。そんなんだから……」

「いつも独りなんだよ、って言いたいのかよ」

 答える代わりに柚は樹を睨み返した。睨み返したことで、自分の気持ちの整理がすんなりとついた気がした。(さと)そうとしているのではない。柚にだって、溜め込んできた不満がある──。

 何もかもを氷結させるような樹の瞳と、燃え上がらせるような柚の瞳が、空中で接触して火花を上げている。教室の一角で(くすぶ)る黒々とした空気に、その段になってようやくクラスメートたちは勘付き始めた。ざわざわと周囲を包み込むさざめきの中、二人は真っ向から対峙している。

「俺が独りなののどこが不満なんだよ」

「不満だなんて思わないよ。嫌なの。お節介かもしれないけど、私はそんなの嫌だ」

「お節介に決まってんだろ!」

 樹が怒鳴り、ガンと机を蹴って立ち上がった。その威勢に柚は一瞬たじろいだが、すぐに気を持ち直した。──樹は強がっているだけなのだ。まるで、小さな子供のように。

「そうやってみんなを避け続けて来たんだね」

 敢えて挑発するように、柚も声を張った。少しは震えを誤魔化せただろうか。

「いつまでそうやってるつもりなの? 私はどうせあと一ヶ月で離れちゃう身だけど、中三になったら、高校生になったら、周りの子たちはずっと周りにいるんだよ!」

「俺が一番嫌いなのは、お前みたいにごちゃごちゃうるさい奴なんだよっ!」

 眼光がぎらりと銀白色に輝いたかと思うと、一歩を踏み出した樹は柚の襟をつかんだ。

 瞬間、襟に引っ張られた首が絞まり、息が苦しくなって柚は目を閉じそうになる。苦しい。怖い──。

「やめっ……て……」

「たかだか一ヶ月を過ごしただけの転校生が、知ったような態度を取んなよ!」

 取り巻きから上がった悲鳴のような声を、樹はその声で圧し潰した。柚は細い腕で樹にしがみつき、抵抗する。尚も睨むことを止めない柚に向かって、樹はさらに(わめ)いた。その瞳が蛍光灯を幾重にも反射して、痛いほどの光を放って。

「独りで頑張るのがどうしてそんなにいけねえんだよ! 群れたら何かが()せんのか? 群れてて楽しけりゃそれでいいのか⁉ お前らと違って俺は、少しでも努力してマシな未来をつかまなきゃいけねんだよ! お前なんかに──お前らみたいな呑気に暮らしてる奴らに、俺なんかのことが────っ!」


 その時、咳が引き()るような不気味な声が、教室の片隅に響き渡った。


 樹の言葉は途中で止まった。締め上げている柚の様子が、急変したのである。

「げほっ────ッ!」

 何かを含んだその咳を最後に、突如として息が詰まり、空気の出入りが完全に遮断されて。

 樹の腕から力が抜け、振り払った柚は苦しみの形相で喉に手を伸ばした。駄目だ、全く喉を通らない。呼吸が、できない。意識が早くも朦朧とし始め、昨晩の苦痛が脳裏を強烈な速度を伴って通過してゆく。

(誰か、助け、…………っ)

 足から、指先から、力が消えていく。柚は膝からその場に崩れ落ちた。ばたばたと周りに何人ものクラスメートが集まってくる。大丈夫⁉ 苦しいの⁉ ──色んな声が飛び交ったが、柚の耳にはほとんど届きはしない。

 誰も手を出せないかと思われた刹那、

「──くそっ!」

 固まっていた樹がようやく動いた。うずくまる柚の肩をつかみ、背中に力一杯の平手を打ち下ろしたのだ。

 どんと音が轟いた。

「か……はぁ……」

 その衝撃のせいか、辛うじて息が通るようになった。すっかり涙目になりながら、柚は懸命に息をしようと喘ぎ、もがく。歯を食い縛った樹が、もう一回、と小さな声で宣告した。柚が頷いたのを確認して、背中を何度も叩く。

 柚は激しい咳を繰り返した。痰のような何かが口を飛び出して、床に叩き伏せられた。

 揺らぐ視界の先に、馴染みのある泡交じりの桜色が散って滲む。

「はぁ……っ、はぁっ……!」

 痛々しいながらも安定し始めた呼吸の声に、危機が去ったのを一同は悟った。たちまち、容態を気遣う声かけが飛び交った。

「柚ちゃん大丈夫⁉」「まだ苦しい⁉」

 柚はそのたびに、大きく大きく首を振って肯定してみせていた。苦しいのは事実で、大丈夫なのは事実ではなかった。

 誰かが呼びに行ってくれたのか、甲高い声と共に教室のドアが弾け飛びそうな勢いで開き、他の生徒たちに伴われて上川原が駆け込んできた。床に飛び散った赤色の痰と、その一歩後ろに(くずお)れて動けない柚。その背中を擦りながら、柚の顔色を窺う樹。人垣に囲まれた現場の様子を見るなり、上川原は声色を落ち着かせながら尋ねた。

「何があった、宮沢」

「いきなり喉を詰まらせて、倒れました」

 樹の声も沈着だった。わざと低く抑えて、動揺を隠しているのは明白だった。

 だが、上川原は尋ね返すことはせず、柚の様子を窺った。

 当の柚は床に手をついたまま、掠れた息を辛うじて出入りさせていた。危機を脱したとは言え、満足に受け答えのできる状態ではない。

「──俺、保健室に連れていきます」

 樹はきっぱりと言った。それが現状、最善の策と言えそうだった。

 上川原の視界に、青い顔で立ちすくむ林が映る。

「築地、宮沢に手を貸してやってくれ」

 弾かれたように頷いた林が、樹の隣にしゃがみ込んだ。

 柚の右肩を、樹はそっと持ち上げる。柚はぐったりとしながら荒い呼吸を続けている。いまだ意識の戻りきらない、その口元についた赤い鮮血に、息を呑む音が重く反響した。

「先に行って、保健室に話をつけてくる。絶対に途中で落としたりするなよ」

 釘を打ち込んだ上川原が、一足先に教室を出た。肩を担いだ樹と林が、無言のままその後を追う。教室には放心したようなクラスメートたちが残されるばかりだった。

 床にぽつんと置き去りにされた血痰の桜色が、不気味なほどに鮮やかだった。








「……私、今日、こんなこと言ってばっかりだ」


▶▶▶次回 『十四 夕刻の雪解け』

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