十二 はじめの一歩
気が付くと、柚は真緑の空間に、たった独りでぽつんと佇んでいた。
明らかに現実世界ではないその空間に自分が立っていることに、柚は不思議と疑問を覚えることはなかった。
(息、苦しくない)
喉に手をやる。忽然と消えた苦痛の軌跡を指でたどっていると、じきに黒い人影が一面緑の空間の中から現れた。
あの武者であった。
柚がその姿を確かに認め、思わず声を上げそうになったのと、武者が喋ったのは同時だった。
『かような場にて見ゆるは初めてに御座るな。中神殿』
柚の頭へと声を介さずに語りかけるように、武者の言葉は心なしかびりびりと細かく震動していた。初めて、の語をどうにか聞き取った柚は、それだけで返答を考えた。
「は、初めて……ですね」
『昼間、某が面前にて、学問所の主と談合しておったで御座ろう』
学問所の主、もしや校長のことか。やっぱり知ってたんだと思った。おずおずと控え目に頷くと、春待桜は空気が鼻腔から抜けるような笑い方をする。憐れむような、慈しむような、そんな笑みだったような気がした。
『あの者も一所懸命にて、桜を幾度も調べさせては方々に宛て伝手を頼り、生き永らえさせられる者がどこぞにおらぬかと探り続けて御座る。しかしてそれをおくびにも出さぬ。健気な男じゃ』
あののんびりした風体の校長が、必死の形相で電話をかけ続ける姿を想像するのは、少し、難しい。柚は何だか申し訳ない気持ちに駆られた。
そして同時に、武者の言うことが半分ほどは聞き取れていることに、驚きを隠せなかった。
(抑揚があるからかな、文章で読むより意味がつかみやすいや。古文の授業で扱うのよりも、簡単だし)
おまけに今は発作の苦しみに邪魔をされることもない。ちょっぴり喜んだ柚は、柚の返事を待っている様子の武者に、尋ねかけた。
「あの」
『如何した』
「その、教えてほしいことが……あるのですが」
武者は首肯する。その服装、顔の輪郭、着用した武具の風体。やはり間違いないと柚は思った。発作のたびに枕元に見ていた影の武者と、この男は同一人物なのだ。
──そしておそらく、柚以外の人物は誰も、この武者の姿を目に映すことができない。
「私のおばあちゃんにはあなたが見えないんです。きっと他の誰にも。私、その……選ばれたんですか」
柚は胸に手を当てて、その中で培ってきた疑問をぶつけた。「どうして私なんですか。私なんて、春待桜のことを知ったのも最近だし、伝説だってこの前ようやく初めて耳にしたばかりだし……。あなたの役に立てる自信だって、ないのに」
武者は考える時間を求めるように、少し、沈黙する。
聞いてはいけないことだったのだろうか。不安を受け流す先を求めて足元に目を落とした時、武者の低く落ち着いた声が地面伝いに響いてきた。
『……そなたは、春待桜に関心を寄せて呉れたで御座ろう。それが故じゃ』
思わず息を呑んでしまった。
『皆が学問所の庭を辿ひし折、そなたは黙して某を見つめておられた。学問所の主が桜を伐ると決めた矢先のことにて。我が命の散る前に桜を咲かさねばならぬ、されど某にはその術が分からぬ……。然るに、そなたを頼みたく存じ、声をかけた次第』
「術が分からないって、なんで」
『覚えておらぬ。思い出せぬのじゃ』
武者の声は苦しげだった。『我が主に銘を仰せつかって、幾年月。あまりに時が経ち過ぎたほどに、某、最早そのしるべを見失って御座る……』
ということは、柚は『春待桜の開花条件の解明』までも求められていることになるのか。
無理だよ、と思った。そんなことは無理だし無茶だ。そんなことならなおさら、よそ者の柚ではなくて長く拝島に住んでいる人を選んでほしかった。
(私には、そんなの……!)
