十一 揺れる決心
昼過ぎに雨が上がってしまうと、狭い校庭には薄い湿気がふわふわと漂う。
梢は生徒会があって、他の子たちは立川まで遊びに行くらしい。そんなわけで取り残された柚は、久しぶりに独りで帰ることになった。
サッカー部の生徒たちが、校庭の奥で砂ぼこりを立てながらドリブルの練習をしている。その声に耳を傾けながら、昇降口で靴を履く。
一人だけだと、なんか視界が淋しいや──。
早く帰ろう、と思った。つま先を立ててかかとを靴に押し込むと、その足で校庭に出る。サッカー部のほかに活動している部活はないようで、半分ほどの面積が無人になった校庭は何だかひっそりとしていて、その真ん中に春待桜が立っている。
ふと、気まぐれで、柚は春待桜のそばへと近寄っていった。
このくらいの距離まで近寄るのは初めてだ。こうして見ると、やっぱり春待桜は途方もなく大きい。木の隣に立って、そっとその肌に触れてみる。ごつごつとした触感が、柔らかな手のひらを刺激する。
(結局、ますますナゾが増えちゃったな)
無言のまま、秘かに、ぼやいた。
『開花を見れば幸せになれる』とは梅から聞いていたが、縁結びの伝説となれば話は変わってくる。林のしてくれた話を疑いたいわけではないけれど、縁結びの神様やパワースポットなど、それこそ日本全国の方々に存在しているし、おまけにどれもこれも胡散臭い話ばかりだ。
柚は桜を見上げた。ざわざわと枝が一斉に風に震えて、漣のような清涼感が身体を撫でる。
(ねえ)
桜に手を当てて、尋ねてみる。
(夜な夜な私のところに来る『影』は、あなたなんだよね)
桜は答えない。
(『咲かせてほしい』って、あなたは言ったよね)
もう一度、問いかける。返事のないのは分かり切っていたが、柚は小さく息をついた。どんなに伝えたいことがあっても思うままに伝えられない。──桜はやっぱり、可哀想だ。
代わりに別の声が背後から飛んできた。
「桜が気になるのですか?」
柚は驚いて肩を跳ね上げた。聞き覚えがあると思ったら、声の主は校長だったのだ。
校庭の土を踏みしめて、校長は柚の隣へとやって来た。木に話しかけてるの、見られた──。柚は顔を上げられなくなってしまった。
「誰かと思ったら、中神さんでしたか。このあいだ転校してきた」
すぐに柚を識別した校長は、優しい声色で尋ねた。「どうですかな、学校生活は」
「……楽しいです」
柚は小さな声で答えた。それなら良かったと、強張りの消えた声で校長は応じた。
「あと一ヶ月ないとはいえ、つらい生活を送っていると言われれば我々もつらいですから」
隣の人がもっと普通の人だったらよかったのに。校長には言えない不満を、柚はそっと胸のうちでもてあそぶ。いちいちあんな突っかかり方をされては、いくら柚でもたまらないのだ。
(今回は私もちょっと、感情的になりすぎちゃったけど)
ちらり、と校長の顔色を窺う。転校したあの日から変わることのない穏やかな顔付きに、膨らみかけた憤りが穴の空いた風船みたいに萎んでいって、柚は気付かれないようにそっと嘆息した。
話しかければ無視され、話しかけられたと思えば文句ばかり。いったいいつになれば、柚と樹は良好な距離を保てるようになるのだろう。
せめて柚の側だけは、いつか分かり合える日が来るのを信じていたいけれど。
そよぐ風に洗われながら、黙って春待桜を見つめていると、それこそ無限に時を溶かせるような気がする。
隣に立った校長が、おもむろに口を開いた。
「中神さんもよく、こうして桜を見ていたのかね」
「そ、そんなには……」
「そうですか」
柚がおっかなびっくり横顔を確かめると、校長は懐かしそうに目を細めていた。
「私はよく、こうして桜を見ていてね。校庭の中央に陣取って不便ではあるけれど、私にはこの春待桜こそが、この邸中学校の芯のような気がしてしまうんですよ」
「この中学の芯?」
「そう。心の拠り所というか、支えというか。……そんなことを思うのは私ぐらいのものでしょうが、古くさい頭の持ち主なものでね」
校長は口元を歪めた。声色も淋しそうに歪んでいた。
桜が、微かに揺れている。可笑しそうに身体を揺らす子どものような幼さを感じた柚は、ふと、尋ねたくなった。
「春待桜の咲いたところ、校長先生は見たことがあるんですか?」
間を置いて、校長は頷く。
「もう、何十年も昔のことだがね。それはそれは美しい咲きっぷりでした。何百年もの間の我慢を晴らしたように、花びらを空へと舞い上げたのです」
ということは七十年前、校長も梅と同じこの場所から、春待桜の開花を見ていたことになる。
「あれからいっこうに咲く気配が見られないまま、とうとう邸中の閉校も決まってしまった」
校長は細く息を吐いて、地面へと視線を落とす。「あの麗しい開花の姿を、君のようなこの学校の生徒たちにも見せてあげたかったものです。それも叶わぬまま、あと一ヶ月もすれば伐り倒されてしまうことを思うと、残念で、残念で……仕方ない」
「…………」
「とは言え、まだ諦めるのには早いですからな。今もどうにかできる業者を探しておるところです。いい結果をもたらすことができればいいのだが」
言葉の割に、校長の声に元気はなかった。
春待桜は、風になびいて気持ち良さそうに揺れている。葉を、枝を、柚はじっと見つめた。
