九 ハルマチザクラ
中神家から邸中学校まで、梅のゆったりとした足取りで十分。二人は校門の前に立った。黄昏の暗いオレンジ色が、くたびれたような校舎の面を照らしていた。
柚にとっては今日二度目の登校だ。明日は土曜日なので学校は休み。校門はぴったりと閉じられて施錠され、あの桜は無人の校庭の真ん中でさわさわと揺れている。あれだよねと目配せをすると、梅が口を開いた。
「──ハルマチザクラって言うのはね、『春を待つ桜』って書くの」
柚の予想は当たっていたようだった。その喜びを歯の奥に仕舞い込んで、柚は話の続きに耳を傾ける。
「あの桜を植えた人が、そう名付けたって言われているのよ。校庭には他にも桜が植わっているけど、あの一本だけがヤマザクラっていう天然の品種でね。残りはぜんぶ、最近になって植えられたソメイヨシノなの」
ほら、と梅が指差したのは、校庭の周囲をぐるりと取り巻く木々のシルエットである。目を凝らして比較してみたが、柚には違いはよく分からない。外見は似ているからねぇ、と梅が言い添えた。
「でも、あの桜にはもっともっと大きな特徴があるの」
「もっと大きな特徴?」
「ええ」
校門の柵に寄った梅は、桜をじっと見つめた。春待桜が、今度はざわざわと揺れている。
「あの春待桜は、もう長いこと、咲いてないの。毎年のように律儀に葉を出して落として、花のつぼみまで付けているのに、一度も咲かないのよ」
思わず柚は懐疑的な目になった。果たしてそんなことが、生物学的に有り得ていいのだろうか。
柚の疑念を見抜いたように、梅の視線が少し下を向く。
「簡単には信じられないでしょう? でもね、この辺りでは有名な話なのよ。春待桜は咲かない桜、咲いたのを目にした人々は幸せになれる。恋人同士で見れば、二度と離れることはない。……ってねぇ」
揺れる春待桜をじっと見つめながら、梅は語る。その瞳に映っているのは、いつの光景なのだろう。ふと、柚が疑問に思った時、梅の声が収束するように柔らかくなった。
「今でも覚えてるわ。最後に咲いたのは、終戦前の昭和二十年。あの時のわたしはまだ女学生で──この桜が咲いたのを、この目で見たの」
「えっ」
柚は反射的に聞き返していた。「じゃあ、咲かないわけじゃないんだ」
実際に咲いたことがあるのなら、あながち作り話とも言えないように思った。が、梅がすぐに付け加えてしまう。
「そうとも言えないねぇ。記録が録られ始めてから桜が咲くまで、百年以上も空白期間があったらしいからね」
「ひゃくねん……」
「どうしてわたしたちが咲いた姿を見られたのか、未だにわたしたちは誰も知らないの。でも、あの桜が咲くとどんなに綺麗なのかは、わたしたちはよくよく、知っている」
梅は、うっとりと目を閉じた。
「あの大きく広げられた枝に、びっしり淡い色の花がつくの。そうして、風に吹かれて優雅に空に舞い上がって、やがてゆっくりと街の中に降り注ぐのよ。何かに例えるとするなら、そうね……」
一拍、置いて。
「桜の雨、かねぇ」
柚はただただ圧倒されるばかりだった。気付いたときにはひとりでに、へぇ、というつぶやきが漏れていた。
桜の花びらが雨のように降り注ぐなんて、にわかに信じられるはずもない。どんな桜の名所でも、どんなに桜が集中群生していても、散るタイミングにはばらつきが生まれるから雨のようにはなり切らない。
でも、梅の表情を見ていると、信じられるような、信じなければいけないような、そんな気持ちに駆られる。
雲間に覗く夕陽の光を枝に受けて、いっぱいに広げた枝を太い幹で束ねあげた春待桜の姿には、まるで今すぐにでも花を満開にさせてしまいそうな強さが感じられる。話は終わったのだろうか。梅はその姿を、満足げな顔つきで見ていた。
春待桜は咲かない桜、咲いたのを目にした人々は幸せになれる──。
その横顔に、柚は無性に尋ねたくなった。
「……おばあちゃんは、幸せになれた?」