柚は目線を上げられなくなってしまう。宥めるように武者が、手立ては御座る、と口にした。
『某の主は、この地の戦にて功のあった者なり。某には見当はつかぬが、後の世の書物にも何某かは載っておろうと存ずる。されば文庫へ行き、書を求めてみるが上策じゃ』
さっきより言葉が難しくなったような気がして、柚はしかめ面をした。文庫……もしかして学校図書室のことだろうか?
と。武者の影が急に、ゆらりと不安定に傾いだ。
『いかん、中神殿。某は身を引かねばならぬ』
「えっ、ちょっ……」
引き留める間はなかった。手を伸ばした柚の前で、武者は厳とした声を張る。
『然らば、再び』
「待って────」
まだ、具体的に何を読んだらいいのかも聞いていないのに! ──柚の心の叫びも虚しく、武者の姿は背景の緑色に溶け込むように、忽然と消え去った。
「────ちゃん! 柚ちゃん、目が覚めた⁉」
懐かしい声がする。
はっ、と柚はまぶたを開いた。見覚えのない景色を目を瞬かせていると、その視界の縁から不意に梅が現れた。無意識に「わっ」と声が出てしまった。
「良かったわ、意識が戻ったねぇ」
梅が甲高い声を上げる。まだ少し軋みがちな身体を起こして、柚は周囲を見渡した。いま柚が寝ているのは純白のベッド、正面には机とパソコン。机の上に放り出されているのは、聴診器のようだ。
「おお、やはり大丈夫でしたな」
机の脇に腰掛けていた白衣の医師が、ほっと息を漏らしてそう言った。
胸元のネームプレートには、『内科医 経塚朸』の文字。
(そうか。私、おばあちゃんの言っていた内科さんへ運ばれたんだ)
ようやく事態が飲み込めた柚のことを、梅は今にも泣きそうな表情で見つめている。言った通りでしょう、と経塚医師が口を挟んだ。
「意識を失ったのは、貧血のせいでしょうな。中神柚さん、最近の食欲はどうですか」
「……普段と変わらない、はず、ですけど」
「鉄分を含む食べ物を多く摂ることです。血合いの肉なんかがいい。例えば、レバーとか」
柚は顔を引きつらせた。レバーは苦手なのだ。冗談ですよと笑った医師は、梅に視線を移す。
「喘息の持病がおありだそうですな。お借りしたおくすり手帳を元に、発作の薬を出すことにしました。処方箋は渡しておくので、そこの薬局で明日にでも受け取ってください。なに、意識が飛んだのは貧血のせいで間違いありません。時間が経てば何とかなりますから、安心を」
「本当に、毎度毎度ありがとうございます」
「呼吸器内科の人間ではないので専門外ではあるが、気になる事態が起きたら、また来なさい」
すみませんすみませんと、梅はぺこぺこ謝ってばかりである。
今度の発作では、梅にずいぶん負担をかけてしまった。
病の孫娘を預かるに当たって、梅はどれだけの覚悟で臨んでいてくれているのだろうか。柚には察するべくもないのかもしれない。明日以降の食事に鉄分が急増する予感を胸の中で持て余しながら、あとでありがとうって言わなきゃ、と柚は思った。
春待桜云々以前に、そもそも柚は病人として昭島にやって来たのである。まずは、自分の身体。話はそれからだ。
(学校の図書室、か……)
数メートル先の壁に空いた窓を、柚はちらりと見た。
朧に輝く月の光が、磨りガラスの表面でゆらゆらと揺れていた。
◆
火曜日の四時間目は、国語の授業である。
「では、今日の授業はここで終わりにする。次の単元の『竹取物語』までを読み進めておくこと」
上川原は国語の教科書をぱたんと閉じて、教室を見回した。起立、礼と日直の声が響いた瞬間、付け加えて言及しなければならないことがあったのを思い出した。
「──ああ、言い忘れていたが各自、期末に向け勉強を進めているだろうな。間もなくだぞ」