こんな暢気な風体をしていても、その身に起こる悲劇を桜は知っている。知っていながら知らないふりで、空に漂っている。
『某の主がため、花を咲かせてやりとう存ずる』──。影の武者の願いが胸をよぎった。
春待桜は咲かない桜。その春待桜が奇跡を起こして花を開いたなら、どれだけの人々が喜んでくれるだろうか。きっとすごくたくさんだ、と思いたかった。邸中学校の生徒たちも、拝島の街に生きる人たちも、あんなに春待桜の存在に愛着を覚えているのだから。
それに、たとえ誰もが春待桜の開花に興味を示してくれなくても、校長と影の武者だけはぜったいに喜んでくれる。──柚の挑戦の報酬は、すでに約束されている。
「私も、見てみたいです。春待桜が咲くところ」
柚は笑ってみせた。
「君もそう思いますか」
校長は嬉しそうに応える。
その何割ほどが世辞なのか、柚には知るよしもない。だから今は素直に、安心することにした。
柚はようやく、あの影の武者の依頼に向き合う決心を固めることができたのだ。
◆
とはいったものの、やる気がようやく膨らみ始めたからと言って、春待桜への疑念が消え失せたわけではない。
そもそも柚はこの街に来て僅か一ヶ月にも満たない、全くの新参者だ。街に何があるのかも詳しく知らず、未だに場所名だけを口にされても道が分からない始末である。今日に至る数百年もの間、昭島に住まう誰も遂げられなかったことが、柚ならば容易く叶うなどという道理はない。
「……それに、どうして私なんだろう……」
夜、布団を口元までかぶりながら、柚はもごもごと自問した。
切り倒される目前の春待桜の立場になって考えてみれば、叶うならば何かしらの縁のある人物に頼むのが筋のはず。だが、柚はあくまでも、桜と同じ町内に住む老婆の孫娘というだけ。
春待桜が教えてくれればよかったのだろうが、空気清浄機の緑色のランプが照らす先に、いつかの姿はない。もっとも、容易に言葉が理解できない以上、苦労の有無に変わりはないのかもしれない。
虚しくなりかけた気持ちを嘆息で吐き出した柚は、隣で眠る梅の横顔を、無言で眺めた。
穏やかな寝付きだ。
もしも孫娘が、ずっと昔から見たがっていたあの春待桜を見事に咲かせてみせたとしたら。梅は喜んでくれるだろうか。それとも『無茶はしないの』なんて言って怒るかもしれない。温厚な梅に限って、それはないか──。
喜んでくれるといいな、と思った。淡い笑い声を投げ掛けた柚は、もう一度、眠ろうとした。
呼吸が固まったのは、まさにその瞬間のことだった。
「────っ!」
咳が引っかかって声が出ない──。自らの身体に起こった異変に気付いた柚は、無言で叫んだ。発作だ。今夜もまた、発作を起こしたのである。
跳ね上げた布団が梅の上に落ち、梅が目を覚ました。彼女の寝惚け眼に映ったのはきっと、目の前で涙を流しながら大きな咳を繰り返す孫娘の姿であったに違いなかった。
「げほげほ、っご……ほッ」
柚は身体を曲げながら噎せる。普段の発作に輪をかけて、今度の症状は酷い。咳が止まらない。上半身を起こすこともままならず、両手を胸の前に添え、横向きになって咳を続けた。息が、苦しい。まるで柚の周りから、酸素が根こそぎ除去されてしまったかのように。
「大丈夫⁉ 柚ちゃん、しっかりなさい!」
目を真ん丸に広げた梅が、懸命に柚の身体を立ててくれた。どんどんと勢いよく背中を叩かれて、柚はようやく朦朧としていた意識が戻ってきたのを感じた。
「おばあ、ちゃん──っごほげほっ!」
「落ち着きんさい、おばあちゃんはここにおるからねぇ」
無限の息苦しさを必死に堪え忍んで、柚は小さく頷いた。真っ暗な部屋の中、襖を照らす幽玄な緑の光の環が、激しい咳と背後からの打撃のたびに大きく揺らぐ。
(あ……苦しさ、ちょっとましになってきた……)
安心しかかって気を緩めたのがいけなかったのか、すぐに咳が振り返す。強い空咳の反動で眼尻に涙が浮かんでいる。
柚は段々と、本気で泣きたくなってきた。
昭島に来て少しは快方に向かっていたはずだったのに。こんな調子で毎日のように少しずつ少しずつ、発作は厳しいものになってゆく。だとしたら最後、柚はどうなる?
何も見えない、感じられない闇の中に放り出されたように、苦しみながら死んでいくのか?
「柚ちゃん、病院に行きましょう」
梅はきっぱりと告げた。そして、無言でそれに頷いた柚に、なおも畳み掛ける。
「近くにね、遅くまでやっている行き付けの内科さんがあるの。ちょっと苦しいかもしれないけれど、大丈夫。内科さんならきっと何とかしてくれるからねぇ」
柚はもう一度、頷いてみせた。笑顔を浮かべるだけの余力が、今は僅かに残されていた。
そうと決まれば急がねばならない。寝間着のままでは寒いからと、梅はコートを取りに走る。その間に柚は自力で立ち上がって、壁にもたれかかった。肩で息をするたびに咳の発端が喉の奥から顔を覗かせて、柚はそれを何とか必死でこらえた。
ぱちんと電気がついた。乱れた布団の先で、空気清浄機は変わらず静かな音を立てていた。
──不意にその姿が、ぐらり、と傾いだ。
「はい、って答えたら、先生は納得するんですか」
▶▶▶次回 『十二 はじめの一歩』