「どうでしょう」
梅は春待桜を見つめたまま、含みのある答え方をした。
「幸せになれたかどうかは分からないねぇ。あの頃はわたしにも、大切な想い人がいたんだけれど……」
それ以上の答えを口にしてはくれなかった。
さ、今夜も夜から雨が降るらしいからね──。梅に急かされるようにして、柚は春待桜の前をあとにした。
◆
ぴちょん。──どこかで、水音の跳ねる音がした。
静寂を破壊するのがためらわれて、柚は布団に潜りながら思慮に耽っていた。深夜二時の、静まり返った寝室の中。雨のおかげで蒸し暑く、今夜も素直に眠りに入り込むことができずにいる。空気が乾いていると息苦しいから、あまり文句ばかりを言ってはいられないけれど。
(桜の雨、か……。綺麗なんだろうな……)
ふとした瞬間に、毎日のように目にしている春待桜の立ち姿がまぶたに浮かんだ。梅の言ったことを否定なんてしたくないが、本当だとすると理解できない点がいくつもある。
だいいち、どうしてそんなにも長い間、春待桜は咲かないでいられるのだろう。
作られてしまったつぼみはどこへ行くのだろう。
桜に人格があるのだとしたら、春待桜はよほどの気まぐれなのか。それともなまぐさ坊主なのか。桜の擬人化って、なんかかわいいな──。思い至ったら可笑しくなって、柚はくすりと笑った。
その弾みで、咳が口から飛び出した。
「けほ、けほっ」
それが引き金だと気付いた時には遅かった。息が、一気に苦しくなった。
「発作──だ──」
喉を押さえ、柚は訴えた。
息を吸い込んだ喉がひゅうひゅうと鳴る。ついさっきまで、何ともなかったのに。げほげほと咳を繰り返して僅かな酸素を必死に取り込みながら、柚はとにかく冷静な判断を取り戻そうとした。
この前のように梅を起こしてしまわないように、よろめきながらもそっと立ち上がって、ふと、部屋の奥を見る。今日も今日とて作動させてあった空気清浄機が、空気と一緒に低い音を吹き出していた。
そのランプの放つ緑色の光の中に、処方されている薬のあったのを思い出す。居間に置いてあったはずだ。
「クスリ、飲まなきゃ……げほっ」
確認の意思を込めてつぶやいた、その時。
何となく、ただ習慣的に、柚は作動ランプの照らす先を振り返った。
あの影が背後でゆらめいていると知っていたら、そんなことはしなかった。
人影が、あった。あの侍のような出で立ちで、すぐ真後ろから柚のことを見下ろしていた。
「────!」
不意打ちだった。驚愕のあまり咳が激しくなって、柚には悲鳴を上げることすら叶わなかった。
まただ。また、あの影だ。不安定にふらつくその姿はまさしく、数日前のものと同じだ。
おばあちゃんは──。ところどころが見えない暗闇の中で、狼狽えながら柚は梅の姿を探した。梅ならばどうにかしてくれるかもしれない。そうだ、どうして今まで思い付かなかったのだろう。梅は柚の来る前からずっとここに住んでいるのだから、もしかすると何か知っているかもしれないではないか。
梅は例にならって柚に背を向けたまま、安らかに寝息を立てている。
「おばあちゃん、おばあちゃん──」
柚はしゃがんで、眠る梅の肩を数度ほど揺すった。だが、よほど熟睡しているのか、梅はぴくりともしない。普段なら発作を起こした柚にすぐに気がつき介抱してくれるのに、どうしてこういう時に限って──。
すると、あの太くて低い男の声が、頭蓋骨の内側で響き渡った。
──『止めよ。無理に起こすには及ばぬ』
以前と違って、今度は鮮明に聞こえた。
この期に及んで、それが古語であることに柚は気付いた。最悪だった。古文は柚のもっとも苦手とする教科だというのに。
ただ、ニュアンスから言って、手を離すことを求められているのだろうと思った。
「…………っ」
ひゅうひゅうと息が鳴る。宥めるように深呼吸をしながら、柚は梅の肩から手を離した。
──『それでよい』