今ごろ付け加えても遅いか、と上川原は嘆息した。昼休みを報せる鐘の音が高らかに鳴り響き、ものの数秒で教室からは半数の生徒が消えてしまった後だ。
ああ見えても定期試験の勝手知ったる中学二年生である。あまりうるさく言っても、煙たがられるだけかもしれない。
すくめた肩を戻し、さりげない体を装って、上川原は教室の端の方を覗き見た。柚の姿はない。友達と遊びに出ていったのだろうと考え、二度目のため息をこぼした上川原は──柚の隣の席へと向かう。
「宮沢」
上川原に名を呼ばれ、樹は古典のノートから顔を上げた。
嫌なものに見つかったと言いたげな目が、もう既に上川原の存在を拒絶しようとしている。馴れたことなので、上川原は気にも留めずに話しかけた。
「もう一ヶ月になる」
「……何の話ですか、先生」
「そんなことを言うな、分かっているんだろう。宮沢に隣人が出来てから、一ヶ月だ」
そうですねと樹は他人事のように答え、ノートに目を落としてしまう。
上川原は三度目のため息を飲み込んだ。隣人がこれだから、柚のことが余計に心配になるのだ。授業のたびに樹の隣で肩身を狭そうにしている柚を見ながら、いつ切り出そうかと上川原は気を揉んでいたのである。柚を樹の隣に座らせてしまった上川原にも責任の一端はあるのかもしれないが、お願いだから樹にはもう少し、親切で優しい振る舞いを心掛けてほしい。
「宮沢」
「今度は何ですか」
「中神と、上手くやっていけそうか。たまたま空いていたから宮沢の隣にしてしまったが」
「はい、って答えたら、先生は納得するんですか」
樹は顔も上げずに尋ね返してきた。上川原の意図は、まるで筒抜けのようである。
「別に……普通、ですよ。話し掛けてこようとするのはちょっと鬱陶しいけど、転校生なんだから仕方ないし。そのくらいの分別は俺にだってつくんで」
樹の答えた言葉に、そうか、と上川原は返した。他に返す言葉が思い付かなかった。
分別がついているようには見えなかったから不安を覚えているのに──。とは言え、柚はどうやら周囲と打ち解けているのみならず、樹に対しても少しはアプローチをしているらしい。それが分かっただけでも成果とするしかなさそうだった。
(あと、一ヶ月。それならば中神も持つだろう)
少し重さの減った不安を柚の机の上に置いて、上川原は樹に声をかけた。
「期末、頑張れよ。期待してるぞ」
「満点はもらいますから」
樹は低い声で即答した。かわいげのない返事に、上川原も今度はため息を我慢しなかった。
去っていく上川原の背中を、表を上げた樹は暫し、じっと見ていた。それから、つぶやいた。
「……お節介なんだよ」
普通ですよと上川原には答えたが、そんなものは樹の本心ではない。そう答えれば上川原が黙ることなど、それこそ樹には手に取るように分かっている。
言えるのならうるさいと言いたい。樹が無反応なことくらい、柚もそろそろ悟ってもいい時分なのに、柚は性懲りもなくコンタクトを取ろうと躍起になっている。樹の目にはそう映っている。
俺は一人の境遇に満足してるんだ。だから邪魔しないでくれ。──それこそが、樹の本音なのだ。
(……ま、それを直接あいつに伝えられないでいる俺も、大概なんだろうけどさ)
冷めた心を抱えたまま、樹は古典のノートに再び目を通し始めた。
孤立の何がいけないのか。どうせ脆くて簡単に崩れるような人間関係なら、そんな安っぽいものなんか要らない。……期待なんて、したくない。
諦めたようにそんな思いを抱えるようになってから、果たして、どれくらいの時間が経ったのだろう。
「そうやってみんなを避け続けて来たんだね」
▶▶▶次回 『十三 衝突、衝撃』