たゆたう湯煙、リポウズ・イン
「……あ、あぁ。いや、ワタクシとしたことが。失敬、コホン」
咄嗟に行った、誤魔化しのフライパン鳴らし。
ただならぬ反応を示してしまった自分自身を自嘲したのか。アイ・コッヘンは咳払いを一つ零し、その拭ったばかりのフライパンをさっそく鳴らす。
そんな突然の金属音に驚いたのか。隣の風呂場からは、驚きで上がったユノの悲鳴がこちらにも響いてきた。
その直後には、湯に何かが落ちる盛大な飛沫の音。続いて、驚きと心配を帯びたミントの声が隣から聞こえてくる。
あちゃーっと。アイ・コッヘンは隣の惨事に頭を抱え……ならぬ、フライパンを抱えて、静かに謝罪の言葉を添えた後、再びこちらの話を続けていった。
「アレウス君。一つ尋ねてもいいかい? 君があのガトー・オ・フロマージュの豊かな地で目覚めた際、付近に誰かしらの姿を見なかったかい?」
俺が記憶喪失の人間……という設定を信じたアイ・コッヘンは、その真剣な様子で俺に問いを投げ掛けてきた。
その調子からは、どこか焦りを感じさせる。
……それにしても突然、付近に誰かいたかなんて尋ねられると、なんか怖いな。
「付近に誰かしら……ですか。特にそういったものは見かけませんでした。目覚めてから最初に見た人間がユノでしたので。あ、ただ、ミントとは以前から一緒にいた記憶があります」
まぁ、その一緒にいた記憶というのも、キャラメイクを終えた後という至極真新しいものに過ぎないのだけども。
それでも、嘘はついていない。俺は特にメタな説明をすることもなく、偽りの無い本当の事実をアイ・コッヘンに伝えていく。
それを聞いたアイ・コッヘンは、その息を詰まらせて一瞬引きつった声を漏らした。
「あのミントちゃんが……! ふむ、なるほど。そうか……」
その感情は、もはや驚愕と呼べるものだったかもしれない。
瞬時に冷静を装ったアイ・コッヘンではあったものの。先の驚き具合に、俺はミントの名を出してしまったことにより一層とした不安を抱えることとなる。
そして、終いには――
「いや、だが。しかし……もし、そうだったとしても……。にしては、あれほど人間の原型を留めているなんて――」
最小限に抑えた小声の独り言で、なにやら意味深なセリフを発し始めたアイ・コッヘン。
思い。悩み。考察する。
アイ・コッヘンの尋常ならざるその様子を、俺は不安を感じながら眺め続ける。
次に、俺はある思考を浮かばせた。
それは、この世界のあらゆる場所と空間に張り巡らされた、フラグというシステムに関する一つの予想。
その予感に俺は、どこか不安を感じざるを得なかった。
……これはもう、俺は記憶喪失した哀れな主人公という設定がこの世界に浸透したってことだよな。
……ということは、もしかして。今こうして繰り広げられているこのイベントは、俺という主人公の空っぽの過去を生成するためのフラグということなのだろうか――
「……おっと。急に変なことを尋ねてしまってすまなかったね、アレウス君。別に君を不安がらせようとしたわけではないのだが。その様子からワタクシはまたヘマをやらかしてしまったようだ。いやはや、ワタクシはどうも、言葉の扱いに関しては不器用なタチでね。どこか話を大袈裟にしてしまうというか。何かしら口を滑らせてしまうことが多いのだよ。そんなワタクシではあるが、それでもどうか許してくれるとワタクシは大変助かる」
俺への気遣い。
通常通りのどこか胡散臭い調子に戻ったアイ・コッヘン。その身軽な言い回しを用いて自身の欠点を冗談交じりに喋りながら、俺の肩を軽く叩いて場の雰囲気を整えていく。
自身の感情で俺を不安がらせないようにするため、通常通りに接してくるアイ・コッヘン。
だが、そんな彼の様子からはどこか、空元気と思わせる大袈裟な胡散臭さを感じることができた。
「もし、記憶が戻ったというその暁には、一言でもワタクシに報告してくれるとありがたい。というのも、記憶というものに関しては、ワタクシちょっと人一倍に敏感なのでね。ハハハッ」
"記憶"。
各拠点エリアに点在する宿屋のオーナーは、このメインシナリオに深い関わりを持つ重要人物だと、そうミントは言っていた。と、すると。この"記憶"という言葉が、アイ・コッヘンという重要人物の今後を物語るのかもしれない。
この先のストーリー展開のためにも、これは覚えておいた方がいいかもしれない。
そう思い、俺はこの"記憶"という言葉を脳みそに焼き付ける。これがゲームの画面であったら、メニューのシナリオ進行度とやらの項目に"記憶"という言葉がメモされていたことだろう。
「……ところでアレウス君。君はこれからどうしていくつもりでいるのかな? いやね、やはり君という人材に目を付けた今、そんな新米君のこの先をどうしても把握しておきたくって仕方がないんだ。ユノちゃんの話によると、どうやら彼女とミントちゃんの二人とパーティーを組んでいるのだろう? それも、ユノちゃんに誘われた形で」
俺が頷いたその様子を見て、アイ・コッヘンはやっぱりと乾いた笑みを零す。