影は言った。これで良かったらしい。だが、次は──。柚は怯える目で影を見つめた。するとそれまで姿勢の覚束なかった影が、すっと姿勢を正した。
腰の脇に差された二振りの刀が、かちゃかちゃと軽快な音を響かせた。
──『いつぞや見えし時は申し遅れた。某、春待桜の盟を司る者に御座る。そなたが桜の由緒を知りてのち、頼みたき義がありて折りを窺って御座った。何分かような出で立ちなれば、夜半の訪れとなるも御免仕りたい』
影が口にした『春待桜』の名前を、柚は聞き逃さなかった。
それ以外のセリフの中身はちんぷんかんぷんだったが、この影は春待桜に関連する何かなのかもしれない。こちらが話しかけたら、伝わるのだろうか。
「あ……の……」
話しかけようとして、すぐにそれが無謀な挑戦だと思い知らされた。相手の正体云々以前に、口を開けると途端に息苦しくなってしまう。柚の発作はまだ、治まっていないのだ。
げほげほときつい咳を吐く柚に、影は続けて言葉をかけた。
──『そなたに声を掛くるは別の事でない。そなたはまだ知らぬであろうが、あれなる桜は間もなく伐られることとなって御座る。その前に今一度、某の主がため、花を咲かせてやりとう存ずる。急の話ゆえ、非礼は承知じゃが、手助けをしてはくれぬか』
「伐られ……?」
ようやく言葉を返せた。聞き取れたその単語を、柚は口にしながら反芻する。影の武者は頷いた。
──『左様じゃ。三日も経てば、そなたの耳にも入ることとなるで御座ろう』
三日も経てば、と聞こえた。三日後といえば来週の月曜日だ。いつもの通りならば月曜日には朝礼があり、校長が壇上に立って話をすることになっている。──この男は、そこでなされる話の内容を予言しているのか。
柚が無言のうちに言葉の意味を咀嚼していくのが、影には全て見通せているようだった。幾らかましになった喉で圧し殺すように息をしつつ、柚は影を見据えた。ほんの短時間が経ったばかりでも、以前よりも聞き取りやすくなっているのを感じた。
ところが、影は唐突に、まるで無音で壁に吸い込まれるように消えてしまった。
「あっ──」
言いかけた瞬間に息苦しさが元に戻り、柚は噎せ返った。激しい咳の合間に痰が何度か飛び出して、口元を覆った手についた。
「柚ちゃん⁉」
あんなに熟睡していたはずの梅が、瞬時に飛び起きた。よろよろと駆け寄ってきて、身をかがめる柚の背中を何度も撫でる。
「大丈夫? 苦しい?」
答える言葉は咳に紛れてしまった。何度目かの痰を吐いた時、やっと梅がぱちんと電気を点けた。目の眩むような蛍光灯の光に照らされた手のひらの上に、薄いピンク──桜色の液体が乗っている。
「……血痰だ」
久々にまともに口にできた言葉は、そんな呆けたようなつぶやきだった。鈍い痛みが、呼応するように胸に走った。
咳は何とかおさまってきたようだ。慎重に、丁寧に、柚は浅い息を重ねる。梅が心配そうに顔を覗き込んできた。
「ごめんねぇ、すぐに気付けなくて……」
「ううん。大丈夫」
力の入るようになった足で立った柚は、深呼吸で胸の痛みを誤魔化しながら、逆に尋ね返した。「おばあちゃん、さっきまでこの部屋で誰かがしゃべってなかった?」
「どんな声?」
「うーんと……、低い声」
「いいえ」
やはり声は柚にしか聞こえていなかったのか。下手をすると梅が起きていても、あの武者の影は柚にしか見えないのかもしれない。
今までの二回も、そして初めて意思の疎通の取れた今度も。
「……どうして、私だけなの……?」
怖々とこぼした柚は、血痰の残る左手を、ぎゅっと握り締めた。
二月二十三日、深夜の出来事である。
拝島の片隅で永い眠りについていたひとつの伝説が、悠久の時を経て、ふたたびその力を顕現させようとしていた。
柚はいったい、何に巻き込まれようとしているのか。
その答えが柚の前に姿を現すのは、三日後──二月二十六日の朝のことになる。
『幕間 ──乱世の夜明け前──』に続きます。