その笑みからは、若干もの同情を伺えたような気がしなくもなかった。
「ハハーン、それじゃあアレウス君であっても、この先は大変な道のりになるね。なんてったって、あのユノちゃんは大の冒険家な少女として、この辺ではちょっとした有名人なのだよ。それは良い意味としても、悪い意味としてもね。あぁ、その悪い意味というのも、決して忌み嫌われるようなものではないが。ユノちゃんは女性には珍しい活発的な冒険家である上に、とても女性としての魅力を持っているから、色々な呼ばれ方をされているのだよ」
ユノ、この辺じゃあ割と有名な人物なんだな。
そんな意外というか、言われてみればというか。驚こうとしたものの、まぁあのユノならそうかもと納得してしまえる、そんな複雑な感情を抱くのみという印象。
「ユノちゃんはとても面白い子だよ。あんなに活発で元気で。かと思えば大人っぽい一面を見せたりと、まるで"二つの人間性が存在しているかのように"ころころとその表情を変えていく。あぁ、そこがまたとても魅力的で、かく言うワタクシもユノちゃんのファンだよ。だがね、アレウス君とミントちゃんはなんともお気の毒だ。というのも、彼女は他に類を見ない程までの好奇心旺盛な女の子。そんな彼女の魅力につられる形でパーティーを組んだ人達は皆、彼女の不思議体験を求める過酷な冒険の数々についていけなくなり、ことごとく脱落してしまっているのだ。これはちょっとした恒例ともされていて、その話題を耳にすることがワタクシ達の楽しみでもあるのさ。あぁ、今回のチャレンジャーはここまで行ったかってね。そんな彼女と歩む旅路は、この地域の中で一番の強敵とされていたドン・ワイルドバードを倒してしまったアレウス君であっても、その好奇心に振り回されることは間違いないだろうね」
そう言ってフライパンの金属音交じりの高らかな声で笑い、慰めるかのように俺の肩を叩いてくるアイ・コッヘン。
……というか、ユノってそんな活発的なキャラクターだったのかよ。いくらなんでも未知に対する興味がありすぎだろ。
「あの彼女のことだ。そろそろこの村から出たがる頃合かもしれない。ユノちゃんの興味は様々なところに向くからね。そのジッとしていられないタチは、もう直に限界を迎えて一刻も早くの冒険を求め始めることだろう。さて、そんなユノちゃんとミントちゃんと共に歩む旅路の計画とかは、既に立ててあったりするのかい?」
「え、えぇ。祭りの最中にも、明日の早朝には出発しようという話になりました」
「なんと! 明日の早朝! まぁ予想通りだね。これは楽しみだ」
大袈裟な驚きから一転して、淡々とした調子で呟くアイ・コッヘン。
先程の緊張で強張っていた身体をリラックスさせ。湯に浸かるアイ・コッヘンは点々とした星の浮かぶ夜空を仰ぎながら、その胡散臭い調子に穏やかさを織り交ぜて話を続けていく。
「いやしかし、これほどまでに期待を寄せた新米冒険者との別れだなんて、なんだか寂しいねぇ。だが、君はここに留まっているべき人間ではないと、ワタクシはそう思っている。アレウス君。君はたった数日という短期間で、最初の頃よりも一段と二段と三段と己を磨いてきている。その面構えを見ればすぐに判るよ。君はここからもっともっと成長する。いや、君はそうなるべき人間なんだ。そのためには、まず経験が必要になるだろう。そういった点からすると、こうしてユノちゃんという人物と出会ったことにも、何か意味があるのかもしれない。彼女であれば、君をどこまでも連れ回してくれるだろう。ただ、こうなるとアレウス君よりも、ミントちゃんの身が心配になってしまうがね」
点々と浮かぶ星に見守られながら。身体に癒しを浸透させる温泉というこの場所で。
俺はこの夜、とても穏やかな一時を過ごすことができた気がした。
アイ・コッヘンからの期待には、もはやプレッシャーばかりが募っていくけれど。
だが、それだけ俺は、このゲーム世界に相応しい主人公を演じているということなのだろう。
早朝には迎えているであろう、次なる旅路を前に。
俺はこの夜に。ゲームの世界という未知の世界にいることを、改めて実感することができた。
「ユノちゃんは危険を顧みずに誰よりも無理をしてしまう、とてもいたいけで脆い女の子だ。そんな彼女の傍についてやれるのは、恐らく君だけだろう。だから、どうか。ただひたすら前に進み続けてしまう、あのユノちゃんを支えてやってほしい。もちろん、ミントちゃんという大事な人もね。だから、君にはユノちゃんとミントちゃんという二人を支えてもらうことになるだろう。それはとても大変なことかもしれない。だが、だからこそ、ワタクシはアレウス君に期待をしている。アレウス君。ユノちゃんとミントちゃんを、よろしく頼むよ」
最後に。穏やかな調子で優しく俺の肩を叩いてきたアイ・コッヘン。
俺にその背を見送られながら。湯から上がり、アイ・コッヘンはゆっくりとした足取りで宿屋、リポウズ・インへと戻っていったのであった――




